日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

思い出すこと。その2

2021-02-16 11:44:05 | 母のことなど
そうだね~、充分に生きたね~
そんな感慨を持ちながら振り返る。

長年の長男夫婦と同居の環境から、脳梗塞退院後に急遽、95歳で住む場所が変わった。
よく住環境の変化を受け入れられたものだと思う。大変なことだと思う。とYさん(弟の奥さん)感心する。
はじめて介護認定を受けて、週3日デイサービスに通いだした。

老後は長男夫婦に世話になると思っていたから、あなたたち(弟家庭)にはそんなに(経済的サポート)してこなかったのに、と言って、最初に〇百万円を受け取ってくれといったそうです。そうしない世話になるわけにはいかない、と。
長男宅は丁度母の退院時に合せて、リフォームをし始めて、母が〇百万円を出す予定として組み込まれていたらしい。
ところが、長男夫婦は母の介護を引き受けるつもりはなくて施設入所の段取りとなっていることがわかり、急遽、退院先が弟宅になったという顛末でした。
着工済みなのだからと、住まない家のリフォーム代金〇百万円を母は渡しました。
外にも、全部で3分の1ほどの預金が長男にわたりました。
その時の長男夫婦のドライな対応に、ビックリもし、かつドタバタもしました。
半身不随の後遺症を抱えて退院したばかりの母を思いやるどころが、母から金品をむしり取るようにさえ思えました。
母も母なりに思うところいっぱいあったでしょうが、全部見事なまでに自分の中で消化して、愚痴として出てくるものは有りませんでした。半身不随にはなったけれど、思考力は衰えていないのですから。

ただ、口にしたのは、
「退院するときに、お世話になったお医者さんやリハビリの先生に『ありがとう』を言ってほしかったのに、それどころか『病院は患者が退院すればそれで終わりだけれど、家族はこれからが大変なんです』とお医者さんに母親を引き受けることの愚痴を言うばかりだった。我が子ながら、お世話になりありがとうございましたが言えないとは、情けない」とそれを何度も言っていました。

先日、お骨になった母と弟宅に帰り、母の小さな書棚の上に『〇〇先生ありがとう 〇〇〇〇子(母の名) 8月29日」と書いた紙きれを見つけました。右手麻痺だから、左手で綴ったのか、まったくのミミズ文字です。Yさん(彼女も同じ名字で学校の先生だった)にたいする感謝かな、と思って、Yさんに話題にすると「入院していた時のリハビリの先生に宛てたものだよ」と。

病院生活では感謝でいっぱいだったのに、その時の忸怩たる気持ち、母はさぞ悲しかっただろうと思います。

そして、〇百万円を渡すことになったことについては、「ちっとも、もったいなくはない。だって、自分の子供に渡るだけなのだから。子どもは、いくつになってもかわいいから」と。
まったく母(の情)は強し、です。

こんないきさつで、母の金融資産はグンと減ったのですが、弟宅で世話になるにあたって、弟宅に生活費〇万円、介護で世話をしてもらう分として、弟に〇〇万円を毎月支払うと決めます。
受取ってもらわないと、私が心安らかにこちらで世話になれない、と。
母の理屈です。
Yさんは、「お母さんって、口癖がありがとうの人で、ちょっとのことにも、いつもありがとうって口からでる」と。
晩年になって、近頃ありがとうの数が減った、と聞いて、「きっと、ひとつひとつが精いっぱいで、ありがとうを口にする余裕がなくなったのだと思う」なんて会話していました。

そうやって
8年と5か月暮らしました。

で、資金も残りお葬式代+α になりかけた時、母は最期を迎えました。

すごいな~と思いました。
貯めるのは、節約すればできます。
使うには、意思が必要です。
孫の結婚祝い、ひ孫の誕生など、喜んでお祝い金を出します。

かつて、母からきいた言葉に、こんなのがあります。

「世の中、タライの水だよ。自分のところにかき集めようとすると、水は逃げていく。周りに押し広げようとすると戻ってくる。そういうものだ」と。

母を見舞う時に、毎度ちょっとまとまったお小遣いを持参しました。母はそれをありがたく受け取ってくれて、弟に預け、弟はYさんに預ける。気持ちのいい循環になっていました(笑)。その時の母は、私の手渡すそのお金そのものを嬉しいだけでなく、私がお小遣いを持ってこようとする娘になっていることを喜んでくれていると思い、私からは、幸せに暮らしているよ、のシグナルにもなっている。
もし私が苦しかったら、絶対に受取ろうとしないだろうから。

自分の成長過程で、母にいっぱいいっぱい助けてもらっているから、もしSOS状態になったら、助っ人する気持ちもありました。実際はありがたいことに施設入所費用は足りる程度の年金はあったのですけどね。
現実は、そうすることもなく、ちょうど、本当にちょうどのところで、母は最期を迎えました。


周りの人に十分に支えられての最期だったのは、タライの水を外に広げようとした生き方をしてきた母の功績かもしれません。









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