黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

鎌倉公方足利基氏書状

2024-06-07 17:08:28 | 山上保の物語・総集編

ちょうど5年前の今頃、獅子丸は7年間暮らした養家に別れを告げて、実家に戻りました。

朝のお散歩前に、みんなのお散歩の用意ができるまで緊張して待機しています。

ひめちゃんも、モコモコです。

換毛真っ盛りでした。

獅子丸とお散歩に出たひめちゃん、ちょっと不機嫌です。

獅子くん、威張っちゃったのかな?

獅子丸は、ぬいぐるみが大好きでした

解体新書が得意なひめちゃんとは、対照的でした。

 

 

 

葛塚村が出てくる次の文書は、「鎌倉公方足利基氏書状」です。

鎌倉公方足利基氏書状
 ○神奈川県鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

大田美作孫七郎邦康申、上野国山上保内田部・薄井・葛塚村才事、退違亂輩、全知行様ニ
可有沙汰候、謹言、
 三月十八日           基氏(花押)
  宇都宮下野守殿
(『群馬県史・資料編6』)

「神奈川県鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書」とは、また「大田貞宗寄進状」と同じ所にあったのです


まず差出人は、鎌倉公方足利基氏です。
受け取り人は、宇都宮下野守・宇都宮氏綱です。

足利基氏は足利尊氏の息子で初代鎌倉公方です。


ウイキペデイアによれば、
暦応3年(1340)3月5日生まれ、貞治6年(1367)4月26日死亡と言うことですから、27才で亡くなっているのです
鎌倉公方の在任期間は貞和5年(1349)9月9日から貞治6年(1367)4月26日です。
ということは、9才の子供が鎌倉公方になったのです
当然大人の補佐が必要です
その一人が、上杉憲顕だったのです

宇都宮氏綱は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で足利直義方に着いた上杉憲顕が剥奪された上野・越後の守護職を与えられました。

ところが、上杉憲顕が放免されるとその返還を求められ、剥奪されるのです(貞治元年1362)


この文書は月日しか記入されていません
でも観応の擾乱の結果としての事績なので、『群馬県史・資料編6』では、観応の次の年号文和元年の所に入っています

上野・越後の守護剥奪は、幼い心にすり込まれた上杉憲顕への信頼によってもたらされたなんて、宇都宮さんにはいい迷惑でしたね

この文書の時は、宇都宮さんが上野守護でした

では、文書の中身を検討しましょう

 


「大田美作孫七郎邦康申」

「大田美作孫七郎邦康」、大田邦康が苗字と名前です。
大田邦康は大田美作孫七郎つまり大田美作の孫の七郎・7番目の男の子であると受け取れます


大田美作(おおたみまさか)とは誰でしょう?
聞いた事ありますね


「大田貞宗寄進状」で、大田貞宗は前美作権守(さきのみまさかごんのかみ)と署名しています
「大田貞宗寄進状」は建武元年(1334)、この文書は年未詳ですが群馬県史では文和元年(1352)に入れています。
そうすると約20年で孫がこの地を支配していると受け取られます


「大田貞宗寄進状」を書いたとき大田貞宗は高齢で、息子は短命だっとと受け取れます
前美作権守なので第一線を引退していたけど、出張らなければならない事態だったのかもしれません

「申」は口で訴えたのではなく、申文(もうしぶみ)を鎌倉公方に提出したのでしょう。
残念ながらそれは残っていないようです


「上野国山上保内田部・薄井・葛塚村才事」

どこかで見た地名です。
山上保内田部・葛塚村は「大田貞宗寄進状」にありました
薄井は、「かばい」で久保井のことだと言われています


山上保(やまがみほ)は山上(桐生市新里町山上)だけでなく、田部(前橋市粕川町田面)から東は桐生市新里町新川久保井まで含まれていたのです


「退違亂輩」

「違亂輩(いらんのやから)を退けとは、言うことをきかない奴らを退けてということです。
大田邦康が山上保内田部・薄井・葛塚村を支配するのを邪魔している連中がいるということです
山上保は山上氏が地盤としていたところなので、違亂輩(いらんのやから)とは山上氏のことと考えられます
山上さんまだいたんですね


「全知行様ニ可有沙汰候」

全知行とは全く知行するということ、つまりちゃんと支配するということでしょうか?
可有沙汰候とは「沙汰有るべく候」で、この場合の沙汰とは全知行出来るように対処しなさいということになります

「謹言」
これは文書の終わりのきまり文句です。

この鎌倉公方の文書は、大田邦康の「山上保内田部・薄井・葛塚村で言うことをきかない連中がいます。なんとかして下さい。」という訴えに対して出された沙汰(命令・指示)です。


やはり山上の領主は、太田さんです
違亂輩(いらんのやから)とは山上さんでしょう

 

 

 

太田貞宗寄進状とこの鎌倉公方足利基氏書状から、中世山上を支配していたのは、太田氏と知れます。

そして、新里の人が大好きな山上氏は違亂輩として存在していたらしいことが知れます

とても、新田義貞について鎌倉攻めに行けるような状態ではなかったでしょう

そうすると、新田16騎の山上六郎左衛門は、実在が怪しくなります

上野国山上出身の山上六郎左衛門が、鎌倉目指して出陣するは無理そうです

 

 

初出  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿  2024.06.07

 

 

 

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