都営三田線白山駅のA1出口から旧白山通りを右へ進み、白山通りと合流したすぐ先に、本松山蓮華寺(東京都文京区白山2-38-11)があります。天正15(1587)年に開かれた日蓮宗の寺で、道路に面した石段を上がると、その歴史の古さとは似つかわしくない洒落た本堂が建っています。向かって左手の墓地内には本堂脇からも見える位置に、明治10(1877)年6月に山岡鉄舟が建立した「山岡累世墓」があります。
墓碑の裏面を見ると、2段にわたって山岡家累代の人々の法名が並んでいる中、下段の10人目に「清勝 安政二乙卯年六月晦日」とあります。これは安政2(1855)年6月30日に亡くなった、戒名「清勝院殿法授静山居士」、山岡静山のことです。
蓮華寺本堂
槍術の師匠であった静山が急死した時の鉄舟の悲しみは、尋常なものではありませんでした。彼はその後しばらく、夜な夜な蓮華寺の静山の墓に出かけては、日頃の精進の様子を報告するのを常としていました。
ある夜のことです。突然雷鳴が轟き、大雨となりました。すると鉄舟は着ていた羽織を脱いで静山の墓にかけ、「鉄太郎がお側についております。先生、ご安心ください」と声をかけたといいます。実は静山、生前雷が大の苦手でした。雷が鳴る度に書斎に駆け込んで頭から布団を被り、寝込んでしまったそうです。
そんな静山の墓前で鉄舟が取った態度は、弟子が師匠にというより、まるで恋人に対するかのようです。男が男に惚れるといいますが、鉄舟からこれほどまで敬愛された山岡静山とは、いったいどのような人物だったのでしょうか?
静山は通称紀一郎、名を正視<まさみ>といい、禄高百俵二人扶持の旗本山岡正業<まさなり>の子として文政12(1829)年に生まれました。高橋泥舟の実兄でもあります。若くして「天下の第一人者」といわれた槍術の名人でしたが、彼がそう呼ばれるようになるまでには、並々ならぬ苦行の日々があったのです。
剣豪小説の傑作『宮本武蔵』で知られる吉川英治の短編『高橋泥舟』の中に、こんな文章があります。
「世人は自分等の中から群を抜いた非凡を発見すると、必ずそれを「天才」と呼ぶ。然し山岡静山の名人といわれるに到った域は、決して天稟<てんぴん>だけのものではない。むしろ努力であったのだ。」*
その言葉どおり、静山は凄まじい修行をしています。毎年厳寒の季節に深夜、井戸端へ出て荒縄で腹を巻き締め、氷を砕いた水を頭からかぶり、東の日光廟を拝して丑三つ(午前2時~2時半頃)に道場入りし、夜が明けるまで15斤(約9キログラム)の槍を取って一晩に千回から二千回も突きの猛練習をしました。そしてそれを、三十日も続けたといいます。
当代一流といわれるようになってからも、昼は何百人もの門人と稽古し、夜は必ず上述のような突きの練習をしました。少しくらいの風邪なんぞは、三千回も突きをやれば治ると言っていたそうです。一夜で二万何千回もやったことがあるというから人間業ではありません。
同じく海内無双といわれた槍の達人で、筑後柳川の人南里紀介との試合は壮絶なものでした。朝の9時前後から午後4時頃まで戦っても勝負がつかずついに引き分けに終りましたが、あまりの打突の激しさに、両者の木槍の先が砕けて何寸も短くなっていたといいます。
静山は武術に優れていただけではありません。その人となりは剛直で、他人に阿<おもね>らず、質朴で気概があり、節操を守るという人格者でした。親孝行でどんなに忙しくても、7のつく日には必ず亡父の墓参りをし、1と6のつく日は病気がちだった母のためにマッサージをしてあげていました。
