暑い暑い一日でした
今頃って、こんなに暑かったっけ
2020年の今頃の、ひめちゃんと獅子丸です。
ひめちゃん、モコモコです。
獅子丸が実家に帰ってから1年後、ヤギという生き物に遭遇してから1年後です
2人は、よく東の牧場に行きました
ヤギさんの家族が、増えていたのです
子牛用のハウスをヤギさんも使ってます。
このヤギハウスの向こう側は、鏑木川の深い流れです
新里では、山上氏は佐野周防守に逐われて五十子に3年間滞在したことになってます
その根拠になっているのが、この文書です
由良成繁事書案
(端裏書カ)
善・山上之事書 中山被成之
善・山上之事
根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、
永禄十年丁卯
(『群馬県史資料編7』より)
由良成繁事書案
(端裏書カ)
まだ、書き換える可能性はあったんですよね
「端裏書カ」
こんなメモがあるんですね
「案」の文字が気になります
まだ草案で決定稿ではないんですよね
善・山上之事書 中山被成之
「中山被成之」は、「ちゅうざんこれをなさる」、「私・中山が之を書きました。」でしょうか
由良成繁の戒名は、鳳仙寺中山宗得居士です
桐生市梅田町の鳳仙寺に墓があります
墓石には、新田氏の大中黒の紋があります
由良氏は新田の後裔を自称していますが、そうではないことはよく知られています。
ええ、そうすると、この文書に創作が入ってる可能性はないとは言い切れませんよね
根本者管領馬廻衆ニ候
こんぽんはかんれいうままわりしゅうにそうろう
善・山上は、根本は関東管領の馬廻り衆であった
そうすると、親衛隊みたいなものですから、戦いの時にはいつも管領様の所に行っていなければなりません
山上の管理はどうしていたんでしょう
公方・管領御分目之剋
公方の前に一文字空いています
これは公方に対する敬意からです
公方・管領御分目のみぎり、古河公方と関東管領が争っていた時
これは、古河公方と関東管領が争っていた時、享徳の乱の頃(1454~1482)の出来事です。
管領方御うちは之時節、
「善さん山上さんが関東管領に付いているころ」ということでしょうか?
佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜
佐野大炊助先祖周防守とは、赤堀文書によく登場する佐野周防守ですね。
在所お被押抜(ざいしょをおしぬかれ)、おしぬかーず、四段活用なので、被は「る」です。
佐野大炊助先祖周防守に在所(善・山上)を逐われてということです
三ヶ年五十子に致在陣、
3年間五十子の陣にいて、
還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、
還住は一度居住地をはなれたものが再び居住すること
還住之儀雖致侘言候(かんじゅうのぎわびごといたしそうろうといえども)、早く故郷に帰りたーいとブウブウ言ったのでしょうか
武蔵面依無御手透、武蔵方面はあちこちで戦争状態で善さん・山上さんなんてかまっていられなかったようです。
いつのことかなあ
拙者曾祖父信濃守成繁ニ、
拙者は由良成繁(ゆらなりしげ)、彼の曾祖父も(横瀬)成繁、同名なのでややっこしい
彼両人ニ合力在所於令還
かの両人(善さん&山上さん)に合力し在所(もともとの居住地)に還らしめば、つまり、もし善さん&山上さんのために戦い彼らをもともとの居住地に還してやったならば、
まだ仮定の話です
末代為同心之由、依被仰出、
末代同心と為すの由、仰せ出ださるに依り
仰せ出ださったのは、関東管領です
善くん山上くんは、ずーと君んとこ(由良氏)の同心衆でいいよと、おっしゃったので
この話が事実とすれば、これは長尾景春の乱で五十子の陣が襲撃される(文明9年、1477)以前の話です
あれ、まだ横瀬氏は岩松家の家臣だったはずです
「太田市HPの金山城略年表」で、横瀬成繁に関係ありそうな事柄を抜き出してみます。
応仁3年(1469)2.25 金山城築城の地鎮祭
文明元年(1469)8 岩松家純、関東管領上杉方の五十子陣(埼玉県本庄市)を退きに金山城に入る
明応3年(1494)4.22 岩松家純没する(86歳)
明応4年(1495)4.13 横瀬成繁草津へ湯治に出かける
12.18 古河公方足利成氏の仲介により、岩松尚純隠居、横瀬成繁父子を尚純子夜叉王丸(昌純)の名代とする和約が成立
文亀元年(1501)8.8 横瀬成繁(73歳)没する。金龍寺に「義山宗那忠居士」銘の五輪塔が造立される。
長尾景春によって攻撃されるより以前に、横瀬成繁は主君と共に五十子の陣を退去しています
葛塚地お取立三ヶ年差置番手、
葛塚の地を取り立て、三ヶ年番手を差し置き、
「取り立て」は無理矢理取るんでしょうか、借金の取り立てみたいな用法があります。
差置はそのままにしておく
番手は城を守る兵士
そうすると、由良さんは葛塚の地を奪還し、3年間番兵を置いて守らせたんですね。
剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、
あまつさえおくざわとごうするちにおいて、さのすおうのかみといっせんをとげしょうりをえしのち
奥沢は新里町奥沢です
早川貯水池はまだありませんから、奥沢神社とか東昌寺のあたりが怪しいかも
剰(あまつさえ)は、物事や状況がさらに重なるさまです。
葛塚の要害を押さえて、さらに奥沢で佐野周防守を撃破したのです
両名字心易在所被致本意、
両名字(りょうみようじ)とは、善さん・山上さんのことですね
被の下には必ず活用語が来る、文語の「る・らる」に相当する。
致さーず、四段活用なので、「る」です。
被致本意は本意を致され、両名字心易く在所に本意いたされ
善さん・山上さんはやっと故郷にかえる事ができたのです。
そうすると、善さん・山上さんは6年間、五十子にいたことになります
以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、
それ以来、曾祖父の信濃守成繁、祖父左衛門佐景繁、父信濃守泰繁まで三代は、恙無く同心仕り来候うところ
三代の間はけっこう長いですよ
由良さんが五十子の陣から還ったのが文明元年(1469)、善さん山上さんが大変お世話になったのはもう少し前の話ですね
今・永禄10年(1567)に、この草案は書かれていますから、まあ百年前の話ということになります
善さん山上さんは、由良さんのおかげで善・山上に帰れました。
以来、信濃守成繁・左衛門佐景繁・信濃守泰盛三代の間は由良さんに同心してきました。
ところがです
(つづく)
初出 2019.06.01 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考
改稿 2024.06.19
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