2代将軍徳川秀忠、3代家光の兵法指南役を務めた柳生宗矩には、ライバルがいました。
一刀流の小野次郎右衛門忠明<ただあき>です。文禄2(1593)年、29歳の時に江戸へ出て、徳川家康に召し抱えられました。200石をたまわり、家康の子秀忠の兵法指南役となります。元の名を神子上(御子神)典膳<みこがみてんぜん>といいました。なにか、こちらの方がチャンバラ小説の主人公みたいでカッコいいのですが、確かに将軍に剣術を教える師匠にしては、重みに欠けるような気もします・・・。
忠明は、合戦の現場でも活躍しています。慶長5(1600)年に秀忠が真田昌幸・信繁(幸村)父子の籠る信州上田城を攻めた時も、奮戦目覚ましく中山照守・辻久吉・鎮目惟明・戸田光正・斎藤信吉・朝倉宣正とともに上田七本槍の1人に数えられています。
ただし関ヶ原の前哨戦であるこの戦いは、まんまと真田の謀略にはまった秀忠軍が足止めを食らい、関ヶ原に遅参する原因となってしまいました。忠明も軍令違反の罪で、一時真田信之にお預けの身となります。信之は真田昌幸の嫡男ですが、父や弟と袂を分かって徳川方についていました。
軍令違反とは言っても、主君に忠義を尽くした結果であることには違いなく、復帰した後は加増を重ね、600石を領するまでになりました。しかし性格が直情径行で、妥協や要領良く振る舞うことを嫌った忠明は、対人関係で衝突を起こすことが少なくありませんでした。将軍相手の稽古でも手加減せずに立ち合ったので、次第に疎んじられるようになったといいます。そしてついに、元和元(1615)年の大坂夏の陣で、同僚の旗本たちとの間に諍いを起こし、閉門を命じられることになります。
のちに許されましたが、もう人間関係のゴタゴタにはうんざりしてしまったのか、家督を子の忠常<ただつね>に譲り、知行地の下総<しもうさ>国埴生<はぶ>郡寺台村(千葉県成田市)に隠棲してしまいました。そこで晩年を過ごし、寛永5(1628)年11月7日に64歳で亡くなります。
遺体は同地の永興寺に葬られましたが、小野家は幕臣なので、歴代の職場は当然江戸、すなわち今の東京です。柳生家の墓が所領地である奈良・柳生の芳徳寺以外に練馬の広徳寺にもあるように、忠明や忠常の墓も、新宿の長遠山常楽寺にあります。
常楽寺の入口(東京都新宿区原町2-30)
常楽寺は都営大江戸線の牛込柳町駅西口を出てすぐ右で、大きなマンションと入口を接しています。
立札一つなく、他の墓塔たちに紛れるように立つ墓碑の正面には、中央に忠明の師である一刀流流祖伊藤一刀斎、その右側に忠明、左側に忠常の戒名と俗名が刻まれています。
そしてこの墓碑の右隣には、忠明の子孫で11代将軍徳川家斉<いえなり>に仕え、家伝の剣技をことごとく台覧するという栄誉に預かった小野忠喜<ただよし>の墓が立っています。
つまり、忠喜が流祖と祖先を供養するために造ったのが、忠明ら3者連名の墓なのでしょう。
ちなみに一刀流には古藤田一刀流・水戸一刀流・溝口一刀流など諸派があり、小野家に代々伝わるものを小野派一刀流といいます。ところが資料によって、小野派一刀流の祖を忠明とするものと忠常とするものがあります。これは、忠明を一刀流の正統者とし、忠常以降を小野派とする考え方があるためです。
伊藤一刀斎・小野忠明・小野忠常の連名墓(手前)と小野忠喜の墓(その右)
忠明が一刀斎から道統を受け継ぐに当たっては、血なまぐさいエピソードが残っています。
一刀斎には忠明(当時は神子上典膳)のほかに、もう1人小野善鬼<ぜんき>という高弟がいました。一刀斎はあろうことか典膳と善鬼に真剣勝負をさせ、勝った方に一刀流を継がせると言い出したのです。
善鬼はもと船頭でした。足場の不安定な船の上で櫓を漕ぐ生活が、善鬼の腕や足腰を鍛え上げたのでしょう、腕力に物を言わせた太刀筋は凄まじいものがありました。気性も荒く、言動は粗暴だったそうです。
さて、2人の果し合いですが、伎倆は互角、相手の手の内を知り尽くした者同士です。どちらも容易に仕掛けることができません。長い睨み合いの末、一刀斎は一端、勝負を中断させました。
その場にピーンと張り詰めていた空気が緩んだ直後、信じ難いことが起こります。
なんと善鬼が、流派の後継者に与えられる秘伝書を掴み取り、逃走してしまったのです。後を追った典膳は、荒屋の庭先に置かれていた瓶の中に隠れた善鬼を見つけて瓶ごと叩き斬り、即死させてしまいました。
卑怯な振る舞いをしたとはいえ、善鬼とて一刀斎にとっては手塩にかけて育てた愛弟子です。一刀斎は善鬼の妄執を弔うべく小野姓を名乗るよう、典膳に求めたといいます。ただしこれは作り話のようで、幕府が編集した武家系図集である『寛政重修諸家譜』には、家康の命で母方の姓を名乗ったのだと記されています。
