ガーベラ・ダイアリー

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プラトン著 藤沢令夫訳 「メノン」 岩波文庫

2007-06-12 | こんな本読みました

「形」とは何か?
ソクラテス<ーもののなかでただひとつ、つねに色に随伴しているところのものであると、こうわれわれは言っておこう。ー>

「色」とは何か?
ソクラテス<ーすなわち、色とは、その大きさが視覚に適合して感覚されるところの、形から発出される流出物である。……>

う~む。わかったようなわからないような……(笑)。

本書はソクラテスとメノンが「徳とは何か」からはじまり、それを「徳は教えられ得るか」という問いに置きかえられ、「徳」の定義について対話している。その論題は当時の流行であったらしい。

上記の引用はその対話の中からのものである。徳について話しているのにどんどん話はずれる。いや、ずれているようでいてつながっている。ふたりの会話がどこにどう進んで行くのかわからない。そこにスリルがあったりする(笑)。

解説によれば二人の対話は紀元前402年の初めごろ。ソクラテスは67歳ごろ。メノンは20歳ぐらいと想定されているそうである。そのころのソフィストが弁論術で強引に相手を納得させる方法をとっていたのに対して、<無知の知>を自覚していたソクラテスは「問答法(対話法)」によって真理を探究したといわれている。

ここに登場するメノンとはゴルギアスの教えを受け、エンペドクレスの学説、幾何学、詩などについての教養をひととおり身につけている青年として描かれている。が、その実<かなりの悪名をになった人物としてよく知られていたことはまちがいない>という(彼の遠征軍の将としての所業は『アナバシス』(クセノポン)に詳しいらしいです)。

ソクラテスはメノンが知っていることをひとつひとつ確認しながら、彼の問いについて答えていく。しかし時にはその問答の仕方はよくないとか、質問に対してこう答えて欲しいとかいろいろ注文を出す。時には話の流れとはまったく関係ないような事例をだしてきて、メノンを困惑させる。皮肉な部分もかなりある。

特に私が印象に残ったのは、<探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならない>という説を証明するために召使をひとり呼んで来て、彼とソクラテスが対話するくだりである。対話と言ってもある数学の問題を解いていくのだが。

ソクラテスはひたすら質問する。召使はそれに答えていく。それを繰り返しながら召使は初めに自分がそうだと思っていたことが実は間違っていたのだということを知る。その過程が描かれているのだがそれが実におもしろい。

その召使をまず行き詰らせる。なぜなら彼はまちがった認識をしていたので。しかし本人はそれに気づいていない。まずそこを気づかせ「教える」ということはせずに、ただ質問した結果として、本人が自分で自分の中から知識を再び取り出し、それによって知識をもつようにもっていく。

それはつまり<‘知の思いこみ‘ーアポリアーと無知の自覚ー探求の再出発ー発見(想起)>(解説より)の過程そのものである。そうやって説を証明していくのである。

ここのくだりを読んで、ふと自分がわが子にひきざん(くりさがりあり)のやりかたを教える場面を思い出しひやあせがでた。いきなり新しいことを教えようと問題を提示するのではなく、既知のことをつかいながらこれはできる、これはわかる。これではできないこれはわからない……とひとつひとつつめていき、いきづまった時「じゃあどうする?」…と自ら探求する気をおこさせる。しかも根気よく。

……そうすればよかったのだ。
……しかし我が子となると頭に血がのぼる。。。汗。

本書はソクラテス的な定義追究、そして想起説、仮設の方法、知識と正しい思わくの違いなどプラトン的な要素も盛り込まれている。また、本書解説には歴史的背景、内容上の問題点やら対話篇の構造なども書かれている。ので本書の学術的な位置づけなどあらかたつかむことができると思うが、そういうことはさて置いても(置いていいのか?)なかなか興味深かった。

倫理・社会などで該博な知識はあったが(もちろん記憶はあいまい。笑)、実際ソクラテスが産婆術(母親の業にちなんでそう例えた)と言われる問答法をどのように行ったのかふれたことがなかった。それが体験できたという意味でとてもおもしろい本だった。

 


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