かなり以前に読んだ内田康夫さんの“浅見光彦シリーズ”ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。
今回は “松山” です。
ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、この作品の導入部でも、馴染みの場所が登場しました。
岡山駅前のレンタカー屋はともかくとして、松山に入って、まずはホテルがあるという松山城の西南あたりの一角。愛媛新聞社や市役所は、松山空港からのリムジンバスのルートなので何度も通っています。
さらに道後温泉にある「子規記念博物館」は、先の松山出張でちょっと空き時間があったので寄ってみたばかりでした。
さて、この作品ですが、“浅見光彦シリーズ”の中でもかなり異色の部類ですね。
珍しいことに、浅見光彦が一人称で記した体の文体で、正直なところ少々“品のない語り口”が目立ちます。また、途中の推理や行動にも稚拙な雑味があって浅見光彦らしくありません。犯人が、物語にはほとんど登場していない人物であることも、いかにも安直ですね。
さらには、登場人物のプロットをはじめとして作品としての仕立て方も必要以上に夏目漱石の“坊っちゃん” を意識しているように感じられて、そのワザとらしい作為がかなり目ざわりでした。
マンネリを避けようとしたチャレンジ精神は素晴らしいものではありますが、その読者に向けたサービスも今回は残念ながら逆目に出たようです。
トム・クランシー作の「ジャック・ライアンシリーズ」に連なる作品とのことでちょっと期待して観たのですが、あらゆる点で “並” でした。
プロットは一昔前のアメリカとロシアの対立をベースにしていましたし、政権内部に黒幕がいる設定も陳腐です。さらに主人公のキャラクタも「有りがちな動機から行動を起こした軍人」とくると、正直手垢に塗れた作品と言わざるを得ないでしょう。
もう遥か昔になりますが、トム・クランシーの小説を読んでその面白さに引き込まれた世代の私としては、とても物足りなく残念な印象をいだきました。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
昨今の新書にありがちな “いかにも” といったタイトルの本ですが、それだけに、どの程度在り来たりの内容なのか、それともハッとするような気づきが得られるのか、著者の楠木新さんには大変失礼ではありますが、天邪鬼的興味も持ちながら手に取ってみました。
人事・労務系のキャリアを積まれた楠木さんからの数々のアドバイスの中から、私の関心をひいたところを2・3、書き留めてみましょう。
楠木さんは、会社員時代の40歳後半、体調を崩して長期休職した経験があります。「うつ状態」でした。そのときの経験をこう語っています。
(p67より引用) ただ当時、産業医が私に語った「葛藤の場面では、捨てる(居直る)作業が必要だ」という言葉がその時頭に浮かんだ。
医師などの専門家が取り組む対症療法的アプローチでは、マイナスからゼロの世界(元の状態)に戻すことが第一目標とされる。また当の本人も今の悪い状況から脱して元の状態に戻ることを強く望んでいる。しかし今までの自分の働き方やライフスタイルがメンタル不全を呼び込んだケースでは(私の場合はそうである)単に元の状態に戻るだけでは同じ繰り返しになる恐れがある。
私が休職を繰り返したのは、まさに元の状態に戻るだけでは本来の回復には至らなかったからだ。本当の回復は、元に戻ることではなく、「自分の心構えを切り換えること」「今までとは違う新しい生き方を探すこと」だというのが実感である。
これは、なるほどという指摘です。リセットして「スタートライン」自体を変えるということですが、そこには「過去を捨てる」という大きな心理的な切り替えが必要なのですね。
そして、それが「転身への決意」の大きな要素になります。
(p68より引用) 転身によって何かを得るためには、何かを終わらせなければならない。多くの人は転身によって得るものだけを考えがちではあるが実際には失うものも無視できない。何が欲しいのか何を得るのかだけではなくて、何を捨てることができるかもポイントなのである。
