新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本の遊女は職人だった 皇室と遊女の関係 アムステルダムの飾り窓の女

2019-05-25 17:46:55 | 古代から現代史まで
 
 
 
近頃は不倫だとか、主婦売春、少女売春も盛んだという。世の中が不景気になればこうした社会現象が多くなるという分析もなされているが、見方を変えれば、女がその方面で元気になってきた、とも言えるし、社会の倫理や道徳のタガが緩んできたため、日本女性の本性が馬脚を現したとも見られはしまいか。更に女性の犯罪も多くなっているという、統計も出ている。
ここで女性犯罪や売春問題を論じる気はないが、一体日本女性とは歴史上如何なる存在であったのか、ここでは、私の体験も交えての考察をしてみたい。 (以下は1980年代のことであり、最新情報ではない) オランダのアムステルダムには、映画でもお馴染みの「飾り窓」がある。勿論映画はセットだから綺麗に見えたが、実物は古い石造りの家の通路に面した所へ硝子窓をくっつけただけの物が多い。そして、それが一区画ずつ飛び飛びに繋がっている。水路と言っても五米幅の運河並のが、その間にここからアムスの町を流れ、また二町おき位に横に細い水路が水を岸すれすれに満たしている。初めて其処へ行った時、「こりゃあ日本の遊郭だ」と想った。
ただ違うところは、お歯黒溝(どぶ)がいつもすえたように臭かったのに、このアムスは海面より土地が低いせいで水が速く流れるから、まるで澱んだ臭いがしないだけである。昔日本に遊里の在った頃、決まって入り口に交番があって、うろん臭そうな眼で人相の悪いお巡りが立っていたものだが、この飾り窓のある一画の入り口にも、「スコットランド・ヤード」と英国と同名のもののセカンドオフィス、つまり第二分署の建物がある。
 
 
ただ日本と違うのはレストランみたいなガラスばりになっていて、十五、六人のポリスの勤務状態が、彼らに給料を払っている納税者の市民から丸見えになっている。さぼって煙草ばかりくゆらしているのでも居ようものなら、通行人がガラス戸を叩く。すると中からヤアと手を振って、ポリスは何の帳簿か判らないが、真面目くさってそれを拡げたりする。日本みたいに官僚主義を発揮して、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とは脅さない。 さて第二分署の二階はジム・クラブになっている。警官達の武道練習所かと思ったら、ここは別個の民間経営で、西部劇の補助シェリフみたいに第二分署で人手が足らない時などは、日当で応援することもあるという。
 
ここのジムに昔私と知り合いだったキムと呼ぶコリアが居て、マネージャーをしている。だから私はアムスへ行くと決まってここへよく寄る。するとキムも歓んで迎えてくれるが、もっと歓迎してくれるのは階下のポリス達である。 何しろ日本国内にそうした施設が無くなってからというもの、日本男子は台湾の北投へ往復十万円の飛行機代を払って一晩五千円のクーニャンを買いに行くし、和蘭へ彼らが来るのも、観光用に市内に保存されている風車を見るためでもなく、またダイヤを求める為でもない。男性自身をスパークさせるために来るのが多い。随行員を十名あまりも引き連れ、溝川の鉄柵の所に突っ立っていた超一流会社の社長も見たが、一晩に集まってくる日本男児は多く、なにしろ百名ではきかないという。
ところが和蘭の貨幣はギルダーで計算が判りにくい。そこで日本男児は気前がよいわけでもないが、勘定が厄介だから「良きに致せ」と財布ごと出してしまう。当人とすれば、相手が適当にその中から掴みだし、お釣りをくれるものと思っての事だろうが、女はレジスターではない。メルシー・ボウク。フィーレン・ダンケ。モテル・グラツィエ。ムーチャス・グラシアス。どうもありがと。女は財布ごとの頂きである。
チップと認めて何も返してはくれない。諦めてしまうのもいるが、旅費まで盗られたと第二分署へ泣きこんでくるのも多い。ところが日本人がオランダ語が苦手のように、アムスのポリスも日本語にはてんで弱い。だからキムの友達の日本人と判るとバッジなど貸してくれて、仲裁役を頼んでくる。ところがこのバッジさえ持っていると役得で、何処の店へものこのこ入っていける。
さて、アムスの飾り窓の通りに、いつもひしめき合い覗き込んで通るアベックの群を、初めは何の冷やかしかと怪しみ、(未だものにしていない相手を同伴して、もし要求を受け入れなければ、おれはここの女と寝てしまうぞと脅かすための作為ではあるまいか)とも考えたたが、さてバッジを付けて、カーテンを閉めたままの店へでも横から入れるようになると、事の意外に驚かされたものである。
なにしろアベックは男女一組のまま店に入り、そこで店の女から実地教育指導を受けているので、初めは偶然かと思ったがそうでもないらしい。アベックの殆どは若夫婦か婚前交際中らしく、カーテンをこした硝子窓の向こうを通るさんざめく群衆ににも頓着無く、熱心に彼らはノートまで取って教示を仰いでいる。客のアベックを裸体にしてベッドに重ね、店の女が体操教師のように位置を直しているのも見たし、店の女によって夫が満足してゆく過程を、ぐるぐる周囲を廻って覗きこみ、その途中で交替を申し込んだ妻が、自分も観察した通りに振舞い、女からフォームを直して貰っている状況も見た。
 
