新新☆もこほじゃほろみ日記

煩悩と私事のサイト

復活(3)

2009-04-15 | 宗教
今回はとりあえず「ルカ」をとばして「ヨハネ」を読んでみる。

20:1 さて,週の初めの日,マリア・マグダレネは朝早く,まだ暗いうちに墓にやって来た。そして,墓から石が取りのけられているのを見た。 20:2 それで彼女は,走ってシモン・ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子のところに行き,彼らに言った,「人々が主を墓から取り去ってしまい,どこに置いたのか分かりません!」

「ヨハネ」では墓に行くのはマグダラのマリア独りになっている。すると墓はすでに開いている。以下のペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子(この記述を見る限りマグダラとは別人らしい)に告げに行く件からは「ヨハネ」のみである。

20:3 それでペトロともう一人の弟子は出て行き,墓に向かった。 20:4 彼らは二人とも一緒に走っていた。もう一人の弟子はペトロを追い越して,最初に墓に着いた。 20:5 身をかがめて中をのぞくと,亜麻布が置かれているのを見たが,中には入らなかった。 20:6 それから彼の後でシモン・ペトロがやって来て,墓の中に入った。彼は亜麻布が置かれているのを見た。 20:7 また,イエスの頭にあった布が,亜麻布と共にはなく,別の場所で巻かれているのを見た。 20:8 こうしてその時,最初に墓に来たもう一人の弟子も中に入り,これを見て信じた。 20:9 というのは,彼らはまだ,彼が死んだ者たちの中から生き返らなければならないという聖書を知っていなかったからである。 20:10 そこで弟子たちは自分たちの家に去って行った。

調べてみたが墓の中には布しかなかった。この初動調査を見る限り、弟子たちの中でのペトロの優位性は特に感じられない。

20:11 しかし,マリアは墓の外で泣きながら立っていた。それで,泣きながら,身をかがめて墓の中を見た。 20:12 そして彼女は,イエスの体が横たえられていた所に,二人の白い衣のみ使いが,一人は頭のところに,もう一人は足のところに座っているのを見た。 20:13 彼らは彼女に言った,「女よ,なぜ泣いているのか」。

「ヨハネ」ではみ使いは二人になっている。しかしマグダラのマリアはそれがみ使いだということに気づいていたのだろうか?それどころか・・・・・

彼女は彼らに言った,「人々がわたしの主を取り去ってしまい,どこに置いたのか分からないのです」。 20:14 彼女はこのことを言ってから,振り向いてイエスが立っているのを見た。しかし,それがイエスだとは分からなかった。

20:15 イエスは彼女に言った,「女よ,なぜ泣いているのか。だれを探し求めているのか」。

彼女は,彼を庭師だと思っていたので,彼に言った,「だんな様,あなたが彼を運び去ったのでしたら,どこに置いたのか教えてください。わたしが彼を引き取ります」。


復活したイエスが立っているのを見ても、それがイエスだと気がつかないのである。庭師だと思ったとはなんたること。

20:16 イエスは彼女に言った,「マリア」。

彼女は向き直って彼に言った,「ラボニ!」 これは「先生!」と言うことである。

20:17 イエスは彼女に言った,「わたしに触ってはいけない。わたしはまだ,わたしの父のもとに上っていないからだ。だが,わたしの兄弟たちのところに行って,『わたしは,わたしの父またあなた方の父のもと,わたしの神またあなた方の神のもとに上ろうとしている』と告げなさい」。

20:18 マリア・マグダレネは行って,自分が主を見,彼が自分にこれらの事を言ったと弟子たちに告げた。


イエスが「マリア!」と呼びかけることにより、やっとマグダラのマリアはそれがイエスだということに気づくのである。それにしても、「マタイ」「マルコ」「ヨハネ」の三福音書が、イエスがマグダラのマリアに最初に出現し、そのことを弟子たちに伝えるよう命じたことを記しているのである。

これはその時点において、マグダラのマリアとイエスの距離が他の弟子たちの誰よりも最も近かったことを意味する。そして、マグダラのマリアは、弟子たちの上に立つ新たな使徒としての役割を与えられたとも解釈できるのである。少なくともこの「ヨハネ」の記述を読む限り、マグダラのマリアに与えられた特別な地位とでもいうべきものが感じられるのである。

20:19 それで,その日,すなわち週の最初の日の夕方,弟子たちが集まっていた所は,ユダヤ人たちに対する恐れのため,すべての扉にかぎがかけられていたのに,イエスが来て真ん中に立ち,彼らに言った,「あなた方に平安があるように」。

20:20 このことを言ってから,自分の両手とわき腹を見せた。それで弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21 そのためイエスは再び彼らに言った,「あなた方に平安があるように。ちょうど父がわたしを遣わされたのと同じように,わたしもあなた方を遣わす」。 20:22 このことを言ってから,彼らの上に息を吹きかけてこう言った。「聖霊を受けなさい!  20:23 あなた方がだれかの罪を許すなら,彼らはそれを許されている。あなた方がだれかの罪を留め置くなら,それは留め置かれている」。


そのあと弟子たちの前にイエスが出現し、ミッションを与えたことは他の福音書と重なる。ところが次に出てくる「不信のトマス」の話は、「ヨハネ」だけに記されているのである。

20:24 しかし,十二人のうちの一人でディディモスと呼ばれるトマスは,イエスが来た時,彼らと共にいなかった。 20:25 それで,ほかの弟子たちは彼に言った,「わたしたちは主を見た!」

しかし彼は言った,「その手にくぎの跡を見,そのわき腹に自分の手を入れるのでなければ,わたしは信じない」。

20:26 八日後,弟子たちは再び中におり,トマスも彼らと共にいた。すべての扉にかぎがかけられていたのに,イエスが来て真ん中に立ち,「あなた方に平安があるように」と言った。 20:27 それから彼はトマスに言った,「あなたの指をここに伸ばし,わたしの両手を見なさい。あなたの手をここに伸ばし,わたしのわき腹にそれを入れなさい。信じない者ではなく,信じる者になりなさい」。

20:28 トマスはイエスに答えた,「わたしの主,わたしの神よ!」

20:29 イエスは彼に言った,「*あなたはわたしを見たので信じたのか。見なくても信じる者は幸いだ」。


この話は、イエス死後(&復活後)、イエスの弟子たちには複数の教団が存在し、それぞれ必ずしも仲が良くなかった。そのヨハネ教団(あるいはマグダラ教団)とでもいうべきものと、トマス教団の対立が背景にあると考えることが可能である。

20:30 それで,イエスは弟子たちの前でほかにもたくさんのしるしを行なったが,それはこの書には書かれていない。 20:31 しかし,これらの事が書かれたのは,あなた方が,イエスが神の子キリストだということを信じるため,また,信じることによって彼の名において命を得るためである。

こうして「ヨハネ」いったん〆となるが、実はこのあとに後から加えられたとみられるエピローグがある。その話はまたの機会に。