生き物好きのひろむしが、ファーブルと同じくらいリスペクトしてやまない人物が、「日本植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎です。
小学校中退という低学歴でありながら独学で研究を重ね、その生涯で採集した標本は60万点とも70万点ともいわれ、新種1,000種、新変種1,500種以上の植物を命名しました。研究の集大成『牧野日本植物図鑑』ほか著作も多数あります。
そうした業績を讃えて、亡くなった年に文化勲章が贈られました。また、彼が生まれた5月22日(他説あり)は、「植物学の日」に指定されています。
ひろむしと富太郎との出会いは、小学生の時に今はなき学研の学習雑誌『○年の科学』(学年は覚えていません)で読んだ、彼の伝記マンガでした。
たちまち興味をひかれ、他の伝記本も読んですっかり夢中になり、わが心の師の1人となりました(^^♪
その富太郎の墓が、谷中の天王寺墓地にあります。
護国山天王寺(東京都台東区谷中7-14-8)は、鎌倉あるいは室町時代創建という古刹で、江戸時代には現代の宝くじのルーツである「富くじ」興行が開催され、庶民に人気でした。
天王寺墓地にある牧野富太郎の墓
富太郎の墓碑はたいそう立派で、正面には「結網学人 牧野富太郎 TOMITARO MAKINO Dr.Sc. APRIL 26.1862−JAN 18.1957 墓」、右側面に「昭和三十二年一月十八日歿 浄華院殿富嶽穎秀大居士 行年九十六歳」、裏面には年譜が刻まれています。
冒頭で書いたように、誕生日は5月22日(旧暦だと4月24日)とあるのに、ここには26日と彫られています。本人の墓なんだからこちらが本当だと思いたいところですが、はてさてどちらが正しいのやら・・・・・。
富太郎の墓碑の左には、妻スエ子の小さな墓があります。安月給のくせに研究のための金は一切惜しまなかったので、牧野家の家計はいつも火の車でしたが、彼女はたいへんな苦労をして夫を支え続けました。
そこで富太郎は、昭和3(1928)年にスエ子が56歳で病死する前の年に仙台で発見した新種の笹を、「スエコザサ」と名づけました。そして彼女の墓碑の左側面にも、「家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」という句が彫られています。
本当に、心の底から奥さんに感謝していたんですね!
天王寺墓地を囲むように広がるのが、かつては同寺と寛永寺の寺領だったところに公営墓地として開設された谷中霊園(管理所:台東区谷中7-5-24 TELL03-3821-4456)です。
その中央には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなり、昭和32(1957)年に放火心中事件で焼失した天王寺の五重塔跡があり、今も礎石が残っています。
礎石のみを残す天王寺五重塔跡
102,770平方メートルもの広さを誇る谷中霊園は、俳優の長谷川一夫や日本画家の横山大観、明治初期に稀代の悪女といわれた高橋お伝など、ビッグネームの墓を多数擁しています。
また霊園の内側に、徳川15代将軍慶喜らが埋葬された寛永寺の徳川家墓地もあります。
この谷中霊園に、実は富太郎とたいへん縁の深い人物が眠っています。
それは彼と同じ植物学者の矢田部良吉(1851-1899)です。
明治17(1884)年、富太郎は東京大学理学部植物学科へ出入りし、書物や標本を自由に見ることを許されました。その時の植物学教室の教授が矢田部良吉です。
富太郎はそこで、水を得た魚のように研究に没頭するのですが、彼が『日本植物志図篇』第1巻第1集を自費出版すると、矢田部は自分も同様の植物誌を計画しているからと、富太郎の大学への出入りを禁止してしまいました。
矢田部にしてみれば、大学の役割だと考えていた植物誌の編纂を、外部から来た素人が大学の資料を利用してやり始めたのですからおもしろくなかったのでしょうが、富太郎の落胆は大きく、当時文通して指導を受けていたロシアのマクシモヴィッチを頼って亡命することを企てたほどでした。
幸いこの計画は、マクシモヴィッチの急死によって実現しませんでしたが・・・。
谷中霊園にある矢田部良吉の墓
矢田部良吉の墓は、天王寺墓地を挟んだ北側の、谷中霊園の飛び地にあります。霊園の区画で言えば、甲11号1側になります。墓碑には「理学博士矢田部良吉之墓」と刻まれており、植物学の大家らしくその前には椎の巨木が立ち、矢田部家の墓所を見下ろしているのが印象的でした。
明治26(1893)年に矢田部は罷免され、代わりに松村任三が教授となったため、富太郎は助手として雇われました。以来、昭和14(1939)年に77歳で講師の職を辞するまで、46年間も富太郎は東大で研究を続けることになるのです。
牧野富太郎については、まだまだ語りたいことがたくさんあります。
ということで、次回は彼の終の住処となった大泉の家、「牧野記念庭園」を訪ねたいと思います。
■参考文献■
朝日新聞社編『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990年
