新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

吾ら日本原住民 初札の意味を探る 関連して「かいと」とは? (王朝時代の庶民の暮らし向き)

2019-05-31 10:12:43 | 古代から現代史まで
初札の意味を探る
関連して「かいと」とは?
 (王朝時代の庶民の暮らし向き)
 
 
今はすっかり廃れてしまったが、東京でも昭和四十年代までは「鉄火場」というやくざの博打場が盛んだった。
そこではサイコロの目を当てる単純な「丁半博打」の他に、玄人筋の客には、一般的な「猪鹿蝶」と異なる特殊な絵柄の花札を使う「手本引き」という複雑だが面白い勝負がなされていた。
この際「花札の仕掛けは一切御座いません」という証明に、新しい花札の封を切って客に見せる新札のことを「初札」と云っていた。
また、女をずらりと並べて見せて客に選ばせていた「張店」時代の吉原遊郭で、初店、即ち「この女は手垢のついていない、ピカピカの処女でございます」という宣伝に、
その女の名を大きく掲げ、初物好きの客の興味を誘ったものをも称していた。しかし、そもそもの云われは古く王朝時代の言葉からきているらしい。
 
江戸から明治にかけては、芝居小屋の初日に女の一番客が入ると、その木戸銭に水引をかけ、神棚に上げて積み、祭ってあるお稲荷様へのお供物にしていた。
というのは、女客が来れば、当時は現在のようにマスコミ宣伝は発達してなく、「口コミ」で客が多くなったので、その縁起かつぎで花札ともいったが、昔は「華表のこと」と、
<塩尻百巻>には書かれていて、ということはこれは王朝言葉ということになる。
(注)「塩尻百巻」は江戸中期、天野信景の随筆で太古からの日本の地誌、風俗文化、言語などが書かれている、貴重な一級史料。
 が、後に「初物」といえば処女のことをいうようになるのだから、尤もらしい華表よりもとしての寄進か、又は奴隷市場で購った少女の事ではなかろうかと愬えるのは、その頃からの言い伝えで、
「初物を食えば寿命が三年のびる」と謂われ、処女を10人ためせば30年も長生きできるのであるから、不老長寿の仙薬みたいにされていたのではあるまいか。
つまり京の桂女のごとく30歳になる迄の女は皆そろって王室御用のセックス要員だったのだから、嫁入りできるのはそれを過ぎてからでないと許されなかったという。
つまりは、京の桂や白川の女は、昔の女の釣り堀みたいな地域だったと想われる。が此処では初札とか初物とは言わず、娘に初潮があって御用がたつようになると白木綿を頭にかぶせて左右にたらし、
たれの先に結びをつけて目印にして、それを、「初戸」といったと伝わっています。今では一戸二戸と戸数をさすが、王朝時代の戸の通称は、今の岩手県の地名に残っているように、「垣」や「関」とか、境界の日本原住民が閉じこめられた土地を謂うのですが、「未通娘」の場合に限って、処女膜の障壁があるものとみて、「戸」と称したのではなかろうか。
 
 松浦武四郎の「三航蝦夷日誌」によると、アイヌの女たちは夫が有る者でも和人の求めには絶対に拒めず、いつでも選ぶ権利は向こうにあって、みな女の戸を開いて迎えねば殺される立場に幕末まであ
ったゆえ、「皆戸」とか「開戸」と、そうしたアイヌの女たちの収容地のことを呼んだのだと出てます。
余談になるが、かつてアルジェリアがフランス統治下にあった時は、女は如何なる場合でもフランス人の意に従わねばならぬというアルジェリア現地法律が設けられていたというから、
終戦直釼の満州樺太みたいなものだったらしい。
当時の日本も、雪崩れ込んできたソ連赤軍の兵隊に蹂躙され、如何に多くの日本婦女子が輪姦強姦されたか計り知れない。これは米国兵による内地でも見られた現象である。
つまり何時の時代でも占領軍というものは、残虐で原住民は悲惨だったという現実である。さて閑話休題。

 上州名物からっ風にカカア天下というのも、土着の原住民の女たちは少女の頃から、大陸よりの進駐軍のえらい様たちに女体提供を命ぜられている間に、今いうセックスキャリアウーマンとなって、
男など、みな何んであるかと、高をくくって舐めだす気風が生まれたものらしい。その裏づけ史料に、〈上毛俗話〉の小字表(こあざ)の中からひろってみても、
女はすべて「開戸」の意をとって、同じ発音が、「勢多郡」では桂萓村の上泉に、羅替戸(ざるかえと)振替戸(ふりかえと)とある。
萩窪では、岡替戸、幸塚には背替戸、沖には南替戸、芳賀村へ入ると勝沢に、勝皆戸、入替戸、鍛冶皆戸、北野皆戸、木工皆戸。
小坂へ入ると、鬼替戸、霞皆戸、蕪皆戸、鍛冶皆戸、日向皆戸、別所皆戸といった地名がみられます。
 
昭和十年頃までは漢字はまだ発音の音標文字として扱われていたから、現在のごとく誤字嘘字などと言わなかったので、信州や飛騨あたりの山の中では、皆戸を「海渡」と当て字したり、
勢多郡でも富士見村の時沢では、西紺屋皆戸、東紺屋皆戸、沢間原谷戸、大角谷戸とか、同郡東村の小坂戸では、大沢貝戸、久保貝戸、和田界戸、外貝戸とか、釜戸、高戸、桂戸、狩戸となっている。
今では前橋市に編入されて歴史的な小字名は消滅していますが、〈萬治四年水脈帳〉なる江戸期の、上州勢多の後閑の小字は、「ほつれかいと」の名が(たちわきかいと)(さきかいと)(かちかかいと)と
並んでいるのが、「初札つまり処女の娘だけを別におかせておき、おかみ御用奉公させた名残り」のようであります。
 「生駒は悲しい女まち」といった怨歌かありましたが、夷駒とよばれていた時は騎馬民族系の子孫の収容地でしたから、そこの女はみな遊女として扱われていた土地で、カイトのせいでありましょう。
 今のおかみはポルノに厳しいが、王朝時代は、漁色だけが生き甲斐みたいに好色だったようです。
平安時代を王朝時代として、絢爛たる「王朝文化」を謳歌する歴史観では判らぬが、彼ら占領軍貴族が如何に我ら日本原住民の御先祖様たちを虐げたかの研究はなされていない。
王室や貴族御用の女たちは、さんざん使い古されて、やっと容色の衰えた頃には払い下げられたという、これは日本原住民の悲しい歴史なのであります。
 