愛用の木刀の一面には「人の短をいうなかれ、己の長を説くなかれ」、裏には「人に施すに慎んで念<おも>うことなかれ、施しを受けるに慎んで忘れることなかれ」と彫って自分を戒めていたそうです。
そんな静山に、まだ小野鉄太郎といった20歳の鉄舟が出会います。武術を単なる戦うための技術ではなく、人間陶冶の道と考えていた鉄太郎が、静山に深く傾倒したのは言うまでもありません。静山も鉄太郎を弟のようにかわいがりましたが、入門していくらもたたないうちに、静山は27歳という若さで死んでしまいました。
その最期もある意味実に静山らしいものでした。当時彼は脚気を病んでいたのですが、水泳の師匠が仲間から嫉妬を受け、隅田川で謀殺されるという話を聞き、師を助けようと病床を飛び出しました。そして水泳中に衝心を起こし、還らぬ人となってしまったのです。
山岡家代々の人たちを供養する墓碑(上)とそれに彫られた「山岡累世墓」の文字(下)
静山が亡くなった後、本来なら山岡家の跡目は実弟である泥舟が継ぐべきところですが、彼は母方である高橋家の養子となっていたため、それはできません。そこで泥舟は、静山が生前から鉄太郎のことを高く評価していたことに加え、17歳の妹英子<ふさこ>が鉄太郎に強く思いを寄せていたこともあって、「山岡家の養子に来てほしい」と頼み込みました。
鉄太郎が生まれた小野家は禄高も格式も山岡家より上で、彼はその長男です。常識で考えれば、とても縁組みができるような間柄ではありませんでした。
ところが鉄太郎は、「道の師」と呼んで尊敬していた静山がそれほどまでに自分を買ってくれ、英子も思ってくれるのならばと、この無茶な要請を快諾したのです。「情の鉄舟」の面目躍如といったところでしょう。
こうして小野鉄太郎は、山岡鉄太郎、鉄舟となったのです。
【引用文献】
*吉川英治著『高橋泥舟』(大衆文学研究会編『歴史小説名作館11 暗夜を斬る』講談社、1992年刊所収
P240 初出誌『講談倶楽部』1940年2月号)
【参考文献】
朝倉治彦・三浦一郎編『世界人物逸話大事典』角川書店、1995年
岬龍一郎著『新・武士道 いま、気概とモラルを取り戻す』講談社、2001年
小島英熙著『山岡鉄舟』日本経済新聞社、2002年
墓碑の裏面を見ると、2段にわたって山岡家累代の人々の法名が並んでいる中、下段の10人目に「清勝 安政二乙卯年六月晦日」とあります。これは安政2(1855)年6月30日に亡くなった、戒名「清勝院殿法授静山居士」、山岡静山のことです。
蓮華寺本堂
槍術の師匠であった静山が急死した時の鉄舟の悲しみは、尋常なものではありませんでした。彼はその後しばらく、夜な夜な蓮華寺の静山の墓に出かけては、日頃の精進の様子を報告するのを常としていました。
ある夜のことです。突然雷鳴が轟き、大雨となりました。すると鉄舟は着ていた羽織を脱いで静山の墓にかけ、「鉄太郎がお側についております。先生、ご安心ください」と声をかけたといいます。実は静山、生前雷が大の苦手でした。雷が鳴る度に書斎に駆け込んで頭から布団を被り、寝込んでしまったそうです。
そんな静山の墓前で鉄舟が取った態度は、弟子が師匠にというより、まるで恋人に対するかのようです。男が男に惚れるといいますが、鉄舟からこれほどまで敬愛された山岡静山とは、いったいどのような人物だったのでしょうか?
