ブログに自分の胸の内にまつわるディープでヘヴィーなことは原則書かないつもりでいたけれど。今日は例外、と前置き。
つくづく己の存在や行いの駄目さに苦悶するとき、人の妻であることが耐えがたい重荷、傷を押し広げる刃となる。
もちろん母であることや娘であることもまた然りだが、妻であること、それなりに社会的地位ある者、傍目には立派と言われる者の妻であることが、激しい苦しみになる。
あんな立派な人の奥さんがあんな変なひとなのか、ご主人は立派なのにねぇ、声なき声が私を侮辱し苦しめる。いや、あるときある人からは半ばそういうことを面と向かって言われたのだ。
夫・パパガスは。
外にあれば、かつて優等生、今は新進気鋭の学者先生、教会にあっても何かと有望で頼もしい男性信徒。(教会はやはり保守的な世界なので、男の信徒はやはり幹部候補?的な意味でありがたがられる。ちなみに日本のキリスト教徒は女性が多いのだが、だから尚更…。)
しかし、家にあれば当然ながら弱さも欠点も人並みに、人並み以上に持ち合わせた「欠け多き土の器」ではないか。私が人格不円満・低劣なのは認めるとして、彼とて外の顔とは異なる、当たり前の、凸凹だらけのただの人だ。
それなのに人はそんなことは知らず、うわべで外面で評価する。ただでさえダメな私は比較を恐れ、また内実とのギャップに苛立ち、怒りを感じることも少なくはない。
しかし、土の器の欠けと凹凸を、彼は隠してるのではないし、また気付く人もいる。だからというか、彼を変人、変わり者と見る人もある。頭はいいけどね、頭がよくてもね、という声もある。
しかしそれを聞いた私が「そのとーり!ざまーみろ!」と手を打つわけでもない。聞けば面白くはない。これまた一面だけを見て人を評価しているからか…。
ともあれ、そういうことから、例えば我ら一家の教籍がある母教会には、私・桜泉は行きにくい。他の理由から隔てを感じた時期もあるが、今の一番の理由は「パパガスの奥さん」として見られ振る舞わねばならないことだ…。
ダメな、欠けどころか、はなから出来損ないの歪な土の器・桜泉を、桜泉個人としてあるがままに見てもらい、私もあるがままに何も取り繕わず構えずに振る舞えるとは、自分が思えないからだ。
また、パパガスが、優等生よ立派よと、あんな奥さんがいながらエライと、うわべで過大評価されたり、都合良いやつとして利用されることも、頭はいいが変わり者よ、と笑われることもなく、あるがままに見て、褒めも貶しもしない人や場があったら…どれだけいいだろう、そんなことを夢想する。
私も彼もずいぶん楽に、そう、重荷がなくなるんじゃないか…。
誰それの何々として、恥なきよう振る舞わねば!