清水次郎長は善玉、黒駒勝蔵は悪玉は真逆 勤皇の侠客黒駒勝蔵 薩長の維新史は信じがたい 幕末暗黒史

2019-05-30 11:45:08 | 古代から現代史まで
      隠された日本歴史
 
清水次郎長は善玉、黒駒勝蔵は悪玉は真逆
 
幕末暗黒史
 
薩長の維新史は信じがたい
 
勤皇の侠客黒駒勝蔵
 
 
 
私は戦国史専門だから四世紀前の157O年から考究したい。  「元亀元年」とこの年はいい、姉川合戦で知られ、正月に引馬(曵間)城とよばれていた飯尾連竜の城が、徳川家康によって大増築、「浜松城」となった。 と書くと、ただそれだけのことを思われるかも知れないが、実のところ、「近世日本史の幻想」はこの年から始まるのである。もちろん家康当人は、そんなことは知ったことでなく、彼は稚気まんまんとして、  「われ十五歳まで駿府に育ち永禄三年に義軍をあげ、かく今日の自分になれたのである。七十翁」  などという書を駿府に残している。  つまり、頭佗寺十二坊の火災に便乗し、そこの薬師系の信徒のほか、伊勢の榊原康政、伊賀の服部半蔵、駿府の酒井浄賢、知多の大久保忠員らとともに、この城をのっとり、 そこから家康は天下取りに進出したのである。
 
 そしてその兵力のうち側近衆薬師寺系は「西三河衆」とよび、三州岡崎の者は「東三河衆」と名づけて分け、最前線にばかり向けた。このため岡崎三郎信康の死後、 たまりかねた東三河衆の筆頭石川数正は、信康の娘を妻にしている連中とともに、やがて秀吉の許へと逃亡しその家来となった。  つまり家康がさも由緒正しい生まれのように、岡崎の松平元康の改名した同一人とするのは、これより1世紀のちの1670年に、創作された幻想である。 林羅山を開祖にする林家の文字の手品で、この寛文十年六月に、羅山の『本朝編年史』に五代目林鵞峯が加筆し、『本朝通鑑』なる三部作が、(神代から慶長十六年までの歴史)なるものとして完成した。
 
これにより林家は徳川家の秘密を握る家柄として、代々大学頭の名を許され、幕末まで栄え、そこで神君家康は松平元康となり、泣きの涙で最愛の妻築山御前や可愛い岡崎三郎信康を、 信長の命令で止むなく殺したことになった。  しかし現実には、秋葉の火祭りで名高い遠州二俣に、その三郎信康の墓があるが、沢庵石みたいな物で、文字一つ削ることすら許されていない。これは公儀から「お止め墓」とされ供養を禁じられていたからである。もし三郎信康が家康の実子だったらこんなことはなかろう。  さて、このデフォルメが新井白石の代になると、彼が将軍世子用の「帝王学」として、『読史余論』を著作する際に援用された。
 
そして「歴史学」がまだ確立していない明治二十年代に、その『読史余論』が種本として「正史」に採用されたから、ここに<幻想の日本史>の誕生となる。  常識で考えても家康が三河人なら、晩年はそこでおくるべきだし、また三河武士が徳川の本当の中核自衛隊なら、その功にむくいられ大名にされてもよいはずなのに、 彼らはみな万石以下の旗本にしかなってない。また、徳川家の発祥地が三河であるなら維新の際に、  「汝その祖宗の地に七十万石をもって立ち戻り」と沙汰された時、十六代将軍になった田安家の七歳の亀之助君は、岡崎へ行くべきなのを駿河へ行っている。 十五代慶喜も三河へは行かず、駿府宝台院で謹慎している。 近くの常光寺で慶喜側室お芳の父親江戸町火消し新門辰五郎らが身辺警護していたのは有名な事実である。
 
さて、歴史小説というものは既存史科を下敷にせず、調べられるだけ調べ作家の目で探究してゆかねばならぬ。が、いまも昔のままである。
1570年代に浜松城を増築した家康が、徳川時代と同じ虚像でテレビにまで出てくるのも日本人の幻想なれのせいなのかとしかいいようがない。  1770年の明和七年は、大岡越前守忠相の死後五十年たっている。  当時の日本は、いまのアメリカ各州のごとく、大名領や天領によって施行法が国々によって違っていた。
 
それを忠相が街頭流しの「道の者」に朱房十手朱靹の公刀を与え、全国統一警察制度をしいたが、明和年間になるとそのFBI的な警察国家体制が整い、能吏時代となってやがて田沼が台頭する。 が民衆の抵抗も烈しくなった。  そこでこの年四月十六日、「徒党、強訴、逃散に及びし者は死罪なり」といった弾圧政策をとった。
 幕末暗黒時代の始まりである。これは三年前に山県大貳、藤井右門らを捉え、反逆罪で獄門にかけたが、その著『柳子新論』を分かりやすく、絵文字入りダイジェストして配る不穏の徙があらわれだしたせいもある。  つまり天朝さまによって世直(革命)しが願えるかも知れぬ、といった一沫の夢が数年間で各地にひろまってしまった。だから対応策とし、「密告制」をしき、 場合によっては集まっているだげでも投獄しこれを斬った。勤皇をとく者に厳しい時代の風が吹きすさんだ。
 
