新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

鍋島直茂 化け猫騒動(第一話) 竜造寺の後家

2021-07-24 17:03:15 | 新日本意外史 古代から現代まで


    鍋島直茂 化け猫騒動(第一話)
                                    
     竜造寺の後家



始めに、この竜造寺という姓は非常に珍しく、現在はほとんど聞かない。姓としてこの「り」という姓は戦国人名辞典にも「竜造寺」と、
豊臣秀次に仕え、後浅野家に仕えたという「竜神覚太夫」のみである。
現在でも、竜崎、林保、陸田、笠、くらいなのである。元々が原住農耕系の民族で、朝鮮半島からの移住民と想われる。
だから、竜造寺家は地理的に近い九州で覇を唱えてはいたが鍋島家に乗っ取られてしまうのも、少数民族ゆえの帰結なのであろう。

豊臣秀吉が絶賛した竜造寺の後家、その名を「寧子」という。

 昭和28年頃、清純なお嬢様女優だった入江たか子は、化け猫女優として鮮烈なデビューを果たした。
鍋島の猫騒動を扱った「怪談佐賀屋敷」などの御家騒動、化け猫映画が一世を風靡したものである。
このため、「猫を虐めると化けて出るぞ」と、寧子を猫と間違えられた猫族は「なんとも不気味な生き物」として大変な迷惑を被ったようで猫の受難時代だった。
現在はペットとして大人気で、誠に結構である。


日本には映画やテレビ、小説の時代物を実際の歴史だと信じ込んでいる御脳の弱い人間が多いが、
以下は面白く書いた部分もあるが、史資料を読み解き、一応その出典も書き込んでおいた。
面白可笑しく読んで下さるも可。
またこれを基礎に新しく日本史を見直されるも結構と、私は思っている。
歴史好きの方は、字数の関係で五部に分割してあるので、プリントアウトしてじっくりと読んで頂きたい(推敲はしているが、誤字脱字は御容赦)。


 文禄元年(1592年)七月のことである。
 征韓の役のため九州名護屋に新たに城をきずき、そこに駐留していた秀吉の許へ、「大政所さま御発病」の知らせが届いた。
「ご高齢のことゆえ気遣われる。なんとしてでもお目もじせねばなるまい」と、
 とる物もとりあえず秀吉は駕罷にのり、前後八人に担がせ引かせ京へ急がせた。
「供廻りの者など不要。ついてこんでもよいぞ」と秀吉は下知したが、それでも、
「床几廻り」とよばれる小姓や近習五十名余りが、着のみ着の儘で後を追ってきた。
 のち佐賀街道となってからは石ころが除かれ急坂も直されたが、その頃の、
「佐嘉上道」というのは昔の壱岐街道のままで、胸突き八丁といった険しい難所が、眩しい白い陽ざしに照りつけられ続いていた。
 それゆえ、駕籠かきの者たちも犬みたいに舌をだし、
「ハア、ハア」息を切らせて苦しがったが、後を追ってきた者達も急なことなので、弁当や呑み水も持ってきてはおらず、みな、乾きと飢えにへこたれかけていた。


 秀吉も瓢箪は一つ駕籠に入れてあったが、これは酒である。咽喉の乾きに疂めるものではない。
 そこで駕籠の中から喘ぎつつ、砂埃で白くなった叢を睨みつけていたが、
 「やや、あれなるは……」と転がり出しそうに身体をのりだし、手にしていた芭焦団扇で指さした。もちの木の木蔭に白布をちぎって目印につけた笹が眼に入ったからである。
 「さ、探してみい」喘ぎながら秀吉はいった。すると、「水……ま水にござりました」
 柄杓がそえられた手桶を、駈けていった小姓が抱えもって戻ってきた。「とめい」秀吉は手をだした儘で駕籠をとめさせた。
 そして、毒見をしようとする小姓に向かって、その手を烈しくふり、「構わぬ。早うにもて」
 さしだす柄杓をもぎとるように取りあげ、ゴクゴク咽喉をならしながら、続けざまに何杯も浴びるように呑みほした。
 そして、ようやく人心地がついたごとく、「フウッ」肩で息を入れると、「うぬらも早うに呑め」辛抱している供廻りの者たちにも、にっこりして許しを与えた。


 まるで蝗の群のように水桶に群がって、てんでにがぶ呑みしている者たちが、
「陽なた水……と思うたら冷えとる。こりゃあ甘露じゃ」と騒いでいるのを聞きつけ、
「そうか……渇えきっていたゆえ気のせいかとも迷うたがl‘やはり溜水ではあらざりしか」
 秀吉は駕をおり水桶の並んでいる所までゆき、屋根の恰好の葭簀を下から仰ぎ見ていたが、「……ふうむ」と唸り、
「見てみい筧が覗いていようが……山の岩の割れ目からしたたり落ちる水を、竹の樋で集めてきて、ここまで導き桶にためているのじゃから、こりゃ冷たいも道理の流水ぞ。
それにしても、よう才覚が届いておるのう」すっかり感心しきった。そして秀吉は、
 「手分けして薮を探し太い青竹を見つけ、その節ごとに小さく孔をあけて、この谷清水をつめて栓をなし、槍代わりに長い青竹を何人かが担いで歩け……。
咽喉をからからにさせるのは難儀じゃ。もうしとうはないでのう」
 といいつけた。そして青竹の水筒のできる間にと樹蔭に入り、もろ肌ぬぎとなって小姓に身体をふかせていると、何やら前方のあじさいの咲いている辺りで、
駕籠担ぎや近習の者たちが騒いでいる。そこで、秀吉が何事ならんと、「誰ぞみて参れ」
 かしこまっている者にいいつけた。すると、「……恐れながら」
 戻ってきた小姓は、赤黒い素焼きの肌にのせた芋の蘂包みの結飯をもってきて、
「あれなる陽かげの戸板に並べ、上に虻や蠅がとまらぬように蓮の大きな葉がかぶせてありました」
 振返って指さした。秀吉はうなずき、「これは竜造寺後家の配慮ならん。よく気のつくことよ」と
 ロヘ入れかけたが、はっとしたように、
「さすが武辺の家に生まれ育った女とは、かくこのように嗜みがあるものか」
 まるで猿蟹合戦にでてくる猿が、握飯をせしめた時のように飯粒だらけの口許で、又しても秀吉はうなった。
 そこで近習の者が、何なのかと伺いをたてるような眼ざしを向けたところ、
「この固く握った具合をみよ。そもそも結飯とは忙しい時に食すもの。これならば手にもって走りながらでも食せるじやろが……」
 と握ったのを振り廻してみせ、
 「さすが竜造寺隆信をうんだ女ごじや、武人の女ごは、こうでなくてはかなうまい。うぬらの嫁にも竜造寺の後家を見習わせ、ようく真似させるようしたがよい」
 すこぶる上機嫌で秀吉は、供廻りの者共にいい渡しだのだが、命じられた面々は、「うへッ」とは答えたものの、竜造寺の後家ときいては、みな当惑げに顔を見合わせてしまった。
 といってこの時代はまだ、
「おむすび屋」などという店があって、木枠でふんわりとした握り飯をこしらえ、家庭でもプラスチックの握飯器で、やはりふくらし粉入りのようにやわらかな結飯を、
嫁どもが作っていたからのせいではないのである。


