毎年、8月上旬になると思い出すことがある。
かれこれ20年ほど前、私が教員になった年のことだ。
当時、東京都は3泊4日の新規採用者研修を、大島セミナーハウスで実施することになっていた。
もちろん、私も参加する羽目になったのだが、これは社会人初の試練といっても過言ではなく、大変ツラいものだった。
まず、船の二等船室があり得なかった。毛布を手渡され、だだっ広いフロアで雑魚寝しろと言うのだ。
私の父は、東海汽船の関連会社に勤めていた。その関係で、割引料金で船に乗ることができたため、我が家は毎年、特一等の船室で八丈島まで家族旅行をしていた。決して豊かな暮らしをしていたわけではないが、船に関してはぜいたくできたのだ。
個室内には2段ベッドが2個あり、約8時間もの船旅を昼寝したりトランプしたりで、ゆったりと楽しめた。
それなのに、ダニがいそうな床にゴロ寝しろってか!?
大島まで4時間余りだったろうか。デリケートな私は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
しかし、顔見知りの参加者、葛西さんは反対のことを言った。
「おはよう! よく寝てたね~。私は寝付けなかったから、デッキでずっと海を見てたんだ」
彼女に言わせれば、私は消灯後まもなく爆睡し、死んだように眠っていたという。さらに、とどめの一言が脳天を直撃した。
「いいね、笹木さんて。どこでも眠れるんだね。羨ましいな~」
……おかしい。そんなはずは……。
船から下りると、大島は、信じられないくらい蒸し暑かった。気温はさほど高くないが、湿度がえらく高い。顔にも首にも汗が噴き出し、不快きわまりない状態になった。
早速、セミナーハウスの部屋に入った。私は葛西さんと同じ部屋だったので安心した。
しかし、クーラーがない。窓を全開にしても、まったく涼しくならないではないか。
「うわ、最悪……」
4人部屋の全員が言葉を失った。こんな暑い部屋に4日間も!?
荷物の整理が終わると、研修が始まった。教科ごとに分かれて、さまざまなテーマについて協議するのだが、この部屋にもクーラーがなかった……。
「え? 私の部屋はクーラーあったよ」
国語科・葛西さんの話から察するに、教科によって当たりはずれがあるらしい。
私は国語科でないことを呪った。
今、振り返ってみると、私は大学を卒業したばかりで幼かったのだろう。同室の女性はみな年上で、私立での講師経験があったり、民間企業での社員経験があったりして大人だった。狭いベランダで、星を見ながら一緒にビールを飲んだり、職場での苦労話を聞いたりして、楽しかっただけでなく勉強になった。
「こんな暑い部屋じゃ眠れないよぅ~」
夜になり、私がこんな泣き言を言えば、「ハイハイ」と団扇をパタパタさせ、寝付くまで交代であおいでくれた。
てんで子供だったと、恥ずかしく思う。
激動の大島研修は、まだまだ続く。
1990年8月2日は、国際的にも大きな事件が起きた日だった。
「クウェートがイラクに侵攻されたって! 今、ニュースでやってたわよ。笹木さん、知ってた?」
「いやぁ~、初耳ですっ!」
食堂にある唯一のテレビには、すでに人だかりができていた。
一体、クウェートはどうなってしまうのだろう? と心配になったが、実は、私たちにも別の問題が近づいていた。
クウェート問題のあとの天気予報で「台風接近」が報じられた。
台風の進路は伊豆諸島方面に向かっており、ちょうど帰る日に上陸しそうな勢いだったのだ。
「どうなるの?」
「台風が来たら、船が欠航するから帰れないよ」
参加者は、それぞれ不安を口にしつつも、取るべき道はひとつしかないと予想していた。
夕食後、食堂に全員が集められ、指導主事から研修予定変更の連絡がなされた。
「台風接近が懸念されておりますので、一日繰り上げて、明日の午後の便で帰ります」
参加者は大人なのでポーカーフェイスを装っていたが、誰もが、その一言を待っていたに違いない。
やった、この灼熱地獄の大島から、一日早く帰れるんだっ!!
連日の暑さに辟易していた私は、歓声を上げて走り回りたくなった。
「では、先に日当をお渡しします」
この研修では、参加者に一日あたり千円ほどの日当が支払われた。高校生のバイト代1時間分が、教員の研修の一日分なのだから笑ってしまう。
さらに、苦笑する言葉が追いかけてきた。
「一日早く帰ることになったので、日当から一日分の×××円を返金してください!!」
誰もが言葉を失い、固まった。
せこい、せこすぎる……。
こうして、波乱万丈の大島研修は幕を閉じたのだった。
楽しんでいただけましたか? クリックしてくださるとウレシイです♪
※ 他にもこんなブログやってます。よろしければご覧になってください!
