江戸後期の産業

2018年01月21日 | 但馬の産業
        出石町・小坂平野の雪景色



(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成29年 第12回但馬検定(2級)問題より

【14】江戸時代後期には、藩の奨励により但馬各地で独自の産業が発展したが、
現在の新温泉町から豊岡市竹野町にかけての山間部で発展した産業は、次のう
ちどれでしょうか。

(a) 養蚕       (b) 造船       (c) 綿花       (d) 製鉄


 江戸時代後期には豊岡の柳行李(やなぎごうり)、出石の出石焼、美方の但馬牛

の飼育、大屋の養蚕業等々の産業が奨励発展します。

二方(ふたかた)郡久斗山から美含(みくみ)郡香住、竹野にかけての山間部では、

砂鉄を原料にした製鉄も発達しました。この地帯は地質が山陰型黒雲母花崗岩であ

り砂鉄が出ました。豊富な水があり、製鉄に欠かせない火力の燃料となる森林に恵

まれていました。

江戸時代には、砂鉄から鉄を精錬する「たたら製鉄」が藩の奨励のもと行われてい

ました。現在の新温泉町浜坂から、香美町や竹野町にまたがる山間部で発展した製

鉄産業です。答えは(d)の製鉄です。


『上(かみ)どなり』

 ケンちゃんケンちゃん、何日か前には「下(しも)どなり」のMばあちゃんの話を

書いたね。今日は「上(かみ)どなり」のHばあちゃんちの話なのよ。

じいちゃんが子供の頃の池上って、家が28軒しかなかったの。その一軒一軒の呼び名

を、子供だったけれど大人と同んなじように言ってたんよ。不思議だね。近所のどの

おうちの大人の名前も、みんな分かってて、大人と同んなじように呼んで たんよ。凄

いだろ。 今より近所付き合いが、大人も子供も混ぜこになって深かったのかな。どこ

の子供も、同じように他所(よそ)の家の名前や大人を呼んでいたと思うよ。
 

 「上どなり」って江原の方だよ。上どなりは牛を一頭飼ってたの。子牛を生ませる

ために飼ってる牝牛なんよ。Hばあちゃんが牛の世話をしてたな。夕方になったら牛

を散歩に連れ出して、道の草を食べさせるの。一頭を大事に大事に育てるの。

牛小屋といっても、そのころの牛飼いは人の住む家の一角が牛小屋なの。家の中で牛

を飼って大切に大切にしたんよ。

その牛小屋は柵一つで外から丸見え、じいちゃんちの風呂の焚口のところと向かい合

わせなんよ。「モ~、モ~」と、朝から晩まで鳴き声も聞こえてくるし、たかるハエ

もいっぱい飛んでくるの。そんな隣り合わせの、上隣りの牛さんだったんよ。


 Hばあちゃんは、隣だったから何でも仲良くしてもらう良いばあちゃんだったね。

「お前の名前は隣のHさんが “まあ、国のために尽くすように『くにお』でよから

あ” って付けてくれたんよ。Hさんが名付け親なんよ」と聞いたことがあるんよ。

Hばあちゃんは、なんでもお付き合いしてくれるいい人だったんよ。

じいちゃんちには牛がいなかったけれど、毎日毎日牛の鳴き声「モ~モ~」聞いて、

その牛を飼うHばあちゃんに名付けてもらって生まれてきたんよ。じいちゃんは。
この記事についてブログを書く
« 鎌倉時代の但馬守護 | トップ | 但馬国の国分寺 »