大正8(1919)年春、木村又蔵は熊本市の歌舞伎座で催された柔拳興行を見物に出かけました。
柔拳興行とは、柔道や柔術とボクシングを戦わせる見世物です。
その日の熊本歌舞伎座は超満員で、初めて見る拳闘という西洋の格闘技に、われらが柔道(柔術)がいかに立ち向かうか、期待に胸を膨らませた観客が、試合開始を今か今かと待ちわびていました。
ところがいざ蓋を開けてみると、興行師が市内の道場をめぐって集めて来た柔道陣営の選手たちは、いずれもろくに組むこともできぬまま、ひらひら舞うように動くボクサーたちのパンチを喰らって、次々と倒されてしまいました。
次いで、興行は客席から腕に覚えのある参加者を募っての「飛び入り試合」に移りました。
まず名乗りを上げたのが、「鬼熊」の異名を持ち、過去に又蔵と市の力比べ大会で優勝を争い、惜しくも敗れたことのある元関取の大男でした。
鬼熊は顔面を血に染めながらも必死で粘ります。そして、今にも襲いかからんと身構える鬼熊に、ジョーというその白人ボクサーが後ろに下った時のことでした。
ここぞとばかり飛びかかった鬼熊の顎に、ジョーの強烈な一発が炸裂します。仰向けにのけ反って倒れた鬼熊は、審判が10カウントし終えても動くことができませんでした。
こうして鬼熊は、善戦むなしくKOされてしまったのです。
又蔵は、鬼熊を負かしたことから、「鬼熊食い」とも異称された男です。かつての好敵手の惨敗を目にして、もはや黙っていることができず、ジョーに戦いを挑みます。
しかし、他流試合は道場法度の筆頭事項です。師匠の矢野広次に知られることを恐れて、「井上大九郎」という変名を使っての出場でした。
ちなみに井上大九郎というのは、別所長治や羽柴秀長、加藤清正に仕えた織豊時代の武人の名です。
さて、又蔵とジョーの勝負です。ここで又蔵は、なかなかの頭脳プレイを見せます。
彼は仰向けに寝転がって、くの字に曲げて上げた足をジョーの方に向けたのです。ジョーは回り込んで頭部を攻撃しようとしましたが、又蔵は丸めた背中を軸にして先回りします。
この戦法、格闘技の歴史に詳しい人なら気がつくかもしれませんが、この時から57年後の昭和51(1976)年6月26日に行われた、プロレスラーのアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッド・アリとの試合で、猪木がアリに取った戦い方とよく似ています。
実はそればかりでなく、小説『姿三四郎』でも、三四郎がアメリカ人でスパアラ(ボクシングのこと。実戦形式で行う練習法をいう「スパーリング(sparring)」から来ているという人もいますが、真偽は不明です)の選手であるウイリアム・リスターとの試合で、やはりリング上に寝転がって戦っているのです。
これが、組討系の格闘技がボクシングを相手にするには、もっとも有効なやり方なのかもしれません。
『姿三四郎』中巻(新潮文庫版)。三四郎は古流柔術ばかりでなく、空手やボクシング、忍術とも戦う
話を試合に戻しましょう。
ジョーは又蔵にのしかかるようにして、足越しに腹を狙ってきました。そこで、又蔵はすかさずジョーの手首を捕らえ、巴投げを仕掛けます。
ジョーは長い足を活かして、ひらりと又蔵を跨いで反転し、再び腹を狙ってのしかかります。
そこで、また又蔵が巴投げ。もう1度ジョーが又蔵を跨ぐと、その虚を突いた又蔵が、頭を越えようとするジョーの片足を掴んだのです。つんのめって腹這いに倒れたジョーが慌てて立って振り向いたところに、跳ね起きた又蔵がその股間に潜り込みます。
そして、ぐいぐいと試合場の隅までジョーを押しやり、つい重心を浮かせた彼を、又蔵がここぞとばかりに肩へ担ぎ上げました。
悲劇は、その直後に起こります。
驚いたジョーは、思わず場外に置かれていた長椅子に取りついたのです。それと気づかぬ又蔵は、長椅子もろともジョーを真っ逆さまに投げ落としました。
先に降って来たのは長椅子の方でした。これには又蔵も、さぞビックリしたことでしょう。
続いて落下したジョーは、裏返しになった長椅子の脚で脾腹を強打し、悶絶してしまいます。
重傷を負ったジョーは、担架で運び出されました。予想外の惨事に又蔵は勝ち名乗りを上げることもできず、賞金20円だけをそそくさと渡されて、興行は異様な空気に包まれたまま幕切れとなりました。
「ここまでの話であれば、まだ期限付きの『稽古どめ』か、それに準ずる懲罰で済まされたかもしれない。」(木村武則著『柔道一本槍』)
ところが、事態は最悪の結果となります。
長椅子の脚に突かれて折れた肋骨が心臓を傷つけ、ジョーは収容先の病院で絶命してしまいました。
故意ではないとはいえ、死人が出る事態となっては、いくら又蔵が矢野広次の頼みの愛弟子であっても、心を鬼にして破門せざるをえませんでした。
こうして広次のもとを去った又蔵は、矢野道場の掟という唯一のタガが外れ、トラブルメーカーとしての本領を発揮することになります。
破門されてすぐ、又蔵はさらに新たなる問題を引き起こしてしまいました。
それが、増田俊成著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にただ一言「地元ヤクザとの揉め事」とだけサラッと書かれた事件なのです。
【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎』中巻 新潮社、1973年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年
