このコラムを読んでくれている友人からメールが届いた。メールの標題は「580円のおいしいファンタジー」。彼が最近読んだ文庫本の値段が580円、おいしいファンタジーとはこの本の内容を一言で表しているらしい。本のタイトルは「つむじ風食堂の夜」、作者は吉田篤弘という人である(ちくま文庫)。
私は、この本のことも、作者のことも知らなかった。友人のメールによると、架空の町にある架空の食堂に集う風変わりな常連客の物語らしい。友人の視点にはつねに敬意を表している私のこと、昨日書店に走り、件の本を手に入れた。
あっという間に読み終わりそうな厚さである。読み始めてみた。すぐに最後のページまで行ってしまいそうである。ただ、それが、何だか勿体無いような、そんな気持ちにさせる小説である。これは、ちょっと大切に読もうかな。
「食堂に集う風変わりな常連客」というテーマと聞いて、最近読んだ小説を思い出した。タイトルは「モンク」。作者は藤森益弘である。つむじ風食堂が心温まる場所であるのに対し、こちらの場所は熱い。京都、河原町の四条と三条の間、その路地にある小さなジャズバーが舞台である。東京の広告代理店で、クリエイティブ・プロデューサーをしている三枝という男がモンクを訪ねるシーンから始まる。京都、広告代理店、ジャズ…個人的には身につまされる設定である。
版元の文芸春秋社によると、「春の砦」でミドルエイジを泣かせた著者による第二作、というふれこみ。例によって、宣伝も兼ねて帯のコピーを紹介しておこう。『京都のジャズ・バー「モンク」に集まる人々の熱く響きあう人生を描く、本格ジャズ小説!』。
架空の町、月舟町の十字路の角にある「つむじ風食堂」。京都の裏路地にある「モンク」。これとはまるで異なるシチュエーションながら、人々が集い、そこに数え切れない物語が生まれるのが「ハリーズ・バー」だ。アリーゴ・チプリアーニ著、訳は安西水丸である(版元は㈱にじゅうに)。
ハリーズ・バー。もちろんヴェネツィアに実在するレストランバーの名前である。私が大好きな加藤和彦のアルバム「ヴェネツィア」にも、このバーのことが歌われている。ハリーズ・バーを語るのに最も適切な言葉は、エスクァイヤ誌の賛辞に表れる。『ハリーズ・バーには、地球上で起こるすべてのドラマがある』。
つむじ風食堂やモンクに比べると、ハリーズ・バーに登場する人びとは、エリザベス女王やヘミングウエイなど尋常ではない。とは言え、そこを訪れた人々の言葉が、バーのカウンターや椅子や床や、棚に並べられたボトルの一本一本にまでしみ込んでいる事に、変わりはない。人びとが集まるのは、その店に自分の言葉を預ける事ができるからだ。
昨年、十数年ぶりにヴェネツィアに行った。記憶をたどり、私にとってのハリーズ・バー、Vino Vino を訪れた。十数年前、私はこの地で写真家のデビット・ハミルトンと一週間の間、映像を撮影していた。ハミルトンに招かれて、ハリーズ・バーのオーナーが建てたホテル・チプリアーニの昼食会にも参加した。仕事はかなりハードだったが、夜には解放された。私はアシスタントの男と夜ごとバー・Vino Vino を訪れ、ヴェネツィア産のワイン、ピーノ・ビアンコを飲み干した。
Vino Vino は、フェニーチェ劇場のすぐ近くにある。フェニーチェ劇場は、ベルディの「椿姫」が初演された場所である。ハミルトンとの仕事のとき、私たちはそこでチレアの「アドリアーナ・ルクブルール」を見た。タイトル・ロールのソプラノはカバイバンスカだった。それから少し経って、この劇場は火事で焼失してしまった。
昨年訪れたヴェネツィアで、私たちは立派に再建されたフェニーチェ劇場に出会った。ディティールも以前のままである。これこそイタリア人の知恵と芸術性と前向きな精神の具現化。そういえば、フェニーチェとは、「不死鳥」という意味である。
(写真は、ヴェネツィア「VINO VINO」のショー・ウィンドウ)