一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
我をなくす
意外に思うかもしれませんが、今までの人生で悟ったと思う瞬間は苦しんで苦しみぬいてようやく終えた修行よりも、自分自身の中で「もういいや」とこだわりがなくなった時でした。
学生時代にどうしても越えられない自分自身の精神の壁をうちやぶろうと、厳しい滝行に挑んだことがあります。この自分を越えられなければ辞めないつもりでした。一日に何度も滝に打たれて、一週間くらい過ぎた頃でしょうか。なんだか自分が変わってきたのに気付きました。壁を超えたという感覚ではなく、いったい自分は何に悩み、何にこだわっていたのかが思い浮かばなくなったのです。結局、当初の壁を超えることはできずじまいのまま、もうこのへんでいいかなと思って帰ってきました。数日後、お世話になっている信仰の先生にお会いしたら、「あれ、あなたの映っているこの写真。まったく顔に我がなくなっているね」といわれました。その写真は滝行でお世話になったお寺のご家族と一緒に帰る前に移した写真でした。
他にもどうしても学生時代に信仰の限界を感じていたときのことです。それは私の中の理想と現実のギャップみたいなもので、いろいろな思いに際悩まされる自分が本当にいやになっていた時期でした。縁あって出雲大社にお参りをさしてもらった時のこと。自分の喜びよりも他人の喜びを喜ぶ方がなんだか、ほんわかと温かくなるのに気付きました。自分のことばかり考えていても、仕方ないかと思えた瞬間でした。帰ってきてから、お世話になっていた別の方に「なんだか顔が明るくなったね。何か悟ったんじゃない」といわれました。自分としては大したことでもなかったのです。ただ人を笑顔にさせるのは楽しいなと思っただけなので、自分が強くなったわけではなかったので。
思い返せば、今までの人生、本当に楽しいと思えた瞬間はそんな自分に素でなれた時だったのかもしれません。兄弟にも妻にも友人にもいつも修行のことばかりと言われることが多かった私ですが、こうしてまともに生活できているのも、本当に欲しいのは強靭な精神力をもった超人のような自分ではないことを知っているからかも・・。周遊魚のように動いていないと死んでしまうような行人である自分ですが、いつかそんな自分の我をなくすことできたらありがたいおじいちゃんになれるかもしれません。
学生時代にどうしても越えられない自分自身の精神の壁をうちやぶろうと、厳しい滝行に挑んだことがあります。この自分を越えられなければ辞めないつもりでした。一日に何度も滝に打たれて、一週間くらい過ぎた頃でしょうか。なんだか自分が変わってきたのに気付きました。壁を超えたという感覚ではなく、いったい自分は何に悩み、何にこだわっていたのかが思い浮かばなくなったのです。結局、当初の壁を超えることはできずじまいのまま、もうこのへんでいいかなと思って帰ってきました。数日後、お世話になっている信仰の先生にお会いしたら、「あれ、あなたの映っているこの写真。まったく顔に我がなくなっているね」といわれました。その写真は滝行でお世話になったお寺のご家族と一緒に帰る前に移した写真でした。
他にもどうしても学生時代に信仰の限界を感じていたときのことです。それは私の中の理想と現実のギャップみたいなもので、いろいろな思いに際悩まされる自分が本当にいやになっていた時期でした。縁あって出雲大社にお参りをさしてもらった時のこと。自分の喜びよりも他人の喜びを喜ぶ方がなんだか、ほんわかと温かくなるのに気付きました。自分のことばかり考えていても、仕方ないかと思えた瞬間でした。帰ってきてから、お世話になっていた別の方に「なんだか顔が明るくなったね。何か悟ったんじゃない」といわれました。自分としては大したことでもなかったのです。ただ人を笑顔にさせるのは楽しいなと思っただけなので、自分が強くなったわけではなかったので。
思い返せば、今までの人生、本当に楽しいと思えた瞬間はそんな自分に素でなれた時だったのかもしれません。兄弟にも妻にも友人にもいつも修行のことばかりと言われることが多かった私ですが、こうしてまともに生活できているのも、本当に欲しいのは強靭な精神力をもった超人のような自分ではないことを知っているからかも・・。周遊魚のように動いていないと死んでしまうような行人である自分ですが、いつかそんな自分の我をなくすことできたらありがたいおじいちゃんになれるかもしれません。
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