黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

奥州紀行総集編 20 ・芭蕉の辻(津軽への道)

2020-04-12 21:34:55 | 奥州紀行

今日、七海ママの昼散歩には、小次郎パパが付き合いました。

一足先に出たひめちゃんと獅子丸が帰ってきます。

耳はパパの耳です。

ひめちゃんは、しっかりパパを見ています。

獅子丸は見ていません。

 

更に近づいて、ひめちゃんはパパにハイタッチでもしそうです。

獅子丸は、パパと目を合わせず、知らんぷりです

パパと息子は、微妙な関係です。

 

 

 

(2018年6月22日)

晩翠草堂を出て、待ち合わせの場所に向かいます。

青葉通りから脇に一本入ったアーケード街を行けばよさそうです。

アーケード街の手前に道標があります。

江戸六十九次、日本橋迄九十三里

 

江戸まで69の宿場があって、五街道の始点・日本橋まで93里ということです。

東海道が53次だから、江戸・京都間よりも多いんだあ

 

ところで奥州街道って、何処まで行くんだ?

反対側を見ると、

津軽まで四十五次、三厩まで百七里二十三丁

 

「三厩」って?

厩はうまや、さんうまや?みうまや?

「みんまや」だあ

みんまやは、本州北の外れ、竜飛岬の最寄り駅です。

奥州街道は、江戸から本州最北端、蝦夷地の直前まで行っていたのです

 

 

津軽と言えば、実家の近く大舘(おおたち、旧新田郡尾島町大舘)に、津軽の記憶が残ってます。

津軽藩は、上州に八ヶ村の飛び地を持っていました。

そしてその中心大舘に陣屋を置いて支配しました。

二代藩主津軽信枚の側室辰姫は大舘御前とよばれ、この陣屋で誕生した信義は三代津軽藩主になりました。

 

大舘にある東楊寺には、辰姫の墓があると言われています。

この宝篋印塔群の中の一基が辰姫の墓だそうです。

毎年夏の尾島ねぷたまつりは、こんな縁で行われるようになったということです。

辰姫は石田三成の娘だと言われています。

もとは正室だったけれども、家康の姪が正室としてやってきて、格下げになり、大舘に住まわされた。

でももともと夫婦仲は良く、信枚は参勤交代の行き帰りによく立ち寄ったということです。

 

大舘は奥州街道から外れています。

どこから大舘に行ったのでしょう?

大舘から江戸に行くには、利根川を渡れば、すぐ中仙道にでます。

 

 

道標の近くに、芭蕉の辻の説明板があります

ここは青葉城からの道と奥州街道の交差点でありとても賑わったところである。

とあります。

芭蕉については、いくつか説があるようです。

 

 

アーケード街を、待ち合わせ場所に向かって歩きました。

奥州街道を歩いたのです

 

お久しぶり

友人と一年ぶりに再会して、ランチを楽しみました

 

またの再会を約して、仙台駅に戻ります。

下りの「やまびことはやぶさ」です。

上りの「やまびこ」で帰ります。

仙台市民をしている頃は、まだ特急「ひばり」の時代でした。

この流線型に隔世の感を覚えます。

 

宇都宮から在来線を乗り継いで、帰宅します。

西桐生駅からは、紫陽花と犬のぬいぐるみが所狭しとぶら下がっているノスタルジックな電車でした

ちょうど下校の高校生が大勢乗っていたので、カメラを出しそびれてしまいました

 

第二の故郷があることは、幸せなことです

遅ればせながら、第二の故郷を持たせてくれた両親・ご先祖様に感謝です。

そして、お留守番のみんなにも感謝です。

ありがとう

 

 

( 奥州紀行総集編 終 )

 

 

追伸

2019年7月に仙台に3泊して、命の洗濯をしてきました

仙台・平泉の旅の記録は、カテゴリー「陸奥国」にあります

こちらもよろしくお願いします

 

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 奥州紀行総集編 19 「荒城の... | トップ | 白柴タバサちゃんのさくらだより »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

奥州紀行」カテゴリの最新記事