佐賀の鍋島、女の夜這い、
刀ぶちこみ、しりまくり
とか、また、
夜の夜中にねこではないか
行燈なめつつ這ってくる



 といった戯れ唄を、秀吉は知らないらしいが、九州名護屋では当時ひろく歌われていたせいである。
 そこで供廻りの面々は、(いくら太閤殿下の思召しにせよ、自分らの嫁に竜造寺の後家のように、勝手に他の男の許へ夜ばいにゆくような真似をされてはどもならん)
と顔をみあわせ、しかめつらをしたのである。                                            
 なお『肥前旧記』ともよばれる九州史料の中の、『普聞集』には、
 「竜造寺第十六代胤和の娘寧子、のち慶闘尼という。勇気あって常に短刀を携え」
 などと、この後家のことは出ているが、短刀といっても、江戸時代の女が胸にさしていた懐剣のような小さなものではない。
 戦国時代の刀は、大太刀といって刃渡りIメートルはあったから、短刀というのも後世の脇差位の寸法はあった。
 それを寧子の方はいつも腰にさし、男まさりに戦場へでて武者働きもしていた。
 なにしろ、この竜造寺隆信の母の寧子というのは、戦国時代では代表的な女丈夫だったらしく、口やかましくうるさいことも、人並みはずれて度がすぎていたらしい。
 だから後年、徳川家康が、嫉妬深い侍妾の阿茶の局に、あけくれ文句ばかりいわれて手をやいたとき、
 「……汝は話にきく竜造寺の後家どのにそっくりではないか」
堪りかねて悲鳴をあげたという話を、当時家康の側近に侍していた円光寺の閨室元供という僧が、その日録に書き残している程である。
 もちろん寧子は九州佐賀で十九代続いた竜造寺の嫡流で、当主隆信の生母に当たっていたから、
我儘放題もしたろうが、またその反面、秀吉が感心するような嗜みもあったらしい。
今も佐賀名物となっている木蝋などは、「夜討ち用」にと寧子がハゼの木の実から取った生蝋に、麻糸の芯を入れて作り、
風に立ち消えぬように「龕燈」仕立てにしたから広まったものだというし、塩作りを田ごしらえで始めたのも九州では竜造寺の後家が開祖だともいかれている。
しかしよく、「英雄は色を好む」というが、これはあえて男だけでなく、女人にも当てはまるものであるらしい。
 とはいえ後家時代の寧子の色好みは、相当以上にひどかったらしく、輪番制というか、
「おふしど御用」という若侍が一日三人ずつ交替制で詰めていたなどとも『鎮西奇談』という本には面白おかしくでている。
封建時代の女の権力者は、洋の東西を問わず、あの方は激しかったらしい。
イギリスのエリザベス女王も、夜ごと若い貴族を、とっかえひっかえ、ベットに呼び込んで御乱行。だから彼らのことを「ナイト」と呼んでいたくらいのものである。


津軽外三郡誌の考察 論考・津軽史料

2021-07-13 16:35:09 | 新日本意外史 古代から現代まで
津軽外三郡誌
論考・津軽史料

これは、津軽(青森県)は大和朝廷とはまったく異民族の土地なりとして、別個の歴史をもち、京方と戦いつつ、別個の王国だったとする内容である。
即ち、大和民族は単一民族となす説に反対する文献なのです。そしてまだ儒学が全盛の江戸期に書かれたものである。
それに寛政五年からは、津軽から福島までは未曽有の大飢饉で、津軽領だけでも二十万人もの餓死者を出している。
こんな時代に、手分けして各地を回り聞き書きをしに、餓鬼地獄の中を矢立をもって歩いて記したという、現実にそぐわぬ可笑しな部分もある。
こうした点は心して読む必要がある。
しかし、記紀を金科玉条とする史観より、見るべきものは多く、一笑に付すものでは決してない内容である。以下にその考察をしてみたい。

 「東日流外三郡誌」というのは、青森県北津軽郡市浦村の村史編纂会が昭和四十六年に設置された際に、五所川原市飯詰の和田喜八郎家所蔵の、江尸時代から門外不出、
他見一切無用と厳禁されていた三百六十巻の古文書の中より、判読できる百巻を上中下の三巻にし、同村の委員会より「市浦村史資料編」として刊行された、
今まで正史とよばれるおかみの歴史とは全然異質の文献なのであります。
 和田家49代の当主によれば、寛政二年に和田長三郎が、鎌倉侍所別当の和田義盛の一族だったのに、北条氏に追われて秋田に隠れすみ、世直しのため南朝に与し津軽へきたが滅ぼされ、
神職を勤めていたが、長三郎はそれさえも追われ、妻が秋田上綺の秋田孝季の妹だったので、そこへ行き二人で祖先を追跡調査して、己れらの血脈を伝えるために生涯かけて採録筆写したものといいます。
 「反藩の罪科に厳重に問われるゆえ、と油桐紙に包み、極秘に天井裏に隠して伝わってきたもの」と、二人が書き綴って一部ずつを子孫に伝えたのが、秋田孝季の子孫の方の分は散逸してしまったが、
和田家では樟木の箱に入れていたので、二百六十巻は判読困難だったが、その中の百巻分だけは昭和三十二年春に初めて蓋をあけた時は助かって、どうにか読め得たと前書にのべています。
 さて、この津軽地方の地形的変遷や古代津軽人の風習言語、つまり「亀ヶ岡式上器」や「森田村石神(おせどう様)の縄文式円筒方式土器」それに「市浦村中島出土の土師器」に関連する古記録は
「耶馬台国五畿七道の(倭の)五王の長髄彦、安日彦が、九州日向に出現したジンム族の鉄製の剣や矛によって追われて、遠く津軽へ亡命してきて、
その伴ってきた一族によって開拓されたる為」といった記述が基礎となっているものですから、韓国歴史界にとって、この「東日流外三都誌」が、さも日本での唯一の信頼すべき古代史料のごとく、
大々的に取りあげられたことがあった。
 かつて長州の御雇い教師リースが、日本には歴史学はないと明治十八年の博士号設定の時に文学博士の範囲にしか入れさせなかった程ですから、日本では、宮下文書や竹内文書なみにしかみなさず、
問題にはされていません。ただ考古学や人類学の分野では研究しかけていますが、いわゆる各大学で講義する歴史屋さん達は、まったくまだ目も通していない程の不勉強さでかないません。
 しかし韓国だけでなく朝鮮人民共和国でもおおいに検討されだしていて、双方共に、「魏の国に貢進していた耶馬台国なる存在は、親魏政権というよりは今の中国の出先機関が統率していた中国の
支配体制。それを追払って新しい大和朝廷をたてた日向ジンム族は九州へ渡った朝鮮半島人だ」として、物騒なデマですが、南北が統一するのは失地回復しかないと秘かに言われています。
中国の以前の華首相の線引きで、朝鮮半島からまさかとは思いますが、南北統一は対外戦争しかないと攻めてこられては、吾々はまた縄文日本人の昔に逆戻りさせられてしまい困ります。
それゆえ専門家がまったく手がつけられぬ「東日流外三郡誌」の真の解明を、どうあっても吾々日本人が負わざるをえません。
 歴史とは過去の具象の真実のあり方を把握すべく努力することで、それを勝手に都合よく解釈する事ではないからです。さて、そうした誤りをおかさせるのには、その第一に述べられている処の、
〈東日流流転史〉に「山麓に住居するは阿曾部族、海浜に住むを津保化族とよぶは、その昔、天変地異ありて山が火を噴き、浦が隆起して陸となりし為なり」と、まず説明しているのであります。
 「太古の古い称号は、スーサンポー、津軽をチンパルとよぶは、いずれも唐の漢語。大昔のことだが大漢国より忍び難き国乱ありて、やむなく漂着してきたれる彼の国の難民共を祖先とす」
「その頃、九州の日向に起こりし一族が東に遠征。それまで耶馬台国五畿七道を洽領せし安田彦、長髄彦を討伐。
よって耶馬台一族は北方に遁がれて津軽まで落ちのび、再挙を企てたがならず、原住民の津保化や阿曾部の民と混血して、荒吐一族となり北上川平泉まで進攻し総処となし、
東西南北にそれぞれ王をおきて統治し、ウーワンと中国語でよび、日の神を、ヤンとかヤーとよんで崇拝した」となっていますから、
耶馬台国が「瞳」と当時はよばれていた中国大陸の出先機関の統治地だったというようにも解釈されてしまいます。もちろん魏の国へ朝貢していたからこそ、〈魏志倭人伝〉にも記載されているのです。
しかし、その頃の日本列島には耶馬台国群に対抗していた古代海人族らの、八幡国群が黒潮のくる各海浜には、処々にあって対抗し彼らは懸命に戦っていたのです。
 それに今も中国地方とよばれる岡山には、華夏王朝とよぶ吉備の地域が前から既にあったのです。
 高梁川の地名が今もある一帯で、大和朝廷になってからは、大陸から新しくきたのと区別するためにと、トウはトウでも藤でなく「桃」とよばれる人々のいた土地なのである。
〈群書類従〉の「大唐和尚伝」に、桃原とか桃生との文字ででてくる日本へきてからの唐人にお伴をする通訳の連中の植民地だった安全な土地があるのに、
何故に彼らが中国系だったら東北の津軽まで逃亡するのか辻つまが全然あいません。〈葦原談義〉には、つがる平原は、葦の大草原にて、豊葦原の国なりぬと史書にもいう、とあります。
 そして、ひとつかみの稲穂をもって九州の築紫にきた後の日向族が、遊放民族の猿田彦に米の味を覚えさせ、酒や女をあてがって、今いう呑ませる、抱かせる、握らせるで彼ら部族を己が奴隷となし、
自分らは高天原より高千穂に降臨せし神々なりと称し、やがて本州の耶馬台国を征討させました由。
 さて日向族の彼らが持ちこんできて、強制的に水稲を種もみとして植えさせ、収穫を、「上毛」と称して貢進させていたのが、韓国産のホコネとよぶ水稲の種もみと高天原より高千穂へ、
鉄の矛や剣をもってきたジンムは、韓国より渡来の日向族で、己らが先祖だと韓国史学界では言うのであります。
 津軽契丹 
東日流三郡暦の考察
天刑の乱こと、天慶の乱で坂東八ケ国の拝火宗徒を津軽へ追った時、藤原氏は唐を滅ぼし、取って代わった契丹(宋国)よりの今来漢人をになし東北へ追ったというのが、津軽大陸人説の真相である。
 〈東日流開聞〉の章では、太古は中国大陸や韓国とも日本列島は地続きであったとして、当初は、
「アソベ一族」の民が海浜で塩をやき漁をして暮していた処へ、中国系の津保化一族が大挙して押しよせてきて、石斧や石剣の縄文人を攻め、やがて彼らが逃げこんだ行来盛火山が噴火して死滅。
その後へ耶馬台国の一族や中国より渡来民が入ってきて、混血しあって、荒吐一族となり、異民族の倭族とはあけくれ交戦をくり返しつつ津軽を確保したといいます。
これが津軽の非大和民族説です。
 よって日向族がたてた大和朝廷では、斉明帝の頃に、奥州の荒吐五王を難波の都に招いて官位を与えて懐柔しようとしたが、津軽は拒んだので、阿倍比羅夫が百八十隻の船団で討伐にきたが、
有間浜で応戦して八十余隻を火箭をもって焼き払い、やむなく阿倍比羅夫は、船の酒や食糧を提供して命乞いしたといいますし、斉明六年に又も阿倍船団二百隻の来攻があったが、
十三湊で沈められてしまったのが半分以上。陸から前に攻めこんできた上野毛田道将軍のごときは、部下もろとも六百八十余名が一人残らず中山にて包囲全滅されてしまったと、その津軽の武勇さを誇っています。
 今でこそ大和民族は単一民族と学校歴史では義務教育しますが、これでは大和朝廷系の日向族と、東北の、耶馬台国残党の中国系の荒吐族とは、ともに天地を共に頂かぬ異民族どうしとなります。
 つまり韓国と中国の勢力争いを、縄文日本人を兵卒にして、双方で必死にくり返して、「安東将軍」とか「征東将軍」、明治になるまで「征夷大将軍」の官命がこれ故にあったのです。
明治政府も、「界外」とみて降参した賊軍会津を移したりしましたが「津軽盲暦」というヤマトの漢字は一切使用しない絵だけのカレンダーを江尸時代から用いて対抗していた。
契丹系も追われ津軽に多く住んでいて鈴木姓を名のる。現在でも青森県には「つがる暦」という漢字を全く使わない絵暦ががある。
 