 
 群馬の高山彦九郎も九州久留米まで追われて自決してしまった。  栃木の蒲生君平も、松平定信の斬り棄て御免の刺客隊に見舞われ、関東地区の勤皇の士は徹底的にかりこまれた。  1870年は明治三年。新政府の世となった。関東の革新勢力は全滅し、ご一新に際しても、東国人でその志をたてた者は小島四郎こと相楽総三だけであった。  しかし唯一の江戸人であっても、西南系でない彼は、革命成功とみられるや、早々に、薩長軍によって、贋官軍として殺戮されたのは映画「赤毛」にも扱われている。
 さて、これまでの維新史は、吉田松陰、坂本竜馬、高杉晉作、西郷吉之助といっか個人を主とする講談的視野でしか捉えられていない。  だが実際は原住民族対舶来民族、つまり南北の地域戦争ではなかったかと思わされる点も多い。 これは今日でこそ、(一般大衆=百姓)と誤られているが幕末まで、「たみ・百姓」と併袮さ牡るごとく、大衆の中には百姓でない工商および渡り用人、仲間とよばれる、 武家奉公の底辺クラスが多かったのである。 彼らはこの二年後に実施された1872年の、いわゆる壬申戸籍によって、檀那寺が従来把握していた「人別帖」人口にほとんど匹敵する数を示した。
 
この謎は、 表面は王政復古であっても、関東および東北人は、よし勤皇の志士であったにせよ、これはみな薩長土肥の南方軍によって、いまでいえばトロツキスト視されるごとく始末されている点でもわかりうる。 革命とは、そういうものかも知れないが、中国四国九州大でなかったというだげで、いまもなお抹消されている草莽の志士は哀れである。
この中でも米沢の雲井竜雄は、「この子棄てざれば吾身飢ゆ」の詩吟で有名だが、この1870年正月に尊皇の志をもつも東北人なるがゆえに、容れられぬ同志を語って<帰順同盟>を結成した。 しかし五千の同志を集めんとし、反革命犯罪に問われ二十七歳の彼は捕えられた。ところが正親町三条実愛に代わって司法卿となった江藤新平は、「新津綱領全六巻」を公布し、 従来の「仮刑律」に替えた。が、新法には雲井を罰する法がない。そこで廃止した旧刑法の、「謀叛及び大逆を謀るには未遂なるも梟首」を持ち出し、彼の首をさらし、「法は為政者の自由」という前例を作った。 しかし四年後、その江藤も同じくそういう目にあって梟首させられた。日本という国はかくは天道公平だから2019年も安心してよいのではないかと想う。と皮肉ってみたい。
         「黒駒党」の再評価 黒駒勝蔵は大忠臣だった    「変革期における民衆運動」といった角度から幕末の各地方を改めて調べ直してみると、まだ一世紀前なのに、驚かされることも多い。  「十津川郷士」で名高い大和の賀名主の吊橋あたりへ行くと、古来ここから吉野材を切り出し帝室御用を勤め、他の貢租はいっさい免除だった土地だけに、 各地のそうした帝室御用を勤めていた地方との連絡が、いまでいえば、「姉妹都市」みたいにあったものらしく、聖徳太子の御代に黒駒を献じ、それ以後は馬扱い官吏が、 後年の三里塚牧場のように施政をしていた山梨県とは仲がよく、天誅組の那須信吾も黒駒に潜伏していた書簡が残っている。  さて甲府黒駒若宮の小池家からは、幕末でも白川卿へ奉公していたのがいて「古川但馬守」と名のるが、これのいとこの小宮山勝次郎こと俗称黒駒勝蔵というのが、 この古川但馬守の推挙で、子分をつれて四条卿に随身した。
親兵隊長となり、「池田勝馬」の名で、河井継之助との長岡戦争にかり出され、官軍の第一線として多くの血を流している。このとき、 二百の部下の四分の三まで失うほどに勤皇の誠をつくしたのに、一人も他の者のように贈位の恩命をうけたり、九段の招魂社へ合祀されてもいない。 なぜかというと明治に入ってから、講釈師の張り扇でたたき出された次郎長伝が、やがて浪曲にまでなって流行しすぎたからである。 なにしろ次郎長を善玉にしあげるためとはいいながら、愛知県の知多半島俯北(保下田)の久六と並んで悪玉扱いで、「悪い野郎は、黒駒の勝造」とされてしまって、 それが今日まで広まっているせいである。
 成田村の岩五郎こと大岩、中川の岩吉こと小岩の二名も、のち次郎長側の講談に失敬され、  「清水港は鬼よりこわい、大政小政の声がする」とたってしまっている、が、あれも甲府盆唄では、  「障子にうつるは大岩小岩。鬼より恐いと誰がいうた」である。  つまり甲府には本物がいたが清水のほうは明治大正になって名前を似せたのが、講談の張り扇でたたき出されたにすぎない。が、それより大岩、小岩、房五郎といった青年たちに感心させられるのは、
 
黒駒勝蔵は天皇の為尽くした忠臣
彼らが黒駒の若宮さんへ、「願いごとがかなうまでは茶だち塩だちをする」という流行もあったろうが、一同そろって、 「王政復古の世になるまで嫁をもたない」と願い文を入れていることである。もちろん文字をちゃんと書けるのはいないから、署名の代わりに棒を一本ひいたきりのや、丸をつづけただけのもいるが、 その青年の純粋さには打たれる。  また事実、明治四年に勝蔵が殺された時、彼も独身、他の者もみなまだ独り者だった。  さて、こんなにまで清く美しく王事に尽くしとおした彼らが、この一世紀冷遇されっ放しで真実がすこしも伝わらないのは、甲府県と当時はよばれていた県庁の手で斬罪処分にされたせいらしい。  この判決文は、山梨県と変わった時のどさくさにまぎれ、本物が行方不明になりこれまで分からなかった。  さてこの勝蔵の悲惨な運命に同情した黒駒出身の堀内良平のすすめで「竹の島山人」が書いた『黒駒の勝蔵』が昭和二年の青い布ばりの大衆文学全巣の一冊に入っていたが、 神田伯山の次郎長伝で、「悪役」にされていることへの裏返しだけで、何故甲府へもってゆかれて殺されたのかはすこしもでていない。  のち長谷川伸、子母沢寛といった大家も、この勝蔵に取り組んで書いてはいるか、やはり俗説にひっぱられ、その範囲内でかいている。
 
