3行日記

猫とか漫画とか車とか色々…

無関心の代償

2009-04-18 10:39:14 | 大阪綺譚
 東京にIOCの調査団が視察に来てるって報道で聞いて、そう言えば大阪も五輪招致活動したっけなぁ、とぼーっと思い出した。当時から、ニュースでは見るけどほんとにしてんのか?ってくらい、周囲にその気配を感じることがなかった。ポスターを見たくらい。だ~れも望んでなかったんじゃないかな。その誰もが無関心だった活動に、いったいどれだけの血税が捨てられ(投入され)たのか。いまや大阪市の赤字は5兆円。未だに大阪湾には野草の生えた人工島がいくつもあって、どうすんだよあれ。
 視察団からの質疑応答で「橋がテロで爆破されたらどうすんだ」と聞かれて、市の役人は「今後検討します」と答えたらしいw。管轄が縦割りだから即答できないってお国事情アリアリだが、こんな消極的な印象を与えりゃそりゃ落ちるわ。いや五輪は落ちてよかったんだけどね。橋は不便よ。ルート一本しかないし強風とか地震でも不通になるし、テロうんぬん言われてもしょうがない。なんで地続きに出来なかったんだろうね。しかもそんな島がいくつも。
 ただでさえ大阪の古くからある街の密度に比べてウォーターフロントは遠い。何もないところを(マンションとかはあるけど)えんえん走ってるとなんか物寂しくなってくる。「なんでこんなにトボトボと海の方へ向かってるんだ」みたいな、都落ちな気分。何作ったって人は流れない。609億円はたいて作った、外国の有名な建築家がデザインしたっていう舞洲のゴミ処理場も見てみたいが、それだけのために行くのも面倒って気にさせるロケーション。ZEPPとかも周り閑散としてて、ライブで壊れて出てくると急にしらける(笑)
 街というのは人が生活を営んで育っていくもので、遠く離れたところにポツネンと場所だけ作っても街にはならないんだねえ。道路と島と橋を作って工事会社が潤って、後は市民の負債だけ。「役人を動かすのは政治家、政治家を動かすのはみなさんの1票です」って、橋下知事がことあるごとに言ってることの本当の意味がここにある。

箕面の滝は電気仕掛け?

2008-10-15 13:15:46 | 大阪綺譚
 今年の春、親を勝尾寺に連れてった帰り、箕面の滝の上にある駐車場に車を停めた。駅から滝まで歩かなくても、ドライブウェイを使って車で滝の上まで上がり滝の脇からスロープを降りてきて滝を見上げられるようになっているのだ。そんなところで車を停めたのは初めてだった。山の斜面に人間が3人くらい蹲っているのが見えた。傍にコンクリートだかジュラルミンだか忘れたが箱みたいなのがあった。
父:「あれ何やってんねん?」
桜:「あそこで滝の水の放水を調節してんねん。人が増えてきたら流量アップしたり、虹出したりしてんねんできっと(笑)」
母:「漫画家の発想やな」

 昨日、これがあながちフィクションじゃないって話を美容院で聞いた。いやあの時のあの人たちがそうだってわけじゃないけど、箕面の滝は今、水の一部をポンプで汲み上げてる半人工の滝になっていると美容師が憤慨していた。原因は例の箕面トンネル(上のイラスト参照)――。
 あるNPO法人の調査(ネットで見つけ)によると、地下の岩盤の割れ目(破砕帯)を工事で破ってしまい、下流に流れる筈の水が地下へ抜けてトンネルで湧き出ているのだそうだ。その抜けてる水をポンプで汲み上げて河川に戻していると。そのポンプを動かす電気代が年間3000万円だと。水を汲み上げないとトンネルが水浸しになるんだろうか?国定公園の体裁のためだけに3000万使ってるわけではないようだが。
 美容師の先生は府の関係者からこっそり聞いたらしいが、検索かけるといっぱい出てきたので私もここに公開したよ。MBSが報道したらしく、「無駄な開発で滝が枯れる」みたいな論調を鵜呑みにした人達のログがいっぱい出てきた。みんなてんでにアミューズメントパークだ、電気仕掛けの滝だ、箕面ブランドのイメージダウンだと、もしそうなら如何にもスキャンダラスだがそういうことではないだろう。「開発→資金の無駄→自然破壊→悪しき道路行政の象徴」と言う一連のことよりもトンネルの水没とか、地震のときの地盤とか、そっちの方が気になる。

 トンネルは近隣に住む人にとっては本当に天恵だと思う。箕面ってとこは上の絵の緑のところが全部山だ。北は能勢、西は池田や川西が隣接する。国道423号線(実際はワインディングロード)の通ってる辺りはとどろみと言って、変換が出てこないほどひっそりと里山がある。このとどろみに今造成中なのが箕面森町というニュータウン。行ってみると上ものを待ってる空き地がズラリと並んでいる。いったいここに住む人がどれだけいるのだろう?毎日トンネル通ってバス通勤してもいいって人がどれだけいるのか?ご存知ない方には想像つかないだろうが、ご覧のように箕面の電車は市の端っこまでしか来てなくて、道路は国道と新御堂が見ての通り離散、この辺りは大阪府内でありながら大阪市内に出るルートがない陸の孤島なのだ。間をトンネルで繋げたいなぁ~って地図を見て思うのも無理はない。トンネル以外に国道と新御堂を繋ぐ道はものすごい曲がりくねった山道だけ。私の通学路だったが通勤バスが通れる道ではない。止々呂美に住む人たちや近くの能勢の住宅地(ときわ台)の人たちだって公共工事と都会の利便の恩恵を受ける権利はもちろんある。しかし、普通車600円。たぶん大赤字だろう。箕面の山の深さを知ってるから無駄な道路とは言わない。作った限りはちゃんと機能して役に立って欲しいもんだが、箕面森町は作るべきじゃなかった。だって少子化だもの。