「いとをかし~笹木砂希~」(エッセイ)
「うつろひ~笹木砂希~」(日記)
かれこれ20年ほど前、私が教員になった年のことだ。
当時、東京都は3泊4日の新規採用者研修を、大島セミナーハウスで実施することになっていた。
もちろん、私も参加する羽目になったのだが、これは社会人初の試練といっても過言ではなく、大変ツラいものだった。
まず、船の二等船室があり得なかった。毛布を手渡され、だだっ広いフロアで雑魚寝しろと言うのだ。
私の父は、東海汽船の関連会社に勤めていた。その関係で、割引料金で船に乗ることができたため、我が家は毎年、特一等の船室で八丈島まで家族旅行をしていた。決して豊かな暮らしをしていたわけではないが、船に関してはぜいたくできたのだ。
個室内には2段ベッドが2個あり、約8時間もの船旅を昼寝したりトランプしたりで、ゆったりと楽しめた。
それなのに、ダニがいそうな床にゴロ寝しろってか!?
大島まで4時間余りだったろうか。デリケートな私は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
しかし、顔見知りの参加者、葛西さんは反対のことを言った。
「おはよう! よく寝てたね~。私は寝付けなかったから、デッキでずっと海を見てたんだ」
彼女に言わせれば、私は消灯後まもなく爆睡し、死んだように眠っていたという。さらに、とどめの一言が脳天を直撃した。
「いいね、笹木さんて。どこでも眠れるんだね。羨ましいな~」
……おかしい。そんなはずは……。
船から下りると、大島は、信じられないくらい蒸し暑かった。気温はさほど高くないが、湿度がえらく高い。顔にも首にも汗が噴き出し、不快きわまりない状態になった。
早速、セミナーハウスの部屋に入った。私は葛西さんと同じ部屋だったので安心した。
しかし、クーラーがない。窓を全開にしても、まったく涼しくならないではないか。
「うわ、最悪……」
4人部屋の全員が言葉を失った。こんな暑い部屋に4日間も!?
荷物の整理が終わると、研修が始まった。教科ごとに分かれて、さまざまなテーマについて協議するのだが、この部屋にもクーラーがなかった……。
「え? 私の部屋はクーラーあったよ」
国語科・葛西さんの話から察するに、教科によって当たりはずれがあるらしい。
私は国語科でないことを呪った。
今、振り返ってみると、私は大学を卒業したばかりで幼かったのだろう。同室の女性はみな年上で、私立での講師経験があったり、民間企業での社員経験があったりして大人だった。狭いベランダで、星を見ながら一緒にビールを飲んだり、職場での苦労話を聞いたりして、楽しかっただけでなく勉強になった。
「こんな暑い部屋じゃ眠れないよぅ~」
夜になり、私がこんな泣き言を言えば、「ハイハイ」と団扇をパタパタさせ、寝付くまで交代であおいでくれた。
てんで子供だったと、恥ずかしく思う。
激動の大島研修は、まだまだ続く。
1990年8月2日は、国際的にも大きな事件が起きた日だった。
「クウェートがイラクに侵攻されたって! 今、ニュースでやってたわよ。笹木さん、知ってた?」
「いやぁ~、初耳ですっ!」
食堂にある唯一のテレビには、すでに人だかりができていた。
一体、クウェートはどうなってしまうのだろう? と心配になったが、実は、私たちにも別の問題が近づいていた。
クウェート問題のあとの天気予報で「台風接近」が報じられた。
台風の進路は伊豆諸島方面に向かっており、ちょうど帰る日に上陸しそうな勢いだったのだ。
「どうなるの?」
「台風が来たら、船が欠航するから帰れないよ」
参加者は、それぞれ不安を口にしつつも、取るべき道はひとつしかないと予想していた。
夕食後、食堂に全員が集められ、指導主事から研修予定変更の連絡がなされた。
「台風接近が懸念されておりますので、一日繰り上げて、明日の午後の便で帰ります」
参加者は大人なのでポーカーフェイスを装っていたが、誰もが、その一言を待っていたに違いない。
やった、この灼熱地獄の大島から、一日早く帰れるんだっ!!
