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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

私の終戦(むさし台・中島時次)

2008年09月14日 | 戦争体験

 私が終戦を迎えたのは、918部隊である。部隊と言っても軍隊ではなく陸軍の兵器廠で我々はそこで働く陸軍々属であった。昭和19年(1944)、今の年で14才で志願したので終戦の年は15才である。
 昭和20年(1945)終戦の年、当時我々には未だ敗れるなんて事は考えられなかった。内地と音信不通となったり現地の新聞で広島の新型爆弾投下も知っていたが日本が負ける筈がないと云う気持が強かったせいかさほどに戦局の悪化を感じなかった。但し米軍機が飛来するに及んで信ぜざるを得なくなった。中国成都に基地を持つ在支米空軍は満洲各地も爆撃する様になったのである。我々文官屯から近い奉天鉄西区の工場地帯はこっぴどくやられた。その時に部隊上空へ現れたのである。空襲警報と同時に敵機上空!!である。我々は急いで外に出てタコツボにとび込んだ。当時は工場のまわりにタコツボが無数に掘られていた。上空には飛行雲と爆音だけで機影は見えない。かなり高々度の様である。ゆっくりと旋回しながら降下して来る。4発の大型の機影がはっきりするとすかさず文官屯高射砲陣地が火ぶたを切った。見る間にB29編隊のまわりに弾幕がひろがる。当らないものだ。彼等は編隊もくずさず落ち着いたものであった。但しそのあとびっくりする事がおこった。直撃弾である。高射砲弾がまともに機体に命中し機体はバラバラとなり機片がヒラヒラと満人の方へ落ちて行った。
 高射砲が小止みになると北陵飛行場から戦闘機が舞上りB29に向って行く。但しなかなか追いつけない。歯がゆい位だった。戦闘機より速い爆撃機などある筈がないとその時は思った。でもB29は高度9000mで時速574kmのスピードを持っている事を知りびっくりさせられた。やがて激しい空中戦も終りB29も去った。
 この頃我々の工場など満洲国内の工業・商業校の男生徒や女学生までも動員され兵器生産に協力させられていた。我々の工場は刃・工・検器具の生産が主であったがその頃にはハ-13甲と言う航空機部品に切替えられていた。そして8月に入ると国籍不明の飛行機の飛来とかいろいろな不吉なうわさが流れる様になった。その実ソ聯軍は戦車部隊を先頭に満洲国内に進攻を開始していたのである。
 やがて8月15日となった。運命の日である。我々は平常通り機械についていた。正午近くであったろうか全員集合がかかった。何か重大放送があると言う。やがて現場事務所からラヂオ放送が始まったが雑音ばかりでさっぱりわからない。そのあと工場長の泣き乍らの話によって我々は敗戦を知った。思はずその場へヘタヘタとすわり込んでしまった。それから今后は平和産業に切り替え云々の話もあったが誰一人機械に取りつく者は居なかった。否その後も再び工場へ足をふみ入れる事はなかったのである。
 戦后についても今となっては本当に断片的にしか記憶にないがいくつかを拾って見よう。ソ聯軍の進駐は速かった。小部隊ではあったが我々の部隊にも進駐、第1製造所本館に本部を置いた。正門には歩哨が立ち出入りをきびしく検問した。始めてソ聯兵を見た私は自動小銃を持ったゴリラに見えた。日本人に対してあまり敵愾心を持っている様子もなく割合人なつこいのにはびっくりした。
 それからはソ聯軍の命令で武装解除となる。8月下旬頃であったと思う。ソ聯軍と交戦すべく北上中であった63師団も我々の部隊で武装解除された。63師団の部隊の中に松山町出身の兵隊が居た。松本と言う兵長でなつかしく話をしたものであった。その人に新品の軍靴を貰った。私が復員后尋ねて来てくれた。なつかしい想い出である。ソ聯側の命令で工作機械を全部木枠の箱にして引込線迄運び出せと言うので我々もかり出された。戦車のうしろに太いワイヤーをつけ厚い鉄板に結びつけその上に機械をのせて引きづって行くのである。その音のうるさい事。軽戦車に乗せて貰うのもそれが最后だった。戦車と言えば私は始めてソ聯の戦車を見た。T34かT35かわからないがそのでかいのに驚かされた。
 余談になるが一寸戦車に触れて見よう。我々の属していた第1製造所は主として戦車関係の仕事をしていた。その関係で軽装甲、95式軽戦車、97式中戦車等はよく見ていたし乗せても貰った。ソ聯戦車に比べれば日本のはまるでオモチャだ。前面装甲の厚さにしても戦車砲にしても大人と子供である。南方戦線でアメリカのM4戦車に歯が立たなかったのと同じである。T34に日本の速射砲がはね返された話は本当だろう。
