ひろむしの知りたがり日記

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甘藷先生のマルチな才能

2012年04月01日 | 日記
青木昆陽はサツマイモの栽培を広めた人としてあまりにも有名ですが、本業は農学者でもなければ、薬などにするために草木や自然物を研究する本草学者でもありません。

彼の本来の専門は、儒学です。

元禄11(1698)年、江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区日本橋室町)の佃屋という魚問屋に生まれた昆陽(通称文蔵)は、子どもの頃から学問が好きで、享保4(1719)年、22歳の時に京都の堀川にある伊藤東涯の塾、古義堂に入門しました。そこでは実用に役立つ学問が重視されており、また朱子学や陽明学の注釈によらず、直接『論語』や『孟子』の原典に当たるため、語学的訓練にも力を入れていました。
東涯のもとで学んだことが、その後の昆陽の人生に大きく影響することになります。

江戸に戻った昆陽は、八丁堀の南町奉行与力加藤枝直<えなお>の給地内に地借して塾を開きます。加藤と親しくなったことで、昆陽の運命が開けます。国学者でもある加藤は、昆陽の学識・人物を見込んで享保18年、自分の上司に推挙しました。

その上司こそ、あの名奉行、大岡越前守忠相だったのです!

大岡に自分を売り込むために昆陽が提出したのが『蕃藷考』でした。
その前年にはイナゴの大量発生などによって享保の大飢饉が起こり、大量の餓死者が出ました。そんな時節柄、痩せた土地でも育ち、凶作の時にも収穫できる救荒作物としての蕃藷(甘藷、サツマイモ)に目をつけたあたり、まさに実用に重点を置く古義堂で学んだ成果といえるでしょう。また『蕃藷考』は、『農政全書』や『本草綱目』など中国の文献をもとに漢文で書かれたもので、これまた語学重視の古義堂教育の賜物です。

大岡はさっそく『蕃藷考』を、飢饉対策に頭を痛めていた将軍徳川吉宗に見せます。吉宗は享保20年、昆陽を薩摩芋御用掛に任命し、試作を行わせました。

試作地の1つは、先に紹介した江戸の小石川御薬園ですが、実は甘藷試作栽培の地は、そのほかにも2ヵ所あります。1つは下総国馬加<まくわり>村(千葉市花見川区幕張町)で、もう1つは上総国不動堂村(千葉県山武郡九十九里町不動堂)です。

ひろむしは、そのうちの幕張に行ってみました。

京成幕張駅の改札を出るとすぐ、右手にさほど大きくない社殿が2つ、並んで建っているのが見えます。左側が火の神である火之迦具土大神<ひのかぐつちのおおかみ>を祀る秋葉神社、右側が昆陽神社です。

そうです! ここでは昆陽は、伊毛<いも>神サマとして祀られているのです!!
昆陽による試作の後、馬加村ではサツマイモの栽培法が普及して、天明の大飢饉の際にも多数の人命が救われました。また、芋苗の栽培による利益で村が潤ったため村人はたいへん感謝し、昆陽の死後、その霊を祀ったのが始まりとされます。そして弘化3(1846)年、秋葉神社の境内に社殿が建立されました。

 昆陽神社の鳥居(幕張町4-803)
 秋葉神社(左)と昆陽神社(右)の社殿

神社と通りを挟んだ反対側、民家のたて込む中、四方をコンクリートの塀で囲まれた一角に、「昆陽先生甘藷試作之地」と彫られた石碑が立っています。そしてその裏側には、「享保二十年五月十二日栽培 大正八年五月建之」とあります。
同じ敷地内には、没後200年に当たる昭和45(1970)年に立てられた、こぢんまりとした「青木昆陽先生顕彰碑」も見えます。この地は同29年12月21日、県の史跡に指定されています。

 青木昆陽甘藷試作地(幕張町4-598-11)

昆陽は農業経験などないにもかかわらず、書物によって得た知識だけを頼りに、それまで関東地方では誰もやったことのなかったサツマイモの栽培に成功しました。
その功績を認められ、御書物御用御写物御用に登用されたのを皮切りに、書物の専門家としての道を歩んでいきます。甲斐・信濃・駿河・武蔵・相模・伊豆・遠江・三河など各地を巡り、旧記や古文書の探査も行いました。評定所儒者となって将軍拝謁を許され、最終的には御書物奉行にまで累進しています。

これだけでも十分エラいのですが、昆陽にはもう1つ、忘れてはならない業績があります。それは、蘭学のパイオニアとしての役割です。

昆陽は御目見医師の野呂元丈と共に吉宗からオランダ語を学ぶよう内旨を受け、元文5(1740)年からスタートしました。毎年春に行われるオランダ商館長一行の江戸参府滞在中に定宿の長崎屋を訪問し、通詞を介して文字や文の読み方、訳し方を学んだほか、オランダの文化や社会の諸問題に至るまで幅広く研究しました。その成果として『阿蘭陀文字大通辞答書』『和蘭<おらんだ>話訳』『和蘭文訳』『和蘭文字略考』『和蘭貨幣考』などを著しています。

昆陽の蘭学の弟子には、杉田玄白らと『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、安永3(1774)年に『解体新書』として刊行した前野良沢がいます。
このように昆陽は、後の蘭学興隆の礎を築いたのです。


昆陽の博学・健筆ぶりは並大抵のものではなく、『蕃藷考』やオランダ語関係の著書のほか、経済や貨幣に関する『経済纂要』『国家金銀銭譜』、さらには『草盧雑談』『昆陽漫録』『対客夜話』といったエッセイを書くというように、マルチな才能を発揮しました。

そんな彼が、亡くなる直前まで執筆していた本があります。
それは、やっぱりというか、さすがというか、サツマイモに関するものでした。

『蕃藷考補』というのが、その本のタイトルです。
彼が世に出るキッカケとなったあの『蕃藷考』を書いた後、さらに研究を重ねた成果をまとめたもので、サツマイモを生で食べる時の工夫や、飴や酒など加工品としての利用方法などについて細かく記されています。

これを書き終えた5ヵ月後の明和6(1769)年10月12日、昆陽は72歳でこの世を去りました。
命日は、昆陽神社の例祭日となっています。



【参考文献】
朝日新聞社編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
NHK取材班編『その時歴史が動いた 9』KTC中央出版、2001年
金子務著『江戸人物科学史』中央公論新社、2005年
安藤優一郎著『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』日本放送出版協会、2007年