最近写真に関する本を良く読む様になった。これはある本で読んだことの受け売りだが、日本人は写真について「写真」という一種の誤訳に縛られているという。というのは写真は英語ではPhotographフォトグラフである。その意味は光Photoの絵Graphでどこにも真を写すという言葉は入っていない。しかしフォトグラフを写真と訳した時以降日本人は写真は対象を正確に写すものでなくてはならないという架空のドグマに陥ってしまった様である。
そもそも対象を正確に写すとはどういうことなのだろうか?見えるままに写すということであれば、花の撮影などで使われるボカシ(レンズを開放して被写界深度を浅くし背景をぼかす撮影方法)は真実を写していないのではないか?デジカメのレタッチ(撮影した画像のパソコンによる修正)はどこまで許されるのだろうか?等色々な疑問が出てくる。
次の二つの写真は今日昭和記念公園から富士山を撮ったものだ。
上の写真はホワイトバランスを色温度6000k(曇天用)にして撮ったものでほぼ昼時の光景に近い。下の写真はホワイトバランスを色温度3600k(電球用)にして撮ったものである。色温度は低くすれば青みがかり高くすると赤みがかる。つまりホワイトバランスを積極的に使って情景を強調することができる。上の写真の方が昼時の富士としては事実に近い。しかし富士の清澄な雰囲気を伝えたいというのであれば下の写真のような色調(例示した写真は極端だが)を使うこともあるだろう。
スナップ写真の様な単なる記録は別として風景写真と呼ばれるものは撮影者がその写真で何を表現したいのか?というテーマが重要だと言われる。そのテーマを強調するために無駄なものを省き(つまり写さない)、主題に焦点を当て、時には色の強調を行うといったことが風景写真では行われる。つまり単に眼に見える風景を写しているのではなく自分が人に伝えたい情景を大きな風景から切り出すのが風景写真というものなのだろう。
今我々はデジタル一眼レフという極めて業が多彩で描写力に富む道具を手に入れた。事実を伝えるだけなら撮影に失敗することも稀だろうし業を使えば色々な画像を生み出すことが可能になった。それ故かえって何を伝えたいのか?というテーマが問われる時なのかもしれない。写真の真という言葉は事実を意味するのではなく、その背景にあり我々に感動を与える自然の命とでも言えば真を写すという言葉が生きてくるのかもしれない。そして光=自然の命とすれば写真はあながちphotographの誤訳ではないかもしれない。
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