小説なのですが、ひろむしがおもしろいと思ったのは、峰隆一郎氏が『剣鬼、疾走す』などで書いた説(?)です。それによると、実は小野忠明は神子上典膳ではなく小野善鬼で、一介の船頭だった善鬼が、氏素性のはっきりした武士である典膳になりすまして、徳川に仕えたというものです。
突拍子もない話ではありますが、忠明がのちに見せる狷介な性格が、言い伝えられる善鬼の言動と相通じるものがあるような気がして、妙に納得してしまいました。
いずれにせよ、ほとんど人を斬ったことのない柳生宗矩と違って、小野忠明が戦いの場数を踏んだ実力派ファイターであったことは確かでしょう。それだけに、彼には真偽はともかく、剣豪らしいエピソードが豊富です。徳川家に仕えるきっかけについても、宗矩がらみの面白いものがあります。
長くなりましたので、その話は次回の日記でしたいと思います。
【参考文献】
編集顧問・高柳光寿他『新訂寛政重修諸家譜 第15』続群書類従完成会、1965年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第1巻』吉川弘文館、1979年(同第2巻、1980年)
峰隆一郎著『剣鬼、疾走す』双葉社、1989年
別冊歴史読本18巻1号、読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
大隅和雄他編『増補日本架空伝承人名事典』平凡社、2000年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年
山本博文監修『江戸時代人名控1000』小学館、2007年
一刀流の小野次郎右衛門忠明<ただあき>です。文禄2(1593)年、29歳の時に江戸へ出て、徳川家康に召し抱えられました。200石をたまわり、家康の子秀忠の兵法指南役となります。元の名を神子上(御子神)典膳<みこがみてんぜん>といいました。なにか、こちらの方がチャンバラ小説の主人公みたいでカッコいいのですが、確かに将軍に剣術を教える師匠にしては、重みに欠けるような気もします・・・。
忠明は、合戦の現場でも活躍しています。慶長5(1600)年に秀忠が真田昌幸・信繁(幸村)父子の籠る信州上田城を攻めた時も、奮戦目覚ましく中山照守・辻久吉・鎮目惟明・戸田光正・斎藤信吉・朝倉宣正とともに上田七本槍の1人に数えられています。
ただし関ヶ原の前哨戦であるこの戦いは、まんまと真田の謀略にはまった秀忠軍が足止めを食らい、関ヶ原に遅参する原因となってしまいました。忠明も軍令違反の罪で、一時真田信之にお預けの身となります。信之は真田昌幸の嫡男ですが、父や弟と袂を分かって徳川方についていました。
軍令違反とは言っても、主君に忠義を尽くした結果であることには違いなく、復帰した後は加増を重ね、600石を領するまでになりました。しかし性格が直情径行で、妥協や要領良く振る舞うことを嫌った忠明は、対人関係で衝突を起こすことが少なくありませんでした。将軍相手の稽古でも手加減せずに立ち合ったので、次第に疎んじられるようになったといいます。そしてついに、元和元(1615)年の大坂夏の陣で、同僚の旗本たちとの間に諍いを起こし、閉門を命じられることになります。
のちに許されましたが、もう人間関係のゴタゴタにはうんざりしてしまったのか、家督を子の忠常<ただつね>に譲り、知行地の下総<しもうさ>国埴生<はぶ>郡寺台村(千葉県成田市)に隠棲してしまいました。そこで晩年を過ごし、寛永5(1628)年11月7日に64歳で亡くなります。
遺体は同地の永興寺に葬られましたが、小野家は幕臣なので、歴代の職場は当然江戸、すなわち今の東京です。柳生家の墓が所領地である奈良・柳生の芳徳寺以外に練馬の広徳寺にもあるように、忠明や忠常の墓も、新宿の長遠山常楽寺にあります。
常楽寺の入口(東京都新宿区原町2-30)
常楽寺は都営大江戸線の牛込柳町駅西口を出てすぐ右で、大きなマンションと入口を接しています。
立札一つなく、他の墓塔たちに紛れるように立つ墓碑の正面には、中央に忠明の師である一刀流流祖伊藤一刀斎、その右側に忠明、左側に忠常の戒名と俗名が刻まれています。
そしてこの墓碑の右隣には、忠明の子孫で11代将軍徳川家斉<いえなり>に仕え、家伝の剣技をことごとく台覧するという栄誉に預かった小野忠喜<ただよし>の墓が立っています。
つまり、忠喜が流祖と祖先を供養するために造ったのが、忠明ら3者連名の墓なのでしょう。
ちなみに一刀流には古藤田一刀流・水戸一刀流・溝口一刀流など諸派があり、小野家に代々伝わるものを小野派一刀流といいます。ところが資料によって、小野派一刀流の祖を忠明とするものと忠常とするものがあります。これは、忠明を一刀流の正統者とし、忠常以降を小野派とする考え方があるためです。
伊藤一刀斎・小野忠明・小野忠常の連名墓(手前)と小野忠喜の墓(その右)