 
 さて私事だが(なぜ勤皇の至誠をつくした彼が、その生まれ故郷の甲府の牢へ入れられ、殺されたのか)の謎ときをしようとした。 そこで西郷隆盛の資料を調べてゆくと、勝蔵の子分の房五郎が西郷を訪ねたとき、「コウデンでごわす」と太政官札の十円を房五郎に出している。現在なら二十万円にもあたろう。これをみると、よほど、関係が深かったことは分かるが、その明治四年七月の時点では、まだ勝蔵は死んでいない。すると見殺しをこれは意味している。 このほかに、勝蔵は長州人とも知己が多いが、誰も救援をしていない。だから、   「薩長の新政府は、勝蔵が東国人ゆえ放りっぱなしにしたものか」と私は考えた。しかし維新史料というのも、薩長側の官軍のものは、きわめてつごうよく出来すぎていて分からぬことが多いから、当時賊軍とされていた東北側の文献をあさってゆくと、 明治二年に、朝敵として責任をとらされ自刃した玉虫東海の名がでてきた。
 彼は新見豊前守を派遣大使とする渡米使節団に加わって行き、『海外紀行の遺作もある仙台藩の家老で、彼の残した日記によると、甲府郡代加藤余十郎の名で、  「元治元年四月、日標」の個所に、  「甲州博徒党を結び蜂起仕り候一条探索書」というのがあって、それには、「三月二十五日命ぜられし件を書面にて」という傍文で、  「甲州代官増田安兵衛支配黒駒村下組字若宮にて、浪士差し加る博徒共甲胄兵器を用意し、甲府城を心掛け俟は上を恐れざる仕儀にて」  と、甲府城乗っ取りを企でて失敗した黒駒の勝次郎(勝蔵)以下、伊豆の金平までの指名手配がずらりと、その名が並んでいる。
 
これは図書刊行会から大正二年八月活字本で復刻されている。つまり、このため甲府から富士山麓へ逃げた黒駒党に中泉代官所の追っ手がかかり、二足わらじの遠州見付の友蔵が、 ガードマンを雇うように、次郎長一家をよんで召しとりにあたらせ富士川、天竜川の決戦となった。
 だが次郎長が中泉代官所の御用提灯や鉄砲をもちだし、平井の雲風一家を襲い大岩以下を射殺したから、逆に黒駒党からねらわれた。  そこで勝蔵か逮捕されたのは、次郎長の政治力によるものだという説と、甲府城をとられかけた責任を問われ自刀した者への追悼に、甲府県の役人たちのでっちあげだったとの話もある。 だが、もう山梨県でも信玄ブームはやめて、この孤高の勤皇の士であった「黒駒党」を認め、新しい観光資源に甲州遊侠伝をばひろめるべきだろう。そうでもないと、天皇さまの御為に尽しだのに、 浪曲や講談で誤られっ放しでは哀れにすぎる。
 
 
 

江戸の遊廓 吉原と根津遊廓の考証

2019-05-28 10:14:59 | 古代から現代史まで

 

「根津は東の生駒」といういろは歌留多がある。 

今は跡形も無いが昔は浅草観音様の裏手に吉原遊郭があった。   同じように江戸の有名な遊郭として、徳川家康を祀った根津権現の裏の一帯に根津遊郭もあったのである。   さてサンカのセブのことを「勢振り」と恰好をつけるみたいに言うが、その他にサンカ用語でツキコミというのがある。   これは突出して敵の内部に入り込み、情報収集隊のことである。  徳川時代には、西の頭領、京の綾部に居たオオモト様直轄のクズシリは、京の御所の対サンカ政策と徳川家の京所司代の方針とでは同じでないゆえ用心して双方に、小者とか渡り中間といったのを潜入させて情報をとらせていた。
 
(注)クズシリとは例えば「武蔵のクズシリ」というように、その地区の責任者、世話役のような意味である。    だがこれが江戸となると将軍家のお膝元である。千代田城は身元調べが誠に厳重で、滅多矢鱈と小者やお端下の下女でも、潜りこませられるものではない。   といっても江戸の政策や意向はどうしても調べたいし探りを入れなければ危険である。  それゆえ、家康が江戸に入府の時に家康の温情で、サンカ限定の居付地とされた根津の地に、「さぐり里」として、遊郭を家康直筆の朱印状を提出し、吉原会所なみの賦課金を幕府に納入することを申し出て許可を受けた。   モグリで岡場所などにしては探索が厳しかったので、それよりおおっぴらに税を払っての商売の方が危険がが少ないとのサンカ側の読みである。  つまり江戸府内の噂や町方役人共の話も聞き集めて、それを総合して判断を下すためでる。 これは女を使って情報を盗る、現代諜報戦のはしりといえよう。  よって女達はサンカの中でも器量よしばかりを選りすぐっては根津へ送り込んできたから、吉原よりも美女揃いなので、「遊びは根津に限る」と粋客が集まってきておおいに繁盛した。        
 
 根津は女上位専門の遊郭だった
 もともと根津遊廓が出来る前からサンカは、「遊女記」に大江匡房が書いているように江口の浦が11世紀から  12世紀まで情報集めに四国の塩飽衆の舟に乗って、都よりの客をとっていた過去がある。   だが14世紀の足利時代になると、塩飽衆たちは南朝に味方をして敗れたため、足利体制から賊とされ、ゆえに京辺には近づくことが許されなくなったので、サンカのツキコミの情報集めに舟が使えなくなった。 だから今の生駒に集まり「夷駒」ともされ「イコマは悲しい女街」の唄が現代にも残され、演歌にもなっている。  根津や生駒が器量よしの女ばかりを集めていたことが人気の理由だというより、もう一つ大きな訳がある。
 