俵浩三著『牧野植物図鑑の謎』平凡社,1999年
小学校中退という低学歴でありながら独学で研究を重ね、その生涯で採集した標本は60万点とも70万点ともいわれ、新種1,000種、新変種1,500種以上の植物を命名しました。研究の集大成『牧野日本植物図鑑』ほか著作も多数あります。
そうした業績を讃えて、亡くなった年に文化勲章が贈られました。また、彼が生まれた5月22日(他説あり)は、「植物学の日」に指定されています。
ひろむしと富太郎との出会いは、小学生の時に今はなき学研の学習雑誌『○年の科学』(学年は覚えていません)で読んだ、彼の伝記マンガでした。
たちまち興味をひかれ、他の伝記本も読んですっかり夢中になり、わが心の師の1人となりました(^^♪
その富太郎の墓が、谷中の天王寺墓地にあります。
護国山天王寺(東京都台東区谷中7-14-8)は、鎌倉あるいは室町時代創建という古刹で、江戸時代には現代の宝くじのルーツである「富くじ」興行が開催され、庶民に人気でした。
天王寺墓地にある牧野富太郎の墓
富太郎の墓碑はたいそう立派で、正面には「結網学人 牧野富太郎 TOMITARO MAKINO Dr.Sc. APRIL 26.1862−JAN 18.1957 墓」、右側面に「昭和三十二年一月十八日歿 浄華院殿富嶽穎秀大居士 行年九十六歳」、裏面には年譜が刻まれています。
冒頭で書いたように、誕生日は5月22日(旧暦だと4月24日)とあるのに、ここには26日と彫られています。本人の墓なんだからこちらが本当だと思いたいところですが、はてさてどちらが正しいのやら・・・・・。
富太郎の墓碑の左には、妻スエ子の小さな墓があります。安月給のくせに研究のための金は一切惜しまなかったので、牧野家の家計はいつも火の車でしたが、彼女はたいへんな苦労をして夫を支え続けました。
そこで富太郎は、昭和3(1928)年にスエ子が56歳で病死する前の年に仙台で発見した新種の笹を、「スエコザサ」と名づけました。そして彼女の墓碑の左側面にも、「家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」という句が彫られています。
本当に、心の底から奥さんに感謝していたんですね!
天王寺墓地を囲むように広がるのが、かつては同寺と寛永寺の寺領だったところに公営墓地として開設された谷中霊園(管理所:台東区谷中7-5-24 TELL03-3821-4456)です。
その中央には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなり、昭和32(1957)年に放火心中事件で焼失した天王寺の五重塔跡があり、今も礎石が残っています。
礎石のみを残す天王寺五重塔跡
102,770平方メートルもの広さを誇る谷中霊園は、俳優の長谷川一夫や日本画家の横山大観、明治初期に稀代の悪女といわれた高橋お伝など、ビッグネームの墓を多数擁しています。
また霊園の内側に、徳川15代将軍慶喜らが埋葬された寛永寺の徳川家墓地もあります。
この谷中霊園に、実は富太郎とたいへん縁の深い人物が眠っています。
それは彼と同じ植物学者の矢田部良吉(1851-1899)です。
明治17(1884)年、富太郎は東京大学理学部植物学科へ出入りし、書物や標本を自由に見ることを許されました。その時の植物学教室の教授が矢田部良吉です。
富太郎はそこで、水を得た魚のように研究に没頭するのですが、彼が『日本植物志図篇』第1巻第1集を自費出版すると、矢田部は自分も同様の植物誌を計画しているからと、富太郎の大学への出入りを禁止してしまいました。
矢田部にしてみれば、大学の役割だと考えていた植物誌の編纂を、外部から来た素人が大学の資料を利用してやり始めたのですからおもしろくなかったのでしょうが、富太郎の落胆は大きく、当時文通して指導を受けていたロシアのマクシモヴィッチを頼って亡命することを企てたほどでした。
幸いこの計画は、マクシモヴィッチの急死によって実現しませんでしたが・・・。
谷中霊園にある矢田部良吉の墓
矢田部良吉の墓は、天王寺墓地を挟んだ北側の、谷中霊園の飛び地にあります。霊園の区画で言えば、甲11号1側になります。墓碑には「理学博士矢田部良吉之墓」と刻まれており、植物学の大家らしくその前には椎の巨木が立ち、矢田部家の墓所を見下ろしているのが印象的でした。
明治26(1893)年に矢田部は罷免され、代わりに松村任三が教授となったため、富太郎は助手として雇われました。以来、昭和14(1939)年に77歳で講師の職を辞するまで、46年間も富太郎は東大で研究を続けることになるのです。
牧野富太郎については、まだまだ語りたいことがたくさんあります。
ということで、次回は彼の終の住処となった大泉の家、「牧野記念庭園」を訪ねたいと思います。
■参考文献■
朝日新聞社編『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990年
俵浩三著『牧野植物図鑑の謎』平凡社,1999年