追憶の彼方。

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戦争責任...(2)

2018年09月08日 | 政治・経済
戦争責任…(2)…天皇を利用し尽くした薩長政権

徳川末期、外国の開国圧力に抗しきれないと分った尊皇攘夷派は殖産振興・富国強兵策により列強による植民地化を防ごうと考えた。明治政府も日本の独立を守るための自衛のスローガンとしてこの政策をとったが征韓論や日清戦争の勝利を契機として領土拡張主義・覇権主義が前面に出てくる。
これは明治政府が長州閥中心であったことと大きく関係する。「明治維新の精神的支柱」と言われる吉田松陰は「幽閉録」の中で「急いで軍備を整えカムチャッカ、琉球(沖縄)、朝鮮、満州、台湾、ルソン諸島(フィリピン諸島)を支配下に置くべきだ」と述べている。この驚くべき侵略膨張主義の影響を受けた松蔭の塾生、伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)、山縣有朋らが明治政府の中心人物だった事が富国強兵、大東亜共栄圏 太平洋戦争の悲劇へとつながって行ったのは当然の帰結であった。
とりわけ陸軍の基礎を築いたとされる山縣は松蔭に心酔していたと言われ、陸軍内部で松蔭の神格化を図りながら強力な軍閥を通じて松蔭の危険思想を現実化させた張本人ということができる。

尊王攘夷は武力で到底不可能と知った薩長連合は突然尊王倒幕に方針転換をした。
明治維新を成功させた薩長の下級武士集団は何の後ろ盾もなく、政治的求心力もなかった為、徳川幕府や佐幕派を打倒するには水戸学が広め幕末諸藩の中心思想となっていた大義名分論(臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指す)の尊皇論を利用して天皇を錦の御旗にする以外になかった。天皇を立てておきさえすれば大義名分が立つ。
当時の孝明天皇は公武合体論者であり薩長連合の倒幕運動に大きな障害となっていたが、突然35歳の若さで急逝した。岩倉・薩長連合による毒殺・惨殺説が消えないのはこのタイミングの良さからである。
新天皇は14歳で即位、当然政治的識見など持ち合わせず、政治的意志決定能力を欠いていた。倒幕派は幼い天皇を徹底的に利用し倒幕或いは維新革命の為にやりたい放題を行った。
江戸幕府最後の将軍且つ日本最後の征夷大将軍・徳川慶喜討伐の詔書、所謂倒幕の蜜勅が薩摩、長州両藩夫々に秘密裏に下賜された。しかしこの蜜勅、岩倉具視が主導して作成されたが朝廷会議にも付されず、天皇の裁可印もなかった。しかも署名者は光明天皇から蟄居を命じられていた中山忠能、失脚していた正親町三条実愛等,薩長の息のかかった公家達であったことから偽造説、或いは効力なしとの説が根強い。自分達の都合の良いように天皇の意思と称するものを勝手に作り上げ利用したのは間違いない。
倒幕の相手であった徳川慶喜は尊王論を生んだ水戸藩出身であり天皇という錦の御旗を得た倒幕派に敵対出来なかった為、強力な戦力・武力があったにも拘わらずこれを行使することをせず大政奉還・王政復古が成立した。
維新政府は権威の源泉として天皇を復権させ、自らを天皇によって権威づけられているとして国家の支配を正当化し権力をふるい維新革命を推進したのである。

維新政府は「天皇親政」を建前とし国政上の重要事項すべてについて天皇が最終的決定権を持つとする国家の意思決定システム「万機親裁」の形式を取りながら実際には維新政治家・官僚が政治的意思決定を行い,版籍奉還、廃藩置県、「四民平等」政策、(学制・徴兵制・地租改正の)三大改革等維新の大変革を政府専制で行った。
しかし天皇親政は飽く迄建前であって維新政府の中心人物・伊藤博文は当時宮中(天皇と朝廷)と政府が相対的に独立した政治主体であるとして天皇親政を実質化する動きに対し、宮中・府中分離論からこの論議を封殺し、天皇の活用を別途考えた。
欧米にはキリスト教という精神的支柱がありこれが国民統合の要になっているが、日本には従来国家の基軸になるものがなかった。今後日本の基軸になりうるのは皇室しかないので宗教的信仰の対象として天皇を民衆の内面的世界に入り込ませようと画策した。神話的な歴史的伝統、万世一系の皇統支配に正当性の根拠を求めたのである。
先ず天皇家の氏神である伊勢神宮は江戸時代から伊勢参り・おかげ参りで民衆を多数動員する信仰の中心になっていたので伊勢神宮を全国神社の頂点に据え、明治天皇が歴代天皇初めて参拝した。 更に民衆に馴染みのなかった天皇に超越的な権威を持たせるため明治六年の太政官布告で紀元節・神嘗祭・天長節・新嘗祭等が国民あげて参加する祝祭日と定められ天皇皇室が特別な存在であることを国民に刷り込むことが行われたのである。
「君臨すれども統治せず」、「皇国史観」この基本方針に沿って大日本帝国憲法が伊藤博文等により制定されることになった。明治天皇以後の天皇は、国政が行き詰まった時の切り札として、又は鶴の一声の勅令として 政治家や官僚が天皇の権威を最大限に利用するものでしか無かったのである。

過去の大戦の責任は偏に天皇の権威を傘に来て無理無策で戦争に走った政治家・軍部の責任であって天皇もその被害者であるということができる。

戦争責任…(3)明治憲法の問題点と軍部へ

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