日本人は高千穂より九州を平定し大和へ入ってきた日向族ではなく津軽の荒吐族こそ耶馬台国直系の貴種なりとする他、世界史の中に、その津軽年代表をおき証明す。
 〈日本書紀〉や〈古事記〉みたいに神がかりの内容ではなくして、〈最古代重日流外三郡暦〉では、
「津軽の歴史は日本皇紀より約二千二百九十三年より古く、中国の陳の時代で、当時西南や太平洋州では、シャールキン一世がサーゴンと国号を定めて、カルジヤを建国し栄えていた時代」とし、
「アフリカでは既にメネスが黄金帝国をつくっていたし、エジプトでメンフィスが奴隷とした白色人種を使役したピラミッドを作りだしていたものである」と、
世界史の中で、津軽建国を説明しています。「ビッキムガモ」と称していた津軽の原住民たちが栄えだした頃は、中国は黄帝の世で暦法を定め、算術、医書、養蚕をもう始めだし、
アフリカではエジプト第四王朝のスフィンクス造成期となす。
 中国が「夏」となった頃、インドにアリアン族が大挙して進攻。当時の日本列島は百二十八の種族の民が漂着し、それぞれ一族で分領しあって相互闘争をくり返し、津軽では石器より土器時代。
 アラビヤにプクソスが現われて統一しだした時、ヨーロッパ北部には白っ子人種のスカンジナビア人が集りだし、これは後の白人種となる。津軽ではコウゾの樹皮や鹿皮で衣服をつくるようになったとします。
 スリイピングバックの元祖にあたるような、獣の毛皮をはぎ二枚をつなぎ合せた袋に入って、寒気の厳しき津軽では冬の寝具を作りだすようになった頃、中国では「殷」が建国されています。
 アラブではイスラエル族がカナンの地に入りだした頃。ヨーロッパのギリシヤが航海術にすぐれ、スカンジナビア人らも暖流寒流の潮流で大洋航行することを次第に覚え活躍しだしたゆえ、
スパルタが起こったり、トロイが木馬を城内に入れた為に隠れていた兵達に占領されたりして滅亡する。
 さて中国が『周』となって武王が即位した頃、とことわってから、〈東日流外三郡暦〉では、日本国日向に高天原天神地神の愚想信仰起こりて、衆是に従う者多し、その導師は女人なりという。
津軽にては大船を造りて渡島や東島崎にゆき交易」とでています。こんなことが堂々と行われたなら、江戸時代だけでなくても皇国史観の昭和初期から、戦後までのおかみでも、
不敬罪もので投獄処刑であります。さらに、「インドにシャカが生まれて仏法が弘まりだした頃になっても、日本はまだ統一されておらず」とあります。
 東北=津保化族。関東‥卜宇津味族。中部=津袮奈族。奈良H‥津止三毛野族。紀伊り奈津三毛野族。
南海道=大賀味族。淡路=賀止利族。因州=宇津奴族。安芸=亜羅三毛族。北九州=日向一族。南九州=猿田一族と分かれて「神武帝日向高千穂宮より東征なされしは、即位前七年冬十月五日なれど、
山口周防の軍勢に一年の余にわたって封じこめられ、進撃するあたわず、ようやく向わんとするも安芸に拒まれ七年の歳月を失う」と、吉備で八年も釘づけにされ、
「高島でも三年も悪戦苦闘をしいられて難波の浪速に到り、淀川をのぼって河内の草香村の自肩の津に辿りつく」とあります。
 河内の草香というのは後の桓武帝の御生母高野新笠の居られた土地で、ここへ彼らが持ちこんできた韓神さまが平野四神で〈神祇式〉によれば、やがて、皇大神となると記録されてもおります。
 だから妙に辻つまが合わされていて、河内で武具を整えて竜田へ進軍したがならず、生駒〈夷駒山〉越えに大和へ入ろうとした先発隊の五瀬命は討死。
和泉へ向えば稲飯命もそこであえなく戦死。
 といったように日向族が、大和朝廷をつくる迄の戦争。「津軽のみは殺掠を好まず別個に暮し豊かに暮せり。これ日本神代の実相にて、日本史の誤てるを心に感銘をなす可。寛政庚申二月 秋田孝季」
 となっています。つまり大和朝廷成立以前にあって、津軽は別個の、異民族として栄えていたというのです。明治以降ドイツからきた長州の御雇い教師リースが、日本人は島国ゆえ単一民族だと今の
学校歴史を設定してしまいましたが、この書はこれに反対して、明確に複合民族であると主張しているのです。
津軽異種説