柔拳興行とは、柔道や柔術とボクシングを戦わせる見世物です。
その日の熊本歌舞伎座は超満員で、初めて見る拳闘という西洋の格闘技に、われらが柔道(柔術)がいかに立ち向かうか、期待に胸を膨らませた観客が、試合開始を今か今かと待ちわびていました。
ところがいざ蓋を開けてみると、興行師が市内の道場をめぐって集めて来た柔道陣営の選手たちは、いずれもろくに組むこともできぬまま、ひらひら舞うように動くボクサーたちのパンチを喰らって、次々と倒されてしまいました。
次いで、興行は客席から腕に覚えのある参加者を募っての「飛び入り試合」に移りました。
まず名乗りを上げたのが、「鬼熊」の異名を持ち、過去に又蔵と市の力比べ大会で優勝を争い、惜しくも敗れたことのある元関取の大男でした。
鬼熊は顔面を血に染めながらも必死で粘ります。そして、今にも襲いかからんと身構える鬼熊に、ジョーというその白人ボクサーが後ろに下った時のことでした。
ここぞとばかり飛びかかった鬼熊の顎に、ジョーの強烈な一発が炸裂します。仰向けにのけ反って倒れた鬼熊は、審判が10カウントし終えても動くことができませんでした。
こうして鬼熊は、善戦むなしくKOされてしまったのです。
又蔵は、鬼熊を負かしたことから、「鬼熊食い」とも異称された男です。かつての好敵手の惨敗を目にして、もはや黙っていることができず、ジョーに戦いを挑みます。
しかし、他流試合は道場法度の筆頭事項です。師匠の矢野広次に知られることを恐れて、「井上大九郎」という変名を使っての出場でした。
ちなみに井上大九郎というのは、別所長治や羽柴秀長、加藤清正に仕えた織豊時代の武人の名です。
さて、又蔵とジョーの勝負です。ここで又蔵は、なかなかの頭脳プレイを見せます。
彼は仰向けに寝転がって、くの字に曲げて上げた足をジョーの方に向けたのです。ジョーは回り込んで頭部を攻撃しようとしましたが、又蔵は丸めた背中を軸にして先回りします。
この戦法、格闘技の歴史に詳しい人なら気がつくかもしれませんが、この時から57年後の昭和51(1976)年6月26日に行われた、プロレスラーのアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッド・アリとの試合で、猪木がアリに取った戦い方とよく似ています。
実はそればかりでなく、小説『姿三四郎』でも、三四郎がアメリカ人でスパアラ(ボクシングのこと。実戦形式で行う練習法をいう「スパーリング(sparring)」から来ているという人もいますが、真偽は不明です)の選手であるウイリアム・リスターとの試合で、やはりリング上に寝転がって戦っているのです。
これが、組討系の格闘技がボクシングを相手にするには、もっとも有効なやり方なのかもしれません。
『姿三四郎』中巻(新潮文庫版)。三四郎は古流柔術ばかりでなく、空手やボクシング、忍術とも戦う
話を試合に戻しましょう。
ジョーは又蔵にのしかかるようにして、足越しに腹を狙ってきました。そこで、又蔵はすかさずジョーの手首を捕らえ、巴投げを仕掛けます。
ジョーは長い足を活かして、ひらりと又蔵を跨いで反転し、再び腹を狙ってのしかかります。
そこで、また又蔵が巴投げ。もう1度ジョーが又蔵を跨ぐと、その虚を突いた又蔵が、頭を越えようとするジョーの片足を掴んだのです。つんのめって腹這いに倒れたジョーが慌てて立って振り向いたところに、跳ね起きた又蔵がその股間に潜り込みます。
そして、ぐいぐいと試合場の隅までジョーを押しやり、つい重心を浮かせた彼を、又蔵がここぞとばかりに肩へ担ぎ上げました。
悲劇は、その直後に起こります。
驚いたジョーは、思わず場外に置かれていた長椅子に取りついたのです。それと気づかぬ又蔵は、長椅子もろともジョーを真っ逆さまに投げ落としました。
先に降って来たのは長椅子の方でした。これには又蔵も、さぞビックリしたことでしょう。
続いて落下したジョーは、裏返しになった長椅子の脚で脾腹を強打し、悶絶してしまいます。
重傷を負ったジョーは、担架で運び出されました。予想外の惨事に又蔵は勝ち名乗りを上げることもできず、賞金20円だけをそそくさと渡されて、興行は異様な空気に包まれたまま幕切れとなりました。
「ここまでの話であれば、まだ期限付きの『稽古どめ』か、それに準ずる懲罰で済まされたかもしれない。」(木村武則著『柔道一本槍』)
ところが、事態は最悪の結果となります。
長椅子の脚に突かれて折れた肋骨が心臓を傷つけ、ジョーは収容先の病院で絶命してしまいました。
故意ではないとはいえ、死人が出る事態となっては、いくら又蔵が矢野広次の頼みの愛弟子であっても、心を鬼にして破門せざるをえませんでした。
こうして広次のもとを去った又蔵は、矢野道場の掟という唯一のタガが外れ、トラブルメーカーとしての本領を発揮することになります。
破門されてすぐ、又蔵はさらに新たなる問題を引き起こしてしまいました。
それが、増田俊成著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にただ一言「地元ヤクザとの揉め事」とだけサラッと書かれた事件なのです。
【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎』中巻 新潮社、1973年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年