連日の暑さに辟易していた私は、歓声を上げて走り回りたくなった。
「では、先に日当をお渡しします」
この研修では、参加者に一日あたり千円ほどの日当が支払われた。高校生のバイト代1時間分が、教員の研修の一日分なのだから笑ってしまう。
さらに、苦笑する言葉が追いかけてきた。
「一日早く帰ることになったので、日当から一日分の×××円を返金してください!!」
誰もが言葉を失い、固まった。
せこい、せこすぎる……。
こうして、波乱万丈の大島研修は幕を閉じたのだった。
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「いとをかし~笹木砂希~」(エッセイ)
「うつろひ~笹木砂希~」(日記)
さて、賞味期限切れ寸前の食材買いにサ○ットに行ってこよう
昔、特一等の船室に入った時、偶然見られた女性達から「うわ~、あの娘達、特一等だってー!すごいねー!!」とお嬢様扱いされてニヘニヘした想い出が蘇ってきたわ。あの時はスッゴく優越感を感じたね。そう感じる事自体、もはやお嬢様じゃないケド…。
子供達が生まれてから六年前に一回だけ両親と一緒に八丈島に行った時は一等の船室で他の人をブロックしてもらって部屋の中はうちらだけかで行った事があったなぁ。
しかし、3月だったので波が荒く棚に立てて置いておいた赤子のミルク用の水筒が倒れて転がり回る中、娘のオムツを換えてる途中、船に酔ってしまい後の記憶はあまりありません。
どうも母が私に代わり子供達の面倒を見てくれたようですが私達夫婦は情けなくもダウンしていたらしい。モチロン我が子供達は元気一杯騒ぎまくっていたようなので母達は大変だったようなのだけど。ー(現役の)母はあまり強くありませんでした。
なぜか新人の研修合宿は厳しい環境がついてまわりますよね・・・わかります(笑)
自分も昔色々あります。。。
たしか富士登山駅伝のために自衛隊の宿舎に泊まらせていただきましたが、体験入隊という形での宿泊で同じくパイプベットに毛布のみ与えられました(笑)
ノースリーブにジョギングパンツという、大変はしたない姿で過ごしました。
汗だくになるのに、お風呂はないし。
夕方、シャワーを浴びるだけの生活でしたね。
何で、こんな目に遭わなきゃいけないんだろうと泣きそうでした。
あと10年遅く生まれていれば…。
そしたら、採用試験に受かってないか(笑)
ま、神奈川だし、中学だし、いろいろ違うんでしょうね。
日当が出る訳でもなかったし。
ん?あれ?夏休み中でも給料は出てるはずだから・・・
大島研修の千円は、日当というより・・・給料+αの特別手当ですね~~(笑)
暑さに耐えたご褒美が千円!!??
文字通り、汗と涙の結晶ですねV
実は、酔ったふりして楽してたとか(笑)
んなことないか。
一等は畳になっていたんだっけ?
小さい子がいるうちは、畳が一番ね。
今は高速船もあるし、短時間で行かれるようになったみたい。
インフルエンザにならずにすんでよかったね。
もう遊びに来てもいいわよ(笑)
自衛隊に比べたら、私の大島なんて大人と子供くらいの差がありますね。
あまりに暑すぎて、研修といっても、ぐったりゴロゴロって感じでした。
指導主事は、だらけている参加者を見ても、何も言わないし。
自衛隊では、厳しい演習に参加させられたんでしょうか。
その厳しさが、駅伝のプラスになるんですね!
って、ホントかな??
で、それ以外に宿泊研修もあったんです。
絶対、公費のムダづかいですよね。
でも、食事はそれほどマズくなかった気がします。
コンビニなどないから、出されたものを文句も言わずに食べました。
暑さの余り、島内見学で、波浮港に飛び込んで泳いだ人もいたなあ。
水着を持ってきていました。
私は泳ぎが苦手なので、呆然と見ているだけでしたよ。
次はプライベートで行きたいです。
のニュースで船が欠航。でも、どうしても帰りたいので東海汽船の事務所に直談判したら、
客は乗せないけど、船は本土に戻るって言うので、無理矢理乗せてもらいました。
客は私達グループの男女七人だけ。凄い揺れたけど、船内で
大かくれんぼ大会
を決行。船内のお弁当も捨てるよりマシと
タダでくれましたよ。おかげで無事に竹芝桟橋に到着しましたよ。懐かしい思い出ですね。
しかし、研修は大変でしたね。皆さん優しいですね。寝るまで扇いでくれたんですか。
砂希さんて、結構環境にすぐ馴染んでどこでも寝られるんですね。(笑)
私も台風接近で大揺れの船に乗ったことがありますが、お弁当なんか食べる気になりませんでしたよ!
かくれんぼまでするなんて~。
強いですね。
母は「すとれちあ丸」のことを、「すとれっちゃー丸」と言っていました。
それは病人を運ぶ寝台車だろッ
私は適応力が強いみたいです。
どこででも生きていかれます(笑)