日本にもセックス・カウンセラーを名乗って物を書く人も居るが、ここでは全てが実技指導である。だから「夫婦生活の知恵」なんていう本は書店には売っていない訳で、もっと判りやすく手をとり腰を引っ張って二人に向くような体勢を伝授しているのである。
但し、そうはいっても飾り窓の女が全部そうではなく、 Klove niers河岸のHoogsir 通りに固まっている三十代のベテラン揃いの所に限定されている。目下修行中の十代ぐらいの若い娘の所では、未だ自分が勉強するのに精一杯らしく、通りかかる男達にウエスタンのカウボーイ・スタイルまでして「ヘエイ・ユウ」と 黄色い声で呼びかける。こうして訓練してやがては人に教えられるような立派なプロフェッショナルになるのだろう。    
                                                    
 【皇室と遊女】
 
「歴史」はヨーロッパでも十九世紀までは「学」ではなく、何の目的もはっきり持たぬ単なるお話でしかなかった。ヴォルテールがギリシャ神話などに現れてくる超人や怪竜や、それらの魔物と戦った英雄談を、歴史として認めない方針を打ち出し、人間社会がその風土寒暖や風習によって左右される因果関係をモンテスキューが見つけだした後、ヘーゲルの歴史哲学である彼の相対性弁証法のもとに、Aという通史とBと呼ばれる裏目の反史をつき合わせ、Cと呼ぶ史観を産むようになり、方法論としてこれがオーギュスタンによって、小説家スコットの歴史小説に啓発され、その書き方を真似た記録的実証的なものが、今日の歴史学の基礎となった。
 
日本では明治二十年代になって、それまで家系を作るための系図用の歴史、古びた茶碗を高値に売れるようにとカタログ代わりにした歴史を追放すべく、田中義成、星野恒、久米邦武、日下寛といった人々が「歴史」と取り組んだ。 しかし「通史」とその裏目の「反史」をつき合わせることが至難と言うより、全く不可能だったらしい。
通史を再検討することが精一杯の儘で明治三十年代に入り、やがて歴史は明治軍部によって参謀本部の「作戦資料」となったり、各華族の「祖先顕彰史料」といった利用方面にのみ追い込まれてしまった。
だから日本史は戦いの歴史となり、英雄の歴史となり、そして今も、茶道具の名称をことさらに列挙する可笑しな形態をとって平然とまかり通っている。みな賢い人ばかりだから、何の益にもならない反史を調べたり、それと通史とつきあわせるような無駄な努力をするよりも、ありふれた通俗史の儘で押し通す方が抵抗もなく楽だからだろう。
そこで日本ではこのため誰が悪いのか知らないが、まるで反対の事でも今も平気でまかり通り、それが歴史と信じられ常識化されている事が多い。例えば「秘境」というのがある。源氏に追われた平家が山中へ逃げ込んだものと、今ではされている。おまけに、
 
「おまや平家の公達ながれヨーホーホイ、おどま追討の那須末ヨー」といった那須の大八と鶴登美の悲恋を扱った「ひえつき節」などが広まって、最早今日では誰も疑おうとする者もない。そこで下関市の赤間神宮の祭礼などでは、「破れし平家の女達哀れ、みな遊女となりました」と仮装遊女の行列さえ催されている。 だが厳島神社に奉納されている遺品を見ても判るように、平家というのは海洋民族である。壇ノ浦でみな舟に乗り鎖で繋ぎ合わせたのも、折柄の貿易風に乗って逃げる筈だったのではあるまいかと想われる。
なにも海戦をする為に連結させたのではない。それなのに風邪より速く源氏が小舟に乗って群がってきて戦になったからとはいえ、いくら負けても海洋民族が山の中へ入って、落人など作れよう筈がない。今日いわれている平家とは、 「源頼朝の死後に代わって政権を執った北条氏に追われた、源氏の残党の逃避行した」でしかない。あれは徳川時代に犬の血統書作成みたいに「系図」が流行した時みな先祖を藤原鎌足や源頼光式にしたので、(山の中に源氏があっては不味い)と適当に名前をすりかえてしまったものらしい。
さて、「遊女論」は昔から在る。最古の物は大江匡房の「遊女記」で、これは『群書類従』にも収録されている。 平安後期の人間だった彼は、「遊女とは、允恭天皇の妃であった布通姫の後身の一族で、東三条院は小観音という遊女、上東門院は中君とよぶ遊女を愛された」と遊女を貴種とし、また『くぐつ記』に、「紅をさし粉をたたき美しく装った女は、一夕の歓のため男から金の刺繍布や錦衣、金かんざしといった膨大な物を献じられた」当時の遊女の権勢ぶりを書いている。
 
勿論、万葉集にも遊女は出ていて、「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖乎忍而有香聞」  オホナラバ カモカモ センヲ カシコミテ フリタキソデヲ シノビテアルカモと天平二年(730)に太宰帥大伴卿が九州へ戻って行くのを遊女が名残を惜しみ、これを俗っぽく判りやすく訳すと、 私は左の毛右の毛をこすりあわせてカモカモしたいのを、おおみことのりを恐れかしこみ、私は袖を振るのさえ忍んで見送る。アモーレアモーレ、アモーレミヨという、そのものずばり遊女の相聞歌になり、これが後年の「チンチンカモカモ」の語源であるとされている。
さて藤原氏全盛の頃までは、歴代の勅撰歌集には数多くの遊女の作品が出てくるし、また、「宇多天皇が川尻で遊女白君と過ごされしこと」 「小野の宮が二条関白と、遊女香炉の奪い合いをして喧嘩をなされ話」 「関白藤原道長が遊女小観音より、奈良七大寺参拝の帰りに薄情と抱きつかれた事」 「京極大臣宗輔の娘で遊女になった和歌の前というのが永久三年(1115)に、時の鳥羽天皇に召され寵愛された」などと、まるで遊女とは皇室専用か、宮内庁御用達の感がある。
 
