笑うかどには福きたる

日常生活で見たこと、聞いたこと、感じたことを牧歌的にのんびりと書いています。

「M:i-III」 -孤高のスパイのお話

2006年07月30日 00時28分15秒 | 映画
昨日、
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「ハリウッドにジェームス・ボンドキャラはありえないのだ~」としみじみ思ったしだいです(笑) ハリウッドに孤高のスパイはありえないのか。と。。。
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と書いた後、ふと「スパイゲーム」とういう映画を思い出しました。
R・レットフォード、B・ピット主演の作品! というミーハー気分のみで観たスパイ映画でした(笑)
この中でレッドフォードが演じた人物が、まさに私が言うところの「孤高のスパイ」、ジェームズ・ボンドばりのキャラだった気がします。
今思い返せば、この作品には古い時代のスパイと新しい時代のスパイが描かれていたように思うのです。

レッドフォードが演じたスパイ、ミュアーは、自分の所属している組織と任務を信じ遂行します。組織や任務は彼にとっての真実であり、人生の伴侶なわけです。
ブラピが演じたスパイ、ビショップは、組織にも任務にも常に懐疑的。なぜならビショップにとっての真実は自分の中の常識や正義だから。
二人の衝突は常にこの一点なのですね。 どちらが新しい時代のスパイかは一目瞭然です。

そして、そんなビショップが真実の望めない状況の中で、別なものにそれを求め、人生の伴侶としようとするのは、人間としてごく自然のこととして今の私たちにも理解できるのです。ただしビショップが見つけた真実には当然リスクも伴います。 彼が見つけた真実…一人の女性への愛に彼は自分の命を危険にさらしてしまうのですから。
結局ミュアーは彼の人生で最も愛してきた伴侶、「組織」に別れを告げ、初めて「自分の任務」を遂行するわけです。こういう展開が「スパイ映画」にあること自体、組織+スパイ→敵という、古典的(というか牧歌的)スパイ映画の時代は終わっていたんでしょうね~。
 
「M:i」が公開された時、「ジム・フェルプスが仲間を裏切るなんて!」と大騒ぎになったけれど、今のスパイ映画は、組織←スパイ→敵(かどうかも分からない)になり、スパイ個人の人間的なキャラが強く求められ、結局こういう流れが、イーサン・ハントハッピーウェディングな「M:i-III」になったのでしょうね。。。スパイ映画的エッセンスを持った、アクション映画。
今の時代、スパイ自身が「スパイ映画」のひとつのツール、では完全になくなったということなのでしょう。

「スパイゲーム」のトレイラーはこちらから

「M:i-III」ネタはしつこく次回も続きます(笑)
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