縄文時代から武力征服されて弥生時代に変った時の日本の人種は、百余にも別れていたというし、あくまでも単一民族ではなくて違うと主張するのは津軽のみです。
 秋田孝季があげている各種族の名称を分類しますと、ウクスツヌの発音が上につく津とか宇のつく中国大陸系がある。イキシチニのつくのは朝鮮系。アカサタナのつくのは古代海人族。
オコソの発音がやはり上につくのは沿海州から入ってきた、蒙古系と分類されている。これは正しい見方である。
日本列島は、ベーリング寒流と黒潮暖流が流れてきて抜けてゆく日本列島だけに、あらゆる種族が入りまじっています。
また、〈日本古事記〉に言う苦戦の経過も、記紀のに合わされています。
 しかし、これをその儘うのみにしてしまいますと、中国大陸の魏の国に朝貢して臣従していた日本の耶馬台国政権を、韓国よりの日向族が随分とも苦労してご先祖様を解放してくれた事になります。
 なにしろ秋田孝季らが、これを書いた江戸時代の寛政時代というのは、まだ熊沢蕃山でさえ、「中国人は貴種」とあがめ、荻生徂徠でさえ物徂徠と号をつけ、
「もし孔子や孟子の国から攻めてきたら、それでも迎え討てるか?」等と議論しあい、儒学者たちが、しきりと迷い悩んでいた時代なのであります。
 今でも舶来崇拝とか西洋かぶれといった言葉がありますが、これは、縄文日本人として征服され弥生時代から奴隷とされてきた劣等感の裏返しみたいに、
日本人は「ええ恰好し」と言われる国民性です。
 ですから秋田孝季が現代人でしたら、山本七平みたいに(ユダヤ人でも白人だから)と書きもしたでしょうが、まだ南蛮人は紅毛の蛮人みたいに思われ、最高の貴人は中国人なりとされていた頃ゆえ、
津軽人の先祖は、その貴種なりと悦ばしげに恰好づけしたにすぎないような気がします。
 そして今日の学校歴史も、満鉄歴史と申してもよいように、日露戦争後に満州へ侵出するため布設した南満州鉄道によって鴨緑江経由でシルクロードから、すべての文化は流入されてきたごとくに、
海洋潮流学を全く考えぬ、陸路日本史ですので、中国人を柤とする津軽の荒吐族だけは、日向族つまり当時の三韓からの侵略者たちか弥生時代に変え、
奴隷にして徴兵した縄文日本原住民をそれぞれ三方から棄て殺しにして戦わせあっていたのに対し、津軽は超然としていたなどと書いたのでありましょう。
 しかし日本海も対島海峡もなく、中国大陸や韓国と日本列島が陸続きであったという仮説のもとに、この〈東日流外三郡誌〉は成立していますが、
〈魏志倭人伝〉にも、日本列島は洋上にあった事は明記されています。つまり藤原基経によって廃立され山中へ逃れたもうた陽成帝やその側近が、木地師となってからも、
自分らの先祖は高貴な出自であると誇って、それぞれが変ですが、「藤原姓」を、追われた立場では敵姓なのに、逆に用いて今に到っているのと同工異曲であります。
 なのに今では安倍一族でさえ京の懐柔政策で、藤原姓をうけて名のると、さもそのせいみたいに、「藤原三代の栄華」と、東北には当時黄金だけはあり余っていて、
消費都市の京へと「金売吉次」といったセールスマンを派遣しても捌けず、やむなく建立した金色堂などをもって裏付けとするのと、まったく本当の歴史離れした日本歴史の変てこな論理に、
さも中国大陸系の耶馬台人と、朝鮮系日向族の代理戦争みたいに書かれたものが、今となっては韓国史学界を歓ばせているのです。
 シルクロード熱で誤らされていては、真実の解明などは及びつこう筈はありえません。かえって、こうした他から隙を突かれるようなものさえも、今ここに蘇ってきてしまうのです。
まあ世界史とはまったく分離して独得すぎる日本史を勝手に作ってしまったのは歴史屋さんの責任でしょう。

今や習近平独裁の共産中国は、ひたひたとその世界侵略を日本にも向けている。
 今さら日本国民を、右寄りに教育しても遅いが、日本人は百余種の流入混種の複合民族なのだと、そこを正直に教え、ライジングサンの旭日旗の下に、日本人たるもの日本列島を命がけで守らねばならないと実教育をすべきでしょう。外国で歴史をよく勉強させるのは、愛国心を持たせるのが教育目的だそうです。
それを単なる暗記物にして年号だけ覚えさせたり、大学入試にも歴史は除かれている今のお国柄ではどうなるものでもなかろう。
尖閣を盗られ、沖縄も盗られ、最後は日本本土が奴隷化されかねない現状を俯瞰すれば、未来は暗澹たるものである。
 

論考 『足利義満』▲▼▲▼足利義満と金▼▲▼

2021-07-05 19:18:08 | 新日本意外史 古代から現代まで


      論考 『足利義満』 

▲▼▲▼足利義満と金▼▲▼  NO-1



現在の高校歴史教科書で採用されている『詳説日本史』には「足利義満は尊氏の孫であって、細川、斯波、畠山氏らによって守護領国制も確立し、六十年の長きに及んだ南北朝の対立も合体させ、幕府の全国統一を成した。
従一位太政大臣となって勢威をふるい、応永十一年には勘合符をもって官船の日明貿易を始めたが、中国の伝統的外交方針である属国の朝貢という形式がとられたゆえ<日本国王臣源>と義満は臣下の礼をとり、
その代わり多くの貿易上の利益を収めた。


勘合船は中国南支沿岸の寧波で査証を受け、首都北京で交易に当たったが、朝貢形式のため関税も掛らず滞在費、運搬費、帰国費まで明側で負担したので、その貿易の利潤は大きかった」とあり、
その後に続いて「1392年の明徳三年ついに李成桂が、明の援助によつて高麗にとって代わって、<李氏朝鮮>が建国された。
足利義満は倭寇の禁止を求められ、それに応じて国交を開きその貿易も、中国との勘合貿易と同様の形式で続けられた」の記述である。


これでは李氏朝鮮に対しても義満はやはり<臣日本国王>として朝貢の形式をとって貿易していたのだろうか?という疑問がどうしてもわいてくる。


李氏朝鮮建国から二七年目の応永二六年には、朝鮮海軍は対馬へ攻めてきて無血上陸し、乱暴や略奪をしたあげく住民を奴隷に連れ去るというとんでもない暴挙をあえてしている。
(こうした歴史上の事実を現韓国政府も国民も知らないで「日本悪者論」の大合唱である。)
だが足利氏は何もせずただ傍観。そしてこの年も勘合符を持った官船が恭しく貿易にいっている。対等の国交ならいくら平和的人間でも抗議ぐらいはするか、その年だけでも貿易停止はすべきなのに、この弱腰は何だろう。


なにしろ、義満は国内では、山名氏清を倒し(明徳の乱)長洲の大内義弘をも堺で攻め滅ぼして(応永の乱)いる。これも学校歴史に出ている。
となると対外的にはペコペコしていても、実際には平和愛好家とは言えぬ。相手が中国でも朝鮮でも金儲けにさえなれば、ヘラヘラして臣従していたのが足利義満ということになる。だがはたしてこの真相は如何に。


   明国貿易の真実


足利義満が左大臣になった明徳三年に高麗王朝が李王朝に代わってしまったのは初めに述べた。この知らせに義満は驚いた。「これは大変である。早く国内を統一せねば」あわてて義満は吉野の後亀山帝に戻って頂き、
神器を北朝の立てていた御小松帝に授けて貰い、南北両統を合一し己は太政大臣になった。
この時に何故義満が国内を急ぎ纏めをして警戒しなければならなかったかと言えば、それなりの訳が在るらしい。
かつて大陸で元が建国した後直ぐ文永、弘安の来寇があった。


その後も押し寄せては来なくても朝鮮に大軍集結の情報が次々ともたらされた。
つまり北条時代というのは、時宗以降は、又何時襲ってくるかと防備に身をやつし、兵力も銀や銭も防備に廻してしまい、九州へ全力投球していた。


だから肝心な鎌倉が手薄になってしまい、新田義貞に稲村ガ崎から攻め込まれた時も、兵が足りず、北条高時は時の執権北条守時らと共に火中へ身を投じて滅んでしまったのである。
今の歴史屋は、何故に元が北条時代に、無謀とも言える無益きわまりない来寇を繰り返したかの理由を明らかにしない。


しかし<元史>とも呼ばれる『南宋実録』には、その条にはっきりと「復仇」の二文字が読みとれる。(なにも北条氏が元の国を攻めたわけでもない。それなのに復讐に来寇される訳など無いのである)と歴史屋は全く問題にもしていない。