だから『徒然草』の中でさえ、「御鳥羽天皇は亀菊とよぶ遊女に入れあげ、彼女のために長江と倉橋に広大な荘園を二ヶ所も賜った。自分は男に生まれてしまい遊女になれぬが恨めしい」と吉田兼好は書いている。
又その遊女亀菊によって承久三年の鎌倉幕府追討の院宣は出されたのだと『吾妻鏡』にもその名が出ている。 つまり日本の遊女というのは、天皇家の繁栄と共にあって、やがて皇室の御衰微と共に遊女もしぼんで哀れになったらしい。しかし一般の常識でゆくと、今では、「遊女とは横暴な男性の欲望を満たす為、その犠牲として存在したものだ」との既成概念が強い。
しかし今も昔も「女」とは、それ程男に都合の良い存在だろうかと、これは考え直さざるを得ない。なにしろ女性に生まれついてきた特権で、そのもの自身で楽に暮らせたり、生活の安定が得られるということは、これは麻薬中毒のように一度その味を覚えたら止められるものではない。だからして千年以前においても、「女が女を振り回して生きていけるのに、男は男をいくら振り回しても、それによって儲けられることはなく、かえって損するだけではないか」と、ひがんだ男達が皆不平を持ったらしい。
  そこで源頼朝は鎌倉に新政府を樹立するや、「女性自身を利用する権利は、みなもと族に属する女に限る」旨を発令した。 文治二年(1186)の事である。 そして頼朝は、平家退治に手柄のあった、清水冠者義高と里見義成という高名な武者を「遊女別当」に任じている。 頼朝はこの二人を関東関西に分けて受け持たせ、現代で言えば「関東管区売春婦取締り局」とでも呼ぶべき国家機関である。この取締りは源氏の遊女だけをエスコートして、それ以外の権利のない女達のモグリ営業を厳しく監視する為である。この名残は大正昭和までの公認の遊郭では、「うちの妓は、もぐりではありませんのさ」と女達に「源氏名」というものをつけさせていたのでも判る。
 
これに関しては日本歴史学会会長の故高柳光寿博士も、「平家の一門が壇ノ浦で滅亡した時、平家の婦女や官女が遊女になったという説をなす者もいるが、平家の彼女たちが遊女になれる権利がある訳はない。中世までは、女なら誰でも遊女になれると思ったらそれは間違いである」と、明解にその著で説いておられる。
         
【和泉式部も遊女】
 
室町御所の時代に入っても、やはり女なら誰でもが有するものをもって生活してゆけることを野放しにしていては、一人の男だけに縛られて苦労するような妻になど、ばかばかしくてなり手がないと、「傾城局」という官庁を足利幕府も作った。「室町日記」には「専売局」とする。つまり鎌倉時代に「遊女別当」と呼ばれた婦人局長官が「傾城官」となったもので、初代長官武内重信の名も伝わっている。
つまり女の中の女でなくては、やたらと昔は遊女になれなかったのである。さて、話は戻るが相場長昭の「遊女考」に、「白き小袖の上にから綾をひき重ねた装束」で、「しずやしず、しずのおだまき繰返し」と舞った静御前も、吉田兼好の著では「磯の禅師とよぶ高名なる遊女の娘なり」と、純粋遊女血統であった事が証明されている。また、『源氏物語』を書いたとされる紫式部と共に有名な和泉式部あたりでも、古文献の『御伽草子』では、「和泉式部は遊女にして」となっている。 また小野派一刀流の始祖といわれ、秀吉の妻の女祐筆であった「小野於通」と呼ぶ絶世の美女も「八十翁寿物語」という古書では、
「浄瑠璃の初めは、小野於通とよぶ遊女が語りだしたるものなり」とある。つまり近世までは「遊女」は誉め言葉で、ファーストレデイの意味だったらしい。が、儒学が朱子学の型で日本へ入ってからは、金を阿堵物と蔑む風潮が広まって、この為「金を取って身体を任せる女」というのは軽んじられるように変化したものらしい。しかしそれでも江戸期の黄表紙本等は、やはり評価を、 「あんな女はただでもいやだねえ」とか、「いくら金をつけられたってあんな女じゃ」と、やはり女性評価を貨幣でしている。
ところがその江戸時代には、はっきり定価表を付けた吉原という一廓があったが、 「御府内備考」第二十江戸吉原の条に、「吉原の開祖庄司甚右衛門のことを『君がてて』とよぶ」とある。 これは故柳田国男の「テテと称する家筋」によると、古くは「帝々」と書いて「てて」と呼ぶのだとある。 つまり遊女というものの存在は「君が帝々」であって、それからして「遊君」というし、「何々の君」とも謂うので在るらしい。 どうも皇室専用だった名残から尊敬されていたようで、寛永十七年までは江戸城の評定所へも、吉原から遊女が三名ずつおもむき、花を生けたり茶を点てていたりしている。
 
