3月16日(日)
Ahahahahahahaha!
テレビの画面に大きく出ていた。何で、あの出演者達はあんなに大きな声で笑えるんだろう?
いや、可成りの大人だって、辺り構わずに笑ったりしゃべっているのを見掛ける。
私には出来ない。
「何故だろうね?」と姉。
「それは、こちら側にも理由ありよ」と私。
つまり、我が家の教育方針だ。
「お口をつむんで」が母の言葉。
だから、子供の頃の写真は確りと口を結んでいて、大人になってから見られる様な笑い顔は見当たらない。
家庭内でも、余りおしゃべりをする事は無かった。勿論、大きな声ではなかった。
それでも、弟は賑やかだったなぁ!
姉に言わせると、姉達には母が厳しく接し、体の弱かった私や末っ子の弟には甘かったそうだ。
それに、上の二人の兄達に対しては教育熱心で内地の学校へ進学させた。
母の願いは、どんなに大変でも、子供全員の教育が一番大切な財産だったのである。
兎に角、真面目な家庭だった。
母は、学校へ参観に行くのも、地味な和服だった。
センスが良くて未だ若いのに、何故、地味なキモノなのか分からない私は、参観日前夜になると、母のキモノの中から自分が気に入っているものを選んで、それを着て行くようにとねだったものだ。
今だったら、シックな母の好みや考えが理解出来ただろうと思うのだが。
時々、自分の体つきを見て、多分、私は一番、母の体格に似ているのでは無いかと思うことがよくある。
決して、体が丈夫では無かった様だが、ひどい病気はしていなかったと思う。
もしかして我慢をしていたのかな?
父がひどい病気になった事があるし、兎に角、あらゆる病気をしたと言われる私がいたから、大変だっただろう。
万一の場合は、細い体で生活力を発揮した強い母だった。
戦後、引き揚げてからも、母の見えない活躍は凄かったと、今にして思う。
殆ど荷物を持たずに引き揚げて来たのだから、リュックサックに詰め込んだキモノ地も、何時の間にか食べ物に変わっていた。
「私のキモノはどうしたの?」「ゴメンネ!そのうちに買って上げる」と母は答えた。(結局、買っては貰えなかったけれど…)
食料や物資が不足している時代で物々交換が主流の時代だった。その様な時に、弟と私を米原から彦根まで汽車通学をさせた事も大変だったと思う。
サツマイモのつるが混ざった御飯を弁当に持って行った弟が、誰かに盗まれて、べそをかきながら帰宅した時には、とても可哀想で、あの一里近い道を空腹で歩いた姿が思い出される
「あんな御飯でも食べたのね」と、母は驚いていたけれど、本人にしてみれば悲壮そのものである。
村の中で、彦根まで汽車通学する子供は3人ぐらいしかいなかった。
しかし、私は相変わらず勝手で、他の友達が絶対に買えない少女雑誌まで毎月予約購読していた。
家の経済の事情等考えもしない(今にして、やっと気が付く)うかつさだったのである。
最近のドラマで戦後の暮らしぶりを見る度に、当時の私っていい気なものだったんだなと、思う。
お父さん、お母さん有難う!
二人共、長生きをした。先日の法事の際に、墓参りをして来た。今は霊南坂の墓地に祭られている。
思えば、我がままな私は、両親に色々と苦労と心配をかけたのだ。
ところで……
Ahahahahahahaha!と、
人中で派手な声で笑ったり、感情を表現出来ないでいる自分は、やはり、愛嬌の無い人間と見られても、それで構わないと思い始めている。
今更、もう、直らないものだからだ。
* 覚えていますか?お父さんとお母さんの『大森夏みかん』
Ahahahahahahaha!
テレビの画面に大きく出ていた。何で、あの出演者達はあんなに大きな声で笑えるんだろう?
いや、可成りの大人だって、辺り構わずに笑ったりしゃべっているのを見掛ける。
私には出来ない。
「何故だろうね?」と姉。
「それは、こちら側にも理由ありよ」と私。
つまり、我が家の教育方針だ。
「お口をつむんで」が母の言葉。
だから、子供の頃の写真は確りと口を結んでいて、大人になってから見られる様な笑い顔は見当たらない。
家庭内でも、余りおしゃべりをする事は無かった。勿論、大きな声ではなかった。
それでも、弟は賑やかだったなぁ!
姉に言わせると、姉達には母が厳しく接し、体の弱かった私や末っ子の弟には甘かったそうだ。
それに、上の二人の兄達に対しては教育熱心で内地の学校へ進学させた。
母の願いは、どんなに大変でも、子供全員の教育が一番大切な財産だったのである。
兎に角、真面目な家庭だった。
母は、学校へ参観に行くのも、地味な和服だった。
センスが良くて未だ若いのに、何故、地味なキモノなのか分からない私は、参観日前夜になると、母のキモノの中から自分が気に入っているものを選んで、それを着て行くようにとねだったものだ。
今だったら、シックな母の好みや考えが理解出来ただろうと思うのだが。
時々、自分の体つきを見て、多分、私は一番、母の体格に似ているのでは無いかと思うことがよくある。
決して、体が丈夫では無かった様だが、ひどい病気はしていなかったと思う。
もしかして我慢をしていたのかな?
父がひどい病気になった事があるし、兎に角、あらゆる病気をしたと言われる私がいたから、大変だっただろう。
万一の場合は、細い体で生活力を発揮した強い母だった。
戦後、引き揚げてからも、母の見えない活躍は凄かったと、今にして思う。
殆ど荷物を持たずに引き揚げて来たのだから、リュックサックに詰め込んだキモノ地も、何時の間にか食べ物に変わっていた。
「私のキモノはどうしたの?」「ゴメンネ!そのうちに買って上げる」と母は答えた。(結局、買っては貰えなかったけれど…)
食料や物資が不足している時代で物々交換が主流の時代だった。その様な時に、弟と私を米原から彦根まで汽車通学をさせた事も大変だったと思う。
サツマイモのつるが混ざった御飯を弁当に持って行った弟が、誰かに盗まれて、べそをかきながら帰宅した時には、とても可哀想で、あの一里近い道を空腹で歩いた姿が思い出される
「あんな御飯でも食べたのね」と、母は驚いていたけれど、本人にしてみれば悲壮そのものである。
村の中で、彦根まで汽車通学する子供は3人ぐらいしかいなかった。
しかし、私は相変わらず勝手で、他の友達が絶対に買えない少女雑誌まで毎月予約購読していた。
家の経済の事情等考えもしない(今にして、やっと気が付く)うかつさだったのである。
最近のドラマで戦後の暮らしぶりを見る度に、当時の私っていい気なものだったんだなと、思う。
お父さん、お母さん有難う!
二人共、長生きをした。先日の法事の際に、墓参りをして来た。今は霊南坂の墓地に祭られている。
思えば、我がままな私は、両親に色々と苦労と心配をかけたのだ。
ところで……
Ahahahahahahaha!と、
人中で派手な声で笑ったり、感情を表現出来ないでいる自分は、やはり、愛嬌の無い人間と見られても、それで構わないと思い始めている。
今更、もう、直らないものだからだ。
* 覚えていますか?お父さんとお母さんの『大森夏みかん』