新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

敵は本能寺 第三部 光秀にはアリバイがある 光秀は何処にいたのか

2019-07-31 09:26:07 | 古代から現代史まで
敵は本能寺 第三部
 
 
 
       光秀にはアリバイがある
    光秀は何処にいたのか
 
殺人者つまり加害者は、殺された人間の、殺された現場にいなければならないことに、<密室の殺人>という例外を除いては、推理小説でも、これは決まっている。 ところが、信長殺しに限っては、被害者の側に光秀がいた形跡は全くないのである。 殺害された日時は、今の暦なら七月一日だが、当時は太陰暦なので六月二日に当たる。 時刻は、夜明け前というから、午前四時とみて、それから出火炎上する午前七時から七時半までの間。推定で計算すると、およそ三時間半の長時間であるが、この時間内において、明智光秀を本能寺附近で見かけた者は、誰もいない。これは動かしがたい事実である。 つまり光秀は本能寺どころか、京都へ来ていなかったのである。いやしくも謀叛を企てて信長を殺すならば、間違いのないように自分が出てきて監督指揮をとるのが当り前ではなかろうか。もし失敗したら、どんな結果になるか、なにしろこれは重大な事である。 それなのに、従来、加害者とみられている光秀は来ていないという事実。もし彼が真犯人であるなら、世の中にこんな横着な殺人者はいない。ということは、 「信長が害された殺人現場に光秀はいなかった」という具象を明白にし、現代の言葉でいうならば、「光秀の不在証明説」の成立である。 もちろん、これに関しては、日本歴史学会の会長であり、戦国期の解明にあっては、最高権威である高柳光寿氏も春秋社刊行の<戦国戦記>の、 「本能寺の変・山崎の戦い」の五十四頁において、はっきりと、「六月二日、つまり信長弑逆の当日。午前九時から午後二時までしか、光秀は京都に現れていない」と、これは明記している点でもはっきりしている。
 念のために当時の山科言経の日記。つまり<大日本古文書><大日本古記録>の<言経卿記>の内から、事件当日の原文を引用する。
「その日、午前九時から午後二時までしか、京にいなかった光秀のために」それは必要だからである。
(天正十年)六月二日戌子。晴陰(曇) 一卯刻前(註、卯刻というのは午前六時、又は午前五時から午前七時をさす。だが、この場合、何刻から何刻というのでなく、 ただ午前六時から前であったいう、つまり時間的な例証になる。なにしろ午前九時すぎに上洛してきた光秀には、これでは関係がない)  本能寺へ明智日向守謀叛ニヨリ押シ寄セラル(註、この言経記にも、一応は、こう書いてある。いないものが押寄せるわけはないが、みなこう書いてある。つまり、こう書くほうが、この十一日後に光秀は死んでいるから、死人に口なしで、何かと、みんなに都合が良かったかもしれない)  前右府(信長)打死。同三位中将(岐阜城主にして跡目の織田信忠)ガ妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王の二条城)ヘ取篭ノ処ニ、同押シ寄セ、後刻打死、村井春長軒(村井長門守貞勝)已下悉ク打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻(午前七時から午前 八時)ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語同断之為体也、京洛中騒動、不及是非了
 
 
つまりこれは、四条通りの本能寺が炎上してから、織田信忠が妙覚寺から引き移った二条にある下御所へ押し寄せたから、誠仁親王が、まだ早朝なので、お乗物がなく、辛うじて里村紹巴(しょうほ)という連歌師の見つけてきた町屋の荷輿に乗られ、東口から避難されたという当時の状景を現してたものである。  ただし、この時代は陰暦なので、六月二日は初夏ではなく、もう盛夏である。そして当時は、今のように電気はなかったから、一般は灯火の油代を倹約して、早く寝て夜明けには起きて働いていた。だから、「早朝で輿がなかった」というからには、午前七時前が正しいかと想える。遅く見ても午前七時半迄であろう。農家は午前四時、町屋も六時から、当時は起きていたものである。  という事はとりもなおさず、まだ明智光秀が京へ入ってくる迄には、二時間以上のずれがあった。という事実がこれで生じてくる。
さて二条城に立て篭もった織田信忠達が何時頃全滅(脱出できたのは織田有楽と苅屋城主水野宗兵衛の二名のみと<当代記>にある)したのかは記録がない。  しかし前後の経過からして、本能寺炎上後、二条御所も炎上して、全てが終わったのが午前九時頃とも思える。  そうなると、明智光秀が上洛したのは、もう、すべてが終わってしまった後ということになる。  もし、そうでないにしても、光秀が京へ入ったのは二条御所が包囲され、親王が脱出されてから既に二時間経過した後である。もはや、やはり「万事終われりの時刻」でしかない。  これは推理でもなんでもない。当然な計算である。  そうなると、ここで疑問になるのは、「明智光秀は、それまで何処にいたのか」ということになる。
 