 
「遊女」というものに対して今日のような観念が出来上がってしまったのは「明烏」の芝居で、雪中でやり手婆に遊女が折檻される場面や、故沢正の、「国定忠治山形屋の場」で、「可愛い一人娘を苦界に沈めた五十両。よくも藤蔵、てめえはとりゃがったな」といった処かピテイな存在になってしまったらしいが、正保二年(1645)十一月には、元吉原町並木屋の佐香穂という遊女は、馴染客が死んだからと、堂々と廃業して尼さんになっているし、畠山箕山の『色道大鏡』の内の<扶桑列女伝>に出てくる勝山と呼ぶ遊女は、丹前風呂から召捕られ廻されてきた一生奉公の身分の女だが、明暦二年の春に、「今年中に思うしさいがあって廓を出ます」と宣言すると、その通りにさっさと吉原を出てしまったとある。
今日想像するのと違って吉原というのは、山東京伝の万治二年の「しかた噺」にも、「江戸のうかれ女は葭原という所に集まり、ここの遊君は雨など降ると自分では歩かず、奴いう男を呼び寄せ一名に傘をささせ、一名の肩に己を背負わさせ廓内をゆくのである」と、嫉むような書きぶりを今に残している。
これは銀座のバーの女達が、大の男のボーイを顎で使って灰皿を代えさせるのと同じで、有り体にいうならば「女性優位」を露骨に地でゆける、そういう職場ではなかったのだろうかと想える。 また、かって儒教が道徳であった時代には、「女人が行為によって歓喜の声を迸らせたり失神する事」は、慎みがないとされ、「不道徳」の烙印を押され、行為は女人にとっては苦痛でしかないようにそんな教育をされたものである。 だから女性たる者は、そうした行為は欲せざるところ、好まぬもの、と意志表示をするような処世方を持つことが、これが賢明とされた。その結果が、行為を反覆繰り返す職業は「苦界」と見られ、哀れな存在といった扱いをされたらしい。
 
 
しかし女人にとって、それ程迄にそうした行為が苦々しいものであるならば、「おめでとう」と、何故婚礼の時周囲は祝うのだろうか。相手が一人ならお目出度く、それが不特定多数になると同情する結果になるとは一体何であろうか。欲望というものは「効用延元の法則」によって、一より二、二より三の方が良くなると言う定理と矛盾しないものかと疑いたくなる。さて、なにしろ儒教が普及するまでは、女人も本当のことを口にしたらしく、吉原の開祖六代目庄司勝富の残した「異本洞房語園」に、 「この里に住みてうきことなし、夜毎かわる枕も面白しといいはべる女共多く」などと、はっきり書き残されている。
現在はなくなったらしいが、まだ、「親孝行」というモラルが、かって存在した頃は「お三味線や踊りを習って芸妓さんになって、好い旦那をもって、おとっつぁんやおっかさんを左団扇させるんだ・・・・あたいだって綺麗なおべべが着られて仕合わせだァ」と、将来の希望をそこにおいて憧れる少女が昭和二十年までは、まだかなりいたものである。 しかし時世、時節で、今でも行為を職業とする女性は多いらしいが、親のためというのは殆どない。彼へ貢ぐ為というのが多い。つまり彼との行為の為に、他との行為を致すのであるらしい。
 
             
【遊女は職人】
何といっても日本語の難しさは、この「遊女」の意味が解釈しにくい事である。 これを現在のように「遊ばせる女」と読んだ時、はたして該当する存在が、紅燈の巷やネオン街にも今でも存在するだろうか、と、疑問に思われる。よく、遊ばせてくれるというのは立派な「芸」であるが、これは自動的でなくてはならないのに、そうした女性は今は居ないのではなかろうか。
つまり、酒場の女でも、煙草に火をつける事と、おしぼりを持ってくるしか能のないのが多い現代では、お客の方が高い金を払って女を遊ばせているのだから、全く本末転倒なのである。まして肝心な方においてをやであろう。ところが、「遊ぶ女」と見た場合は、昔のように畏れ多くも主上を手玉に取ったり、搾り奉るような不敬なのは居ないが、これだと各都市の盛り場にはいくらでもいる。しかし、自分の方が遊ぶのだから、男に対してはあべこべにサービスを求めるのである。
室町時代に土佐絵をもって一世をならした光信の作に、「七十一番職人歌合せ」という絵巻物がある。 二十世紀では、職人というのは一日何千円の手間代を取るから立派だというものの、学校での技術屋に比べて、学歴が無いからと冷たく見られる向きがないでもない。しかし四、五世紀前には学校出はいなかったから、職を持っている人間は極めて尊敬された。
つまり土佐光信も絵描きという職人であるし、医師も当時は病気を治す職人だった。そして「遊女職」というのも、立派な職人だった。熟練工といった意味でか、この七十一の職業別絵巻物に、遊女は堂々と入っているのである。 これは幕末安永年刊の「咲花論」にも、「いくら初見世だからといって、丸太棒を二本並べられた丸木橋みてえに寝ていられちゃあ曲もねえ。商売だったら商売らしく、てめえの職に少しは真面目に励みやがれ。それじゃあ堅気の嬶と同じだ。何事もやりさえすれば、それでいいってもんじゃねえ筈」とお説教が出ているのを見ても、やはり、「遊女というのは、並の女性のように唯あるものを使うというのではな く、そこには職人としてのプライドを持ち、芸を切磋琢磨する必要」が要求されていたものらしい。
しかし、かって女性の中の特権階級だけが職人の誇りを持って司り、権利のない女には許されなかった職業も、徳川中期以降の近代資本主義の勃興によって、やがて抱え主と呼ぶ資本家と労働者という立場に変貌したから、そこから全てが違ってきたらしい。
そして政治の貧困から江戸府内でも、岡場所(モグリの売春宿)と呼ぶ権利無き女たちの私娼街が、いくら弾圧されても次々と出現してきた。しかし腐っても鯛で、吉原は職人女の集団プロフェッショナルだったが、私娼というのは未訓練女性で、てんで職人気質を持っていなかったようである。 そこで、家にあり合わせるようなものを外で求めてもつまらんだろうというので、奇篤な男が身を持って現地取材をした。 弘化二年三月二十三日発禁処分となったが、「東辻君花の名寄せ」というのがそれで、その刊行物の内容は、
東両国 はる16優 ふく17優 きく27良  ひろ21可 浅草橋 ふじ25優 たき21良  永代橋 むら17優 そで33優 なみ22良  とく21可
本所通 さだ19優 よね35優 ひさ17良  ひろ17可 芝久保 まき21優 かね34優 たき21可  たみ25可 赤坂通 てふ18優 ふさ16良 つね15可  よし16可       
今から二百数十年近く前の女性の勤務評定をずらりと並べているが、今となっては何の役にも立たないから後は省略するが、優は努力する職人タイプ。良は自然の結構さ。可は止めておけの事だそうである。さて、「他人に不幸ほど喜びを与えられるものはない」というカーライルの言葉を引用して「戦国時代の女性は哀れだった」とか「遊女は惨めだった」とかいって読者に媚びる本も多いが、性病などが輸入されなかった頃は、実際にはそうでもなかったらしく、「遊女職」として、遊女がその権利を行使していた源氏から北条、足利時代にあっては、志望者が殺到して選ばれてなったというから、現代の女達よりは遙かに幸せであったものらしい。
 