しかし日本の四民四姓(源平籐橘)の内で
われらミナモトの民なり、と白山神を仰ぎ尊ぶ白旗を立て「蘇民将来子孫也」の柳幹を腰にぶら下げ、馬に乗って山野を駆けめぐった源氏は、沿海州から北鮮にかけて発祥した元と同じ種族の騎馬民族である。


つまり「チンギスカンは源の義経」説がでるくらいに、言語習慣も同じであるし、源氏の象徴である笹りんどうの紋は、沿海州ハバロフスク民族館の入口には民族章として、今でも堂々とレリーフとして飾られている。
 今日の学校歴史の如く、北条政子が頼朝の妻だったからの理由づけで、北条氏を源氏と見てしまう史観では判らないが、北条は拝火教で源ではなく旧平家だった事さえ判れば、この差異は呑み込める。
元寇とは、源が北条(平氏)に滅ぼされたのを知り、日本列島も元と同種族の源の国に戻さんとしてのくり返しの来襲であったという明白な事実が判って来るのである。
これを今の日本人は全く知らないが、昔の十四世紀の日本人はよく判っていたらしい。


「また北条時代のように来寇されては堪らない」と。だから義満は狼狽したのである。
親明政権の李世桂によって統一されたから、明国と共に攻め込んで来るかと恐れてである。
現在韓国は秀吉の征韓の役や、朝鮮を併合したことを根に持って、日本を悪しざまに謂うが、元の手先となって何度も日本に攻め込んだことをここに指摘しておきたい。
そこで政争を南朝方としていては大変と急遽和解をした。そして、(前、北条政権は平姓で源を滅ぼした敵姓だったが自分は違う)と、ことさらに対外的には保身のため源を名乗ったのだろう。
つまり勘合符を使って明や新興朝鮮にも朝貢と呼ぶ恰好で臣従の礼を示したのも、足利体制を守るため、割り切って頭を下げていたのである。



だから大陸人によって無謀にも壱岐対馬を荒らされても、
(局地的被害は仕方がない)と目をつむり、平静に振る舞って貿易を続行していただけの話しである。
だが、義満の外交手腕で明や朝鮮をまんまと騙したが、国内では上手の手から水が漏るの譬通り、案外と抜けたことをしている。というのは、
火は清浄なものであると崇拝する拝火教徒は死後は火屋(ほや)に入れて焼く。
しかし騎馬民族の元や北鮮からの源氏は、死者の顔に白布を被せ、頭を北枕にして土葬する風習があり、これは幕末まで続いている。


所が「源」を名のっていても、
足利氏は土葬ではなく火葬にし、等持院に葬り木像を飾っている。これは「輪廻」といって、人間は一度死んでも何度も生まれ変わるものだと、信じられていたのが中世期の思想だったためである。
それゆえ葬いだけは、次ぎに生まれ損なってはいけないから、拝火教徒は神妙に死という汚れをお清めするための火葬は、来世蘇生のため止められなかったらしい。信仰のせいである。


(日本史の捉え方として、原住系と外来系との対立、民族間の闘争。そして宗教対立という視点から入れば解明しやすくなる)
つまり足利義満が大陸勢力を極端に恐れたのは、元から睨まれる西南系拝火教の末裔という、そうした出自からである。
そしてこれが「応永の乱」と呼ばれる大内義弘が堺に拠っての叛乱にも繋がる。日本史に隠されているが、渡来した中国人に
よって早くたてられた吉備王朝の昔から「中国地方」と呼ばれる岡山以西は、中国渡来の文化人が住み着いていた土地ゆえ、山口は京そっくりだと小京都の別名もあるくらいで、
その血を引く大内氏は南シナ海のニンポーに出先機関を持っていた。

この大内氏というのは「朝鮮百済王聖明の三子の琳聖、東海の周防大内県(吉敷群)に一族と来たり。
初めは多々良氏を称す」と、当時では栄誉ある舶来系で、大内氏を称してからも「我が祖の家系について」と朝鮮へ身元確認の親善使をたてたりしている。明国のニンポーは今で言う領事館である。
その山口には「日本国昔年欽奉、大明国勅賜御印」と但書の付く「日本国王」の印鑑。
それと「朝鮮国賜印、景泰四年七月造」という銅印を持っていて「祖国朝鮮、明国万歳」とやっていたのが大内氏である。だから長門へ追われて逃げた時も、大陸の血を引く公家さんたちの左中将二条良豊、持明院権中納言冷泉隆豊らが一緒だった程である。

「寧波」の漢字を当てるが、そこから堺まで海流を利用した航路が開かれていて、大内義弘は本国の長州より、海流の便利を考え、南支よりの応援を当て込んで堺で兵を上げたのである。


(信長も堺とマカオ間に火薬輸入のため、航路をもっていた)「吾が足利のことを向こうへ知らせ、助力の兵が来ては大変だ」と、この時義満は狼狽しただろう。
そして自分が先陣に立って全軍を指揮して一気に落とした。
九州の南朝方を討伐するときでも自分は行かず、今川貞世を名代に出している。
山名一族叛乱の明徳の乱の時も河野通義を派遣して、自分では戦争に行ったことがない義満が、堺まで出かけて指揮を執って攻めたのだから、如何に彼が大陸を恐れていたかが判る。

さて、である。いくら義満が「臣」とへりくだっても、明国がそれだけで満足して「よしよし」とビタ銭と呼ぶ鉄銭を、公式記録では六十万枚だが、
その後日本では幕末まで一文銭として全国的に通用していたのだから、実数はその百倍の六千万枚にも及ぶ莫大な物を「日本王は臣として朝貢してきているのだから、
どんどん呉れてやれ」と果たして気前良く送荷してくれたであろうか。
今の歴史は、臣従したことへの報酬と極めて安直に解釈するが、常識的に判断して、こんな事が果たして有り得るだろうか。今まで誰も解明していない。
鉄貨流入は臣従と関係ない貿易による物と思推される。
では日本からの輸出品は何かとなる。学校歴史では漆器、蒔絵、甲冑、日本刀の類と言うが、向こうに日本人が居ないのにこれはおかしい。隠されているが、それは黄金である。


当時の日本列島にどんどん産出された山金や砂金を大陸に送り込んでいた。黄金で同じ重さの粗悪なビタ銭と引き替えていたものらしい。
実数を六千万枚と見ても、ビタ銭一枚七十五グラムとして、四十五万キロもの夥しい黄金がむざむざと足利氏によって、明国へ、貿易とも言えぬ、割の合わない、朝貢という美名で搾取をされていた。
足利氏御用の日銀であり、大蔵省でもあった蜷川家の手で、現在の常識では考えられぬが、次々と送り出されていたらしい。


■■■■足利義満と金■■■■ NO-2


マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「北京の宮廷で夥しい山金の塊りや袋入りの砂金をみて、何処からと聞けば東方の島国からと言う。そこはまだ開発途上国で材質柔らかく、装飾用にしかならぬ黄金の需要など全くなく、
鉄や銅のごとき硬質の物のみ求めている黄金で輝く島があり、道にも岩金がゴロゴロしていて、全く無価値と言われる」と言った意味のレポートが出ている。
だが日本ではまさかと従来は誇張の如くとられている。
しかしルネッサンスの植民地支配時代に入った ヨーロッパではアフリカやインドの有色人種は、その肌に似合うからと黄金を欲しがっていた。つまり他国より先に植民地を確保するためには、
どうしてもその地の王や有力者の関心をかうため、黄金を必要とした。 が困ったことに金が何処からも採掘できぬヨーロッパである。


つまりジャン・パルジャンが教会から盗み出した燭台の如く、それまでのヨーロッパ は銀だけが貴金属だった。所が植民地確保の
競合に突入すると、白人には銀が似合うが、有色人種は金を好むゆえ各国が競って金を求めて当時ポルトガルのエンリケ航海王によって発見された、
海流航海法を利用するため急ぎ大型船建造を始めた。もしヨーロッパで昔から金が貴金属視されていたものなら、錬金術といったまやかしものが堂々と各宮廷に突如として出てくる筈はない。