 もちろんヘリコプターもなかった頃だし、午前九時には現場に到着していたというのだから、午前五時頃には、馬に跨って京に向かっていた事は事実であろう。そうなると、この問題は、 「何処からスタートしてきたのか」ということなる。  これに関しては正確なものは、何も残っていない。ただ判っているのは三日前の五月二十八日に(この時の五月は二十九日までしかない)愛宕山へ登って、同日は一泊しているという証言が、里村紹巴らによって後日提出されている。  さて、<言経卿記>によって天候をみると、
五月二十七日 雨   二十八日 晴   二十九日 下末(どしゃぶり) 六月  一日 雨後晴となっている。
 二十八日は晴天だから、この日に登山したのはわかるが、問題は二十九日である。 これまでは、この日の下山となっているが、下末とは「どしゃ降り」の事である。  だから、馬で愛宕の山頂までかけ登った光秀が、今と違い鉄製の馬蹄ではなく、藁で編んだ馬沓の駒の尻を叩いて、相当に険阻な山頂から血気にまかせて、滑り落ち転落する危険を冒してまで、降りてきたとは考えられない。勿論、今となっては正確には明智光秀の年齢は判らない。だが<明智軍書>という俗書に「五十五年の夢」という辞世の一句がある。  その本では真偽の程は判らないが、時に信長が四十九歳なら、やはり、それくらいかも知れぬ。そうなると、今でも昔でも人間は似たようなものである。どうして五十過ぎの男が血気にはやって、雨の中や、まだ地肌がぬるぬる滑る山道を、駈け降りてくるなどとは、とても常識では考えられない事である。  だから、通説では二十八日登山。一泊して二十九日下山となっているが、正確な当時の天候から推測して、下山は六月一日が正しかろう。  しかも、この六月一日も夕方まで沛然たる雨で、小止みになってから妙覚寺滞在中の織田信忠が、夕刻から本能寺を訪問しているくらいだから、光秀が下山したのも、家来に足許を照らさせて山道を降りたのは、やはり雨が止んだ後と、考えるべきが至当であろう。だが、京と愛宕とは、後者が山だけに、なお降り方は悪かったとも想える。  そうなると、光秀が、もし丹波亀山に着いたとしても、一万三千は出陣した後という事になってしまう。だから、光秀は後を追い、まさか一人ではなんともなるまいから、 「支城の坂本へ引返し、そこで三千余の兵を率いて、至急、京へ駆けつけたという次第ではないかと」とも思われる。 もう一回ここで、この日の順序を追ってみると、
六月二日(新暦7月1日) 午前四時、本能寺包囲される 午前七時 炎上、信長行方不明      引き続き二条御所包囲      誠仁親王御所へ動座      信忠軍と包囲軍交戦 午前九時 明智光秀入洛 午後二時 明智光秀出洛 午後四時 光秀、瀬田大橋に現れる 午後五時 三千余の軍勢のみにて光秀は、坂本に帰城す
といったような経過を光秀は辿っている。
     奇怪な山岡景隆の行動
 そして、これは吉田神道の<兼見卿記>によるのだが、この二時以降の、光秀の行動はわりと詳しくわかっている。(だが、この兼見という人は、この時点の日記を、後から別個に書き直している)つまり日記の二重帳簿である。そして、その表向きのしか、残念ながら今は伝わっていない。  それでも、それによると光秀は当日、持城の山崎勝竜寺城(つまり占領して奪ったのではなく、前から自分の支城)へ寄って、そこで城番をしていた重臣の溝尾庄兵衛と相談した結果、午後二時に、そこを出発し大津へ向かい、午後四時に、安土へ伺候 するため瀬田へ向かったとある。さて、現在残っている、その表向きの日記では、これからの状態を原文で引用すれば、
「誘降せんとするに、(瀬田城主)山岡景隆は、かえって瀬田大橋を焼き落とし、己が城(瀬田城)にも放火し、光秀に応ぜずして山中へ入る。(止むなく光秀は残火を消し止めさせ)橋詰(めに足場にする砦)を築かす。夕景に入って、ひとまず光秀は、 坂本へ戻る」となっている。もちろん、これは明智光秀犯人説が正論化されてからの日記であるから、一応は、白紙に戻して考えてみる必要もある。
そうなると、「元禄十四年三月十四日に、浅野内匠が吉良上野に刃傷し、即日処刑をされてしまったと伝わるや、主家の大事とばかり赤穂城へ大石内蔵助以下家臣の面々が集まったように‥‥この時点でも、信長の異変の善後策に、家臣の光秀が安土城へ駈けつけようとしたのは、自然な行為ではなかろうか」と考えるのは無理であろうか。
 
 
 さて、それなのに、それを阻止して橋を焼き払ってしまうというのは、これは一体どういう事なのだろうか。  もちろん後年のように、光秀謀叛説が確定してしまった後から書かれた<兼見卿記>では、さも光秀が安土城占領に赴くのを防ぐために、防衛の見地から、これを邪魔したようになっている。また、そうとしか読めない。  だが実際は、六月二日の当日の事である。
本来ならば山岡景隆は光秀を迎えに出て、「一体いかなる事が出来(しゅつたい)したるのか」と話を聞き、共に善後策を講ずるのが、ごく普通の途ではなかったろうか。なにしろ、かつては十五代将軍足利義昭に共に仕えた仲であり、この十年前に、 山岡景隆は、その弟山岡景友と共に信長に叛き誅されるところを、光秀に助命され、つつがなく瀬田城主の位置を保てた男である。
 もしも山岡景隆が、当日の午前中に在京し、この異変が「明智の謀叛」と確認しているのならば、いわゆる正義感をもって、僅か三千の兵力では占領は考えられなくても、 「おのれ、逆臣、光秀め。通しはせじ」と、橋を焼いてしまった事も理解できる。  ところが本能寺の異変は、午後三時頃になって、安土への急使か、又は通行人によって、この景隆は耳にしたにすぎない。何も詳細は知っていない。それなのに何故、確かめもしないで一時間で断固として橋を焼き、自分の居城まで焼き落とす様な、思 い切った事を企てたのであろうか。  まず、このひっかかりから先に考えてみたい。
もともと、明智勢をば対岸の山頂から湖水越しに望見していた山岡景隆というのは、先に足利十代将軍の義稙(よしたね)が、近江半国の守護代六角高頼(たかより)を討つため、延徳三年八月に出陣した際の大本営の三井寺(みいでら)の光浄院の出である。この時から室町幕府に奉公しだした光浄院は、その後、山城半国の守護に任ぜられていて、天正元年二月には、十五代足利義昭の命令によって、当主の暹慶(せんけい)が西近江で挙兵。
 
 
「打倒織田信長、仏敵退散」の旗印のもとに一向宗の門徒を集め、石山の本願寺と連絡をとりながら、石山と今堅田に砦を築いて抗戦。  二月二十四日に、柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀の連合軍に攻められ石山陥落。二十九日には今堅田の砦も力戦かいなく落されて、改めて信長に降人。その名を山岡景友と改名して助命され、勢田の城主の地位は遠慮して、兄の山岡景隆に譲った。この兄こそ、十年後、橋を焼きすて、じっと山頂から、光秀の様子をしかと眺めていた山岡景隆になるのである。なお、彼の弟には近江膳所(ぜぜ)城主の同景佐(かげすけ)。次が玉林斎景猶(かげなお)、そして四男が山岡景友である。
 
 
<慶長見聞録案紙>によると、この男は二年後において伊勢峰城にあって秀吉方と激戦し、「徳川家康の黒幕」と言われた「山岡道阿弥」に名のりを変え、秀吉の死後、伏見城に家康が入ると、その守護に、伏見城後詰に取出し屋敷を構えて、鉄砲隊で固めたり、関ヶ原戦においては、長束正家を破ったり、ついで尾張蟹江の城を攻略し、懸命に家康に奉公するのである。
それは後年の事であるが、この山岡景隆・景友らの兄弟はなぜか、この時つまり本能寺の変の二年後には、事実不明の柴田方加担の罪のもとに秀吉の為に城地を追われてしまい、やむなく家康を頼って行ったと、<武家事記><寛政譜>には残っている。  さて、こういう事は、とりもなおさず六月二日の午後三時から四時までの間に、急いで「安土への通行を止めるように」瀬田の大橋を焼き払ってしまったという事は、これは秀吉又は家康から前もって予告され、密令が下ったのではあるまいか、と不審に想える。どう考えても、このやり口は山岡兄弟の肚ではない。
 