 また吉原の太夫に権式があって威張っていられたのも、俗説のごとく、茶の湯や仕舞、琴が弾け遊芸に通じていたからというのではなく、もっと本質的に、その道のテクニシャンで技巧を持つ優秀な職人だったせいなのだろう。  
 
   

日本史から見る「悪女」の系譜

2019-05-25 09:55:12 | 古代から現代史まで
 
日本の悪女とは、誰に対して悪い女かという事がまず命題になる。
男と女はまるで違うのであるから、男にとって思うようにならぬ存在と
して見れば女で悪女でないのは珍しいくらいのものである。
ではその女自身にとって悪いのが、それでは悪女かと云えば、これまたそうでもないらしい。
何しろ女は良い結果は自分の所為にしたがるが、そうでないのは他のせいにするからである(ここは女性には異論の在るところでしょう)
では何だろう?となってしまう。
勿論明快にして簡単な区分法もある。
○消極的に他に気兼ねしながら生きたのが、善女。
○積極的に思いの儘に生きたのが、悪女。
といったのが、有りふれた解釈なら、
○無名で埋もれてゆき、忘れられるのが善女。
○有名で死後も取り沙汰されるのが悪女。
こうした判別の仕方もあるだろう。
とは言え、後世にその名が残るという事は、「その人が本当に偉大だったとか、素晴らしかった、又は人間的に立派だった」等にはあまり関係はないのである。死後にもその名が残るのは、その名前が後世の人間の銭儲けのタネになるか、否かの問題である。
例えば明治時代でも、夫をこよなく愛し自己犠牲の限度を超し命までも捧げたような女は数限りなく居たであろう。
しかしそれが、おたねやおまさでは、良くても生前その村役場から「節婦」として表彰された位の処が関の山である。
そして死んでしまえば、最早その役場の記録にさえ残されていない。処が、節婦の代わりに毒婦と冠句の上の一字が違うと、話しは全く違ってくる。
 
 
   有名な 高橋おでん      阿部定
 
時移り星変わっても、高橋おでんの名は三歳の子供では無理だろうが、70歳ぐらいな男女ならおよそ知っていよう。
かっては邦枝完二の名で長崎謙二郎がそれを書き、今も一枚一万円位の原稿料でやはりお伝を書き飛ばす小説家や、それを掲載して三十万部売り捌く小説雑誌や、また単行本にして儲ける出版社があるからである。
つまり彼女は今だに堂々と飯の種になる素材であり、いいかえれば利用価値が有るせいだろう。
といって、彼女が後藤吉蔵と金をとって寝た位のことが、どうというのでもない。
疲れて寝ている処を殺した位の事なら、男の一物を部分的に切断して逃げた阿部定の方がまだはるかに扇情的であるともいえる。では、何が彼女を毒婦とか悪女といった冠詞の下に有名にしたか、明治大正昭和と時には芝居にまでなって儲けの種になったかと云えば、これは権威の裏づけのせいだろう。
といって、後世のマスコミに寄与した故に、正何位の追贈位を貰ったとか、文化勲章を交付されたのではない。それは何といっても東大の権威によってである。が、何も彼女が名誉卒業生に選ばれたのでもなく、ただ彼女の肉体の一部が余りにも巨大だったから、それでアルコール漬けとされ東大医学部標本室にあるの、在ったとの噂が広まって、それからして、
「そこは伸縮する筋肉だから、巨大だからといって標本にされるのは可笑しい」とか、
「処刑といっても昔は絞首刑だけでなく、河童が尻子玉を抜く如く、女は彼処まで切り取られるものなのか」と、こうした疑問を抱くより、「東大に見本として残されるぐらいなら、さぞかし名器であったろう。虎は死して皮を残すというが、高橋おでんは皮と肉をアルコール漬けで残した、えらいもんである」といった形而下的な浅薄な評価が普及した結果が、
「東京帝国大学責任保証・悪女の鑑」とし、「毒婦高橋おでん」の評判を高め、それゆえ後世の売文業や出版社を潤し、彼らによって流布された小説本によって、ますます人口に膾炙され悪女の見本となったものらしい。
これはおかしな言い方かも知れぬが事実とはつまりそうしたものなのである。
つまり、概念的な悪女は何処にも此処にも居て、男の観察からすれば、女とはどれもこれも悪女でないのは居ないようだが「悪女」としてはっきりそれが公認されるには条件がいるらしい。
つまり、「官許」とでもいうのだろうか、権威による公認か、さもなくば何とはなしに権勢というものが、付き纏っていなくてはならぬようである。
浅茅ケ原で鎌を砥いで旅人を殺し、身ぐるみ剥がして奪ったにしても、何の権力の翳りも無いのではとても悪女の範疇には入れて貰えない。処が、白子屋おくまの場合は、「奉公人の手代と不義密通をなし、婿を殺害に及びし候段は、稀代の悪女といふ他はなく、引廻しの上獄門仰せつけられ候なり」と、いくら自白させられてしまったとはいえ、はたして真実はどうなのか、手代が巻き添えにする為、嘘をついたのかもしれぬが、お上のお裁きでこうなってしまえば彼女は天下晴れての、認められた悪女という事にされてしまう。
勿論、これは官許の悪女とはいえ、権力のお仕着せみたいに作られてしまった方だか゜、クレオパトラにしろサロメしろ楊貴妃にしろ、そこに権勢の存在があったから、彼女らは晴れがましく「悪女の座」を確保することが出来、不死鳥の如くその名を今に伝えて居られるのである。
   ◆◆◆◆◆◆日本悪女考◆◆◆◆◆◆
今でこそ九州女は情があってよいとされている。しかしそれは、「女は三界に家なし」とか「女は幼は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」と徳川後期に入っての儒教で押さえつけられた後の話でる。
戦国期での九州女は実に凄まじかった。竜造寺の妻、ねこも凄まじい猛女だったが、大友宗麟の母や妻は、男を丸裸にして竹筒をある箇所にはめて折らせて愉しんだとも謂われる程である。
 
