火曜日の夜に帰宅したのだけれど、そのあとも疲れが残ってヘトヘト状態。我ながら情けないけど現実。
(昨日は仕事から帰宅後の鉢花への水やりもパスした)
今朝はもう復調、ということにします。⇒いつまでもダラダラしている自分はイヤダし。
とにかく長旅でした。
朝7時にバスで出発して、一路広島の呉に向かいました。ただし途中トイレ休憩と昼食休憩はありました。
この旅行を機会に地図を検索したりして、呉は海軍兵学校のあった江田島と近いんだ、と認識。
「呉市海事資料館」の建物には「大和ミュージアム」とも表示してあって、博物館だからミュージアムで間違いないのだろうけれど、ちょっと違和感を感じた部分があります。
戦争で勝つためには飛距離の長い砲弾射撃が必要で、そのためには大きな軍艦が必須という日露戦争のときの意識に引きずられていた部分があって、飛行機による空からの攻撃には弱い「巨大戦艦」を作ることにまい進していた日本の軍部の認識を思い出しながら見学しました。戦艦大和は戦艦武蔵と姉妹艦と呼ばれているそうで、製造されたのも前後しています。武蔵の製造される時代を書いた作品、吉村昭著「戦艦武蔵」を読んだ記憶を思い出しながらの視察でした。
広島市内のホテル泊。夕食(宴会)後に、お好み焼き街に向かう。
10年以上前に子供たちを連れて広島に来た時に入ったお好み焼き屋さんがたくさん入ったビル(ヒロシマの風物詩のような記憶)を初ヒロシマの皆さんに体験してもらいたくって、、、。おせっかいでしょ、ワタシ。
食事後なので、たくさんは食べられないのだけれど、5人で2人前+飲み物。一緒に入った男性陣4人は各自1人前+飲み物を注文。
男性陣の食べきれないのが、女性陣にまわってきて、どうにか食べきれました。残すと悪いですし、ね。
お好み焼きのビルにはたくさんのお好み焼き店が入っているのですが、外国人(白人)のグループが多く見受けられました。皆さん「原爆被災地のヒロシマ」を旅の目的にしていらっしゃるのでしょう。たくさんの方にヒロシマ訪問してもらいたいものです。
翌日は宮島へ。
以前行ったときは、干潮で厳島神社の赤い鳥居まで歩いて行けたのですが、今回は海の中、でした。
たまたま神社に隣接した大願寺のご本尊の御開帳の日とかで、参拝客も多めだったのでしょうか。伊藤博文公のお手植えの松や、勝海舟と木戸孝允との会談の間と紹介されていた部屋をみたり、ガイドさんつきだからこそメリットでした。
午後からは、広島平和祈念資料館の視察。
以前の時は「祈念」であり、「記念」ではないと案内された記憶があるのだけれど、今回はすっかり「記念館」になっていました。
ボランティアガイドさんの案内で公園のなか、記念館の中の資料を説明を受けながら回りました。
ガイドさんが78歳とかで、一生懸命案内してくださるのですが、歩き方からさっすると痛む足をかまんしていらっしゃるようで、なんとも、、、。
広島郊外のホテル泊。
翌日は「長島愛生園歴史館」へ。
建物の表札を目にしたとき、身体にビビッと緊張が走りました。実は、初めて広島の資料館に入った時も、目の前の資料に鳥肌が立った体験をしています。
今は、この国立療養所長島愛生園にはハンセン病の患者はいません。現在の入所者148名とのこと。平均年齢86歳。
みなさんハンセン病は完治しているのです。だけど、ハンセン病にかかったことからの後遺症が残っている、方々です。
「みなさん、インフルエンザにかかって、治ってしまった方をいつまでもインフルエンザ患者とは言わないでしょう。それと同じように考えていただければ。ここで生活していらっしゃる方々は現在はハンセン病患者ではないのです」
たくさんの見学者を受け入れていらっしゃるだろうから、説明も歯切れよく、ハンセン病の歴史や現状を説明してもらえました。
ちなみに「離れ小島」だった長島に橋が架かっていたのですね、と投げかけたら、架橋の願いが17年間かかってようやく完成したのだと。
患者たちの小学校、中学校もあったとのこと。それほど若い時代からここでの生活をしている方が、今80代になっているというわけです。
治療薬が見つかったことが、何よりの幸い。
島で暮らすしかった人たちの苦渋は言葉にはなりません。
施設を後にして、一路帰路へ。
これまだ長時間。
バスガイドさんの話題が秀逸で、私には楽しい車中でした。
すごい博識で芸達者なんです。
神話の話から、福島正則関連、黒田官兵衛、長政の話。毛利親子、菊川、小早川の話などなど。年代や高さ、幅、人数、といった数字も入った説明に説得力アリアリ。祝詞をそらんじたり、歌舞伎の長台詞をそらんじたり。面白おかしく話題提供なさるプロ魂に圧倒されました。