このハードルが最も高そうですね。何かを捨てるといっても、「最低限の生活」や「家族」といった最終的に無視することができないものも抱えているのが現実です。
となると、やはり転身がうまく行かなかったときの「戻り先」の有無は決定的に重要になります。この備えが、楠木さんが「AとB並行」型を勧める所以でもあります。
さて、本書を読んでの感想です。
さすがにご本人の実体験にもとづく内容なだけに、紹介されているアドバイスは具体的でリアリティがあります。同じような例示がたびたび登場して少々冗長なところもありましたが、十分有益な刺激になりましたね。
私も、この1~2年のうちには今の会社員生活に“一区切り”をつけ、さてこれからどうするかを決めなくてはならないステージにあります。
とはいいつつ、私自身を振り返っても何の特技もありませんし、これといってやりたいことも思いつきませんから、このままだと絵に描いたような典型的な“濡れ落ち葉(単なるリタイヤ生活)”に落ち着いてしまいそうです。
何かやり始めると“やりがい”は付いてくるように思うので、まずは何かをやることですね。「やること」が決まっていない以上、そのための具体的な準備はできませんから、まずは「やれそうなネタ」捜しから、ボチボチと始めてみましょう。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
著者の土井善晴さんは料理研究家として有名ですが、私はNHK料理番組「きょうの料理」に出演していた御父様の土井勝さんの印象が先に立ちます。“あの土井勝さんの息子さん” といったイメージです。
本書は、その善晴さんが大切にしている「一汁一菜」というコンセプトに行きつくまでの過程をモチーフにした彼の半生記的内容のエッセイ集です。
なかなか興味深いエピソードが紹介されているのですが、その中から特に印象に残ったところを書き留めておきます。
まずは、善晴さんが20歳のころ、大学を休学してスイスのローザンヌのホテルで料理人の修行を始めたころ。善晴さんは、料理長のレシピを書き写して、これでここに来た目的は果たしたような気になっていました。
(p52より引用) 私は何もわかっていなかったのです。
料理を身につけることは、「料理する」「共に食べる」という経験を重ねるよりほかにないのです。今思うことは、現代のようにさまざまな機械を使い、化学技術を駆使した創作料理が流行しても、「その土地の伝統的な食べ物」を食べる経験以外ないと確信しています。その土地と繋がるのが伝統で、大地と人間が交わって生まれた普遍的なものでなければ、判断の基準にもなりません。見たこともないような創作料理はコンセプトを作った本人以外には役に立たないものなのです。
最近の人気料理店の奇を衒ったような料理に対するアンチテーゼの表明ですね。
そして、次は、フランス、リヨンのレストランでの修行時代。お世話になっていた家庭での食事風景やレストランの設えから、フランスの“個人を尊重する自由思想”が感じられる1シーンです。
(p70より引用) フランスはじめ欧州では、今も多くのレストランのテーブルに塩、胡椒が置かれています。三つ星レストランで使う人はほとんどいないと思いますが、装飾的な意味でなく 実用として置いてあります。食べる人が作る人を尊重するように、作る人も食べる人の自由を尊重するのです。
それはフランス人の「個人」に対する寛容(トレランス)の精神の表れで、個人の自由や趣味、考え、そして人権を尊重するためのものです。
もちろん、味付けは“料理人の個性”の結晶であり尊重すべきものだといった捉え方もあるでしょう。どういった形で料理を楽しむのかは、シチュエーションも踏まえ各々考え方は異なり得ると思いますが、それも含めて“多様性の尊重”という姿勢は大切だと思います。
さて、本書を読んでの感想です。
著者の土井善晴さんは私より2歳年上ですが、ほぼ同世代。善晴さんの半生記でもある本書に記されたエピソードや経験は、私の100倍以上のボリュームと密度がありました。また、そこで開陳されている善晴さんの「料理」を対象とした探求の積み重ねは、“現代民俗学”の実践とでもいうべき思索プロセスでした。