だから大友宗麟の老臣立花道雪の娘げんのごときも、日本最初の鉄砲隊を編成し、「最初(はな)は立花の娘子軍」といわれるくらい、九州の山野に活躍したものである。が、のち年下の立花宗茂を迎え仲睦まじく暮らした、げんは悪女ではなかったらしいが、大友の姑や嫁はめちゃくちゃで直接に裸にされて吊り殺しにされた男は十余名というが、その為に起きた「耳川合戦」で死傷した男女は一万の余にのぼると、ローマ法王庁のイゼズス派の記録にも残されている。
 
南北朝の頃。九州はあらかた宮側についたのに、豊後の大友親世だけが足利尊氏につき、南朝方の菊池武朝らと戦うこと七十二回。その内七十一回までは負けたが、七十二回目には、世の中が足利氏のものになったので勝つことが出来た。このため「頑張る者こそ最後には勝つ」と、ここで豊前、豊後、筑前、筑後、肥前肥後の六国を領国として貰い受けた大友氏は足利将軍家より「九州探題」の任命さえ受けた。
(注)南朝とは朝鮮高麗系の勢力で河野水軍、土井氏、対馬の宗氏、菊地氏などで、宮方。北朝とは中国明国勢力で足利氏は明の後押しで日本で傀儡政権を作った。従って南北の争いとは、日本における明と高麗の代理戦争だったのがが実態。
 
その72回目には、世の中は足利氏のものになったので、勝つことが出来た。
だから今日の北九州から熊本までの九州半国を従え、大友氏は栄えに栄えた。さて、宗麟は、初めは大友義鎮といい、その生母は「伏見宮貞常親王」の王女であった。現代の感覚でゆくと、皇族の妃殿下が九州の大名へ御降嫁とは変だが、この後の江戸時代になっても、後水尾帝の女御みぐしの局は後西天皇の御生母だが、局の末妹の貝姫は銀子二十貫で陸奥へ身売りして、伊達政宗が購ってその子忠宗の側室の一人にしたところ、生まれたのが己之助。
のち仙台六十二万石の伊達綱宗となった時。従兄の後西様が人皇百十一代で在世中だったので、秘かに共に討幕を謀り、天皇からは伝奏園池中納言が奥州へ下向。伊達家からは原田甲斐が京へ何度も往復している。つまり、
『樅の木は残った』などの伊達騒動というのは、徳川時代に歪曲され、でっち上げされたものの引き写しにすぎなくて事実ではない。本当は朝廷と伊達藩が組んでの討幕運動だったのである。さて話は戻るが、
大友宗麟の生母も綱宗の生母と同じように売られてきた身で早世した。そこで父の大友義鑑は次々と妻を新しく取り替えた。
やがてその内に到明が生まれた。父義鑑は若い妻が気に入りなので、長男の宗麟を廃して到明を跡目にしようとした。しかし、もうその頃は足利末期の天文の世である。重臣達は、「宗麟様は二十余歳なのに到明様はまだ幼児である。とても、戦火風雲急な今の時勢にこれでは御家がもたない。」
と、斉藤播磨守や小佐井大和守らの良識派は反対した。しかし戦国時代の女人は、儒教で押さえつけられた江戸時代後期のおとなしい女とは違う。到明の母は、かっかとしてしまい、「我が子の跡目に邪魔立て致すとは、なんと憎っくき奴ではないか」と、すぐさま腹心の家来を差し向けてまんまと瞞して捕らえさせた。
 
そして二人の老臣を裸にひんむいて、これを松の木に逆さ吊りにした。二人とも首筋を腫らして苦しみ、とうとう血を吐き悶絶した。すると、奥方は、すぐ斉藤と小佐井の上の首と下の首をぶった切らせた後、「この両人に一味して、まだ我が子を跡目に立たたんとするを邪魔をしようとする輩が居よう。片っ端から捕らえて一人残らず首を切ってしまえ」と、判っている人名の中から宿老の、津久見美作守、田口蔵人以下次々と名を呼びあげた。
さて、この名を呼ばれた者の近親や縁者で、奥御殿に仕えていた者もいたから「これは大変だ」と、そこで急ぎ知らせた者が居る。だから津久見や田口らは驚き、「ひとかどの武士を殺すのに、丸裸にむいて吊し殺しとは、いくら女人の浅はかさとはいえあまりに残酷すぎる、座してそのような辱めを受けて殺されるよりは、先んずれば制するというゆえ、反対に片づけてやる」
と、どうせ捕らえられて殺されるのは判っていたから逆襲を計った。そして奥御殿へ斬りこみ、奥方や到明だけでなく、ものはついでと、「えい、毒をくらわば皿までじゃ」と、たまたま泊まっていた大友義鑑までを叩っ斬ってしまった。これが有名な「大友家の二階崩れ」で、天文十九年二月の事とされている。
 