 
もし光秀が当日安土へ入っていたら、信長の生死不明の侭にしろ、重臣の一人として、なんらかの善後策をとっていたであろう。そうなれば天下は動揺する事なく、当時、伊勢にいた織田信雄か、住吉の大物浦で出航するため大坂城にいた織田信孝かの、どちらかに跡目は落ちつくに決まっている。だからこそ、それでは困る人間が、安土へ光秀を入れないようにと、橋を落させてしまったのではないか。勿論これは想像であるが、架橋するために砦まで構えたという事は、琵琶湖の対岸から山岡勢に弓鉄砲を撃ちかけられ、修理を妨害されていたことになる。もし、それほどまでに山岡一族が安土城に忠義ならば、光秀が引揚げた後、すぐにも彼等は安土へ駆けつけるべきである。なのに、全然行ってはない。これでは信長のために、瀬田の大橋を焼いたことにはならない。自分らの私益の為である。 <兼見卿記>の記述と事実はここに於いて相違している。  つまり何者かが、光秀を陥入れる為にか、彼を安土へ行かせず孤立させる事によって、全てを彼に転嫁させようとする謀みではなかろうかという疑惑が、色を濃くしてくる。
    信長を爆殺した火薬の謎
 次に奇怪な事は、まだある。 光秀が、丹波亀山の本城から出てきたのなら、そちらへ戻るべきである。  ところが、光秀は本城へは行かずに坂本へ向かっている。  ということは、その伴ってきた武者共が、丹波亀山衆ではなく、別個の近江坂本衆であったという事になる。いくら取り違えても、丹波から出てきた連中を、間違えて近江へ連れ戻す様な気遣いはない。  つまり光秀がこの六月二日に上洛してきた時に、同行してきた(推定三千)ぐらいの連中が坂本城の者となると、これは、とりもなおさず光秀が、坂本から上洛した、という例証になるだろう。亀山ではないのである。  すると、光秀が京へ姿を見せるより早く、夜明け前から丹波方面より上洛していた連中は、それでは、どこの部隊かということになる。幻の軍団である。  まず二つに分けて想定できる。なんといっても、その第一は織田信長の軍団編成のもとに、近畿管区団となった各師団である。これは
寄親(よりおや) 明智光秀丹後衆  細川藤孝、倅 忠興                    大和衆  筒井順慶             摂津衆  高山重友(高槻) 中山秀清(茨木)             兵庫衆  池田恒興(伊丹) 倅 元助
 ところが、この連中はその十日後の山崎合戦では、秀吉方となって戦っているか、さもなくば細川みたいに中立している。だから、これまでの歴史は、彼等は上洛しなかったことにしている。合計の兵力がちょうど一万二千から一万五千であって、謎の上洛軍と員数は合うのだが、どうであろうか。なお、有名な話だが、呂宋へ後に流される高山重友は「ジュスト右近」といわれて、こちこちの信者だし、他の者も、<1507・9・19臼杵発ルイス・フロイス書簡>によれば、池田恒興も、入斎という名の他に「シメアン」の洗礼名をもち、その娘は、岡山城主ジョアン・結城に嫁し、みな神の御為には何事もいとわなかった信者だそうである。中川瀬兵衛清秀にも「ジュニアン」の洗礼名がある。
 
 
 だから、<ヨハネ黙視録>にあるように、「この後、我見しに、見よ天に開けたる門あり、初めに、我に語るを聞きしラッパの如き声にていう『ここに登れ』我、この後に起るべきことを汝らに示さん」といった 具合に、本能寺から一町もない四条坊門の三階建の教会堂へ登って、その上から、「我らの主なる神よ、栄光と尊貴と能力とを受け賜うは宜(うべ)なり。神は万物を造りたまい、万物は、みな御心によりて存し、かつ造られしものなればなり、アーメン」ドカーンと爆発させてしまって、本能寺を葬り去ったのかもしれない。
 
永遠の神の恩寵を得るためには、現世の信長を吹き飛ばしたところで、別に高山や池田、中川といった切支丹大名は、良心の呵責に苦しむような事はなかったであろう。もし、そうしたことを<罪>の意識で感ずるぐらいなら、その二年後、現実的に彼等は秀吉の部下となって故信長の伜と戦いなどできない筈である。  というのは、当時のポルトガル商人は、火薬を輸入するにあたって、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい木樽に詰め替えて、さも、マカオが硝石の産地のように見せかけて、日本へ入れていた形跡がある。これは、ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵の<ジャバーウン(日本史料)>の中に、木樽の発注書や受取りが混っているのでもわかる。まさか日本へ樽の製作を注文する筈はないから、当地の中国人細工物師に、西洋風の樽を作らせたものだろうし、それが日本関係の古い書付束に入っているのは、日本向け容器として、新しく詰め替えされたものと想える。  
 
古文書の<岩淵文書>の火薬発注書にもあるように、当時の輸入火薬は湿気を帯びていて、発火しないような不良品も尠なくなく、一々「よき品」と但し書きをつけなくては注文できぬような状態だ。そこで良質の火薬ほしさに、切支丹に帰依した大名も多かったのである。  だから、ポルトガル船の商人は「これはマカオで詰め替えてきて、樽だけは新品ですが、中身は保障できません」などとはいわず、「マカオでとりてたの、ほやほやです」ぐらいの事は言っていたかもしれない。  だから信長としては、鉄砲をいくら国内で増産しても、火薬がなくては始末につかないから、てっきりマカオが硝石の原産地だとばかり、間違えて思い込んでいたと考えられるふしもある。
 
 <津田宗及文書>の天正二年五月の項に、当時岐阜城主だった信長に招かれて行ったところ、非常にもてなしを受け、宗及ら堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、彼らの初めだした「わびの茶」を自分もやっていると茶席を設けてくれた。  それまでの「ばさら茶」では唐金だった茶器を、宗及らの一派が「竹の茶筅」に変えたのに目をつけた信長は、この時初めて「茶筅髷」とよぶ、もとどりを立てた髷に結って、その席に姿をみせ、おまけに給仕役に召した次男の信雄を、この時から「茶筅丸」とよばした事は、有名な事実である。  つまり安土城を築く前から「天下布武」の目標のために、信長は良質の火薬の輸入確保に焦っていたのである。が、従来の歴史の解明では、近江長浜の国友村で鉄砲を大量製産させたとか、紀州の雑賀部族に量産命令を出したとか、といったような銃器の方だけに捉われていて、鉄砲というのは、火薬がなくては使い物にならないのを失念している傾きがある。当時の火薬の配合は75パーセントが輸入硝石で、こればっかりは日本ではどこを掘っても見つかっていないのである。
 