 大分横道にそれた。戦后は毎日がソ聯軍の使役であった。ある時ゴミの山の片付けをさせられた。ソ聯将校が一人ついていた。あまり馬鹿らしいので仲間の橋本とコソコソと逃げ出した。ところがすぐ見付かってしまった。いきなりピストルを発射した。頭の上をビューンと来たので二人共しゃがみ込んでしまった。スゴスゴと帰るとイヤと言う程どつかれた。
 いつ頃からか外棚を破り満人が残った武器とか物資を持ち去る事件がふえてきた。そこで先ず外棚の修理から始まり其の后各所に警備に立つ様になったのである。広い部隊故その数は数え切れない程あったのではないだろうか。私が書いているのは部隊内のほんの一部の行動でしかない。
 我々が初めて警備に行ったのは部隊で使用していた水源地である。いくら負けたとは言え、部隊内には何千人の日本人がいる。その大事な水を確保しなければならない。何名位で行ったかあまり記憶にないが、たしか15、16人しか居なかった様に思う。警備とは名ばかりで木銃の先に槍の様なものをつけたのを持っているだけだ。心細い事この上ない。この時期になると日本軍の武器を手に入れたわけのわからん武装集団が各地にウヨウヨしていたのである。
 この水源地は柳條湖と言う所で我々の文官屯から奉天に行く途中である。満洲事変の引き金となった柳條湖鉄道爆破事件はあまりにも有名である。その場所に高く白い表忠塔が立っていた。又すぐその近くに張学良の兵舎跡がある。建物こそないがその区画は歴然としていた。かたわらに小さな記念館があり、入口に戦利品と思われる大砲が置いてある。中へ入ると銃弾で穴の開いた背のうとか、日本軍の血染めの軍服などが有りほかに大小の銃火器が展示されてあった。この辺一帯が満洲事変の戦場であった事を示すミニチュアがある。その中にレンガを焼くかまどが各所にある。記念館の近くに点在するかまどを見ても事変当時から有った事を物語る。
 満洲事変が起った日、それは昭和6年(1931)9月18日、我々の部隊名918もこれに由来する。何れにしてもこのあたりは、日露戦争、満洲事変の戦場であった事は事実だ。我々が警備の間何事もなかったのは幸運であったと思う。
 その次の警備は火薬庫であった。我々悪ガキにとってここの警備は危険な反面大変面白かった。場所は第二製造所の片隅で隊内では一番はずれにある。第二製造所は主として火薬、軍刀類を作っていた。火薬庫はコの字型に土盛りがしてありその中に火薬庫の建物がある。何ヶ所位あったか失念してしまったがもし外敵に火薬や弾薬等をぬすまれたりすると大変な事になる。一番治安が乱れている時期でもあるので我々の責任は重大であった。それをたった10名でやれと言う。5名づつ交代で警備する。丁度角になっている所に円筒形の鉄筋コンクリートで出来たトーチカがある。トーチカの中に2名、あとは外棚の動哨である。武器はと言えば相変らず木銃が数本だが幸いここには38銃が1丁あった。弾丸は火薬庫だからいくらでもある。実弾と空砲を箱のままトーチカの中へ運び込んだ。ソ聯兵の居る場所ははるか遠いし、当時はそこら中で銃声がしていたので少し位の銃声はもうなれっこになっていた。トーチカのはるか彼方にサンチャーズがある。その辺でも何が起っているのか散発的な銃声が聞える。交代前仲間と二人でガランとした倉庫の中をキョロキョロしていると木箱に入った軍刀を見付けた。一度は吊ってみたかったあこがれの軍刀である。二匹の悪ガキは一本を腰に差し一本を背中にしよった。そんなものでも持つと大変心強い。更に火薬庫の中から木箱に20本づつ入っている。柄付の手榴弾を持ち出した。ほかに武器がないのでもしもの場合はこれを使う事にした。やがて立哨交代となる。背中に軍刀、腰に手榴弾を4発、何ともすごいかっこうで部署につく。
 昼間は平凡すぎてあきて仕方がない。草むらに向って手榴弾を投げて見ようと思い、柄についているブリキ製のふたを開ける。中からひもにつながった丸い金具が出て来た。日本軍が使った手榴弾とはまるっきり違った代物だ。金具に中指を入れ投げる。ガバとふせる。何事もない。不発弾だ。金具に指を入れて投げるとマッチ式に点火され破裂するものは柄からシューツと火を吹いて行く。そしてひもと金具が指に残るわけだ。一箱の中半分は不発だった。破裂するとギーンと金属性のすさまじい音がする。あまり不発弾がたまったのでそれを木箱に入れ、遠くの方へ置きトーチカから射つ事にした。みんな下手くそだからちっとも当らない。その中数うちや当るで、その中の一発が当った。ドカーンと言う大砲の弾丸でも落ちた様だった。警備長がたまげて飛んで来て、あまりハデにやるなとおこられたので、しばらく鳴りをひそめる事にした。悪ガキ共はろくな事は仕でかさない。
