ひろむしの知りたがり日記

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公立武術トレーニング・ジムで、平和ボケの侍を鍛え直せ!! ─ 講武所跡

2012年11月18日 | 日記
安政3(1856)年に幕府の武術訓練所である講武所が開設されると、高橋泥舟は22歳の若さで槍術の教授方に、1つ年下の山岡鉄舟は剣術の教授方世話役となりました。泥舟は2年後に師範に昇格しています。
講武所開設から遡ること3年前、嘉永6(1853)年のペリー艦隊来航により、徳川幕府は太平の世が長く続いた日本の防衛力不足を痛感させられました。そして欧米列強の外圧に対抗するべく、安政元(1854)年5月13日、老中首座阿部正弘は浜御殿(後の浜離宮)南側の泉水蓮池などを埋め立てて、校武場を建設すると発令しました。しかし翌年10月2日に安政の大地震が起こり、その後の復興など多くの問題を抱えたため、計画はなかなか思うように進みませんでした。
結局、校武場は築地鉄砲洲<つきじてっぽうず>の下総佐倉藩堀田家中屋敷の跡地(東京都中央区築地6丁目。7,000坪余り=約23,142平方メートル)に造られました。施設の名称は講武場、次いで講武所と変わりました。正式な開場式は安政3年4月25日でしたが、それに先立つ4月13日には、非公式ながら将軍徳川家定<いえさだ>が来訪しています。このことからも、講武所に対する期待の大きさがうかがわれます。

講武所への入所資格があるのは、諸役人はじめ旗本、御家人とその関係者となっていますが、将来は諸藩の藩士や浪人にも門戸を開く予定でした。午前10時から午後4時まで剣術・槍術・砲術の稽古が行われ、夏場には水泳もありました。教習課目はこの4つが主でしたが、一時期、弓術や柔術も加えられていました。
剣術の師範には講武所の発案者である男谷精一郎信友<おだにせいいちろうのぶとも>(直心影流)のほか戸田八郎左衛門(窪田派田宮流居合)、伊庭軍兵衛秀俊<いばぐんべえひでとし>(心形刀流)、今堀千五百蔵<いまほりちようぞう>(直心流)らが就任しました。その下の教授方に松平主税之助<まつだいらとのものすけ>(柳剛流)、近藤弥之助(忠也派一刀流)、三橋虎蔵<みはしとらぞう>(心形刀流)、男谷の弟子榊原鍵吉<さかきばらけんきち>、鉄舟の師匠井上八郎(北辰一刀流。後に師範)、桃井春蔵直正<もものいしゅんぞうなおまさ>(鏡新明智流)、村越三造<むらこしさんぞう>(一刀流)など当代一流の剣客が名を連ねています。ちなみに泥舟は自分の流派を兄山岡静山と同じ忍心流ではなく、自得院流と名乗っていました。

講武所における武術の訓練は型を廃し、実戦的な試合稽古を主としていました。このため、勝負をめぐるさまざまなエピソードが生まれましたが、泥舟や鉄舟のものも伝わっています。
まずは泥舟です。短槍の使い手で、足搦<あしがら>みで相手を倒して突き、薙ぎ払うのを得意とする井戸金平という者がいました。「邪道だ」との批判もありましたが、強いことは強いので、教授方でも手を焼いていました。ところが彼と立ち合った泥舟は、なんと敵の得意技である足搦みを仕掛けて押し倒し、あっけなく勝利を収めてしまったのです。井戸のことを苦々しく思っていた教授方たちも、さぞや溜飲を下げたことでしょう。
一方鉄舟は、隻腕の美剣士伊庭八郎秀穎<ひでさと>(もっとも当時はまだ両腕がありましたが)と戦っています。鉄舟は得意の突きを繰り出しますが見事に2度はずされ、3度目にはずされた竹刀は、あろうことか道場の羽目板を突き破ってしまったのです。これを見た八郎は顔色一つ変えず、振り返った鉄舟に向かってニッコリ微笑んだといいますから、こちらの勝負は鉄舟の完敗ということになりましょう。

安政4(1857)年4月には構内に軍艦教授所(後の軍艦操練所)が設けられました。そして7月19日より旗本、御家人の有志を集め、オランダから贈られた蒸気船を使って教授を開始しました。後に幕府の海軍として独立し、築地はそちらに譲られたので、万延元(1860)年1月、講武所は神田小川町の越後長岡藩牧野家上屋敷跡とその周辺に設けられた13,000坪(42,978平方メートル)の敷地に移転しました。2月3日の開場式には大老井伊直弼はじめ大官たちが列席して華やかだったそうです。そこで行われた模範試合では、榊原鍵吉が高橋泥舟を打ち込んで名をあげました。

小川町時代の講武所があったのは、現在ではJR水道橋駅の南側から日本大学法学部がある一帯に当たり、同学部図書館(千代田区三崎町2-3-1)の前に説明板が立っています。
慶應2(1866)年10月に幕府の軍制改革が行われ、泥舟ら講武所の師範たちは新設された遊撃隊に編入されました。翌月講武所も、陸軍所という新たな軍事訓練所に改められています。


講武所跡に建つ日本大学法学部本館(上)と図書館前の説明板(下)


明治時代になると、講武所跡地は陸軍の練兵場として使用されましたが、明治23(1890)年に三菱に払い下げられて三崎町となり、市街地としての開発が行われました。


【参考文献】
小島英熙著『山岡鉄舟』日本経済新聞社、2002年
牧秀彦著『剣豪全史』光文社、2003年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
歴史群像シリーズ特別編集『【決定版】図説 侍入門』学研パブリッシング、2011年