ひろむしの知りたがり日記

好奇心の赴くまま
なんでも見たい!
知りたい!
考えたい!

甘藷先生の7つの名前

2012年04月07日 | 日記
青木昆陽について調べるために人物辞典などを見ていると、同一人物なのにズラズラといくつもの異なった名前が載っていました。

まず、見出しになっている最も有名な「昆陽」ですが、これは号です。
次によく出てくるのが「文蔵」で、こちらは通称だそうです。
本人も気に入っていた「甘藷先生」は愛称、ニックネームといったところでしょうか。

それから諱<いみな>の「敦書<あつのり>」、幼名の「半五郎」、それに字<あざな>の「厚甫」と続きます。
ちなみに、諱の敦書を「あつぶみ」と読む研究者もおり、字についても「原甫」という説もあります。さらに付け加えるなら、ここまで載っているものは滅多にありませんが、戒名は「本立院道誉生安一誠」といいます。





昆陽神社の近くには、彼の名がついた地下道もあります(千葉市花見川区幕張町)


このように、昔の人はいくつもの名前を持っていました。
明治5(1872)年に政府が禁止するまで、少なくとも武士階級以上の男子は、みな複数名の保持者でした。

では、それぞれの名にどんな意味があり、どのように使われたのかを見てみましょう。

まず、諱とは「忌み名」であり、その人が亡くなった後の、生前の実名のことをこういいます。中国ではもともと実名を生前は「名」、死後は「諱」といいました。

生まれた時につけられた幼名は15、6歳ごろに元服すると棄てられて、代わりに実名と通称を持ちます。
かつてはみだりに他者が実名を呼んだり書いたりすると、その人に不吉なことが起こるとされていました。また、実名は持ち主の実体と同じであり、他人に知られれば、その相手の支配下に入ってしまうという考え方もありました。そうした事態を避けるためにつけられたのが通称です。仮名・俗名・呼名ともいいます。
そんなわけで、自分から名乗る時は実名、他人を呼ぶ時は通称と使い分けていました。

字は中国古来の習俗をマネしたもので、あちらでは日本の通称に当たります。わが国では主に文人や学者といったインテリが、通称とは別に名乗っていたようです。
さらに文人・学者・画家などが、よりハイセンスな別名として愛用していたのが号です。雅号ともいいます。

ちなみに、昆陽という号の由来は、生地が日比谷村の東南にあったため、日比谷村の「日比」を1字に合体させて「昆」とし、その南ということで「陽」を足した(中国山地の南側を山陽、北側を山陰というのと同じでしょうか?)とも、父半右衛門の出身地、摂津多田村昆陽野<こやの>から採ったともいわれます。

今回は調べきれませんでしたが、諱や通称、字などほかの名前にも、それぞれ昆陽の人となりや、こうありたいという願望など、さまざまなものがつまっているのでしょう。

名前の世界というのも、いやはや奥が深いですね!



【参考文献】
中村幸彦他編『角川古語大辞典 第1巻』角川書店、1982年
市古貞次監修『国書人名辞典 第1巻』岩波書店、1993年
渡辺三男著『苗字名前家紋の基礎知識』新人物往来社、1994年