 吉原や生駒、京の島原などの遊廓では、「床をつける」という所作は、女が下になる正常位が、金を払う客を上にのせて、満足させる慣わしだったのに、根津はその逆だったからなのである。江戸時代の川柳の歌留多にも、「押っかぶせ、根津は好きものばかりなり」との句が残されている。  つまり女上位で覆いかぶさってくるゆえ客は、自分に惚れているので女の方が積極的に迎えてくれるのかと嬉しがる。 何時の時代も男は自惚れ屋で、馬鹿が多いということをサンカは知悉していたのだ。
 
 処が他に聞いても誰にでも女上位で乗りかかって来るというから、それでは此処の女は、よほど皆好き者で、するとなると、ヤラセで致すよりも、本気になってヤル気で歓んで掛かってくるのだろうと、 遊び好きな者には堪らない吸引力となって、町方の役人まで評判に釣られ通ったものらしい。これは男の手前勝手な都合のいい、思い込みというものだろう。 現代でも、売れっ子デリヘル嬢には、客に惚れたふりをし、女上位でこってりサービスする女が居て、馬鹿な男は「俺は好かれている」と勘違い。 こうなれば直ぐに「裏を返し」て貰え、デリヘル嬢は大いに繁盛する構図は、根津に原型があるのである。
 
 だが事実は違うのである。 サンカは川畔の安全な所を見つければセブるが、女は冬でも冷たい水の中へ入って、腰湯ならぬ腰水に浸って  女の急所の奥まで指を入れて丹念に洗う風習がある。この行為は訳ありなのである。    なにしろサンカは大陸人や百済の男たちに、慰安婦にされたり、種付けされる前に、山や河や孤島へと逃げた純粋日本人の誇りを持っている。    しかし体制に追われる立場となっても同族を守ってゆかねばならぬから、  探索方として選ばれて廓女にはなったが、いくら商売とはいえ、異民族の子種を体内の奥深くに放出されて妊娠しては困る。    よって女が上になって射精させておけば、下腹を左右からもみ下して屈めば、下へぽとんと白い液体が容易に便壷へ落とせる。 そしてよく拭っておけば子種は入らず安全と、民族の純潔を護るために、遊女勤めを、当時は用心して考え騎乗位で務めたのである。
 
  余談になるが、江戸時代には避妊薬は色々在ったらしい。黄表紙本の今で言う広告にも「月浚え月水散」「逆日丸」などいくらでも見られるから、庶民の需要も多かったと思われる。  さらに堕胎となると「中条流」が有名である。 しかし明治になると軍部の富国強兵策で、兵隊になるはずの子供の避妊や堕胎は国策上拙い。  従って、そうした庶民には便利でもオカミにとって都合の悪い書物などは、羅卒に命じて徹底的に集め焚書した。  だから現代でもこの手の書き物はめったにお目にかかれないのである。    さて、江戸期のこうした歌留多には性を扱った物が意外と多い。特にサンカのものは目を引く。  そして現代の乱れ切ったSEXの氾濫する時代は、サンカのこうした行動は不可解で、  助べえだとか、欲望や欲情、性欲などの概念で捉えがちだが間違いで、純粋日本民族の種族保護活動の一端と捉えるべきである。 そして、サンカの掟は「統治されず、統治せず、相互扶助」だから、この精神を護るため、時の体制に虐げられ、 差別され、殺されても耐え忍び、逃げ隠れるということで抵抗した誇り高き平和的民族とみられる。
 
  吉原は夜専門、しかし根津遊郭は昼遊びが専門だった。               
 
  その訳とは??(一部重複する)
江戸時代、吉原遊郭は有名だが、あまり知られては居ないが、幕末まで栄えて流行した根津権現の 根津遊郭が在る。 幕府公認の遊郭である吉原は夜間営業が専門だが、此処根津は違った。  「根津の昼遊び」といって、此処で働く女達は亭主を仕事に送り出し、夕食の支度まで根津で客をとって、そ知らぬ顔で帰宅するというシステムで 売春業に精出していた、珍しい場所なのである。    現代でも旦那の仕事中、妻がソープやデリヘル等で稼いでいるのも居るが、根津はそのハシリの様な所だった。  そして此処の女達は「馬乗り」とか「お馬さん」と呼ばれて話題になっていた。  つまり此処は吉原などの正上位と違って、全ての女が女上位で、男の上に跨るから、上からだと硬く勃起して無くては挿入できないが、鞘かぶせとなると爺さんのふにゃちんでも何とか咥え込んでくれるので喜ばれたのである。
 
それに根津の女は前借とか鞍替えなどはなく、遊び代金も四分六か七三の配分だったから その日に稼いだ分は其の日に持ち帰っていく。    気の向かない時や、生理の日には自由に休むことも出来たから、日本版「昼顔」を堂々と行っていた世界でも珍しい売春形態だったのである。  (現代のデリヘルなどはこのシステムを真似して、女達にはすこぶる評判がいい)  それに当時の江戸という町は、現代のように女の仕事はOLやサービス業なども無く、 下女か、自分の体を開いて稼ぐ売春ぐらいしかなく、だから此処の女達は趣味と実益を兼ねてしかも搾取も無いから、女が己の性を己の意思で使い出した皮切りでもあった。  
 