(昨日は仕事から帰宅後の鉢花への水やりもパスした)
今朝はもう復調、ということにします。⇒いつまでもダラダラしている自分はイヤダし。
とにかく長旅でした。
朝7時にバスで出発して、一路広島の呉に向かいました。ただし途中トイレ休憩と昼食休憩はありました。
この旅行を機会に地図を検索したりして、呉は海軍兵学校のあった江田島と近いんだ、と認識。
「呉市海事資料館」の建物には「大和ミュージアム」とも表示してあって、博物館だからミュージアムで間違いないのだろうけれど、ちょっと違和感を感じた部分があります。
戦争で勝つためには飛距離の長い砲弾射撃が必要で、そのためには大きな軍艦が必須という日露戦争のときの意識に引きずられていた部分があって、飛行機による空からの攻撃には弱い「巨大戦艦」を作ることにまい進していた日本の軍部の認識を思い出しながら見学しました。戦艦大和は戦艦武蔵と姉妹艦と呼ばれているそうで、製造されたのも前後しています。武蔵の製造される時代を書いた作品、吉村昭著「戦艦武蔵」を読んだ記憶を思い出しながらの視察でした。
広島市内のホテル泊。夕食(宴会)後に、お好み焼き街に向かう。
10年以上前に子供たちを連れて広島に来た時に入ったお好み焼き屋さんがたくさん入ったビル(ヒロシマの風物詩のような記憶)を初ヒロシマの皆さんに体験してもらいたくって、、、。おせっかいでしょ、ワタシ。
食事後なので、たくさんは食べられないのだけれど、5人で2人前+飲み物。一緒に入った男性陣4人は各自1人前+飲み物を注文。
男性陣の食べきれないのが、女性陣にまわってきて、どうにか食べきれました。残すと悪いですし、ね。
お好み焼きのビルにはたくさんのお好み焼き店が入っているのですが、外国人(白人)のグループが多く見受けられました。皆さん「原爆被災地のヒロシマ」を旅の目的にしていらっしゃるのでしょう。たくさんの方にヒロシマ訪問してもらいたいものです。
翌日は宮島へ。
以前行ったときは、干潮で厳島神社の赤い鳥居まで歩いて行けたのですが、今回は海の中、でした。
たまたま神社に隣接した大願寺のご本尊の御開帳の日とかで、参拝客も多めだったのでしょうか。伊藤博文公のお手植えの松や、勝海舟と木戸孝允との会談の間と紹介されていた部屋をみたり、ガイドさんつきだからこそメリットでした。
午後からは、広島平和祈念資料館の視察。
以前の時は「祈念」であり、「記念」ではないと案内された記憶があるのだけれど、今回はすっかり「記念館」になっていました。
ボランティアガイドさんの案内で公園のなか、記念館の中の資料を説明を受けながら回りました。
ガイドさんが78歳とかで、一生懸命案内してくださるのですが、歩き方からさっすると痛む足をかまんしていらっしゃるようで、なんとも、、、。
広島郊外のホテル泊。
翌日は「長島愛生園歴史館」へ。
建物の表札を目にしたとき、身体にビビッと緊張が走りました。実は、初めて広島の資料館に入った時も、目の前の資料に鳥肌が立った体験をしています。
今は、この国立療養所長島愛生園にはハンセン病の患者はいません。現在の入所者148名とのこと。平均年齢86歳。
みなさんハンセン病は完治しているのです。だけど、ハンセン病にかかったことからの後遺症が残っている、方々です。
「みなさん、インフルエンザにかかって、治ってしまった方をいつまでもインフルエンザ患者とは言わないでしょう。それと同じように考えていただければ。ここで生活していらっしゃる方々は現在はハンセン病患者ではないのです」
たくさんの見学者を受け入れていらっしゃるだろうから、説明も歯切れよく、ハンセン病の歴史や現状を説明してもらえました。
ちなみに「離れ小島」だった長島に橋が架かっていたのですね、と投げかけたら、架橋の願いが17年間かかってようやく完成したのだと。
患者たちの小学校、中学校もあったとのこと。それほど若い時代からここでの生活をしている方が、今80代になっているというわけです。
治療薬が見つかったことが、何よりの幸い。
島で暮らすしかった人たちの苦渋は言葉にはなりません。
施設を後にして、一路帰路へ。
これまだ長時間。
バスガイドさんの話題が秀逸で、私には楽しい車中でした。
すごい博識で芸達者なんです。
神話の話から、福島正則関連、黒田官兵衛、長政の話。毛利親子、菊川、小早川の話などなど。年代や高さ、幅、人数、といった数字も入った説明に説得力アリアリ。祝詞をそらんじたり、歌舞伎の長台詞をそらんじたり。面白おかしく話題提供なさるプロ魂に圧倒されました。