【バスク人来日】
 
さて、フランシスコ・ザビエルといえば、通説では、「有難いキリストの御教えを初めて日本へもたらしてくれた聖者」というように評価されて、西欧心酔主義者からおおいに崇拝されている。しかし純血白人主義を標榜して欧州を席巻したナチスが、ザビエルが創めたも同じのイゼズス派の教会を焼き、その師父やシスターまで目の敵にしたのは何故かとなる。
なにしろ日本では当時のイゼズス派も、サンフランシスコ派もごっちゃなので何も判っていない。が、現在のスキーの名所のアンドロ共和国。つまりスペインとフランスの真ん中のバスク地方というのは、古代インドにアンドラ国の地名が歴然とあったごとく、「ヨーロッパの東洋」とか「古代有色人種が逃げ隠れ住んでいた地帯」といった扱いで、まあ日本で言えば全体が落人か、道のない山地といったような特殊地方なのである。
だからヨーロッパで魔女裁判の始まった頃。
 
 
彼らバスク人は狩り出されて、高慢ちきな女や残忍な女を捕らえては丸裸にむき、車裂きや火炙りにして、教会の御用をうけたまわっていた。
つまりはザビエルにしても、なにも文字や会話も通じぬ東洋へわざわざ乗り込んできたのは、布教という目的ではなかった。
ローマ法王庁にあっては、白人と同じように扱って貰えぬ彼らとしては、箒に跨って東の空へ逃げたとされる魔女達の行方を追って、それを捕らえて功名をたてんとしたのである。それゆえ一五三四年八月十五日にパリのモンマルトの丘で誓いをたてたロヨラら七人のグループが、教皇ポーロ三世によって、僅かな人数なのにイゼズス会戦闘教団として特に許されたのである。
つまり魔女狩り専門の非白人グループ教団だったゆえ、ヒットラーはその弾圧をさせたのである。
 
 
さて、このザビエルが日本へ来たのは、天文十八年八月十五日で、初めは鹿児島へ海賊号とよぶジャンクでインドのゴアから到着した。しかし領主島津貴久と巧く行かず、ザビエルは京へ行こうとして豊後の府内を通りかかり、新城主となった大友宗麟と逢った。そして天文二十年九月にもザビエルは山口からの帰りに又面会している。
どうして二人は意気投合したかと言えば、勿論中国人の通訳を入れての話だが、「女人とは表面では優しそうでも、一皮剥けば恐ろしいもので、愚かしき者の中には美女も居るが、賢いと自認している者の殆どは悪女でしかあり得ない」と、ヨーロッパではその当時魔女狩りの最中ゆえ、ザビエルがしきりと力説すればそれに対して「如何にも、如何にも尤もなことである」と大友宗麟もその継母に散々に不快な目にあっていたから、
 
「女人は外面菩薩で、内面夜叉と申すが、口先だけは優しそうで巧いことをいうてもいざ本性を現すとなると女人ぐらい恐ろしいものはない」と賛成したのだろう。
「だったら国中の女の中で、意地の悪いのや可愛げのないのは、片端から捕らえて裸に剥いて丸焼きにしたらよろしい。我らイゼズス派はその方面ではエキスバートゆえ、おまかせ下さい。」と、巧く行けばその中に探し求めるヨーロッパより脱走した魔女が居るかも知れんと思うから、ザビエルはしきりに力説した。
「が、女はとかくうるさいもの、もし焼き殺されると知って、集団で暴動でも起こしたら如何なされますぞ」と宗麟は、大友家代々の家老を二人まで裸で吊し殺した継母やその手伝いをなした侍女共のことを思い出してぞっと身震いした。すると、「大丈夫、そうした暴動には遠くから撃ち払える鉄砲なるものがある」と答えた。「相手が女人では近寄って毒づかれ、その上かじりつかれる心配もあるが、あの鉄砲なるものさえあれば遠くから始末できるからよろしかろう」
と、天文十二年に種ガ島から伝わった鉄砲の評判は知っていたから合点したところ、「宜しい。今はサンプルとして数丁しか持ち合わせていないが、インドのゴアから小銃だけでなく大砲も寄付し、弾丸を飛ばすに欠かせぬ火薬の原料の硝石もつけてお分けしよう」と話は纏まった。
             
【西国盛衰記】
 
大友宗麟
 
平戸の松浦や鹿児島の島津などでは、何とかして火器の方は似せた模倣品が造れたが、肝心な硝石は日本中何処を掘っても産出しない。だから信仰のためでなく硝石欲しさにイゼズス派へ入信した。
今も昔も日本人は資源入手の為には何でもやる国民だった。しかし大友宗麟だけは、継母のお陰で女の怖さが身にしみていたゆえ、直ぐさま本心から「魔女狩り」に協力を誓った。ザビエルはその後直ぐ豊後の大分湾から印度のゴアへ戻り、マラッカから中国大陸に近い上州島へ行き死んでしまって二度と帰っては来なかった。しかし、
 