王や貴族が何処でも錬金術師を歓待したのは、それまで金を軽視していた証拠である。慌てていたのであろう。それが証拠に大英博物館やロンドン塔、ルー
ブル美術館へ行っても、ルネッサンス以前の物で金を用いた装飾品やコップの類は少ない。


つまり金と銀の評価が現在と中世では、まるっきり違っていたことが判らねばならない。そして『東方見聞録』の内容は各国で評判になったらしい。


彼らにとって喉から手の出る程欲しい金がゴロゴロしている島国が東方洋上にあるというので、各国で建造した大型帆船を皆東洋向け出帆させた。


当時魔女狩り旋風の吹き荒れる欧州各国から、一斉に日本向け船が来たのは、何もキリスト教布教の為でなく、黄金の宝島探しのためであった。
幕末のペルリの来航が、当時のアメリカの捕鯨船団の給水補給基地に日本を当てるため、黒船を率いて浦賀へ来たように、15~16世紀の南蛮船の来航目的は黄金探しが真相である。
当時の日本の国情が詳細に欧州にレポートされ、今も保存されているのも、このおかげである。


つまり日本からの物を向こうへ渡して儲けていた明国では、黄金の値打ちが判っていて、バーター制で同量の金を運ばせよう
と、ビタ銭をどんどん鋳造して日本へ送っていたのである。


つまり縄文期の銅器時代が終わり、武器や農耕機具に銅より硬い鉄が必要なのに日本では鉄の産出が少なく、金だけはごろごろしていたのが中世の日本だったと言えよう。
金時計や金歯、金指輪も無かった時代なので、牛若丸を奥州へ連れて行った者も「金はいらんかね、安くしとくよ」と、当時は日本一の消費都市の京へ平泉の有り余っている金のセールスに来ていた
<金売り吉次>(きんうり)の名で今では偲ぶだけである。
金が未だ貨幣でなかった頃。金は叩いて延ばせば広がるが実用的なスキ、クワも出来ぬし、釘や鋸にもならない。
京へ持っていっても、金屏風の箔位にしか買ってもらえない。あまり売れないので吉次は牛若丸を営利誘拐したか、甘言で騙して奥州へ連れていったのかもしれない。
何しろ余り売れないので、平泉では金色堂といった金の延べ板の堂や、箱や壺等作っていたらしい。
現在でこそ貨幣が金本位制になり、発行する紙幣に見合うだけの量が無いから、インフレ対策に金の延べ棒や板が財産保全にと大切にされている。
未だ住民の殆どが穴居生活をしていた当時の奥州でも、装飾品にしかならぬ金は益無き代物ゆえ、堂の壁板や瓶に細工しやすいから使っただけの話し。


それなのに、現代では勘違いされて、今日的価値判断で見て間違い、金がふんだんに惜しみなく派手に使われているのは、さぞ文化水準が高かったのだろうと「藤原三代の栄華」とか「平泉文化」と帰納してしまう。これはおかしい。
足利末期の関白一条兼良が、応仁の乱の時避難していた奈良興福寺大乗院の院主は 兼良の三男だが「黄金は明国人へ進物にすれば歓ばれると、京の各寺にては鋳物の下人に命じて鋳型にて黄金板を作らしめている」と、
今に残る「大乗院寺社雑事記」に書き残されている。これは活字本でも読める。
つまり足利末期でさえ金は進物品としか見られていなかったのを尋尊大僧正が自筆で書き残した程ゆえ、その一世紀前の義満やマルコ・ポーロの頃には「こんなもので宜しければ、どんどん持たせます」
と、明へ進上していたのも判る。何しろビタ銭に鋳られてくる鉄銭は溶かせば刀や槍にする事もできる。
だが足利末期の応仁の乱では、双方共矢種が尽きてしまい、鉄銭で矢じりまで作った。つまり二束三文と言う言葉も、当時の矢は一筋と呼ばず一束といっていたから、一文銭三つ溶かして矢が二本出来たということを指すのである。
「応仁私記」にも「近頃は金も値が貴くなりて」と出てくるように、勘合符で運んでくる官船の他、私船で買い取りに来る商人も増え出したので、金にも商品価値が出てきたらしい。
つまり儲かる黄金を自発的にどんどん積み出してくるので「テンホウである」と、足利氏の素性が海洋民族であっても一向に構わんと、進攻等しなかっただけと見るべきで、この点義満の対明政策は成功といえよう。
そして対明用に集結した金の延べ板の余ったので今のプレハブ住宅なみに、応永四年四月一日に北山に金閣寺を作らせ、僅か半月で完成させ、十六日に検分している。
しかし対比上、銀の方も建てようとしたものの、材料入手難で計画倒れとなり、八十七年後の足利義政の代になってようやく銀閣寺は完成している。この一例をもってしても、銀は金に比すべくもない貴金属だった明白な証拠といえる。


◆◆◆◆足利義満と金◆◆◆◆ NO-3

金が無くて倒産というのはある。だが大阪城のように天守閣には割竹に流し込まれた金の延べ棒が山積みされていて落城してしまった事実は何を意味するのだろう。
分銅流しとか竿金の名称で「頑丈な天守の床板が軋むほ程に積み上げて在った」と記録にある。有り体は、この時期においても金はカネでなかったことである。
大阪落城後の焼け跡に岩のようにごろごろしていた黄金を、略奪したり、掻払った兵もいない。「汝に悉皆みな呉れてやる」と家康に言われて全部貰った籐堂高虎も有難迷惑そうに集めて茶釜や茶壺を作っている。


歴史屋は(猛烈な炎に焼きただれていたゆえ、そうした用途しかなかったのだ)と説明する。
だが鉄屑のスクラップを溶かして新鉄にするごとく銀でも金でも火力のため黒ずみは表面に出るが変質することはない。
高虎にしても、黄金がカネなら茶壺など作らず通貨に鋳造し直す筈だし、それより吝な家康が気前良く皆呉れてやるはずはない。


これは家康が元和元年五月の時点で、黄金とは単なる装飾用軟質金属にすぎず、まだカネではないと認識していた例証でもある。
十六世紀と現代では様々な事象に対して評価が逆なのを理解しなければならない。「黄金の茶室」を秀吉が作ったからと言って、さも豪華絢爛だったごとく目を奪われ間違えるが、金閣寺や金色堂と同じように、
廃物利用とはいえぬまでも、余っているから使ったに過ぎないらしい。


当時ヨーロッパ各国もルネッサンスの為のバブル金儲けの植民地政策上、従来の銀本位制から金本位制に切り替えていたゆえ、織田信長もポルトガルとの火薬輸入決済に日本を金本位に切り替えようとしたらしい。


しかし、当時の日本の銀の大半を支配していた蜷川道斎に忌まれ、その姪の夫にあたる丹波亀山在城目付の斉藤内蔵介に率いられた一万三千の軍によって本能寺で爆死を遂げた。(この内蔵介を
影で操った黒幕が家康なのである)


 次の秀吉も大陸遠征の火薬や資材購入のため、やはり対外的には金で決済だったゆえ、金本位制に貨幣制度の切り換えを目論んだ。その計算の元彼が作らせたのが、
日本最初の金貨である天正大判小判なのである。だが秀吉の権勢をもってしても、足利時代から連綿として続いてきた蜷川財閥金融資本の銀は強く、切り替えは出来なかった。


  やむなく勲章代わりに各大名へ与えたり、公家を集めて「金配り」とばらまいたと言うのも、金本位移行の為の布石か、又は蜷川勢力に勝てぬ事への鬱憤ばらしとも考えられる。
この計画のため、佐渡金山を取り上げ、上杉景勝を会津百万石へ移封させもしたが、雄図空しく金がカネにならず、用途を失った地金がやむなく大阪城に山積みされていただけの話しである。


 だから無価値な黄金を貰っても仕方ないと、諸大名も味方しなかったのである。
 又大阪城の幹部連中も京阪では蜷川の目が光っていて金は価値なしと判っては、集まった浪人共の士気が阻喪するだろうと、遠隔地から集めてきた女達で、大阪城三の曲輪に大慰安所を設けた。
  落城の際、女が二万人の余も居たと伝わるのは、淀君付きの侍女や腰元だけでなく、慰安婦が一万五千余も居たからである。


