今日の日経朝刊は多少ましなことを書いている。それは社説の中で「独立性が高い米証券取引委員会のような組織をつくるよう主張してきた」という論説だ。私は日経新聞が何時声高にこの主張をしていたか知らないが、それはさて置き主張は正しい。ただし経済専門紙としてそれをいうならもっと突っ込んだ提言が必要だ。もっとも基本的なことは直接金融型資本主義というのは間接金融型資本主義より色々なインフラが必要でありそのコストがかかるということを読者に認識させることである。そのことについてはこのブログの後段で述べよう。
なお日本版証券取引委員会の必要性についてはウオール・ストリート・ジャーナル紙も記事を書いている。こちらの方が具体的で突っ込みも深いからまずこれを簡単に紹介しよう。
- 多くの批評家が日本の規制当局と米国証券取引委員会(SEC)のギャップを指摘している。与謝野金融相は日曜日のテレビ・トーク番組で「米国SECを参考にしながら日本の当局のモニターリング能力を強化する必要がある」と述べた。日経新聞は日本の証券取引委員会の米国SECと同じような独立性を与えるべく再構築が必要と述べている。
- 日本の証券取引委員会の市場規制者としての能力は多くの点で米国SECに劣後する。日本では金融庁が規制を創設し、封建取引委員会の主な仕事はただそれを執行するだけである。対照的にSECは規制を創設しかつそれを執行するという双方の権限を有する。
- 日本では証券取引委員会は企業、投資家、証券会社の株価操作、インサイダー取引や虚偽表示といった疑わしい行為を見張っている。しかし証券取引委員会は金融庁の下で運営されている。金融庁は財務省と密接にリンクしている。従って証券取引委員会はSECの様に完全な独立体ではない。
- ただし証券取引委員会を大きくしたところでその任務は馬鹿でも出来るほど簡単になるものではない。米国でSECは今世紀初めのエンロン、ワールドコムやタイコによる違法行為を防ぐことはできなかった。そして一連のスキャンダルの後より大きな予算と修復を求める声に面したのである。
- 日本では市場監督者の歴史は短く1990年代当初のバブル崩壊時期にさかのぼるだけである。証券取引委員会にもっと資源を投入するべきという多くの議論があるが、それはスタート点に過ぎない。
- 日本の証券取引委員会はSECに較べて、日本の市場規模が小さいことや任務が狭いことを考慮してもはるかに小さい。証券取引委員会のスタッフは過去10年間で3倍になったがそれでも307名である。これに較べてSECは3,865名のスタッフを抱えている。
- 証券取引委員会のスポークスマンの話では当初同意委員会は新年度に62名増員する予定だったが予算の制約から11名の増員に減少させられたと述べている。
それにしても米紙はどうして日本のことについて日本の経済専門紙より詳しくかつ具体的なことが書けるのだろうか?それを読むと読者には具体的なアイディアが沸いてきてそれが世論に繋がると思うのだが・・・・
さて以下私のコメントと提言を幾つか述べよう。
- まず証券取引委員会のスタッフの頭数の増員は必要だが、問題は質というか人材だ。日本の金融界と金融行政の大きな問題は官民あるいは業種・業態を越えた人材の移動が少ないことである。(もっとも最近では金融庁は金融機関出身者を検査要員としては嘱託採用しているが幹部を動かさないとだめだ)攻守ところを変えるという緊張感があってこそ組織は機能する。さもないと規制のための規制が横行し、市場は麻痺する。
- もし証券取引委員会を独立した機関とするなら民から大量の人材特に退職年齢を迎える層で証券・会計等に知識・見識をもった人材を活用するべきである。
- だがもっとも大切なことは直接金融型資本主義は色々な面でサポート機能が必要でそのためにコストがかかるということをもっと理解し対策を採る必要があるということだ。
- 具体的には東証のシステム不具合問題に代表される様な市場取引のインフラ整備、証券取引委員会のような市場監督者の機能強化、投資家に適切な情報を提供するジャーナリズムのレベル向上、不動産や各種の資産を評価する鑑定業者、法令違反チェックや訴訟予防型タクティクスを考える法律スタッフ等々誠に沢山の機能が市場経済には必要なのである。
- 日本はそれでも市場経済の道を選択した。それは資源の配分を市場に委ねる方がより経済的だと判断したからである。それならば市場が機能する様にインフラを整えなければならない。ライブドアに係る一連の問題は市場が政治と国民に投げ掛けた警告なのである。大切なことはその叫び声から何を聞き取るかということである。