 
 そして、その硝石、当時の言葉で云えば「煙硝」の原産地を、仲継地とは知らず信長はマカオと思っていた。  普通ならば国内を平定してから、国外へ勢力を伸ばすのであるが、天正十年の情勢では、九州へ輸入される硝石によって、西国の毛利や、豊前の大友、秋月、竜造寺、薩摩の島津が武装を固め、信長に敵対をしていた。こうなると抜本塞源の策は、硝石の原産地がマカオであるなら、そこを先に奪取して、西国、九州への火薬輸入をくいとめるしか、この場合、完全な打つ手はない。
 信長が天正八年あたりから、ポルトガル風の長いマントを羽織ったり、ラシャの大きな南蛮帽をかぶりだしたのを、今日では「珍しい物好き」とか「おしゃれ」といった観察で片付けているが、あれは外征用の準備ではなかろうか。十九世紀の明治初年 でも、外国旅行をするとなると、横浜関内の唐物屋へ行って、洋服を注文して仕立てさせ、それを着込んで出かけたものだが、信長の場合にも、これはあてはめて考えるべきであろう。
    信長が建造した巨鑑の謎
 さかのぼって1571年の9月30日。  日本暦の九月十二日に信長が延暦寺の焼討ちをした時には、<フロイス書簡>は、「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、賛美されるべきかな」 と、天主教布教の障害であった仏教の弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マカオから来ていた宣教師は褒めた。  この年の十月、カブラル布教長の一行は、九州の豊後から、まず堺へ入り、マカオ火薬輸入業の櫛屋(くしや)町の日比屋了珪(りょうけい)宅へ泊まった。河内、大和、摂津、山城と次々に廻って歓迎を受けた。といって、彼らが天主教の司祭だから尊敬されたというのではない。  マカオから来ているカブラル達には、硝石という後光がさしていたからである。 「良質の硝石を入手できるか、できないか」が、この時代の戦国大名の生死を握っていたから、よき硝石をマカオ商人から分けてほしさに、反天主教徒の松永久秀や三好義継も、丁重にもてなしている。中には宗教よりも硝石欲しさに参詣にきた武将達も 多かったという。  十二月には、カブラルは、フロイス、ロレンソの使僧を従え、堺の火薬輸入代理業者に案内されて岐阜城の織田信長を訪れている。  火薬が欲しい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍しい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は貴重品だった美濃紙八十連をプレゼントに贈っている。  1573年4月30日。  日本暦の天正元年三月二十九日に僅か十二騎の小姓だけを引き連れた信長は、突如として岐阜から上京し、洛北知恩院へ入った。  やがて軍令を四方に出してから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には一万余の兵が終結した。
 
<フロイス書簡>によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、 「仏教徒を庇う足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。
 さて、本能寺へ、信長が小姓三十騎連れてきたのが疑問視されているが、当時マカオから来ているポルトガル人は「信長は、いつも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて編成し、自分から引率 して行動を開始する習慣がある」のを知悉していた。つまり、 日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向かって進撃すべきなのに、大江山の老の坂より途中で変心して、『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向こうの資料とはこういう点がはっきりくいちがう。
つまり京都管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼等は「五月二十九日に安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌六月一日は雨降りだったが、二日には、また黒山のような軍勢を、ここに終結し、自分から引率してゆくもの」と従来の慣習どおりにみていたようである。 ということは、日本側の史料では、「六月二日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近寄った事は、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、 「本能寺の門前に早朝から集ってきたのは、従来通りの軍団の命令受領」と、彼等は、そういうとりかたをしているようである。  そして、従来の日本歴史では信長とか家康、秀吉の個人のバイタリティーに重点をおき、英雄主義を謳歌するあまり、天文十二年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸をとばす火薬を無視しきって、「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、持ってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、「自分達がマカオから輸入してくる硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗が決まっている」と、明瞭だった事だろう。
 
 
 なにしろ足利十五代将軍義昭にしろ、「仏教側だから火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止。鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も<和簡礼経>によると、四月二十七日付で、信長の申し出のとおりに泪をのんで無条件降伏をしてしまう。  こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたのは、我らの火薬供給である」という信念を抱いていた事は疑いない。  また、信長も、事実そのとおりだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。
 のち秀吉や家康が切支丹を弾圧したり鎖国したりするのも、彼らが仏教徒だったから、嫌ったということより、本質的問題は、やはり、この輸入硝石である。他の大名の手へ宣教師を通じて入っては困るからと、治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は長崎から自分らだけが独占的に硝石を輸入する事によって、その平和を守ったのである。
 信長がマカオを狙って、輸入に頼らず硝石を押さえたがっていたのは、その部下の信者の大名達の密告で既に宣教師達は知っていた。 <オルガチーノ書簡1578年。月不明>に、「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が堺へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を調べに行った」と出ているぐらい神経質になって、彼らは用心していたのに、本能寺の変の1ヶ月前に、従来の友好的な態度を、信長は自分から破棄しだした。これは後で詳しく書くが、「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師達が「天にまします吾らの神」と、教えを広めているのに、信長は従来は安土城の五層で祀らせていた白目(しらめ)石の自分だという神像を、五月一日總見寺(当時は寺とは言ってない、社であろうか)を建て、ここで一般公開し、 「我こそ、まことの神なり」と宣言した。  参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている。 「天地に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、挑戦以外のなにものでもない。  マカオから来ていた宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目にうつったであろう。  そして、「我々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」  畏れ疑っていた矢先、五月二十九日。信長は小姓三十騎をひきいて本能寺へ現れた。  そしてその日の午後、  大坂の住吉の浦の沖合いに、オルガチーノがかねて警戒していた七隻の巨艦と、夥しい軍用船が集結された。  司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男織田三七信孝。副司令官は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である。
 
 
「出帆は六月二日」と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっているが、だが、彼らは、「マカオへ出帆?」と勘ぐったのではあるまいか。
 1579年日本へ巡察に来たルイス・フロイスは、日本準管区長コエリオより「日本歴史」の草稿を求められて、それを書いたという。  だが、原本がマカオにあったから、十八世紀まで所在不明で、その後モンタニヤ、アルバルズの両修道士により、イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されてポルトガル本国へ写本として送られた。これがアジュダ図書館に保管され伝えらたが、なぜか、 織田東洋艦隊が建造された天正七年から、本能寺の変。および、その後の天正十六年までの間の分は、どうしたことか、欠本にされていた。おそらくなにかと都合が悪いからであろう。  フランシスコ派の宣教師シリングが1931年3月に、その前半をトウールズで、翌年リスボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、 <フロイス日本史>は神の恩寵により定本になったというが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。
 二百年もたって同一人のシリングが相次いで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その間のものは何処まで真実か判らない。それが何よりの証拠には、織田艦隊のことは少しは出ているが、肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。
 