  つまり大阪城では浪人共が外部へ出なくてもすむように、城内で酒と女をふんだんに当てがって、これも黄金の力なりと信じ込ませて奮戦させたものらしい。
 そして、次の国家主権者の徳川家康でさえ、銀本位制の変革はせぬと伏見城内で鋳造させた金の小判は関東へ移し、金を貨幣として通用させるのは箱根の山から東だけと限定した。


  二十一世紀の現代でも「一金何円」と、領収書、小切手、約手に書く習慣も、幕末まで天下の権勢によって箱根の関所で東西に分け、以東は金で一両は四分、一分は四朱だが、三島から九州までは銀本位制で何匁が単位だった。

「箱根の山は天下の嶮」と言うのは、ここの関所は入国管理所と税関のような所で通過する旅人から「お前の所持金は十両だから、手数料二分を置いて行け」と、やっていて、莫大な儲けになったらしい。
  ”天下の嶮”は権力の”権”の意である。金と銀では等価が違うから、領収書その他に金で払うのか、銀で払うのかを初めにつけて区別する名残が今でも在るのはこの訳である。


  さて、日本全国の銀を支配していた蜷川道斎の姪婿の斉藤内蔵介の忘れ形見の阿福が春日局になる。
  その前夫との子の稲葉正吉が、金銀交換で儲けの多い天下の権の箱根を押さえる小田原十万石の城主に、従来の大久保家を陥れてなったり、その子の正休は若年寄になって幕政を担当するのもそれなりの訳があった。


  同じく春日局の孫娘を妻とした堀田は後に大老となって天下を押さえだした。だから親類に当たる蜷川が、春日局の家老と言う恰好で、当時の喜左衛門が江戸へ来て大名並の豪勢な暮らしをしていたと、太田南畝の考証にもある。


  が、貞享元年八月二十八日に千代田城内で若年寄稲葉正休が、現在換算で数十億にものぼる春日局の遺産を、直系でもない孫婿のくせに堀田正俊が横領しているのはけしからんと刃傷。
 共に殺し殺されてしまった事件が起きた。このため幕閣を押さえていた春日局の孫共が断絶廃家となった。
 蜷川喜左衛門の孫も京へ戻ったし、それまでの蜷川の圧力も減じてきた。そこへ目を付けたのが柳沢吉保その人である。


  「足利義満のために日本の金も豊臣家以降は底をつき、通用量に事欠く有様。よってこれまでの含有量の多い大判小判は禁止し、銅増しの新小判を鋳直すべしと砂田彦十郎の献策だが、吉良上野介殿は京方の足利氏の血脈である。
その為に向こうでは頼られていて、よって毎年の如く行かれ知己も多い。


一つよしなに新小判造りの采配をおみに頼む」佐渡金山を開発した上杉家の三姫を妻にしている、高家筆頭の切れ者の上野介を呼んだ柳沢は次ぎに「京都所司代小笠原備後守や、京都町奉行松前伊豆守には、
おことに協力して仕事を成すよう既に命じて在る。銀をどうしょうではなく、蜷川に関係のない金だが、そこは用心するように」と命じた。
  これが悪貨は良貨を駆逐するといわれた元禄小判の誕生である。進言したことになっている砂田彦十郎は勘定奉行に栄転、協力した所司代は一万石加増の幕閣の老中。
松前伊豆守は江戸南町奉行に出世。だが総指揮を執って柳沢政権の金箱となった吉良は「おことは源氏白旗の高家筆頭の名誉ある武家の棟梁の家柄なれば」と若年寄にも昇進させてもらえぬ。
だから、嫌気の出た吉良は「辞める、隠居する」と言いだした。吉良の口から偽金造りの裏話が流布されては困ると、田舎大名の浅野内匠頭に、吉良に抜刀させるよう挑発せいと命令したのに、
失敗したから即日浅野をバッサリ殺して口封じをした。これが有名な赤穂事件の発端となる。
が、これは後日の話。


「大本営参謀の情報戦記」 堀 栄三著作 第五部 戦略爆撃と米軍暗号の解読

2021-07-02 11:00:15 | 新日本意外史 古代から現代まで

「大本営参謀の情報戦記」 堀 栄三著作 第五部
 戦略爆撃と米軍暗号の解読

日本は戦争も後半に入ると、B29爆撃機によって激しい爆撃を受け、東京をはじめ各都市は壊滅状態だった。この爆撃機は高度一万メートル以上を悠々と飛んできた。
星型二重のエンジンに、排気タービン過給機を付け、四発エンジンは、巡航速度が467k/hと戦闘機並みでは、日本の戦闘機は一撃離脱戦法がやっとだった。
これに立ち向かう日本戦闘機は、高空の薄い空気の為、エンジン出力不足で苦戦を余儀なくされた。
それでも、全戦期を通じて、400機を撃墜したとの記録が残っているが、アメリカ側の発表と合わなく、この数には疑問符が付く。


斜め機銃を背中に乗せた、夜間戦闘機の「月光」や「雷電」迎撃戦闘機が有名である。
この20mm斜め搭載機銃は、B29の夜間爆撃に対抗して考案された。
夜間飛来する、B29のエンジン排気炎を目標に、腹面から忍び寄り、下から胴体やエンジン部分に機銃弾を撃ち込む戦法である。
 考案当初、軍首脳部は効果があるのか半信半疑でしたが、ラバウルの航空部隊が成果を出すと大々的に採用されました。
こうして、二式陸上偵察機改造の試作迎撃機は、昭和18(1943)年8月に夜間戦闘機「月光」として制式化されました。
 夜間飛行は、昼間と違って極端に視野が狭くなり、上空と海面や地上との識別が困難になることもあるため、飛行場から飛び立つことはできても迎撃し、
帰還するのは非常に困難です。そのため航法や通信が非常に重要で、その点で乗員が手分けしてこれにあたることができる複座機の「月光」は、単座機に比べて有利でした。


 また機体が大柄なため、レーダーを装備することができ、その点でも夜間戦闘機に向いていました。というのも、当時のレーダーは大型で、しかも操作には手のかかるものだったため、
パイロットがひとりしかいない単座機に装備することは難しく、レーダーを搭載するのは他国も含めて双発の多座機ばかりでした。
 「月光」は数少ない日本のレーダー搭載機になり、旧日本海軍唯一の夜間戦闘機として用いられた。


B29は、グアムやサイパンから日本に向かう場合、日本軍の富士山に在ったレーダー波を目標に飛来したという。なんとも皮肉な話である。
こうして本土に近づくと、それぞれの編隊は、爆撃目標に向かい、南北に分かれて飛行したという。


何しろ日本の高射砲はB29の高度まで届かなかったから、高射砲での撃墜数は少なかった。
それでも、五式十五センチ高射砲は、射程一万八千メートルの性能で、久我山に在って、少しは役に立ったらしく、何機かの撃墜の報告はある。
しかし、絶対数が不足でB29にとっての大きな脅威にはならなかった。

 戦略爆撃と米軍暗号の解読


以下本文から引用

 米軍は、サイパン、テニアン、グアムの三島に昭和十九年九月にはすでに五十機、十月には七十機のB-29を進出方せた。
 堀の属する米国班は、航空本部の調査班、陸軍中央特種情報部(特情部)と緊密に連絡をとって、サイパン方面のB‐29の情報把握に努めたが、硫黄島失陥後は、日本の重爆機による攻撃も不可能になり、
日本から四千キロも離れたところにある飛行場に、いま現在何機のB29がいるかを知るのは至難のことになった。海軍機が奇跡的にサイパン飛行場の写真偵察に成功したのが、昭和十九年九月、その後十一月に陸軍機が、
かなりの高々度から、サイパン、テニアンの二島の写真撮影に成功したのが、硫黄島失陥前に挙げた手柄であった。それ以後は、もはや一機もこれらの島に日本機は飛べなかった。


 先に述べた特情部の重松少佐らが、海軍での指導を受けて活躍しだしたのが、昭和十九年十月である。特情部は鋭意サイパン方面のB-29の割出しを急いだが、その間にもB129の日本本土爆撃は一日{日と猛烈になってきた。
いわゆる戦略爆撃であった。戦略爆撃は、日本本土の戦略的目標である航空機生産工場、兵器生産工場、製鉄工場、鉄工製作工場などを狙い、名古屋及び東海地方、京浜地区、犬阪神尸地区、九州北部地区と、
昭和二十年一月以降本格的となり、遂に三月九日夜の東京に対する焼夷弾爆撃から、名占屋、大阪、神戸と都市爆撃に移っていった。
このため三月九日夜の東京大空襲では、東京での焼失家屋三十万戸、死者七万二千、負傷者二万五予というベルリン、ハンブルグの米軍の絨毯爆撃に匹敵する大被害を受け、日本国民の戦意を著しく喪失させた。