「料理」そのものに止まらず、さらには「料理を食べる」側に加え「料理を作る」側からの視点を含めて全体の営みとしての「料理」の意味を考え、その具現化として“一汁一菜”というスタイルを提唱しています。まさにご自身が語っているように「料理学」ですね。
どうやら善晴さんは、御父様とは別の山を目指し、見事にその山頂に立ったようです。
いつも聞いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の斉加尚代さんがゲスト出演していて、本書の紹介をしていました。
斉加さんは、毎日放送(MBS)入社後、報道記者等を経て、現在は毎日放送ドキュメンタリー担当ディレクター。本書で、現代の社会的問題を扱ったドキュメンタリー作品制作の実態を明らかにしつつ、著しい劣化を示しているマスコミ報道の在り方に一石を投じています。
読み通してみて、知っておくべき現実や大切な気づきが数多くありましたが、その中からいくつか書き留めておきます。
まずは、沖縄の基地問題に取り組んでいる琉球新報政治部長(当時)の松永勝利さんへのインタビューから。
(p45-46より引用) 結局、沖縄の新聞社っていうのは・・・取材することを先輩から学ぶんじゃないんですよ。沖縄戦でつらい思いをした人から取材を学ぶんですね。私もそうでしたし、だから沖縄の新聞社は沖縄戦のことを忘れちゃいけないと思います。
“沖縄戦”、沖縄のジャーナリズム原点です。
また、ヘリパッド建設工事反対を訴え続けている高江区長仲嶺久美子さんのことば。
(p91より引用) 「何が事実で何がデマなのか、わからなくなる」。そうなれば生活する者の声が届かない。まさしく、民主主義の危機を語ってくれました。
意図的なフェイクニュースは止めどなく流されています。
斉加さんはMBSが放送している月1回のドキュメンタリー番組で、その制作過程そのものを材料にするという試みにもチャレンジしました。「バッシング」という番組ですが、予想どおり放送直後からツイッター上では「バッシング」という単語がトレンドワードに入る等、ちょっとした炎上状態になりました。
こういったネット社会の現状について、斉加さんは、社会学者倉橋耕平さんの言も借りつつ、こうコメントしています。
(p234より引用) 民主主義社会の根っこである対話や叡智である学問を軽んじ、眼前の「勝ち負け」を左右する「物量作戦」に血道をあげる。倉橋さんは、ネット空間をこう評します。つまり、真理の追求ではなく、市場原理にシンクロする、数の「勝者」の絶対視、それが「正義」だという結果主義です。圧倒的多数を取りにいくには客観的事実や歴史に残る史実は後回しでもよく、徹底的に相手を叩いてもよい。ネット言論は、いわばリング上の勝負なのだ、そのゲームに勝たねばならない私は、この勝者こそすべてである、という社会を覆う論理におののくしかないのです。
と同時に、自らが身を置くテレビというメディアの現状にも思いを巡らせます。
(p234より引用) しかし、テレビというメディアを振り返った時も、視聴率という物差しによって「勝者を決める」「コンテンツを決める」考えがどんどん深化し、ついにはジャーナリズム精神すら蝕もうとしている現実に唖然とします。
「真実の報道」を蔑ろにし、「専門知の軽視」「デマの拡散」に加担しているに等しい現状が身近に展開されているという嘆きです。
それでも、本書で紹介された斉加さんたちの行動を鑑みるに、テレビ・新聞といった“オールドメディア”の中にもまだ“一縷の望み”はかろうじて残っているように感じます。
斉加さんが語る「ドキュメンタリー制作」への思いです。
(p267より引用) ドキュメンタリーは制作者の視点や個性で成立します。けれど、何かひとつだけの答えを用意し、そこへ導くものではありません。短歌にもよく似て、解釈は作品を受け取ってくださる側に委ねられるものです。私が思い描くドキュメンタリーは、どんな時代にあっても決して一 色には染まらず、視聴者を信頼し、問いへの答えを託すものです。
良質の「ドキュメンタリー」や「ノンフィクション」は、しっかりと“大脳で考える”大切さを思い起こさせてくれるんですね。社会のそこここに“反知性主義”が幅を利かせ始めている昨今、とても貴重な“良識の砦”です。