そんな「日本史」なんてあるものではない、と私には思える。 <老人雑話>というのに、明智光秀の言葉として、「武者の嘘を、計略といい、仏の嘘を、方便という」とあるが、「神様の嘘は恩寵というのだろう」とさえも言いたくなる。あまりにおかしい。リットン報告書が出された頃である。  さて「何か知っていられては都合の悪いことを、知っている者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について、アメリカのニューヨーク・ポスト紙は書いているけれど、天正年間の日本においても、やはり同じ事であった。
 
 ジュスト右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンへ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から一年十ヶ月目に、何の御手柄か、一躍、岐阜城主、大垣城主と栄典させてもらえたのに、長久手合戦で「討死」という形式で共に抹消。  ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、十ヶ月で大岩山で消されている。残った者は誰もいない。
 だが、俗説では、 「六月二日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが第二の答えで、定説である。もちろん光秀も、丹波亀山から彼等を率いてきたと、(途中で六時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、辻褄が合わないが)そういう事になっている。
 
 しかし、もし亀山から丹波衆を率いて、光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後四時、瀬田から右折せずに光秀は坂本へ左折している点は、先に指摘した。だが、こんな明白な事実さえ、誰からも今日まで問題にもされていない。  そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、丹波亀山へ戻っていない。 (もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で動いたものなら、亀山は光秀の本城であるし、なぜそれを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱりわからない)だが、何人も疑いを抱かない。変に思わない。
 
 もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しの後、光秀から離れてしまったために、六月十二日、十三日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は旧室町幕府の奉公衆を加えても一万に満たぬ寡兵となってしまい、三万に近い秀吉軍に対して破れ去ってしまうのである。
 
 そうでなくて、もし、この六月二日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備にまわしていた秀満らの坂本衆三千は別計算にしても、天王山の険を押さえる事もできたし、これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかつ二万の直属部隊でもって、この決戦に臨めたわけである。  なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたのかということも、やはり、「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。
 
 
 

姓の法則による日本史の真実を考察する 第二次大戦とイ姓列勃興の関係 第二次大戦に脈うつ<血>の方則

2019-07-30 10:44:20 | 古代から現代史まで

姓の法則による日本史の真実を考察する。

 第二次大戦とイ姓列勃興の関係

 第二次大戦に脈うつ<血>の方則

 ヒトラーはマイン・カンプ『わが闘争』の中で、 「わが民族の歴史を振り返ろう。かつての神聖ローマ帝国を、西暦四七年に滅ぼしたわがゲルマンは、スペインに西ゴート王国。ガリヤにフランス国。半島にイタリア国。スカンジナビアに北欧三国。 ブリタニア島にイングランド国。そしてババリアにドイツ総本部を建国し、ヨーロッパの全支配をなしていた。しかるに千五百年の後、われわれはベルサイユ条約によって、不当な弾圧をうけ領土も削られた。 かっての主人であるゲルマンが、今は鎖につながれている。この辱しめをわれわれは忍ぼうとしても、わが体内に脈々と流れるゲルマンの血の誇りはこれを許さないのである…… われわれを毒しているものは、異民族による雑血の混入だった。わがゲルマン民族は、今こそここに血の粛清を求め、純血の尊さを確保せねばならない」と宣言した。

 大戦が始まると、彼らは次々の占領区域のユダヤ人をとらえて、アウシュビッツの処理場へ送った。そして異血民族は大量にあの世へ送られた。  戦後ユダヤ人は憤った。生き残った連中が『アンネの日記』を出版し、映画「夜と霧」を製作して、その残虐性を世界に訴えた。  だが、これに同調して「ナチス・ドイツは残酷無惨だ」と、知識階級までが、その宣伝に踊ったのは、雑種国家のアメリカと、わが親愛なる東洋のニッポン国だけだそうだ。                                             「なにしろ原爆を落とされ数十万の同胞を殺されたくせに、『過ちはくりかえしません』と、てめえでおわびするバカな国民性もあろうが、なぜユダヤに同情するかわからん」  と、R・H・ブーツの『ユダヤ人問題』にはでている。とはいえ日本には、「拳々服膺する」というむずかしい言葉があるが、純血種を守るためセイリされたユダヤ人の血潮をしのんで、 これを「股々(ここ)服用」の紙ナプキンに「アンネ」と命名するお国柄である。なんでユダヤ人との血のつながりを、無縁の日本女性が身をもって肌で確かめあう必要があるのか、 男の私などは下腹に手を当てていくら考えたって理解に苦しむ。

 なにしろ本場のヨーロッパでは、ゲルマンのドイツ人はもちろんのこと、ユダヤ系以外は、「民族の血を守るのは、正当なことだ」と女までが、決して大量虐殺を非難していない。  これは国旗をみれば敬礼し、ストリップーホールでさえ国歌を演奏する異国の人民どもと、「『君が代』って大相撲のフィナーレだろ」という子供のいる国民性との相違であろう。

 情報社会に適応したイ列

 とはいうものの大局的にみれば、第二次大戦は、純血主義と雑血主義の争いで、雑の方が勝ってしまったのだ。だから日本でも、第二次姓のイキシチニの頭文宇のつく連中が<列姓遺伝>で、 逞しく戦後五十年間に成長し、今や彼らの黄金時代になっているのだということが判る。なにしろ現代では「血統」なんていうと、「ああ、犬ですか」と答えられてしまう。  不公平な話だが、犬屋の商売上の謀略によって、犬の世界だけは、血統書付きという権威によって、国産ア列の秋田犬や、舶来ウ列のウールーコステリアの珍種から、 フのブルドッグまでが威張っている。  だが、これは仕方がない。なにしろ現代の人間社会は、イ横列の時代だから、昔みたいに毛並みの良し悪しをいうよりも実力本位ということになっているし、頑固な大人物型より、  「情報社会」というのは、こまわりのきく頭の廻転のはやいのを求めているから彼らがもてるのだが、また講談や浪花節の流行するような世相に逆転すると、 今度は、またもっともらしいことのいえる型が大切にされて、ウクスツヌ型の時代がカムバックしてきて、「復古ムード」ともなろうともいえる。

