黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

妙義紀行・大泉山補陀寺(大道寺政繁墓所)

2019-12-06 20:51:46 | 妙義紀行

ひめちゃんたちは、午前中お留守番でした。

獅子丸とタバサねーちゃんは、ぬいぐるみをくわえてウェルカムダンスでお迎えです

獅子丸は実家に帰ってから、買ってもらった丸いぬいぐるみを大切にしています。

ルカムダンスのときや、時にはお散歩に持って行こうともします。

ひめちゃんも、シッポをふってお出迎えです

 

お昼に帰ってきたおかあさんは、白菜を買ってきてくれました。

実は、獅子丸は白菜が大好きなのです。

ご近所で出荷した白菜の切れっ端が落ちていると、おいしそうに平らげます。

みんな、ちぎって少しずつ分けてもらいました。

晩ご飯にも、白菜が付きました

 

 

妙義紀行第二弾で、中之嶽神社を目指します。

国道50号線の小島田の信号から、ひたすら高崎安中方面に下ります。

国道18号線の妙義近くで、ビュースポットがありました

わー、妙義だ、妙義だ

あの形、忘れられません。

振り返ると、はるかかなたに赤城山が見えます

裾野は長し赤城山です。

 

国道18号線を進みます。

途中、北条家の重臣・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)の墓があるという、大泉山補陀寺(ほだじ)に寄ります。

常広寺と同じ曹洞宗です

境内の駐車場に車を止めて、道路の向こうにあった双体道祖神に逢いに行きます。

奥の高架の道路が国道18号線です。

双体道祖神が2基あります。

左のはかなり古いもののようです。

右は安永の年号が見えます。

世良田の毛呂権蔵が『上野国志』の取材をしていた頃です

後ろには墓地が広がっていました。

 

さて、趣のある境内へ戻ります。

正面に見える鐘楼堂は、これから数分後誰もいないのに時の鐘として鳴り響きました。

自動で鐘をつくようにセットしてあるようです。

この風景に、鐘の音はとっても趣深いものです

けれど、自動という所に、ちょっぴり情趣のなさも感じました

 

奥に進むと、あれ、こっちが本来の山門かな?

どうも、そのようです。

いろいろ石造物があるらしいけれど、とりあえず目指すは大道寺政繁の墓です。

また、帰りに寄ります

 

本堂ですね。

 

大道寺政繁の墓は、本堂の左奥ということです。

そちらへ行くと、案内の→があります。

 

 

石造物の修理をしている、おじさんとおばさんがいます。

「こんにちは。」

「首がちょうど合うのが見つからなくて

「でも、ないよりあった方がいいですよ

 

奥に進むと、ありました

天正十八年三月、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、前田利家、上杉景勝、真田等の北国勢三万五千を三千余名で引き受け、奮戦したが、同年四月二十日降伏した。その後、前田軍の先駆として働いたが、同年七月五日、小田原北条氏が降伏となった際、秀吉より北条氏政、氏照、松田憲秀と共に切腹を命ぜられ、同年七月十九日川越常楽寺で自刃、五十八才であった。

何故なのでしょう?

使い捨てとはひどい

合掌。

実は獅子丸が養子に行っていた家のご先祖も、北条の家臣だったそうです。

もしかしたら、お世話になったかもしれませんね。

 

さっきの説明板に、子孫の手によってたびたび改修が加えられているとありました。

台石の側面に、子孫のこだわりが刻まれているようです。

子孫には忘れられない場所なのですね。

 

脇に文字のいっぱい刻まれた石柱があります。

うーん、何だろう?

大道寺家の由緒?

 

大道寺政繁墓所の向こうは、歴代住職の墓所のようです。

妙義山が見えます

 

(つづく)

 

 

 

 

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