 
「ブンゴ王の大友宗麟との密約が出来ている」との遺命によって、東洋を押さえていたイゼズス派はポルトガル船をことごとく豊後へつけさせた。つまり、「豊後の繁栄は以前の十倍にも二十倍にもなった。何故かと言えば博多や鹿児島、平戸に入港していた南蛮船が一隻残らず大分湾に入るようになったからである。
大友の殿は洗礼を受けていないのにまことに不思議な事である」と『西国盛衰記』に出ているのもこの所為によるらしい。
さて宗麟の最初の妻は丹後の一色氏から来ていたのだが、やがて家老の田原家の娘を見染めてしまって、早速これと入れ換えていた。しかし彼女は、紀元前八七五年からイスラエルの王であったアラブの妻のイザベラの如く、血を見ること水を見るごとしと、領内の気に入らぬ者は女子供でも大の大人でも片っ端から逆さ吊りにして咽喉をかき切って殺してしまった。
だから、その当時の宣教師の書いた記録である「西教史」には、「東洋のイザベラ」と彼女のことを渾名している。
そしてイゼズス派の宣教師は、
「彼女こそ東洋へ逃亡してきた魔女の化身であろう」と考え、宗麟に対してその身柄の払い下げを求めた。しかし彼女はそれを耳にすると、「この身を魔女としてローマとやらへ連れていくとは何たる事ぞ」
そして直ぐさま兄で、今は家老になっている田原紹忍へ連絡して兵を集めさせると、「キリスト教徒は今やこの臼杵の城下町を占領しようと不穏な企てをしている」と、イゼズス派の教会を包囲させた。そこで神父らは立て籠もって銃で応戦しようとした。当時日本を管区とするイゼズス司祭は「四つ目のカブラル」と呼ばれる眼鏡をかけた司祭だったが、直ぐさま臼杵を離れていた大友宗麟へ事件発生の連絡を取った。
 
(わが妻や田原一族の反乱によって教会を敵とし火薬の原料の硝石が入手出来なくなり、逆にそれが他の大名に渡るようになったらわが大友家は危うくなる)と宗麟も仰天してしまい、背に腹は換えられぬとばかりここで決心して、「余は今やすでに他の女を妻にした。其方は離縁である。速やかに城を出て兄の田原紹忍の許へ行け」と、鉄砲隊をつけた使いを直ちに臼杵城へやって脅しすかし説得させた。
 
さて、いくら婦人が獰猛でも銃口に包囲されては仕方がない。やむなく引き上げていった。これで宗麟はひとまず臼杵の教会を救ったが、日本管区長カブラルの機嫌を損なって、もし南蛮船が入津しなくなっては困るからと心配して、ザビエルと初めて逢ってから二十七年だが「フランシスコ」と、ザビエルと同じ名を取って洗礼名として、四十八歳で改宗をした。
が、それでもまだ宗麟は安心できなかった。またしても難問題が出てきた。なにしろイゼズス派では攻め込まれたのを根に持ってか、宗麟の言いつけ通りに兄の家へ退去した前婦人を、魔女として引き渡しを求めてきたからである。
「糟糠の妻は堂より下さず」というが、宗麟は前婦人が異国へ連れ去られて丸裸にされ、蒸し焼きにされるのは忍びず、何とかして許しを乞おうとした。そこで教会の機嫌をとるため、
「彼は日向に兵を出した。そこにキリスト教徒だけの都市を造り、四方に十二の教会を衛星の如く建て、イゼズス派に捧げる目的を持って・・・・・」と、向こうの記録にあるが、三万五千三百の大軍を率いて、神のやさかえを讃え、仏門の異教徒を撃つため出陣した。
日本管区長のカブラル初め、イルマン、ルイ・アルメーダ以下も先頭に立った。「国崩し」と名づけた日本では初めての青銅砲二門も引っ張って、大友宗麟は大進軍したのだ。しかし薩摩から馳せ向かってきた島津義久と、その弟の義弘は強かった。
それに「青い目の南蛮人に国土を荒らされるな」とふれ回ると、何度も外敵の侵入を受けている九州人たちは一致団結して薩摩勢に協力して迎え撃った。そこで後に「耳川合戦」と呼ばれるが、三万五千の大友軍は各所で土民のゲリラに悩まされ敗退した。そしてこの結果島津と大友とは九州での地位が逆転してしまった。このため天正十四年三月、やむなく滅亡しかけの大友宗麟は京の聚楽第へゆき、豊臣秀吉の庇護を求めた。
 
 
これで九州征伐の口実の出来た秀吉は二つ返事で承知した。
翌年、秀吉の九州征伐は敢行された。勇猛な島津兄弟も天下の大軍を向こうに廻しては抗しえず、降参をした。
さて、本来ならば日本国内にキリスト教の別世界を作ろうと兵を動かした大友宗麟なのだから「この売国奴め」と罰せられてもしかるべきなのに、何のお構いもなく、彼は悠々と豊後津久見で、五十八歳まで安楽に暮らし得たのは、
「いくら離縁したとは申せ、長年連れ添った女房を魔女として南蛮人に渡したくなかった気持ちは判る。男として見上げたものよ」と、秀吉が特に許したからだという。しかし大友宗麟の継母といい、その妻といい、男を逆さ吊りにして虐殺する趣味があって、ローマ法王庁にもその名が記録されているのは、日本の悪女としては国際的貫禄であるといえよう。
(注)バチカン図書館は歴史、法律、哲学、科学、そして神学を目的とした研究図書館でもあり、研究に参照が必要である場合や出典の明記に気をつければ誰でも利用できる。だから興味のある方や疑り深い方は、どうぞ是非現地に赴いて確認して頂きたい。「東洋の部」には日本の戦国期関係の報告書が幾らでもあり、難解な華文字のものも在るが、親切な司書が翻訳してもくれる。