 さて、今でこそ、「この世の中に神も仏もないものか」という芝居のせりふから、神仏を一つに考えるが、江戸元禄時代までは違っていた。 つまり神を信ずるのは原住民。仏信仰は大陸からの外来民と決まっていて互いに敵視しあった仲である。 戦国時代など「出陣にあたって神仏に祈り」などと書く輩もいるが、そうしたてあいは歴史を本当に知らない寝言の類であって、「神を信ずる者」と「仏信心」が衝突したのが戦国時代である。 <加越闘争記>などでは、「仏法こそ、武士の仇敵なり」と一向門徒によって奪われた加賀の国を取り戻そうと、武士が集まって仏家の寺や道場を焼討ちする次第が書かれている。つまり、 「織田信長は、本願寺を攻め延暦寺を焼き払い、高野山の僧侶何千人を、みな殺しにした凶悪無惨な武将だった」というが、神信心の信長が、外来系である仏信信心の敵をうつのは当然のことだし、 中世紀はヨーロッパだって、  「百年戦争」「三十年戦争」とカトリックと、ルーテル派の新教国との争いが激しかった。そして異教徒であるサラセンの回教徒に対する十字軍の、宗教戦争の時代だった。  そして、この戦国時代に各地から、新興プロレタリアートとして勃興した武者階級が、出身地を名のって姓を広めたのである。 例えば常陸の国、多賀谷から出れば「多賀谷長兵衛」を名乗り、信濃の日根野から出ると「日根野高広」と名乗ったように、その出身地を姓にした戦国武者や大名が多く、 <濃飛両国通史>や<摂戦実録>等に書かれているように豊臣秀吉の馬回りにもこれは多い。 江戸期に入ると「家名」とか「家門」という形になったもので、もともとが集団集落の地名からでている姓とというものが、横つながりの連係をもっていたのも、このためである。

【契丹も、日本史では「宋」となっているが、唐に代って中国大陸を支配した国ゆえ、同じとしておくが、厳密にはキの付く姓とスは、フの藤原系の傘下に入ってしまう。 公家ではなく庶民として扱われてきている点を注意しなければならない】

  二十一世紀の主導権を握る者

 片仮名が純日本系のわけ

 アイウエオは「インドの声字学」つまり<悉曇・しったん>によるという説がある。たとえば、インド語のカースト。  (caste)という階級を意味する言葉が、ラテン語の純血、  (Castus)からでて、ポルトガル語の家系、(血統のcaste)になり、今は英語になっている。  このように言葉というものは、国から国へと変わるから、あえて否定もできない。  さてこの、インドのカースト制というのは、  ① ブラーフマナ(バラモン=僧侶)  ② クシャトリヤ(王侯貴族と武士階級)  ③ ヴァイシャ (平民=町人)  ④ シュードラ (被占領民=奴隷。賎民)  と厳然と最近まで階級制をしき結婚も交際も許さなかった。そして日本にもそれに似た階級制の、②、③、④がそのまま、百年前まであったし、今もすこし残っている。  さて、アイウエオというのは縦読みすれば、インドできのような疑いもあるが、この方則みたいな横読みに直せば、これまた日本式に意味が通ずる。  つまり、 「赤沙汰な(赤い模様の)浜矢羅わ(はまなす、はまなしともよぶ赤い花。実は古代の食料)(わ=は)  生き死ちにひみいりゐ浮くすつぬ(人の生き死に関係なく花は咲き実も浮き漂う)  踏むゆるう(固い実を足で柔らかく殼をふむ)えけせてね(良くしてね)へめえれゑ(めでたい)  烏滸外(おこそと)の頬(ほ)もよろを(つまらぬ民草たちも木の実か食え満腹でき頬をほころばせ満足する)」となる。ただし、(おご)は海髪(おごのり)という海草の意もある。  だから、こういう解明がつけば、どうにか判ってくるというものである。

 そもそも縦書きしだしたのは、明治に入って発音記号が輸入され、アイウエオを縦にして母音にすれば、あとは力行はK、サ行はSと分離できたからである。そして、  (いろは)は大陸のサンスクリットの変型文字だが(アイウ)は日本原住民用とした意味もあるが、日本原住民が固まって隔離されていた堺の茶人たちは、平仮名は使わなかった。 その一例として、  「サシスセ列の千利休」へ「アカサ列の奈良商人の松屋久松」が、天文六年九月十三日に出した手紙あたりからしか手掛りは今は実存しない。  それは、茶席のメニューであるが、 「シヲヒキ、汁菜、引汁ススキアメナマス、飯、アユ、ヤキテクワシ、イモモチ、ヤキクリ」  と、当時一般に使われていた、(いろは)の平仮名をさけ、わざと(アイウ)の片仮名が用いられている特殊性などである。 何故かとこれをもとにして、戦国時代から秀吉時代までの茶湯関係を調べてみると、 「わびの茶」をもって従来の中国風の唐茶に対抗した堺の皮革商の武野紹鴎や千利休の一派は、公文書には、 (いろは)を用いたが、相互の通信や自分の日記には、みな(アイウ)を使っていることが判ってくる。 <宋湛日記>や<利休百会記><宗及他会記><松屋全記><天王寺茶会記><山上宗二記>にもことごとく、原文は(いろは)を用いず、わざと(アイウエオ)で書いている。 つまり大陸から輸入された茶は南北朝から足利期にかけては「書見台子のばさら茶」と呼ばれ、 茶碗は唐渡り、茶びしゃくや茶せんも唐金ときまって中国風に卓をかこんで蓋つきの茶が飮まれていた。

 それを当時の被圧迫階級の純原住系の連中が提携し、 「サ」の(ささら衆)に竹の茶せん、 「カ」の(かとう衆)に上がまで碗、 「マ」の(まつばら衆)に静岡で茶、 (サの狭山衆にも茶を栽培させた)が、こうしてオール純国産の青いグリーンティーの時代をつくり、そして(まつ)から名をとって、「まっ茶」とよんだ。 こうして青茶は従来の大陸から入っていた赤や黒っぽいブラックーティーを追い払ったのが彼らの歴史なのである。  今でこそ、茶は自由栽培だが、江戸中期まではそうではない。この植えつけの地域は限定されていて、  「久野別所」のあった清水とか、善枝ちゃん殺しで有名な狭山といったような旧別所の特別区域に定っていたし、また岡山から広島へゆくと、  「茶せん」とよぶのが、限定地域の人への侮称になっているのでも、これは判りうるというものである。

