「国葬は外交の舞台である」
本年7月8日の選挙演説中に衆目の中で暗殺された安倍元首相の国葬は、9月27日に日本武道館で行われる。国葬には首相在任中に外交舞台で意思疎通をした各国元・現指導者をはじめ、約6000人が出席するという。世界中の指導者が安倍元首相の国葬のために東京を訪れて弔意を示すことは、一面、我が国にとっても世界中の指導者にとっても、安倍元首相が「弔問外交」という政治の舞台を図らずも設営してくれたと捉えるべきである。
我が国を含め世界中から集まる多くの国は、政治、経済、安全保障等の様々な分野で課題を抱えており、それらの改善のために安倍元首相の国葬を利用したいと考えるのは当然であり、我が国もこの機会をとらえて積極的に「弔問外交」を展開し、国益の確保に努めなければならない。国内において安倍元首相の国葬に反対の声があることは承知しているが、彼らは批判者にはなれても政治家にはなれない人たちだと思う。安倍元首相の国葬を政治利用できないような人に政治家としての資質があるとは思えない。
仮に、国葬に参列してくれる国々にこちらから個別に訪問して懸案事項を協議するとしたら、一体、どれだけの日数と費用が必要になるか考えてみればよい。ウクライナ戦争により世界の政治・経済は不安定化を増しており、現状維持を保つことさえ困難化している。国民の安全とくらしを守るために、我が国は政府を筆頭に全力を挙げて「弔問外交」の成功に努めるべきである。
かつて、織田信長亡き後の織田家の後継者を決めるために「清州会議」が開かれた。この会議の勝者は羽柴秀吉であり、この会議によって秀吉に天下人への道が開けたといっても過言ではない。巧妙な演出に隠れて秀吉がしたことは、織田信長亡き後の織田家の乗っ取りではなかったのか。政治家としての秀吉の本領が発揮されたこの会議は、政治や外交について現代の我々に多くのことを教えてくれる。演出を用いてでも政治目的を達成する、そうでなければ政治家とはいえない。
安倍元首相の国葬を批判しても、現実の世界の中で我が国の安全と国民のくらしは守れない。「弔問外交」において諸外国との交渉の中に立ち入り懸案事項の解決・改善向けて一歩でも前進する、それが生前に内政・外交で成果を上げた政治家・安倍元首相に対する本当の弔意ではないだろうか。