1ヶ月ほど先にネパール支援団体で講演することになっています。
今回のテーマは「ネパールの水資源を考える」というテーマなので、死や葬儀の話を深くする積もりはありません。
しかしカトマンズ盆地を流れるバクマティ川の話をしますので、そこで行われいてる火葬と遺骨を川に流す話には言及する可能性があります。そこで少し葬儀という問題を整理してみました。
現在の日本では通夜や葬式を行わないで火葬のみを行う「直葬」が葬儀の15%位を占めるようですが、ネパールの葬礼は直葬といえば直葬にあたります。
バクマティ川に面する寺院の付属施設で最後を迎えた死者は、長男の手で火葬に付され遺骨は川に流されます。そこには坊さん(ヒンドゥ教徒が多いので坊さんという呼び方が良いのかどうかは分かりませんが)の介在はありません。
ネパールはヒンドゥ教徒と仏教徒が共存している社会(ヒンドゥ教徒が圧倒的に多い)です。ブッダ(釈迦)の時代まで遡るとヒンドゥ教と仏教(ブッダが唱えた仏教)は根本的な教義が異なるのですが、現在のネパールでは仏教がヒンドゥ教に歩み寄った結果、2つの宗教には表面的な対立はなく、共存しています。
ネパールでは、仏教徒もヒンドゥ教徒も大雑把にいうと火葬⇒遺骨を川に流す、という直葬形式を取っていると私は考えています。何故なら魂は不滅で、魂の乗り物である肉体は蛇の抜け殻のようなものだからです。
ブッダ自身死の直前に弟子に向かって「おまえたちは、私の遺骸の供養に一切関わるな。そんなことはせず、自分自身の目的(修行生活の完遂)のためだけにはげみ、努力するように。」(大パリニッバーナ経)と述べています。
今日的にいうと、「華美な葬式をせずに、自分自身の目的のために励みなさい」と言っているのです。だからある前提を置くと、直葬はブッダの教えに沿う葬礼であるということもできます。
ある前提とはブッダの言葉を借りると「生も死もどうでもよい」という境地に達することです。
ヒンドゥ教とブッダの仏教の最大の違いは、前者が輪廻転生を教義の中核に据えたのに対し、後者は輪廻転生を無視した点です。ブッダ的には死後のことは分かりませんから、輪廻転生があるのかないのかということは全く興味の外です。
ブッダの考えは極端にいうと生きている時が総て、ですから直葬であろうと一般葬であろうと手厚い社葬であろうと関心外ということになります。ヒンドゥ教的には肉体は蛇の抜け殻ですから、火葬してハイお仕舞で良い訳です。根本の考え方は違うけれど、葬礼としては同じになるということでしょうね。
もっとも現在日本で直葬を行う人の最大の動機は経済的なものだそうですから、ネパールの直葬と同列に論じることはできません。
私は直ちに直葬を支持するものでも否定するものでもありません。しかしブッダが唱えた原始仏教が直葬的なものだったことは頭に留めておいてよいと考えています。少し前までの複雑な葬礼はお寺の坊さんが金儲けの仕組みとして発達させたものである、ということは知るべきでしょうね。
この話に深入りすると講演時間を越えてしまいますから、この辺りでやめにしましょう。