 
「根津でもて、男もどうやら一人前」と言われる位で、江戸期の川柳には数多く残っている。  さて、この女上位で馬乗りになるという性行為と、搾取が無いというという制度は、 これはまさしくサンカ社会の特徴である。  と言う事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現は在るのだから、共に江戸におけるサンカの溜まり場ということになる。    (注)このブログではサンカの事を何度も書いているが、このサンカの記事は三角寛の以下の物は参考にしていない。
 『縛られた女たち』大日本雄辯會講談社 (1939/08)  『慈悲心鳥―山窩史話』日京書院 (1948)  『名刑事捕物帖』蒼生社 (1948)  『愛欲の瀬降―山窩綺談』東都書房 (1956)  『山窩小説シリーズ』徳間書店 (1966)  『味噌大学 』 文芸社 (1969)  『漬物大学 』 文芸社 (1969)  『人生坐大騒動顛末記 』
 何故なら彼は、警察廻りの朝日新聞記者として取材しているわけだが、サンカ(山窩)の中の騎馬民族系だけしか書いていない。 サンカにはこの他に海洋渡来系も居り、一方だけからの解明は片手落ちである。 さらに彼は、サツ廻りだったゆえ、警察情報を元に、即ち体制側から見たサンカを書いているわけで、好色な民族だとか、凶暴だという悪意と偏見に満ちていて、サンカの実態とは程遠いものになっている。
 
 作家の五木寛之も「風の王国」でサンカ集団を描いているが、これもあくまでも小説で、実態を解明していない。 本邦唯一、サンカと共に暮らしその真実に迫った書物として、八切止夫著「サンカ生活体験記」「サンカいろはことつ唄」「サンカ民俗学」の三冊が、「サンカ真書」ともいえるべきものであろう。
現代でもサンカの血を引く日本人は多く、その特徴としては、頑固で唯我独尊傾向の人間が多いが、家ではよき父であり母であり、家族を大切にし、動物好きで、管理社会には向かなくても、 その才能と努力によってスポーツ、芸能界で活躍している人が驚くほど多い。
 
 不撓不屈のど根性をもっているといえるから、その名を挙げればきりがないほど、かなり有名な人も多い。  なにくそと頑張って自己主張する血の流れがそうさせるのではなかろうか。 何と言っても彼らの一番の特徴は多産系である。 少子化日本の現代、五人や七人という子供を平気で育てているそのバイタリティには敬服する。 そしてこのサンカ男性の性格は、きわめて、反逆精神というか、反骨精神が多分にあり、また血の流れの伝統として、圧迫生活に堪えるといった〝ど根性型人間〟といえる。 何代か後の総理大臣は是非、サンカの血をひく日本人から出て欲しいものである。

戦国ほら貝論考 信長の武将 蜂屋頼隆はラッパ出身 ラッパチスッパチの違い

2019-05-27 10:13:09 | 古代から現代史まで
 
戦国期、戦陣で法螺貝という「ブオウブオウ」と吹き鳴らす大きな貝が在った。 これは巻貝の一種だが、日本近海でも獲れるが、大きなものは少ないため、戦国時代、東南アジアや中国から輸入していた。 当時、塩飽衆と呼ぶ瀬戸内海の海賊衆が輸入販売していたが、備中備後に住んでいた唐人たちも大陸から直接取り寄せて売っている者が多かった。 だがしかし、尖端に孔を開け、持ち手に唐紐をつけて拵えたからといって、法螺貝というのは後年の真鍮ラッパと同じで、口に当てがって吹いたとて誰にでも直ぐに音が出せるものではない。習練がいるのである。 この法螺貝はもともとは仏教の護法の戒具として、大陸から入ってきたものだが、ブオウブオウと壮厳に木霊して反響するから効率的である。 だから初めは合図用に使われていたが、終いには威嚇用になった。
 
つまり敵に対して、さも大勢の軍隊のような錯覚を与える音響効果があったからである。
だから現代でも、オーバーな物言いを「ホラを吹く」等というし、法螺貝を沢山蓄えていた洞窟を「ホラ穴」という。
さて現代のトランペットやサックス、テナーといった音色に、人間の官能を揺さぶったり痺れさせるメロディーがあるように、法螺貝も、やはり同じ吹奏楽器の一種だから、攻撃するときには士気高揚に役立った。
 
だから軍用には不可欠のものとされだし、「貝が立つ」といえば「出撃命令」の事だし、又、負けた時のことわりというか、言い訳には「貝なく」、つまり法螺貝が無かったとか不足していたという弁解の言葉も、戦記ものには書かれている。 頼みの貝なく、法師武者共来たらず」等と<吾妻鏡>にも書かれている。 現在「家の亭主は全くカイショウが無い」や稼ぎの悪い亭主に「このカイショウ無し」等と使われている。
 つまり源平時代の合戦は、仏教側の僧兵とよばれた荒法師が、ブオブオと法螺貝を吹いて、いずれに加勢に来るかどうかで勝敗が決まったらしい。 だからして、「貝なき大将」というのは軍備不十分な大将の事。 「法螺貝の音は五臓六腑にしみ渡り、兵を勇気づける」といわれるから、弱虫のことを「腑貝なきやつばらかな」とも言っている。
 さて戦国時代というのは、法螺貝を吹きまくる仏教側の僧兵と、神信心の武者側との戦いになったから、貝を持っていない武者側に用立てる「貝屋」というのまで現れた。だが武者の側は、これまで法螺貝を扱っていないから貝だけ廻してもらっても吹き手が居ない。  そこで貝屋というのは、法螺貝の吹き慣れた熟練者もつけて廻した。しかし戦に出してやるのだから死傷者、即ち消耗率が烈しい。
   
 
 信長の武将 蜂屋頼隆はラッパ出身
この貝屋に買われて、訓練され「らっぱち」(法螺貝を吹ける八の部族)として少年時代をすごした織田信長配下の武将で蜂屋頼隆がいる。 幼名を松千代といい、彼が売られてきた美濃山中の里というのは、刀工の関の孫六で有名な関の山奥で、源氏野にかかる、ここは蜂(八)の里と呼ばれていて 、ここは今でも五万分の一の地図にはっきりと「上蜂屋」「下蜂屋」の集団で住んでいた地名が残っている。 漢字は明治時代までは音標文字だったから「鉢屋」でも「八弥」でも同じだし、ハチヤと読めればよいので、略して「八」とか「はち」とう。  これの語源は、山の中の昆虫で、雌が女王の如く威張っているのが居て、それからとって「蜂」という説も在る。
古事記や日本書紀に天孫降臨族が、久米の子らを率いて、撃ちてし止まむといって日本列島へ入ってきた時、日本原住民を殺戮したり、山の中へ追い払った部族というのが、八十梟師だったり八十建と呼ばれていたから、八というのは日本原住民のことなのである。
 