静山は通称紀一郎、名を正視<まさみ>といい、禄高百俵二人扶持の旗本山岡正業<まさなり>の子として文政12(1829)年に生まれました。高橋泥舟の実兄でもあります。若くして「天下の第一人者」といわれた槍術の名人でしたが、彼がそう呼ばれるようになるまでには、並々ならぬ苦行の日々があったのです。
剣豪小説の傑作『宮本武蔵』で知られる吉川英治の短編『高橋泥舟』の中に、こんな文章があります。
「世人は自分等の中から群を抜いた非凡を発見すると、必ずそれを「天才」と呼ぶ。然し山岡静山の名人といわれるに到った域は、決して天稟<てんぴん>だけのものではない。むしろ努力であったのだ。」*
その言葉どおり、静山は凄まじい修行をしています。毎年厳寒の季節に深夜、井戸端へ出て荒縄で腹を巻き締め、氷を砕いた水を頭からかぶり、東の日光廟を拝して丑三つ(午前2時~2時半頃)に道場入りし、夜が明けるまで15斤(約9キログラム)の槍を取って一晩に千回から二千回も突きの猛練習をしました。そしてそれを、三十日も続けたといいます。
当代一流といわれるようになってからも、昼は何百人もの門人と稽古し、夜は必ず上述のような突きの練習をしました。少しくらいの風邪なんぞは、三千回も突きをやれば治ると言っていたそうです。一夜で二万何千回もやったことがあるというから人間業ではありません。
同じく海内無双といわれた槍の達人で、筑後柳川の人南里紀介との試合は壮絶なものでした。朝の9時前後から午後4時頃まで戦っても勝負がつかずついに引き分けに終りましたが、あまりの打突の激しさに、両者の木槍の先が砕けて何寸も短くなっていたといいます。
静山は武術に優れていただけではありません。その人となりは剛直で、他人に阿<おもね>らず、質朴で気概があり、節操を守るという人格者でした。親孝行でどんなに忙しくても、7のつく日には必ず亡父の墓参りをし、1と6のつく日は病気がちだった母のためにマッサージをしてあげていました。
愛用の木刀の一面には「人の短をいうなかれ、己の長を説くなかれ」、裏には「人に施すに慎んで念<おも>うことなかれ、施しを受けるに慎んで忘れることなかれ」と彫って自分を戒めていたそうです。
そんな静山に、まだ小野鉄太郎といった20歳の鉄舟が出会います。武術を単なる戦うための技術ではなく、人間陶冶の道と考えていた鉄太郎が、静山に深く傾倒したのは言うまでもありません。静山も鉄太郎を弟のようにかわいがりましたが、入門していくらもたたないうちに、静山は27歳という若さで死んでしまいました。
その最期もある意味実に静山らしいものでした。当時彼は脚気を病んでいたのですが、水泳の師匠が仲間から嫉妬を受け、隅田川で謀殺されるという話を聞き、師を助けようと病床を飛び出しました。そして水泳中に衝心を起こし、還らぬ人となってしまったのです。
山岡家代々の人たちを供養する墓碑(上)とそれに彫られた「山岡累世墓」の文字(下)
静山が亡くなった後、本来なら山岡家の跡目は実弟である泥舟が継ぐべきところですが、彼は母方である高橋家の養子となっていたため、それはできません。そこで泥舟は、静山が生前から鉄太郎のことを高く評価していたことに加え、17歳の妹英子<ふさこ>が鉄太郎に強く思いを寄せていたこともあって、「山岡家の養子に来てほしい」と頼み込みました。
鉄太郎が生まれた小野家は禄高も格式も山岡家より上で、彼はその長男です。常識で考えれば、とても縁組みができるような間柄ではありませんでした。
ところが鉄太郎は、「道の師」と呼んで尊敬していた静山がそれほどまでに自分を買ってくれ、英子も思ってくれるのならばと、この無茶な要請を快諾したのです。「情の鉄舟」の面目躍如といったところでしょう。
こうして小野鉄太郎は、山岡鉄太郎、鉄舟となったのです。
【引用文献】
*吉川英治著『高橋泥舟』(大衆文学研究会編『歴史小説名作館11 暗夜を斬る』講談社、1992年刊所収
P240 初出誌『講談倶楽部』1940年2月号)
【参考文献】
朝倉治彦・三浦一郎編『世界人物逸話大事典』角川書店、1995年
岬龍一郎著『新・武士道 いま、気概とモラルを取り戻す』講談社、2001年
小島英熙著『山岡鉄舟』日本経済新聞社、2002年