最近読んだ「定年後」(楠木 新著 中公新書)は中々読みやすい本だった。読みやすいという意味は最初から終わりまですっと読めるという意味である。著者は同年代の保険会社出身の人で、理屈よりはエピソード的な実例の紹介が多いので読みやすいのだ。もっともエピソード的なので著者が一番言いたいことはあまり強調されていないともいえる。理屈っぽい本では主題が何回も繰り返されるので、著者の言いたいことを見つけるのは簡単なのだが。
私は著者が一番言いたいことは「定年後の目標は『いい顔」で過ごすことだろう。そうすれば息を引き取る時のいい顔であるに違いない。逆に言えば、定年後は『いい顔』になることに取り組んでみればいいわけだ」という一文に込められていると判断した。
その一文の前にはカナダ北部の原住民ヘヤー・インディアンの話がでてくる。ヘヤー・インディアンにとって最も大切なことは「良い死に顔」をして死ねるかどうかだという。なぜなら「良い死に顔」をして死んだ者の霊魂は再びこの世に生まれ変わることができるからだそうだ。
無論ヘヤー・インディアンの信仰?をフィクションだと笑うことは簡単だ。しかし概ね世界の宗教は似たようなフィクションを信仰の中心に据えている。善行を積んだものが、天国に行くか?天上界に生まれ変わるか?あるいは再び人間界に生まれ変わるか?という違いはあるが、善い行いをしたものが、満ち足りてつまり良い顔をして死ぬという筋書きに変わりはない。
一方定年後にどうすれは『いい顔』をして過ごせるか?ということについて、著者は単一の答を用意していない。人それぞれに充実した人生の送り方があるので、単一の答がないのは当然だろう。
一つの答えはないが、ある類型はあるのではないか?と私は考えている。
多くの人は人との繋がりの中で「充実した人生」を見出していく。そこをスタート点に考えてみよう。
マズローの欲求5段階説に従えば、少なくとも3段階目の「社会的欲求(帰属欲求)」が満たされないと人は孤立感や社会的不安を感じやすくなるという。つまり帰属欲求が満たされることが「充実した人生」の必要条件と考えてよいだろう。ただしこれは必要条件であり、「充実した人生」を実感するには更にその上の「尊厳欲求」(4段階目)や「自己実現欲求」(5段階目)が満たされることが望ましい。
ではどうすれば「帰属欲求」やその上の「尊厳欲求」「自己実現欲求」を満たすことができるのか?
私はそれは「自分の中にどのような引出しを持っているか?」で決まると考えている。引出しの中身は「社会経験に基づくバランスのとれた判断力」でも良いし「音楽・芸術など特定分野での技能」でも良いし「語学力・資格試験合格」などの職業スキルでも良いと思う。
または「古地図の収集・解読」「野鳥の観察」などといった趣味の引き出しでも良いだろう。後述するようにお金そのものでも良い。
とにかく何か引出しを持っていることが大切だと私は思う。人のキャパシティを引き出しを並べる壁にたとえてみよう。小さな引出しは壁に沢山並べることができるが大きな引出しはあまり沢山並べることはできない。しかし大きな引出しには沢山のものを入れることができるが小さな引出しには余りものは入らない。
つまり人には色々なタイプがあって、色々なことに少しづつ手を広げる人もいれば、特定分野を深堀する人もいるということだ。
だが私は引出しの大小にかかわらず、自分のキャパシティという壁面に引出しを揃える努力をしている人の引き出しは必ず他人に利用されることがあると思っている。
他人が自分の引き出しに関心を持った時、つながりが生まれ、それが社会的欲求が満たされる第一歩となる。もし他人が引出しの中身を使いたい・欲しいといえば、それを喜んで使わしてあげ、分けてあげたら良いと思う。引出しの中身を使った人があなたに感謝すれば、尊厳欲求が満たされるだろうし、更に引出しの充実を図れば自己実現につながるのではないだろうか?
私の結論は「充実した人生を送るには自分の引き出しを充実させる」ということだ。もしその引出しの中に人に分け与えられるほどのお金が入っていればそれも素晴らしいと思う。そのお金を困っている人のために差し上げれば良い。引出しの中に「健康や自由な時間」が入っていればそえをボランティア活動に活かすことができる。
要は自分のキャパシティの中に「他人に役立てることができる引出し」をどれ位持つことができるか?が充実した人生を送ることができるかどうかの鍵なのだ。
その準備は早い方が良いが、遅きに失するということもないだろう。佐藤一斎は「老いて学べば即ち死して朽ちず」と言っている。私はこの言葉を人は生涯引出しを作り続けるべきだという意味に解釈している。正しいかどうかは分からないが。
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