つまりブンブンと飛ぶ蜂は後からの命名らしい。又「八」の事を「ヤ」ともいう。「邪馬台国」のヤであるし、これが「大和」のヤにもなる。 さてこの「法螺貝屋」で仕込まれて、らっぱの吹けるようになったのが「らっばち」で俗に言う「乱波」であり、不器用で吹けないのか、未訓練なのが、 「すっぱち」でこれが「素波」という。これらは共に戦国物にはよく出てくる名称で、これが「忍びの者」にされたり「忍者」といったように変えられてしまうのが大衆小説やテレビや映画なのである。だからこれらは全て間違いで、黒装束を着てパッパッと鉄の矢車みたいなものを投げる等は、これ全てフィクション。
何も判らぬ外人がこの忍者に憧れてファンが多いが、これに輪をかけて信じ込んでいる頭の軽いアホ丸出しの日本人が多いのには呆れる。
このラッパチの心がけとして、戦場では矢玉に当たって死ぬこともある。だから死んでも高価な法螺貝は離すなと教育される。後から生き残りの者が回収に向かうからである。なにしろその当時の東大寺の雑事記帖にも「貝一つ寄進分として銭三十疋代」と記されている。これは現今の相場では、舶来楽器とはいえ、一個が三十万円に当たる。だから喇叭手はその商売道具の喇叭を死んでも守らねばならぬ規律が、厳然としてあったらしく、明治に入ってからも陸軍は、 「木口小兵は死んでも喇叭を放しませんでした」というのが、修身の教科書にまでなって、これが昭和まで続いていた程である。
       信長の美濃攻略
 さて、この頃の織田信長は、桶狭間合戦で今川から分捕った新式鉄砲を、丹羽長秀に修理を宰領させ、積年の計画の美濃攻めを行っていた。 一度目は失敗し、永禄四年も失敗、永禄五年には法螺貝吹きの松千代(蜂屋頼隆)らを揃えて、三千の兵で木曽川を渡り、美濃領の軽海ケ原へ突入した。 時に井の口城に居た斉藤龍興は驚いたが、何度も撃退していたから、又たいしたことはないと高を括っていた。 そこで龍興は家老の長井籐左衛門に作戦を任せた。 この長井は亡き斉藤道三時代からの家臣だったが、この時、龍興を裏切り信長に味方したいと申し出てきた。 条件は、美濃一国を渡す代わり、斉藤龍興の一命を助けてくれ、というものだった。これに信長も承諾した。
 
しかしこの長井の「裏切りの申し出」は策略で、これに信長も家臣たちもまんまと嵌まってしまい、美濃勢の奇襲を受け、総崩れになるところ、松千代たちの喇叭手がボウボウと必死に吹き続けたので、何とか総崩れにはならず、信長も助かった。だからこの時の恨みは骨髄に徹していたらしく、この八年後の姉川合戦の後で、朝倉方へ身を寄せていた長井籐左衛門を見つけ出し、信長は刀根峠で捕らえると、南蛮人の持ってきた宗教画に描かれていた十字架を作らせ、これに長井を磔にし「よくも、うぬは、ペテンにかけたな」と三日三晩、釘付けで曝してから殺している。 これがつまり、日本における「張付けの第一号」なのである。これは後日のことである。
この時の松千代たちの手柄の恩賞として、信長は松千代を武者分にし、苗字も在所からとって、蜂屋とし、ここに蜂屋松助として扶持は二十貫となった。 この後、女上位の蜂屋の在所から、さんざん女に苛められていた男共は、命惜しみをしないので次々と呼び寄せた。 これが瞬く間に百人にもなったため、信長は百貫にして、余賀村の庄の土地もくれてやり、増扶持してやった。        
 
   尾張兵は弱い
さて、日露戦争の頃になっても「又も負けたか六連隊」とか「前へ進まぬ三師団」と言われる位に、愛知県の名護屋兵は、平和好きだったのか、勇敢には戦わなかったことの、これは当時の侮蔑の言葉だが、だから信長の頃もそう強くはなかったろう。だから信長は鉄砲がのどから手が出るほど欲しかったのである。そんな弱兵の中で、何時も最前線に立って、真っ先に敵に突入していった織田軍団の最精強部隊というのが、この蜂屋隊で、彼らは余賀にいたから、 「命惜しまぬ余賀連の・・・・・・」と唄われていた。 なにしろ名護屋という土地は昔から芸妓組合でも、「浪越連」、お祭りの山車でも「末広連」とか、すぐ集団には「なんとか連」とつけたがる傾向があるからだ。
 
 
 やがて蜂屋松助は、蜂屋連を率いる大将分として出世し、その名も厳しく「蜂屋頼隆」となって、信長黒母衣十人衆の筆頭にまで立身し、やがて天正十三年八月には、昔を思えば夢のようだが、四万石の「越前敦賀城主」にまでなった。 そこで「男っちゅうもんは、女ごに好かれたり大事にされたらあかん。出世せんぞ・・・・そこえゆくと俺がように女に苛めぬかれ鍛えぬかれてきたもんは、裸一貫からこうして殿様じゃ」とさかんに気炎をあげて過ごした。  秀吉の代には「羽柴敦賀侍従」にまで任官した。 だが天正十七年九月二十五日、死ぬと、蜂屋家は取り潰され城地とも没収された。 なにしろ蜂屋頼隆は、女人恐怖症に罹って、妻も側室も持たず、生涯独身で過ごしたから「無嗣断絶」つまり跡継ぎが居なかったのである。
 

