日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

思い出すこと。

2021-02-13 07:32:58 | 母のことなど
自分で思い出すことをバラバラと書き留めておこうと思います。
個人的なことですから、スルーしてください。

先月母は104歳で逝った。
大みそかの深夜に発熱があるということでねショートステイ先から救急車で病院に運ばれ、病院に到着しても入院に落ち着いたのは3時か4時ころだったと、弟夫婦が言っていました。病院で再度検温したときは熱は下がっていたけれど、昨今の事情できっとコロナのPCR検査もしていたのでしょう。
深夜に二人して駆け付けてくれるなんて、ありがたい。

足指の壊死もあってショートステイで受け入れるのが負担にもなっていたのだとも想像できる。

その病院で2週間いた頃、転院を提案された。治るための治療のしようがない(血管が極端に細く脆くなっている)ということもあり、療養型の病院を紹介される。しかしながらニュースにもなっている連日の大雪ということで転院は1週間延びる。

転院した先の療養型病院の院長面接が火曜日にあって、終末期を迎えていることが話題に出たと。1週間、長くて1か月、と。
この面接があった日の画像が届いていた。ピンクの院内着を着せられて、動画では何とか手を振って見せているっぽい。
母を真ん中に弟夫婦が映った写真に、母は幸せだな~、ありがたい、と思った。

その翌日、10時過ぎに、病院から呼び出しが来たので行ってきた、とメールが届いていた。
昨日から状態が急変したらしい。でも、入室時間は10分限定なので、今は自宅、と。

そのメールを読んだ後、私は庭仕事をしていた。
次に届いたメールを開いたら、再度病院から連絡があり、午後1時前に亡くなった、と知らせるものでした。

母は介護施設にも病院にも、介護してくれている弟夫婦にも、みんなに恵まれて去って行ったな、と思うに尽きます。

95歳で脳梗塞になったとき、もう治療はしないでいい、と意思表示もしたことがあります。
介護職の人の負担が大変なこともあり、昼夜紙おむつをしなくてはならなくなった時も、死にたいほど惨めだったのです。(弟嫁さんの話によると「殺してほしい」と連呼したらしく、暴言を吐く高齢者扱いになって、ショートステイから苦情があり、施設を変わったという経緯があったと聞きました)
それほどでも、自分からは命を絶つことはできません。

少しずつ、身体全体の老衰が進み、壊死が起こりだして終末を迎えました。
病が原因とならない命の終わりってこんなものなんだ、と思える最期でした。


私の年頃では、親が存命の人はあまり見かけない。
皆さんが経験している母親を亡くすこと、をようやく体験したんだな、と思っています。

ふと、最近気が付きました。
母は、私に、弟夫婦とこんなに親密な関係を味わせてくれる機会を作ってくれたんだ、と。
弟嫁さんのYさんは当然結婚した時から知っています。だけれど、我が家が実家から遠方に住んでいて、帰省が年2回程度だったので、その際に合流してたくさんの人と一緒に会食する程度でした。
弟よりも若いし、当然私とは年も違うし、日常会話の域を出ませんでした。
それが、弟宅で母の介護を引き受けることになって、状況は一変。
彼女のこういった言葉は今も、脳裏に残っています。
「お母さんがこの家(弟宅)にいることになったのだから、これからは、ここがK子(わたし)さんの実家だと思っていつでも来てね」と。

95歳の半身不随の姑を受け入れるにあたって、不満や不安もあるだろうに、こんな言葉が出る? 
凄い人だと思いました。
そう、最初に泊まることになったときから(弟宅には)私用の寝具を用意してあります。
母とも語りましたが、こんな縁から、彼女とも語る時間を持つようになりました。
















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