だが、当時とは違い、現在はリプトン紅茶が大手をふって入ってきて、日本に植えられた方は、  「唐茶ですみません」と断わりをいってさしだされるくらい、赤い茶は、肩身を狭くしている。  しかし、これを誤ってしまい、お茶受けのつまみなしでだすのを、(茶オンリー)の意味かと、  「空茶ですみません」式にいうが、それは間違いで元来は唐の茶のことをいうのである。  しかしこれがエスカレートして近頃では昔の川柳クラスでさえ、如何なるわけか青っぽい色がでるようになっている。  さて、そうした後世のまやかしは別にして、その時代の、「まっ茶グループ」が、ことさらに(アイウエオ)を用いるからには、これぞ純日本系の文字であろうと推測したのが、 この<姓の方則>なのである。  だが、この話は、これまで『茶湯古典全集』にも残っていないし、今まで書いた人もない。 「わびの茶の極意が、幽玄枯淡」とあるのを考えれば、 「これは大陸から進注してきたウクスツの連中に山奥へ追い込まれた逃亡奴隷の日本原住民のインデオ族が、 戦国時代に山から出てきて武者として働き、目出度く一城の主となって美服美食に恵まれながら、時として郷愁にやるせなくなって、山中の暮らしを追慕して、 そのほろ苦さを嗜んだんだもなのだ」と解明すれば、すぐ判るのだが、そうなると、茶湯の歴史がみみっちいものになって、茶湯の道具が高価に売れなくなるから、 よって勿体をつけるために頬冠りされているのだろう。

 

 


石破茂氏を日本史の「イ」のつく姓から考えてみました

2019-07-16 09:49:50 | 古代から現代史まで
 
自民党の安倍一強が続いている。色々批判もあるがこう長く続いた政権も珍しく、次期総裁総理の候補者は鳴りを潜めているのが現状。 名前が挙がっている岸田文雄政調会長と石破茂氏が居る。2019年7月14日の街頭演説で安倍首相は、岸田氏を後継指名したともとれる発言をして、今後憶測を呼びそうである。 いずれがなるにしても全く期待はできないが、ここでは彼の姓「石破」の「イ」姓について考察してみたい。
 たとえば石破氏が公約の柱に掲げた「地方創生」。石破氏は経済再生を最優先課題に挙げ、その核が地方創生だという。  石破氏は第二次安倍改造内閣で初代の地方創生担当大臣を務めた。国会議員票を固めた安倍首相に対抗して2012年の総裁選の再現を狙って地方票を取り込みたいという思惑があったのかもしれないが、 自分が担当大臣のときにめぼしい成果はあげられなかった地方創生を、今さらアジェンダに持ち出してくるところに石破氏の政治センスの無さが表れている。
 
 
 そもそも地方創生というコンセプトは本当に成り立つのだろうか。もっと本質的な問い掛けをするなら、地方というのは創生できるものなのだろうか。 田中角栄元首相が「国土の均衡ある発展」というビジョンを掲げた時代は、地方に開発の波が押し寄せた。  ただし、それは地方が自ら呼び込んだ開発ではなく、成長期の日本が稼ぎまくって中央に集まった富を、税金で吸い上げて地方に回したにすぎない。 中央のおこぼれにあずかっただけで、つまり分配論である。  「創生」には「はじめて作り上げる」とか「一から生み出す」という意味がある。地方創生というからには、最終的には地方が自律的に生きられなければ意味がない。 という事は、地方が「政令」ではなくアメリカのように独自の法律が作れるようにしなければならない。
よく地方自治という言葉が使われるが、日本は「自治省」という役所が霞が関に在って、地方自治が出来ないようになっている。 だから石破氏が、安倍総理と対立軸を鮮明に出すなら、東京一極集中の「大きな政府」ではなく、道州制の導入を掲げるべきである。 さて、このイの付く姓で有名なのは石原慎太郎氏だが、彼も結局、青嵐会から東京都知事を経て何もできなかった。 このイ姓の特色について以下に考察してみましょう。
イイとあかんの姓
関東では否定的に「イカン・イケマセン」という言葉が、関西に行くと「アカン・アキシマヘン」と変わる。 だから箱根を境に東の「イ」は西の「ア」と同じになる。しかし静岡以西となると「イはいい(良い)」と云わぬばかりに、 「ポーラ化粧品がセールス販売で初めて大成功したのは、イの付く姓を持つ伊藤、伊丹、五木、石川、井上といったのを選抜して、 各地の所長にしたからである」
 といった「成功者列伝」の本がある。たしかに石原、井吉、伊沢といったイのつく姓の人はソツがないのが多い。 高度成長期の日本で、いわゆる大会社の会長や社長はソニーを初めこの発音の人たちが多かった事実が在る。なにしろ昔は人口がすくなく、  「イ」の者はイーさんだけだったのが、やがて人口が増えてくると、イだけでは区別できなくなってきて、そのため、  「イの田」とか「イの川」「イの山」となり、当て字が岩ならば、それが明治以降は、「岩田、岩川、岩山」となり、井戸でもある所なら「井田、井川、井山」となって、イの姓が人々についた。  かっては「夷(イ)異(イ)つまり大陸占領人と異なる、日本原住民の意味」とも呼ばれていたせいか、心の中では力強くむくれて、(なにくそツ)と思っても、 顔には出さず二コニコしてみせては、あたりさわりのないようにして、「ハイ、ハイ」とか「ヘエヘエ」と如才なくやって巧く立ち回ったので、誰からも警戒されず、  「人あたりの良いやつ」と便利がられたゆえ、何処へも進出でき、次第に立身出世したものらしい。
 
 
「石川ノマロ」とか「井沢ノマロ」の名が六世紀頃から身分は従五位下ぐらいだが、国介つまり現地の県副知事として、で六国史の中には散見されるようになり、 昔から要領が良かったようだ。  まあそれだけの伝統精神というか血統があるゆえ、世渡りが巧いのもイ姓のもつ強味であろう。  デパートの松坂屋のごとく、「伊藤屋」の暖簾で三百年の歴史をもつ店もあるほどで商売上手なのも多い。 だが口がうまいのに親切らしいわと、女の子にも、よくもてるという特性もあるから、欠点は、女で身を誤ることである。  女性の場合も、その利点を活用して水商売などしている人には、各地に成功者が非常に多い。因みにバーやスナックのママに姓のイニシャルだけを聞いてみれば、これが良く当たるのに驚く。
 イ列の姓の特徴はなにか
 石川五右衛門、釜ゆでの真相
 続いて、イキシチニミヰのイニシアルを頭につける姓の歴史的展開をしてゆくのには、(この相互関連性は後で例をひいて解明するが)さきに、 代表のイの音を追いつづけてみると、どうしてもすぐ念頭に浮ぶのは、「イガ者」として知られた、伊賀がまっ先にひっかかる。これは、<古事記伝>や<地誌提要>によれば、  「この国は、伊賀津姫の有たり。孝霊帝のとき、伊賀国をたて、のち国府を阿拝(あわ)におく」とある。
 さて伊賀者といえば、すぐ忍術を連想するが、もちろんああした荒唐無稽なものは、はっきりとフィクションである。なにもこの地方に製鉄業が盛んであったわけではなく、 映画やテレビで見せるように、鉄製の撒きびしといった武器を、あんなにパッパと投げたら大変なことである。今でさえ日本には鉄鉱脈がなく外国から原鉱や屑鉄を輸入して製鉄しているくらいだから、 その当時の鉄製の穴あきビタ銭を一文、または一銭というが、これとて、<安斎随筆>によると、天正十七年の豊臣秀吉の発令にも、「乱妨狼藉の輩、盗みは一銭以上斬罪」とあるし、 江戸時代の<髪結職由緒書>では、「藤七郎が徳川家康の髪を結っていたから、慶長八年に家康が江戸入府すると、呼ばれて開業せしも、料金一銭なるをもって、世に一銭職とこれをいう」とあるほどである。  
 