 その上、跳梁するB-29に対して、日本軍の防空部隊は高射砲も戦闘機もほとんど歯が立だなかった。その理由はB-29の高度に対して、日本防空戦闘機の高度が及ばなかったし、
高射砲も一万メートルの高度のB-29には弾丸が届かなかった。さらにB-29は雲のあるような天候不良のときを狙ってやってくる。レーダーを使っていたからであろうが、目視を原則とする日本の防空戦闘機は、
B-29の高度に達し得なかった。ここで寺本中将のウェワクでの言葉を想い出して貰いたい。


 「制空権とは制高権であって、相手が七千メートルまで昇れば、八千メートルまで昇れる飛行機を、九千メートルになったら一万メートルと、高所高所への競争になる。(中略)そして最後は国力の問題でもある」
 中将はこのときすでにB-29、高度一万メートルを予見していた。また「軍の主兵は航空なり」とは、航空は制空だけで敵の戦意を喪失させるだけの働きのあることも意味していて、中将はあの頃から戦略爆撃のあることも予見していたようだ。
 かくて戦略爆撃は米軍の占領した空域下で、日本列島が太平洋の小島のように弄ばれていた。
 こうなれば特情部が出来るだけ正確に、サイパン方面のB-29の状況を偵知する以外に、本土の被害を最小限にする方法はなかった。
 当時の特情部の企画運用主任だった横山幸雄中佐は、特情部の働きについて、戦後の手記に次のように述べている。


日本が「原爆投下を察知した」というのは嘘

 「特情部中野大佐のマニラ進出によって、一時空になった米英暗号解読研究班を、二十年五月、町田大尉を中心に再建し、釜賀一夫少佐らの援助を受け、数学、語学の学徒を動員して、極めて科学的に研究を続けた結果、
解読に約八十パーセントの成功を収め、暗号解読の曙光が見えたとき、惜しくも終戦を迎えてしまった。
 このように暗号解読の進展が意の如く進まなかったので、その補助手段として、海軍と協力して通信諜報調査を系統的に行った。特にこの調査中特筆すべきことは、戦争中本土に来襲するB-29の進発を確実に捕えて、
防空部隊に正確に通報し得たことであった。また特に広島、長崎に投下した原爆機を探知し、参謀総長から賞詞を授与されたことである。戦争末期には、全国に探知の網を張り、B-29の無線電話傍受のため、
五十人以上の二世を徴用した」これから判明するのは、出来れば暗号解読でB-29の行動を知りたかったが、解読はうまく進まなかったので、通信諜報による以外になかった。
しかもこの通信諜報がB-29の進発までを、はっきり膕んで各方面に連絡したので、あとは防空戦闘機や、高射砲の性能の悪さに責任があったと言外に言っている。
しかし参謀総長から賞詞を授与されたことは事実であったが、「原爆機を探知し」というのはいささか言い過ぎである。
戦後の回想にはこのようなことがしばしばある。


 特情部の出来だのは昭和十八年七月、参謀総長の直轄部隊だったが、仕事は第二部長が区処することになっていた。換言すれば堀の属する第六課、特に米国班がこの情報活動の担当班であって、
特情部からの情報で堀たちは、B-29の行動、配置などの判断をしていたのである。


B-29のコールサインを追う


 では、どのようにして特情部はB-29を追跡していたのか。
 海軍の通信諜報を勉強してきた重松正彦少佐を主任とする陸軍特情部研究班は、田無の特情部で耳を澄まして二十四時閧、サイパン方面のB-29が発信する電波を一語も洩らさじと聞いていた。
暗号解読が出来なかったので、取れるのは電波だけであった。もちろん、その取った全文は、内容がわからなくても、解読のための大切な研究資料となるから、没にするわけにはいかない。
その電波の統計を作っていくと、電波通信の冒頭部分には、一定の符号のあることが判明してきた。さらにそれを方向探知機で綿密に調査していくと、


 サイパンのB-29は、V四百番台
 グアムのB-29は、V五百番台
 テニアンのB-29は、V七百番台と判明してきた。


このコールサインをさらに丹念に調査していくと、例えば、15V576と出たら、第五七六戦隊の第十五番機であることがわかってきた。従ってV576の中に何番機まであるかを調べれば、機数が判明する。
B-29はサイパン付近で、盛んに訓練を実施したが、そのときも同様のコールサインを出すので、いま第何戦隊が第何番機から第何番機まで訓練飛行中ということまでわかりだした。


 米空軍は日本の通信諜報を、当初の間はあまり気にかけないで無警戒であったようだ。
日本ではこのコールサインを昼夜にわたって克明に数えて調査していた。そうするとこの戦隊はグアム、この戦隊はテニアン、その編制、機数などをほとんど掴むことが出来て、
最大機数は、三島で六百機以上になることもあった。もちろん、日本の上空で撃墜されたもの、途中事故で墜落したものなどは欠番となってくるので、各戦隊の損害も判明した。
さていよいよ爆撃に向うための発進であるが、発進命令を受けた戦隊は、まず飛行場の周辺で無線機の点検と電波の調整をする。このときの発信電波は、全機が一斉にV、V、V、V、V……とキーを叩く、
その電波の喧ましいほど賑やかなこと、「何かあるな?」と聞いている特情部の方ではすぐ判る。空中に舞い上ってしまえば、この電波が唯一の命綱であるから、発進にあたって十分に無線機を調整するのは当然であった。


 このV、V、V、V……があってからおおむね三十分ぐらいで発進したようだ。
発進後十分程度の飛行中に、また一回電波を出す。「15 V 575……」大体簡単なのが多かった。想像するに、「第十五番機異常なし」とでも発進直後の搭乗機の状況を報告していたようだ。
 それから後は、日本本土の富士山を目標に真直ぐ北上する。富士山がそんなに遠くから見えるわけでなく、富士山には日本のレーダーがあったので、その電波を利用して米軍は夜間でも曇天でも北上することが出来た。
皮肉なもので、こちらが敵機を早期に発見するために設けたレーダーの電波が、米軍に方向を間違えないように案内役をしてやっていたから、情報の世界はややこしい限りである。


B‐29の戦隊は途中硫黄島近くまで来ると、そこでまた、コールサインの入った電文を発信する。それはごく短いのもあり、長文のものもあった。
恐らく日本本土の爆撃目標、任務、将来の集合点などの確認ではないかと思われたが、解読が出来ないので内容は不明であった。
この時機に全国の方向探知機が、コールサインの位置を求めて、「何機どこどこを北上中」と報告する。


 さらに一回、いよいよ日本本土に侵入の直前、指揮官機と思われるものが短文を出す。それ以後は電波封心にとなるので、「これから電波封止」とでもやったのかも知れない。
この電波を捉えて方向探知に成功すると、「何機○○の方向へ進攻中」と大体の目標が判明する。この情報を防空部隊に通知するのが、特情部の重要な仕事であった。
第六課では特情部がコールサインから割り出したサイパン方面の、戦略爆撃部隊の今後の作戦が何かを判断していかねばならなかった。
 日本本土上空は米軍の無線封止空域になっていたので、ほとんど電波の捕捉は困難であった。しかし緊急事態、例えば某機に事故が発生したとか、爆撃目標を変更しなければならないとか、
日本の戦闘機が接近してきたとかいう場合には、無線電話で編隊長に緊急に連絡する。待ち構えている日本の全国の傍受組織がその声をキャッチする。帰路の集合点付近ではしばしば無線電話で話し合うので、
その声はほとんど聞きとれたし、その内容も判った。  
 通信諜報はあくまでも内容のわからない電波から、なにがしかを探り出そうという手法であったから、判明する内容には限度がある。しかもそれは極めて小幅の限度であった。
しかし発進から本土接近までの行動は見事に捉えることが出来た。これに米軍の発信する電文の内容が暗号解読できていたら……とそれが残念でならなかった。
(以下略)


次回は愈愈原爆投下の情報に入る。