黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

由良成繁事書案(善・山上之事)・その2

2024-06-23 10:53:18 | 山上保の物語・総集編

冷たい雨の朝です

雨雲レーダーは、12時頃に雨が上がるでしょう。

ひめちゃんもタバサねーちゃんも、貧乏カッパでお散歩です

6月の、2人の貧乏カッパ姿を探しますけど、意外にありません

やっと、2020年6月、タバサねーちゃんと獅子丸の貧乏カッパ姿がありました。

犬用レインコートが装着が大変でかつ高価なので、ふとビニール風呂敷を2カ所結んでレインコートにすることを思いつきました

ただ、かわいい水玉のピンクのビニール風呂敷は、包装用品のお店に行かないと手に入りません

先日、また買い足しておきました

 

 

 

由良成繁事書案
(端裏書カ)

善・山上之事書 中山被成之

善・山上之事

根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、   

永禄十年丁卯              
(『群馬県史資料編7』より)

 

本日の確認部分は、赤文字です。

 

 

天文十年辛丑年秋、

天文(てんぶん)10年は西暦1541年、干支は「かのとうし」。
横瀬泰盛・成繁は、享禄元年(1528)ころ、主君岩松昌純を殺し、実権を握っています

下剋上を成し遂げて13年後で横瀬氏の支配体制も安定したころです
天文十年辛丑年秋、やはり収穫が終わってからです
戦いだけでは領国経営は出来ません

旧新田町上江田の竜得寺には横瀬泰盛の墓と言われる五輪塔があります。







庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、
「庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守」といった方々が、みんなで一緒に亡父(泰繁)を攻撃した時

庁鼻和乗賢(こばなわのりかた)は、深谷上杉氏の6代目です。
庁鼻和城跡は国済寺になっています

那波刑部太輔宗俊(なわぎょうぶたいふむねとし)、刑部太輔はいってみれば法務省のナンバー2みたいなものですが、早くに実態はなくなっているようです
那波氏は鎌倉幕府の実務官僚大江広元の子孫です

厩橋賢忠(うまやばしけんちゅう)は、長野賢忠。
ウィキペディアによれば、戦国時代前期の上野国の武将。上野長野氏の一族。賢忠は法名(橋林寺殿節菴賢忠大禅定門)であり、実名は不詳。
えェ、橋林寺は常広寺の本寺です
もともとは長野さんの菩提寺だったのですね
長野さんと言えば箕輪城ですけど、厩橋にも一族がいたのですね。

成田下総守は、先のウイキペデイアでは、成田親泰としていますが、大永4年(1524)に死去していますから、ここは息子の成田長泰でしょう

佐野周防守(さのすおうのかみ)は、唐沢山の佐野昌綱としているものもありますが、山上・葛塚とのからみから判断すると、やはり桐生の佐野さんでしょう。

みんなでまとまって攻撃してきたのです
でも、金山城は落ちません。
金山城は、今まで行った事のある城跡で一番の難所だと思います

御城印も、不落の城です



厩橋へ致心替候
うまやばしへこころがわりいたしそうろう
善氏・山上氏は、由良さんを裏切って、厩橋長野さんに味方したのです。
そうすることによって何か得るものがあったのでしょうね


以来離手候処、
いらいてをはなれそうろうところ
縁が切れていたのです


去庚申年属本意候、
さんぬるこうしんのとしほいにぞくしそうろう
この文書の永禄10年の前の庚申の年は永禄3年(1560)です
永禄3年に由良陣営に復帰したという事です
永禄3年(1560)、善さん山上さんは横瀬(由良)の麾下(きか)に復帰します



然処北条厩橋旧同心由申致欤、
「然処(しかるところ)」は、つまり
「北条厩橋(きたじょううまやばし)」、永禄3年(1560)上杉謙信は越山(えつざん)し、小田原の北条家に奪われていた厩橋城を取り返します。

後に厩橋城主となる北条(きたじょう)高広のことでしょう。
「旧同心由申致欤」、きゅうどうしんのよしもうしいたししか?
普通に考えると、主語は「北条厩橋」、述語は「旧同心由申致」です

北条高広が善さん山上さんに「おまえたちは横瀬(由良)の旧同心なんだから横瀬に復帰せよ。」と言った受けとれます
いずれにせよ、この復帰には北条高広が関わっていそうです



厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、
「厩橋之事、輝虎世ニも」、厩橋城主は輝虎(謙信)の時代にも、
「初者河田豊前守給置候」、初めは河田豊前守を置きました。
「其以後喜多条丹後給置候へ共」、それ以後喜多条丹後(きたじょうたんご)つまり北条高広を置きましたが

上杉謙信は翌永禄4年(1561)3月、10万の大軍を率いて、小田原攻めをします。
その時に、「関東幕注文」が作られました

謙信は閏3月、上杉憲政から、鎌倉で関東管領職を受け継ぎます。
横瀬氏はこの時に由良に改姓したと言われてきましたが、最近はもう少し後と言われているようです
太田市HP「金山城略年表」では、永禄8年7月15日に、「この頃、横瀬成繁由良に改姓する。」と、あります
また、岩宿博物館『考古学から見た群馬の戦国時代』(2016)でも、「永禄7~8年 横瀬成繁が将軍足利義輝から供奉衆に加えられ、これを契機に由良を称す」と、あります



拙者依旧同心之筋、同心仕来候、
「拙者」は私
「依旧同心之筋(きゆうどうしんのすじにより)」、元同心であったということにより
「同心仕来候(どうしんつかまつりきそうろう)」、ずーと同心してきました。(ずーと味方してきました)
横瀬(由良)さんは、このころ上杉方だったのです

由良さんの主君岩松家純は、長尾景春の乱で五十子の陣が攻撃された時に、関東管領上杉憲顕と一緒に利根川を舟で渡り、武士城付近に上陸し、以後は疎遠になったと言われています。

でも、「太田市HPの金山城略年表」で、横瀬成繁に関係ありそうな事柄を抜き出してみると、

応仁3年(1469)2.25  金山城築城の地鎮祭
文明元年(1469)8  岩松家純、関東管領上杉方の五十子陣(埼玉県本庄市)を退きに金山城に入る
明応3年(1494)4.22  岩松家純没する(86歳)
明応4年(1495)4.13  横瀬成繁草津へ湯治に出かける
       12.18  古河公方足利成氏の仲介により、岩松尚純隠居、横瀬成繁父子を尚純子夜叉王丸(昌純)の名代とする和約が成立    
文亀元年(1501)8.8  横瀬成繁(73歳)没する。金龍寺に「義山宗那忠居士」銘の五輪塔が造立される。

長尾景春によって攻撃されるより以前に、横瀬成繁は主君と共に五十子の陣を退去しています

通説より早く、関東管領とは、疎遠になっていたはずです

どうも由良氏に都合のいいように創作されている感じもあります



初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿 2024.06.23

 

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