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戦争責任…(3)明治憲法の問題点と軍部

2018年09月15日 | 政治・経済
戦争責任…(3)明治憲法の問題点と軍部

明治維新の版籍奉還等の改革で政府の中枢は薩摩・長州・土佐・肥前の藩閥政治に移ったが大久保没後、土佐の板垣退助は自由民権運動に走り、肥前の大隈重信も早期国会開催を主張する民権派に同調したため長州の伊藤博文が大隈を罷免、薩摩・長州のノ中央集権体制が出来上がった。
以降総理は薩長の持ち回りとなったが大隈の失脚と松方正義のデフレ政策、銀本位制導入で経済も安定して来たため伊藤博文は予て検討を重ねてきた大日本帝国憲法を1889年2月に発布、翌明治23年11月29日には第1回帝国議会を開催した。
但し首相は今迄の黒田清隆(薩摩)、以降も薩長政治家トップが選んで天皇の名で指名された者が就任する薩長藩閥政治が続いた。国会で首相が選ばれるのは戦後、新憲法下に於いてである。

明治憲法本文前の「告文」には「自分(天皇)は、日本を作った正当な神の子孫として日本民族を永久に統治、君臨する。それは、自分の祖先である神の命令であり、逆らうことは許されない。そして、その統治のために、日本民族を臣民として自分の下に置き、従わせる為にこの憲法を作る。」と書かれており,憲法でも「神聖にして侵すべからぬ万世一系の天皇」が「大日本帝国を統治する」と規定し、神格化された天皇を国民統合の精神的中核とする国家体制を形成し、併せて水戸学の皇国史観を「正統な歴史観」として確立していく素地を造ったのである。
但し天皇は主権者ではなく「統治権の総攬者」即ち「国政のすべてを一手に掌握する者」と言う位置づけであり主権者は天皇を隠れ蓑にその後ろで実権を握る藩閥政治家達であった。この点に元々「天皇親政」など認める積りがなかった大久保たちの意向がよく出ている。
(木戸孝允等、薩長討幕派の志士は、尊王は建前だけで、天皇のことを将棋の「玉」と隠語で呼び、政権奪取の道具としてしか見てい無かったことが記録に残っている。更には太平洋戦争中、軍の将校達も天皇を「天さん」などと敬称で呼んでいなかった事がNHKスペシャルの映像記録で明らかになっている。)

しかも憲法上は立憲主義をとっているが、その憲法が天皇に天皇大権(統帥大権、非常大権、緊急命令発令大権、官制大権、戒厳大権)と言う絶対的権力を付与する規定を設け、政治は事実上薩長が行うと言うシステムを巧妙に造ったのである。
伊藤博文の(恐らく)意図に反する天皇大権の悪用・乱用が太平洋戦争・破滅への道へと繋がって行ったのは間違いない。
特に問題だったのは「統帥大権」「官制大権」で、「軍部は皇軍であり、天皇以外の指示は一切受けないという統帥大権」により国の暴力装置が国家権力を無視し暴走を始めることに繋がった。
又「国家の官庁の組織編成や人事権は天皇の専権事項であるから、天皇の官僚として天皇に代わって国民を統治する」と言う傲慢な意識が生じ国会の意見など無視する素地が出来上がった。
更に「緊急勅令」の大権によって憲法や法律の効力を停止し、国民の権利を自由に剥奪、停止出来ることになっていたので、昭和3年多くの反対を押し切ってかの悪名高い「治安維持法」が成立し戦争への道を切り開いて行ったのである。
戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」であった。大日本帝国憲法では、国務大臣は天皇を輔弼するものと規定されたが内閣・首相に関する規定がなく内閣官制で規定され内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるが憲法上は対等な地位で、「最終的な政治決断を下すのは誰か、天皇の統治権を輔弼する最高責任者が誰であるか」という点は極めて曖昧にされていた。これは伊藤博文が行政権を天皇に集中し首相には譲らないとしたことから生じた欠陥で軍部暴走の一因となった。
明治天皇崩御後は、明治帝の治政は(先例、慣例)として確立され、その後の天皇の言動に規制を課し天皇の名を借りた薩長の政治支配が継続されることとなったのである。


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