「親鸞」
この前から伊藤益著「親鸞~悪の思想」(集英社新書)を読んでいて、今日は栗の新緑を目の当たりにして読書を楽しんだ。親鸞については、これまでにも梅原猛氏や五木寛之氏の関連本や唯円の「歎異抄」などを読んだことはあるものの、深く理解しているというわけではない。
この本によれば、「善人なほもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」という言葉で有名な親鸞の悪人正機説について、「歎異抄」のなかで親鸞は次のように語ったと唯円は伝えているとのこと。「(前略)その弥陀の真意は、悪人を成仏させることにあるのだから、一切を弥陀の本願に委ねきって他力の立場に立つ悪人こそが、まさしく救いにあずかるべき身である。したがって、善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は当然だ、ということになる。」(68P )
親鸞の悪人正機説と神道の思想、他宗教にも他人の言動にも段々と不寛容になっていく現代、寛容の思想として見つめなおしてみる意義があるのではないだろうか。
この前から伊藤益著「親鸞~悪の思想」(集英社新書)を読んでいて、今日は栗の新緑を目の当たりにして読書を楽しんだ。親鸞については、これまでにも梅原猛氏や五木寛之氏の関連本や唯円の「歎異抄」などを読んだことはあるものの、深く理解しているというわけではない。
この本によれば、「善人なほもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」という言葉で有名な親鸞の悪人正機説について、「歎異抄」のなかで親鸞は次のように語ったと唯円は伝えているとのこと。「(前略)その弥陀の真意は、悪人を成仏させることにあるのだから、一切を弥陀の本願に委ねきって他力の立場に立つ悪人こそが、まさしく救いにあずかるべき身である。したがって、善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は当然だ、ということになる。」(68P )
親鸞の悪人正機説と神道の思想、他宗教にも他人の言動にも段々と不寛容になっていく現代、寛容の思想として見つめなおしてみる意義があるのではないだろうか。
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