「日本マリファナ考」 四国お遍路は死の行進

2019-05-26 16:53:21 | 古代から現代史まで
 「日本マリファナ考」      
 四国お遍路は死の行進 

マリファナとは大麻の葉を乾燥し樹脂化したり、液体状にしたものだが、日本でも麻薬として使用栽培は禁じられている。
 そして現代の常識としてマリファナの日本への流入は、ベトナム戦争の時、米兵が持ち込んで流行させたということになっている。
 しかしこんな近代ではなく、かなり古くから日本で栽培されていたという史実が、隠されてはいるが在った。
また、大昔から麻が植えられていた様子が日本書紀や古事紀に見られるが、これはあくまでも少量で薬草として用いられていたにすぎない。
これが国家権力によって大量に栽培され、しかも当時の明国へ献上していたという事実がある。


それは室町幕府という足利体制の時代なのである。
そもそも足利体制というのは、明国に援助されて成立した政権だから、明国の属国並みだった。
当時の日本は貧乏国で、山金が豊富に採掘されたが、これは貨幣にも鍋釜にもならずだったので、鉄の産出が全く無いため、明国からは鉄の粗悪なビタ銭と金とのバーター制で同量交換の供出をしていた。
 さらに今のベトナムが当時未だ雲南省に含まれていて、その先の今も言う魔の三角地帯が、良質の阿片や麻の栽培をしていた。
 これらを明国の都まで陸路で運ぶとなると、途中に跋扈する異民族の匪賊にほとんどが略奪されていた。
これに手を焼いた明国は南シナ海から日本列島まで流れる黒潮暖流に目をつけた。
この海流はベトナムからでは半月ほどで四国の沿岸にたどり着くので、ここに目をつけたのである。
そしてベトナムから種子を大量に輸送し、四国での栽培を命じた。
 ここで大麻が収穫出来れば、今度は明国沿岸、現香港近くの広州までは冬の北東の風を待って七日位で着くから、匪賊からの略奪を防ぐことが出来た。
  足利氏は輸入栽培取り入れ輸送の一切の業務を一条御所で仕切った。
日本では昔からマリファナは大麻とか当麻、ゴマと謂われていて、現在も徳島には十六枚の菊の御紋章を軒灯につけ、ずらりと拝殿の軒先に吊るした壮大な「大麻神社」がある。
何故ここに在るのかと言えば、何と言っても大麻を無事に収穫して、滞りなく明国へ送らねば大変だから、虫害や海難の無いよう守護神として祀った、その名残だろう。

さて、今も四国の巡礼は盛んだが、これは江戸時代から続いていて、一般に「西国八十八ケ所」
となっているが、四国は高野山の真言宗と違って現代では三十三ヶ所とする。
 現代では「自分探しの旅」だ等と訳の判らぬ事由で廻る人も多いが、元来は業病や重病人が廻り歩くものだった。
しかし良く考えてみれば、重病人が次々と札所を巡礼して歩いても疲れるだけで病気など治る訳も無い。なのに何故に四国へ渡ったのか。


紀州の高野山の方が良いとも想われるのだが、それには訳があった。
 明国の為に一条御所から役人が監督に来ていて見回りを厳重にしていたが、大麻の栽培畑から自然に風に乗り種子が飛んで、極めて良質なものが野生に自生していた。
つまり次々と札所を廻って歩くという行為は、落ちこぼれの大麻を見つけて、火をつけて吸い込み
痛みを紛らわせて、何処かで仆れて自然死するための巡礼行だったのが本当なのである。そうでなければ意味が無い。
マリファナを吸うと、一つの物がダブって見える幻覚が最初の症状だが、「同行二人」と笠に書くのはこの意味であるし、マリファナを隠すため「弘法大師様と二人」とも誤魔化している。
 まあこうしたマリファナに関する云われは数多くあって、有名な曼荼羅絵巻だってあれはまさしくマリファナである。
講談で「満願の日になりますと不思議や白煙もうもうと満ちてきて気を失い・・・・・」というのもマリファナ現象である。
中国が唐の時代、彼らは仏教を日本に持ち込み布教しようとした。しかし日本原住民は言葉が通じないため、手っ取り早く目から入るように、紙芝居のような地獄図絵を見せ、寺の締め切った本堂で大麻を燃やしておいて幻覚で恐れおののく彼等が改宗しますと言えば、今度は極楽図絵を見せてホンワカさせたらしい。
 
これは日本が建国統一された七世紀に初めて持ち込まれて広まったらしく、古事記には「当麻の蹴速」との人名さえある。
 さて、阿波の徳島は、仏教側からは阿保と蔑まれていた土地柄で、何故なら海洋渡来系の原住民が多く住んでいて、ハチと呼ばれる同族の尾張の蜂須賀小六の倅家政が阿波一国を与えられた。


大麻の収穫期の繁忙期には取り入れに住民どもを集めた。
 この時大陸に送るのは葉だけだから、枝木は残った。
これを城内の角櫓に積み、保管するのだがそうそうは蔵いきれないから、昨年までの古いのは焼却処分にした。
 しかし大麻のマリファナ成分が樹脂となって凝固しているから、集められ働かされた者達は煙にむせてマリファナ現象で踊りだす。

見物している側もつい混じって踊りだすのが「踊る阿呆に見る阿呆・・・・・・」となった。
これが現代に続く「阿波踊り」なのだが、観光用で、まさか大麻は吸えないのでしらふで踊っている。
 四国は、長崎の出島の「当家」と呼ばれる輸出入業者を通さず、大陸とは季節風で行けたので、
徳川期はもとより明治になっても輸出は日清戦争まで続いたという。
この後、日本からの輸入が途絶えたため、英国がインドから清国へ輸出して、これがアヘン戦争の原因ともなったのである。
アヘン戦争に関しては以下を。
https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89

(注)昭和初期まで日本中の神社の裏には大麻が自生していて、これを乾燥させてお守り袋に入れて売っていた事実もあり、これは足利時代からの実に数百年にわたる、名残である。