 又交代し、今度は夜の警備となる。前の警備班の申し送りでは夜になって数回何者かが復数で侵入を試みたそうだ。実砲をぶっ放して追い払ったそうだ。私ともう一人トーチカに入り小銃を銃眼からつき出して待つ。他の3名は手榴弾を4発づつ持って外棚をまわる。何者も近づく様子もないのであきてしまった。やたらと空砲をぶっ放す。何も来ないのに草むらに向って手榴弾を投げる奴もいる。とにかくそうぞうしい夜が明け交代となった。あれからどうなったのか記憶にない。
 やがて秋風も立ち始める頃今度は官舎地帯の警備となった。ここは文官屯から奉天に至る重要な道路に面した官舎地帯で1km程向うに連京線が通っている。とにかく住宅地なので婦女子が沢山いる。もし外敵が侵入すれば大変な事になる。責任重大だ。この時も10名か15名位で警備についた様に思う。三交代位だったろう。丁度官舎のはずれが角になっていてそこにトーチカがある。火薬庫の時と同じ円筒形のトーチカだ。
 ある時大変な事が起きた。その前に奉天に東北大学と言うのがあった。戦后ソ聯に送られる日本兵の一時的な収容所になっていた。そこから毎日の様に長い列車で兵隊がソ聯へ送られて行ったのである。我々が警備に立った時、それは多分午后であったろうと思う。私はトーチカの中から前方を見ていた。折からシベリア送りの列車が通りかかった。貨車と貨車の間に臨時の哨所が設けられそこに自動小銃を持ったソ連兵が乗っている。我々の正面よりやや右に寄ったあたりがゆるいカーブになっており列車のスピードが多少落ちる。丁度そのあたりに列車が差しかかった時何やら白っぽいものがとび出した。みんな見て居たらしく、あっ脱走だ!!とさけんだ。間もなく列車が止り数名のソ聯兵が自動小銃を射ちながら追いかけて来た。あとは背の高い草むらで何が起きているのか見る事が出来ない。もしつかまっていれば助からないだろう。どの位の時間がすぎたであろうか。ソ聯兵も去り列車が動き出した。心配してもどうにもならない。やがて交代となった。
 それからしばらくして警備長がみんなを集めた。警備長は言った。「先程の件であるがあの兵はおそらく殺されているだろう。あのままほって置くわけにはいかん。埋葬するから非番の者はスコップを持って集れ」と言う事で我々数名で現地へ向った。現地とは言っても路線に沿って雑草が背丈程も生いしげり、何処かさっぱりわからない。探し廻る事しばしそのうち仲間の西川と言う奴が突然ウワーッとものすごい声を上げた。とんで行って見るとそこには目も当てられない光景があった。こんな恐ろしい光景は見た事もない。頭は割られ、血とも脳ミソともわからぬものが頭の上にたまりそこに銀バエがブンブンしていた。目はつぶれ鼻の形もない程グシャグシャになっていた。我々は恐ろしさに声も出なかった。見ると太ももに二発弾丸が貫通している。おそらく足をやられ動けなくなった所をメッタ打ちにされて殺されたものであろう。とにかくすぐわきに穴を掘り埋葬した。土を盛った上にかたわらに咲く白い野菊をたむけ手を合わせた。恐ろしさに走って詰所に帰った。
 やがて夕食となったがあのむごたらしい情景が目にやきついてとても食べる気にならなかった。夜になって再び警備に立つ。ついあの方角を見てしまう。真暗だが何となく無気味だった。やがて朝になり警備交代となり自分の部屋へ帰った。ゴロリと横になって目をつむる。毎日の様にソ聯へ送られる人達、極寒のシベリアでどんな苦しみが待っているだろうか。それから数ヶ月後、私自身がシベリアへ送られる運命になろうとは……。あの非業な死をとげた兵隊。埋葬した場所を知っているのはあの時の我々数名だけではなかろうか。とすれば四十数年たった今でもあの兵隊はあの場所で人知れずひっそりとねむっておられるのではないだろうか。心からご冥福を祈りつつこの手記を閉じたいと思う。


     筆者は1929年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。



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