忠明が一刀斎から道統を受け継ぐに当たっては、血なまぐさいエピソードが残っています。
一刀斎には忠明(当時は神子上典膳)のほかに、もう1人小野善鬼<ぜんき>という高弟がいました。一刀斎はあろうことか典膳と善鬼に真剣勝負をさせ、勝った方に一刀流を継がせると言い出したのです。
善鬼はもと船頭でした。足場の不安定な船の上で櫓を漕ぐ生活が、善鬼の腕や足腰を鍛え上げたのでしょう、腕力に物を言わせた太刀筋は凄まじいものがありました。気性も荒く、言動は粗暴だったそうです。
さて、2人の果し合いですが、伎倆は互角、相手の手の内を知り尽くした者同士です。どちらも容易に仕掛けることができません。長い睨み合いの末、一刀斎は一端、勝負を中断させました。
その場にピーンと張り詰めていた空気が緩んだ直後、信じ難いことが起こります。
なんと善鬼が、流派の後継者に与えられる秘伝書を掴み取り、逃走してしまったのです。後を追った典膳は、荒屋の庭先に置かれていた瓶の中に隠れた善鬼を見つけて瓶ごと叩き斬り、即死させてしまいました。
卑怯な振る舞いをしたとはいえ、善鬼とて一刀斎にとっては手塩にかけて育てた愛弟子です。一刀斎は善鬼の妄執を弔うべく小野姓を名乗るよう、典膳に求めたといいます。ただしこれは作り話のようで、幕府が編集した武家系図集である『寛政重修諸家譜』には、家康の命で母方の姓を名乗ったのだと記されています。
小説なのですが、ひろむしがおもしろいと思ったのは、峰隆一郎氏が『剣鬼、疾走す』などで書いた説(?)です。それによると、実は小野忠明は神子上典膳ではなく小野善鬼で、一介の船頭だった善鬼が、氏素性のはっきりした武士である典膳になりすまして、徳川に仕えたというものです。
突拍子もない話ではありますが、忠明がのちに見せる狷介な性格が、言い伝えられる善鬼の言動と相通じるものがあるような気がして、妙に納得してしまいました。
いずれにせよ、ほとんど人を斬ったことのない柳生宗矩と違って、小野忠明が戦いの場数を踏んだ実力派ファイターであったことは確かでしょう。それだけに、彼には真偽はともかく、剣豪らしいエピソードが豊富です。徳川家に仕えるきっかけについても、宗矩がらみの面白いものがあります。
長くなりましたので、その話は次回の日記でしたいと思います。
【参考文献】
編集顧問・高柳光寿他『新訂寛政重修諸家譜 第15』続群書類従完成会、1965年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第1巻』吉川弘文館、1979年(同第2巻、1980年)
峰隆一郎著『剣鬼、疾走す』双葉社、1989年
別冊歴史読本18巻1号、読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
大隅和雄他編『増補日本架空伝承人名事典』平凡社、2000年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年
山本博文監修『江戸時代人名控1000』小学館、2007年
前々から典膳と善鬼の決闘については、どうもしっくりとこなかったんですよ。
剣の道を求め、共に旅をしてきた兄弟弟子ですからね、仕官の為に殺し合うなんて、とても考えられない。それに一刀斉にとっては世話人でもあり、用心棒にもなる弟子ですからね、手放したくはないでしょう。
そもそも旅をしながら喰っていけるだけの術を持っているのなら、わざわざ金や名声などに固執する必要がないと思います。寧ろ、肩身が狭くなってしまうでしょうにw
でも、武家の出の典膳が入れ替わるのも相当難しいでしょうけどね・・・ただ、決闘は作り話の様な気がします。そう思いたいですね(^-^)
ただ、もともとは主持ちの出であった典膳にしろ、貧しい船頭上がりの善鬼にしろ、仕官して安定した生活を手に入れることは、相弟子を蹴落としてでも勝ち取りたいものだったような気もします。
一生、剣が強いままではいられませんし、年をとってからの旅生活は堪えるでしょうからね。。。
老いた一刀斎とともに旅をしていたのであれば、なおさらそう感じたのではないでしょうか。
一刀流の壮絶さは、小野忠明の評判を知れば察しがつきます。豪胆さと合理性を兼ね備えた武将といった趣ですねw 戦国時代であれば、恐らくその異才を存分に発揮できたことでしょう。
一刀斉の方は、鐘捲自斎の如く山奥で隠遁して生涯を終えたのでしょうね。それもまた、いとおかしです( ´ー`)
『剣鬼、疾走す』は近い内に読ませて頂きます。堪能できそうですねw
峰隆一郎の小説では、善鬼は典膳ばかりか一刀斎をも斬殺したことになっています。決闘の後に一刀斎が行方をくらましたのは、そのためだというのです!
彼の作品は発想がユニークでたいへんおもしろいのですが、だいぶ癖があるので、人によっては好き嫌いが分かれるかもしれません。