その声なき命令は実際には何が由来か分からないが、とにかく昔から私を縛る縄目、我が我を閉じ込める「悪魔の獄」なのだと感じている。知っている。
しかし全く抜け出すことの難しいそれである。
ただ私を見てそしられ貶められるなら、まだ耐えもしよう。自業自得なのだし。
しかし比較されるのはやはりつらく、またわが恥の類が人に及ぶかもとあっては、身がすくむ…。
自由とは、なかなか遠いもの。
そういえば私の前で、パパガスを褒めも貶しもせず、彼をあるがままに認めている人も…一人くらいはいたなぁ、今そんなことも思う。
それは私・桜泉を僅かに安らがせてくれるが、それでも「でも私は誰に、どこで、ありのままに見られ、ありのままでいられるだろう?」「私のような者は只一人でいるべき、ではなかったのか?」その悩みの只中に立つしかないようだ。
※とんだ、結婚記念日の、述懐となった。記念日はめでたいめでたいと浮かれるためだけのものではないが。内省の日でもあっていいはずだが。
つくづく己の存在や行いの駄目さに苦悶するとき、人の妻であることが耐えがたい重荷、傷を押し広げる刃となる。
もちろん母であることや娘であることもまた然りだが、妻であること、それなりに社会的地位ある者、傍目には立派と言われる者の妻であることが、激しい苦しみになる。
あんな立派な人の奥さんがあんな変なひとなのか、ご主人は立派なのにねぇ、声なき声が私を侮辱し苦しめる。いや、あるときある人からは半ばそういうことを面と向かって言われたのだ。
夫・パパガスは。
外にあれば、かつて優等生、今は新進気鋭の学者先生、教会にあっても何かと有望で頼もしい男性信徒。(教会はやはり保守的な世界なので、男の信徒はやはり幹部候補?的な意味でありがたがられる。ちなみに日本のキリスト教徒は女性が多いのだが、だから尚更…。)
しかし、家にあれば当然ながら弱さも欠点も人並みに、人並み以上に持ち合わせた「欠け多き土の器」ではないか。私が人格不円満・低劣なのは認めるとして、彼とて外の顔とは異なる、当たり前の、凸凹だらけのただの人だ。
それなのに人はそんなことは知らず、うわべで外面で評価する。ただでさえダメな私は比較を恐れ、また内実とのギャップに苛立ち、怒りを感じることも少なくはない。
しかし、土の器の欠けと凹凸を、彼は隠してるのではないし、また気付く人もいる。だからというか、彼を変人、変わり者と見る人もある。頭はいいけどね、頭がよくてもね、という声もある。
しかしそれを聞いた私が「そのとーり!ざまーみろ!」と手を打つわけでもない。聞けば面白くはない。これまた一面だけを見て人を評価しているからか…。
ともあれ、そういうことから、例えば我ら一家の教籍がある母教会には、私・桜泉は行きにくい。他の理由から隔てを感じた時期もあるが、今の一番の理由は「パパガスの奥さん」として見られ振る舞わねばならないことだ…。
ダメな、欠けどころか、はなから出来損ないの歪な土の器・桜泉を、桜泉個人としてあるがままに見てもらい、私もあるがままに何も取り繕わず構えずに振る舞えるとは、自分が思えないからだ。
また、パパガスが、優等生よ立派よと、あんな奥さんがいながらエライと、うわべで過大評価されたり、都合良いやつとして利用されることも、頭はいいが変わり者よ、と笑われることもなく、あるがままに見て、褒めも貶しもしない人や場があったら…どれだけいいだろう、そんなことを夢想する。
私も彼もずいぶん楽に、そう、重荷がなくなるんじゃないか…。
誰それの何々として、恥なきよう振る舞わねば!
その声なき命令は実際には何が由来か分からないが、とにかく昔から私を縛る縄目、我が我を閉じ込める「悪魔の獄」なのだと感じている。知っている。
しかし全く抜け出すことの難しいそれである。
ただ私を見てそしられ貶められるなら、まだ耐えもしよう。自業自得なのだし。
しかし比較されるのはやはりつらく、またわが恥の類が人に及ぶかもとあっては、身がすくむ…。
自由とは、なかなか遠いもの。
そういえば私の前で、パパガスを褒めも貶しもせず、彼をあるがままに認めている人も…一人くらいはいたなぁ、今そんなことも思う。
それは私・桜泉を僅かに安らがせてくれるが、それでも「でも私は誰に、どこで、ありのままに見られ、ありのままでいられるだろう?」「私のような者は只一人でいるべき、ではなかったのか?」その悩みの只中に立つしかないようだ。
※とんだ、結婚記念日の、述懐となった。記念日はめでたいめでたいと浮かれるためだけのものではないが。内省の日でもあっていいはずだが。
なんかそう思ったら、無性に故郷に、そして母教会に、帰りたくなった…。
いまここですぐに、帰るわけにもいかないんだけど…。
ふるさとはナントカにありてナントヤラ…。