疾風怒濤の80年代

日本中が熱い風に包まれていた1980年代
そのころの音楽・映画・テレビなどを語る30代のための
広場です!

凱旋門賞とテンポイント

2006年09月01日 23時53分44秒 | スポーツ
今度、日本競馬界 史上最強馬の呼び声も高い ディープインパクトが、
世界最高G1レース フランスの凱旋門賞に出走しますね。

しかもディープインパクトは今期の世界ランキング 同率1位として、
堂々の本命・対抗あたりの格で出場なのです。

あの皇帝シンボリルドルフでさえも6着だった凱旋門賞、初戴冠の期待がかかります。

しかし私は「凱旋門賞」というと、ある悲運の名馬を思い出さざるを得ません。

それが、流星の貴公子【テンポイント】です。

テンポイントは、「流星の貴公子」「奇跡の血」として知られています
祖母クモワカが伝染病の疑いで薬殺を命じられていながら、
それを不服とした馬主が彼女を隠し、10年にわたって裁判を起こし、最終的に勝訴したのです。
そして人間で言うと45歳ぐらいになったクモワカは、翌年生涯一頭だけ娘を産みました。
それがテンポイントの母 ワカクモでした。

その子供 テンポイントは、鼻筋に流星といわれる白い筋をもった、世にも美しい馬に成長しました。
当時関東馬に全く勝てなかった関西馬にあって、その新馬戦からぶっちぎりの勝利、3歳(今の2歳)G1 朝日杯3歳ステークスでぶっちぎりの優勝をして、関西テレビの実況アナ杉本清が「見てくれこの足、これが関西の関西のテンポイントだ!」と叫んだのは有名な話です。

その頃、関東には、名馬テスコボーイの最高傑作 「天馬」トウショウボーイが連勝街道を突き進んでいました。
その、宿命のライバルが初めてぶつかった皐月賞ではトウショウボーイが優勝。
ダービーは「この2頭に勝つのは犯罪だ」とまで言われるレースでしたが、
勝ったのは「犯罪皇帝」ことクライムカイザーでした。
また菊花賞は、その後TTGと並び称されるグリーングラスが勝ちました。

しかしその後、G1レースはこの2頭のうちのどちらかが勝ち続け、人気実力とも5歳には絶頂に達したのでした。

そして迎えた1977年の有馬記念 通常18頭立てで行われるこのレースは、
この年 投票がこの2頭に集中してしまったこともあり、たった8頭だてで行われました。

このレースはまたトウショウボーイの引退試合として設定され、ここで負けたら永遠に格下になるテンポイントと鞍上 鹿戸明が、とにかくトウショウボーイより先にと仕掛け、トウショウボーイと武邦彦もそれに答え、
近代競馬ではありえない、オールスター グランプリ競馬で、スタートから2頭で飛び出し、ゴールまで他の馬を全く寄せ付けない、2500メートル抜きつ抜かれつの一騎打ちとなったのです。

このレースを実況した杉本は「これは、これは大変なことになってきた。この2頭のマッチレースです、これは大変だ。」と実況も忘れて驚いたほどのレースでした。

結局このレースはテンポイントが指しきって、ようやくトウショウボーイに勝つという感動的なエンディングを迎えました。

私の記憶は馬番号3番を背負ったテンポイントの美しくも気高い姿と、それを見て感動の涙をながしていた父の背中です。

テンポイントはその後、国内で敵がいなくなり、凱旋門賞への出走が予定されました。「その前に地元のファンに勇士を見せたい」という思いから、
出なくてもいいG3の日経新春杯に出走することになったのです。
しかし強すぎるがゆえに、なんと67キロという、普通よりも15キロも重いハンデを背負わされて、小雪舞う京都競馬場のターフに出た彼は、その2分後 後ろ足を骨折して、競争を中止 2週間後薬殺処分となったのです。

寺山修二が彼のことを「明日朝が来たら」という美しい鎮魂歌を書いたのは有名ですね。

私はそのとき7歳。いまだその小雪舞う京都競馬場で、スローモーションのようにゆっくりと下がっていくテンポイントの憂いを含んだ瞳を覚えています。

私にとって【凱旋門賞】とは、そんな小雪の記憶と結びついた悲しい単語なのです。
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