 余談だが箕面国定公園はとても綺麗なところだ。身を浸すと本当に心が洗われる。でも里山のように自然を手入れしながら人が共存するのとは違い、観光地となった自然はもう本来の自然ではない。上の絵で緑の所は自然の縄張り(=山地)で、白い所は宅地(昔は農地)だ。絵の中の赤い●はおいらの実家のあたりだが、文明生活をしながら自然に触れ合おうという魂胆で緑のところに宅地が出来たのだ。箕面森町のキャッチコピーも「新御堂を抜けると自然がいっぱい」みたいな。触れ合おうと押し入った時点で既に壊していることになぜ気づかないのか。自然を大事にしたいなら人間が近寄らないことだ。

大坂人と大阪人【2】

2008-07-16 14:09:45 | 大阪綺譚
興味が湧いたので色々調べていたら、大坂の江戸時代の姿が見えてきた。江戸時代の大阪も「城下町大坂」だが幕府はここに大名を置かなかった。これだけの大きな城下町なのに、前田や伊達、島津や細川、みたいな大名の名を大阪の人間が思い出せないのも当たり前だ。
占領され焼け野原になった大坂は、侵略者によって西日本の軍事及び経済の拠点として再建された。徳川は豊臣時代の街を完全に地中に葬り、諸藩の蔵屋敷を設置、有力商人を任命して自治体制をとらせた。この辺り歴史の教科書では「元禄文化」「近松門左衛門」などさらりと描かれているだけだが、江戸時代の大坂では武士の数が家族を合わせても1万人にも満たず人口の98%が町人だった、ということが今回調べていて判った。大坂は軍事力を極力削ぎ武士階級に資金調達する財布の役割りを与えられていたようだ。
武士を首長とした上下社会じゃなかったから封建制度や身分制度もゆるく、現在の大阪の気さくで本音で物を言う規律の甘い文化はこの頃に出来たのではないかと、そんな記事もネットであまた見かけた。「士農工商」の身分制度で言えば一番下の商人が最上の武士を経済的に支えるんだから、なるほど上下関係は形骸化、大阪弁には敬語もないわけだ。
以前久米宏が「大阪だけ独立してもいいほどあそこは様相が違う」と言ったことがあって出鱈目なと思ったが、案外的を得ているのかもしれない。どう考えても歴史的にも文化的にも特異な地域に見える。

ところで私の生まれ育った箕面やその周辺は大坂には含まれない。だからこれまで、ローカル番組でよく紹介される天神橋筋商店街や道頓堀のおばちゃんみたいな人は周りにいなかった。気さくで本音で物を言う文化もない。住宅街として開発され始めてから100年も経たないこの辺りは、それまではご多分に洩れず里山の農村だったから(あとは街道沿いの宿場町とか)、今住んでる人間は殆ど色々なところからやって来た烏合の衆なのだ。大坂=大阪ではないのだ。それでも同じ大阪弁を喋る大阪府民だったし今は大阪市民だと思ってたんだが、最近自分の大阪弁はヘンだって気がしてる。

大坂人と大阪人【1】

2008-07-14 09:08:17 | 大阪綺譚
~ここで言う大坂は豊臣秀吉時代の城下町としての大坂です~
NHKの『その時歴史は動いた』で“大坂夏の陣”(再放送)を見ていて思った。

「大阪人のアンチ東京のDNAここに見たり―――…」

番組のタイトルは「大坂夏の陣・戦国のゲルニカ」となっていた。
歴史小説を読む趣味はなかったので、日本史については学校で習うことと日曜日に父親が見ていた大河ドラマ程度の知識しかなかった。大坂城が豊臣秀吉によって建てられ、大阪の街を作ったのも秀吉だってことは知識として知っていたが、どうにも秀吉が大阪縁の人物には思えなかったのだ。仙台市民は伊達正宗を、金沢市民は前田利家を、もっと身近に思うのではないかと。何故か―――。

淀君と秀頼は、関ケ原で家康が勝ち(1600)江戸幕府が開かれて(1603)から10年以上も大坂城で頑張っていたそうだ。だから「大坂落城」は家康の悲願、それを果たしたのが大坂夏の陣・冬の陣…こう書いてみると習った覚えがあるな。
でも、教科書は負けた者の側から書かれてはいない。大坂の人にとって見ればそれは東からの侵略以外の何物でもなかった。夏の陣は、大坂城炎上は言うまでもなく街全体が焦土と化し、女子供も殺され犯され、連れ去られ、徹底的に破壊されたという。この時の荒廃ぶりは第二次大戦の大阪空襲以上だったとか。街全部が木造でそれを地上戦で焼けばそれもそうだと。誰が見たわけでもないけど。
そうして豊臣家とそれに連なる全てが排除され、大坂は幕府の天領(直轄地)となった。徳川家はそれほど豊臣を憎んで(恐れて?)いたんだね。
その辺りに東軍が西を滅ぼし東に権力の中枢を据えたという歴史の段取り以上の、大阪の子供がアンチ東京を刷り込まれて育つ背景があるのかしらん?

(注:ゲルニカ=スペインのゲルニカという街がナチスの空爆を受けた様を描いたピカソの壮大な絵画)