新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

戦国ほら貝論考 信長の武将 蜂屋頼隆はラッパ出身 ラッパチスッパチの違い

2019-05-27 10:13:09 | 古代から現代史まで
 
戦国期、戦陣で法螺貝という「ブオウブオウ」と吹き鳴らす大きな貝が在った。 これは巻貝の一種だが、日本近海でも獲れるが、大きなものは少ないため、戦国時代、東南アジアや中国から輸入していた。 当時、塩飽衆と呼ぶ瀬戸内海の海賊衆が輸入販売していたが、備中備後に住んでいた唐人たちも大陸から直接取り寄せて売っている者が多かった。 だがしかし、尖端に孔を開け、持ち手に唐紐をつけて拵えたからといって、法螺貝というのは後年の真鍮ラッパと同じで、口に当てがって吹いたとて誰にでも直ぐに音が出せるものではない。習練がいるのである。 この法螺貝はもともとは仏教の護法の戒具として、大陸から入ってきたものだが、ブオウブオウと壮厳に木霊して反響するから効率的である。 だから初めは合図用に使われていたが、終いには威嚇用になった。
 
つまり敵に対して、さも大勢の軍隊のような錯覚を与える音響効果があったからである。
だから現代でも、オーバーな物言いを「ホラを吹く」等というし、法螺貝を沢山蓄えていた洞窟を「ホラ穴」という。
さて現代のトランペットやサックス、テナーといった音色に、人間の官能を揺さぶったり痺れさせるメロディーがあるように、法螺貝も、やはり同じ吹奏楽器の一種だから、攻撃するときには士気高揚に役立った。
 
だから軍用には不可欠のものとされだし、「貝が立つ」といえば「出撃命令」の事だし、又、負けた時のことわりというか、言い訳には「貝なく」、つまり法螺貝が無かったとか不足していたという弁解の言葉も、戦記ものには書かれている。 頼みの貝なく、法師武者共来たらず」等と<吾妻鏡>にも書かれている。 現在「家の亭主は全くカイショウが無い」や稼ぎの悪い亭主に「このカイショウ無し」等と使われている。
 つまり源平時代の合戦は、仏教側の僧兵とよばれた荒法師が、ブオブオと法螺貝を吹いて、いずれに加勢に来るかどうかで勝敗が決まったらしい。 だからして、「貝なき大将」というのは軍備不十分な大将の事。 「法螺貝の音は五臓六腑にしみ渡り、兵を勇気づける」といわれるから、弱虫のことを「腑貝なきやつばらかな」とも言っている。
 さて戦国時代というのは、法螺貝を吹きまくる仏教側の僧兵と、神信心の武者側との戦いになったから、貝を持っていない武者側に用立てる「貝屋」というのまで現れた。だが武者の側は、これまで法螺貝を扱っていないから貝だけ廻してもらっても吹き手が居ない。  そこで貝屋というのは、法螺貝の吹き慣れた熟練者もつけて廻した。しかし戦に出してやるのだから死傷者、即ち消耗率が烈しい。
   
 
 信長の武将 蜂屋頼隆はラッパ出身
この貝屋に買われて、訓練され「らっぱち」(法螺貝を吹ける八の部族)として少年時代をすごした織田信長配下の武将で蜂屋頼隆がいる。 幼名を松千代といい、彼が売られてきた美濃山中の里というのは、刀工の関の孫六で有名な関の山奥で、源氏野にかかる、ここは蜂(八)の里と呼ばれていて 、ここは今でも五万分の一の地図にはっきりと「上蜂屋」「下蜂屋」の集団で住んでいた地名が残っている。 漢字は明治時代までは音標文字だったから「鉢屋」でも「八弥」でも同じだし、ハチヤと読めればよいので、略して「八」とか「はち」とう。  これの語源は、山の中の昆虫で、雌が女王の如く威張っているのが居て、それからとって「蜂」という説も在る。
古事記や日本書紀に天孫降臨族が、久米の子らを率いて、撃ちてし止まむといって日本列島へ入ってきた時、日本原住民を殺戮したり、山の中へ追い払った部族というのが、八十梟師だったり八十建と呼ばれていたから、八というのは日本原住民のことなのである。
 
