故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

小学校の校庭は 井上通女の生誕地

2013年06月01日 08時43分06秒 | 歴史

今朝の歩きは5時から。真っ直ぐ北上し、丸亀港まで歩いてみた。   帰りには松屋町・通町・本町・富屋町商店街をウロウロしながら。この時間お店は開いてないが、昼間でもシャッター通りだ。昔は歩くのも人の邪魔にならないように気をつけて歩いていたのになぁ~。   これは魚屋町の原田商店の看板。いい感じだ。何時までも置いていてほしい。

 

富屋町へ、これは大師坊 『江戸時代の正徳年間に一人の旅僧が弘法大師の木像を背負ってこの地を訪れ、朝暮に礼拝 諸人の信仰を集めました。厄難消除・商売繁盛・開運招福・学業成就・合格祈願等の利益を与え給う厄除大師として古来尊はれています。(大師坊縁起 説明文のまま)。

 

丸亀城の堀の周りには6月7日に開催される、第32回 全国城下町シンポジウム「さぬき京極大会」の、のぼりが このように。

 

その丸亀城のすぐ西側 丸亀城西小学校の正門付近に、井上通女の像がある。

 

台座には字は京極高徳筆とある。左下の文字は綺麗すぎて私には読めません。 

井上通女は、万治3年(1660)6月11日、丸亀藩の町奉行、井上儀左衛門の長女として生まれた。場所は小学校の校庭でこんな碑が建っている。「井上通女生申之地」

 

幼い時より父に学を受け、16・7歳で「処女賦」「深閨記」を書いている。時の藩主 京極高豊の母、養性院はこれを聞き江戸邸に呼び寄せる。江戸に下る時に書いたのが『東海紀行』で名文である。9年間の江戸滞在中には江戸で有名な学者の新井白石や室鳩巣等と交わり,女流文学者としての通女の名は全国に知れわたった。その江戸での日記が『江戸日記』である。元禄2年(1689)養性院が逝くと、丸亀の父母の許に帰り、同藩の三田宗寿に嫁した。帰郷の名作『帰家日記』は、和歌・漢詩を交えた一代の名作である。と3つ合わせて,「通女三日記」と呼ばれている。丸亀に帰った通女は,三田家に嫁ぎ,子供も学者となり,藩に仕えた。 51歳で夫と死別、夫の没後は、よく家庭を治め、晩年は、学問と風流の日々を送り生涯の苦学を「和歌往事集」にまとめた。元文3年(1738)6月23日逝く。享年79。墓は,南条町の法音寺にある。 あの勤王の志士の土肥大作・七助の墓のすぐ近くです。

って事で、今日は雨が降りそう。畑にはいい雨だね。じゃ~この辺で。またネ



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