つまりブンブンと飛ぶ蜂は後からの命名らしい。又「八」の事を「ヤ」ともいう。「邪馬台国」のヤであるし、これが「大和」のヤにもなる。 さてこの「法螺貝屋」で仕込まれて、らっぱの吹けるようになったのが「らっばち」で俗に言う「乱波」であり、不器用で吹けないのか、未訓練なのが、 「すっぱち」でこれが「素波」という。これらは共に戦国物にはよく出てくる名称で、これが「忍びの者」にされたり「忍者」といったように変えられてしまうのが大衆小説やテレビや映画なのである。だからこれらは全て間違いで、黒装束を着てパッパッと鉄の矢車みたいなものを投げる等は、これ全てフィクション。
何も判らぬ外人がこの忍者に憧れてファンが多いが、これに輪をかけて信じ込んでいる頭の軽いアホ丸出しの日本人が多いのには呆れる。
このラッパチの心がけとして、戦場では矢玉に当たって死ぬこともある。だから死んでも高価な法螺貝は離すなと教育される。後から生き残りの者が回収に向かうからである。なにしろその当時の東大寺の雑事記帖にも「貝一つ寄進分として銭三十疋代」と記されている。これは現今の相場では、舶来楽器とはいえ、一個が三十万円に当たる。だから喇叭手はその商売道具の喇叭を死んでも守らねばならぬ規律が、厳然としてあったらしく、明治に入ってからも陸軍は、 「木口小兵は死んでも喇叭を放しませんでした」というのが、修身の教科書にまでなって、これが昭和まで続いていた程である。
       信長の美濃攻略
 さて、この頃の織田信長は、桶狭間合戦で今川から分捕った新式鉄砲を、丹羽長秀に修理を宰領させ、積年の計画の美濃攻めを行っていた。 一度目は失敗し、永禄四年も失敗、永禄五年には法螺貝吹きの松千代(蜂屋頼隆)らを揃えて、三千の兵で木曽川を渡り、美濃領の軽海ケ原へ突入した。 時に井の口城に居た斉藤龍興は驚いたが、何度も撃退していたから、又たいしたことはないと高を括っていた。 そこで龍興は家老の長井籐左衛門に作戦を任せた。 この長井は亡き斉藤道三時代からの家臣だったが、この時、龍興を裏切り信長に味方したいと申し出てきた。 条件は、美濃一国を渡す代わり、斉藤龍興の一命を助けてくれ、というものだった。これに信長も承諾した。
 
しかしこの長井の「裏切りの申し出」は策略で、これに信長も家臣たちもまんまと嵌まってしまい、美濃勢の奇襲を受け、総崩れになるところ、松千代たちの喇叭手がボウボウと必死に吹き続けたので、何とか総崩れにはならず、信長も助かった。だからこの時の恨みは骨髄に徹していたらしく、この八年後の姉川合戦の後で、朝倉方へ身を寄せていた長井籐左衛門を見つけ出し、信長は刀根峠で捕らえると、南蛮人の持ってきた宗教画に描かれていた十字架を作らせ、これに長井を磔にし「よくも、うぬは、ペテンにかけたな」と三日三晩、釘付けで曝してから殺している。 これがつまり、日本における「張付けの第一号」なのである。これは後日のことである。
この時の松千代たちの手柄の恩賞として、信長は松千代を武者分にし、苗字も在所からとって、蜂屋とし、ここに蜂屋松助として扶持は二十貫となった。 この後、女上位の蜂屋の在所から、さんざん女に苛められていた男共は、命惜しみをしないので次々と呼び寄せた。 これが瞬く間に百人にもなったため、信長は百貫にして、余賀村の庄の土地もくれてやり、増扶持してやった。        
 
   尾張兵は弱い
さて、日露戦争の頃になっても「又も負けたか六連隊」とか「前へ進まぬ三師団」と言われる位に、愛知県の名護屋兵は、平和好きだったのか、勇敢には戦わなかったことの、これは当時の侮蔑の言葉だが、だから信長の頃もそう強くはなかったろう。だから信長は鉄砲がのどから手が出るほど欲しかったのである。そんな弱兵の中で、何時も最前線に立って、真っ先に敵に突入していった織田軍団の最精強部隊というのが、この蜂屋隊で、彼らは余賀にいたから、 「命惜しまぬ余賀連の・・・・・・」と唄われていた。 なにしろ名護屋という土地は昔から芸妓組合でも、「浪越連」、お祭りの山車でも「末広連」とか、すぐ集団には「なんとか連」とつけたがる傾向があるからだ。
 
 
 やがて蜂屋松助は、蜂屋連を率いる大将分として出世し、その名も厳しく「蜂屋頼隆」となって、信長黒母衣十人衆の筆頭にまで立身し、やがて天正十三年八月には、昔を思えば夢のようだが、四万石の「越前敦賀城主」にまでなった。 そこで「男っちゅうもんは、女ごに好かれたり大事にされたらあかん。出世せんぞ・・・・そこえゆくと俺がように女に苛めぬかれ鍛えぬかれてきたもんは、裸一貫からこうして殿様じゃ」とさかんに気炎をあげて過ごした。  秀吉の代には「羽柴敦賀侍従」にまで任官した。 だが天正十七年九月二十五日、死ぬと、蜂屋家は取り潰され城地とも没収された。 なにしろ蜂屋頼隆は、女人恐怖症に罹って、妻も側室も持たず、生涯独身で過ごしたから「無嗣断絶」つまり跡継ぎが居なかったのである。
 

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