いまの時価に換算すれば、小さな鉄銭一つが慶長期で五百円、天正期では千円にも当たる。これでは、忍びの者が懐から出してパッパッと敵に投げつける物は、大きさからみて銭の四倍はあるから、 一個三千円。五十も投げたら十五万円ものの浪費となる。
 だから、もし忍びの者の彼らが存在していたにしても、そんなに気前よく放れるわけはない。では本当のところはなにかというと、丹波と並んで名産だった伊賀の山栗の皮をまいたのである。
 
 素足や藁のわらじしかはいていなかった当時の敵は、栗の外殻の棘に剌されて苦しめられたのが実状で、現代のベトコン兵が竹串を地面に植えつけ、米兵が靴の下敷にスチール板を入れて防ぐのと同じであろう。  では何故、「忍び」というかとなると、イキシチニ系の住民には、昭和ではミス日本代表になった、伊東絹子とか歌手の伊東ゆかり、いしだあゆみ、が居る。 現代でも石田ゆり子、石原さとみ、井上真央、伊藤千晃、飯倉まりえなどがタレントとして活躍している。 昔も、美少女や美少年が多いので、狙われ拐され、諸国に売り飛ばされた者が多く、「忍ぶ草、伊賀の山河を恋しがり」の名句があるごとく、薄倖の彼らが忍び堪えたことからでているらしい。
 
 
(注)この句は、日本原住民の事を大陸勢力は「草」と蔑称していたから、「帰れる筈もない、奴隷共が故郷を恋しがって」という優越句なのである。
クダラ美人とか朝鮮美人とも、これまでも言われるが、西のイ姓には、きわめて美女が多いようである。 そこでイキシチニのつく姓が、全国に散らばっているのも、この理由によるものであるという説もある。  さて、イ列のつく姓をもつ者は、我慢強くて仕事の相棒によし結婚の伴侶によし、おまけに美貌だという反面、非常に神経質で頑固だともいえる。
 豊臣政権の時に、大泥棒として扱われ六条河原で釜ゆでにされたイガの国の石川五右衛門にしろ、真相は宗教問題ではなかったかと思える。 転向すればもちろん助命されたであろう。なにしろ千鳥の香炉を盗んだくらいで、公開処刑というのはあまりに大げさすぎると思うし、「忍術などというのは荒唐無稽」にすぎないから、 時の国家権力者秀吉の寝所へ忍びこんで、殺そうとし仁というのも眉唾ものだからである。
桜田門事件は食いものの恨み
 石川五右衛門よりは後世だが、同様にこれまた頑固で殺された有名人がいる。 『花の生涯』というので、脚光を浴びた井伊大老である。  イのつくこの人の最期は、まだ百数十年しかたっていないのに、まるっきり作り変えられてしまい、 「水戸派は尊王攘夷のため、井伊の方は新日本開国のため、ともに愛国精神の衝突で、桜田門外で白雪を紅く染めた」と、今の時点ではもっともらしく説明されている。  しかしこれは『侍ニッポン』を書いた群司次郎正や舟橋聖一が悪いのではなくクーデターの仲間に薩人有村治左衛門が入っていたせいであろう。
 
 
明治七年一月十五日に鍛冶橋御門に東京警視庁が創立され、有村の幼友達の川路正之進が、警察権力を握った途端、(亡友有村のために、遺族への下賜金とか故人への贈位問題もあったろうが)  「喰いものの怨みおそろし桜田門」「もう御免、牛と梅との、食当り」「大老の首を、すき焼うまかろう」  といった絵草紙類を邏卒に集めさせ、すっかり焼き払って根絶させてしまったからである。
 そして同年夏に『桜田門壮挙録』が出版され、いかに井伊大老が悪党であったかを強調し、安政の大獄に憤激した志士が明治維新のために蹶起した趣旨が宣伝された。  そこで水戸人も廃藩置県後で、もはや殿様への忠義も失せかけていたし、当時としては勤皇説の方がカッコウがいいから同調したまでのことにすぎない。 これも日本史の救われない一面で、権力の圧迫により、歴史があっさり歪曲されてしまって伝わった一つの事例といえよう。
 
この真相たるや、 <水戸藩党争始末>の<<老公と大老の不和>>の章にも、「老公牛肉を好み給いければ、年々寒中に彦根より献ずる事なりしに、直弼家督後は、これを献ぜず。 老公が何卒贈られるべしと再三催促するも、彦根侯きかず。
老公は江州の近江牛は格別なれば、我等が為にのみにてもと懇願されるも、牛を殺し肉を送る事を国禁になしたればと、 お頼みごと相成り申さず。其後もたって何度も御頼みあり、されど更に承知せざりしかば老公極めて憎み給い」と、  まるで近江牛の宣伝みたいだが、殿中で直接に頼んで、断わられて老公は恥までかかされたゆえという。もともと天保から弘化までの水戸藩の<那珂湊出入帖>には、 「彦根献上牛肉入荷、小梅柎百荷出荷」といった記載があり、井伊から牛肉を送って貰った返礼に、その舟に水戸名産の小梅を出していたのが、これでも判る。  さて、この水戸老公の牛肉好きは、「女色のため、すき者として補精に喰べた」という説もある。
 
が、実際は若年の肺結核から薬喰いに始めたものらしい。さて、 「君、恥かしめられれば、臣これに死す」というモラルが水戸学であるからして、水戸斉昭の薬であるところの牛肉をとめられ、その上侮辱を与えてよこすとは、何事かということに家来にはなったのであろう。  まだ万延元年の頃は勤王などといったところで、天朝さまからは一文も貰っていないが、水戸の殿様には親代々その家臣は扶持を貰っている。
 
 
そこで現実問題として、殿さまの憎んでいる相手を倒せば、今でいえばサラリーマンとしての出世の機会である。
だからしてこのとき桜田門へ押しかけた連中は、禄高二百石止りで、あとは同心見習や手代、それに、郷士といった軽輩の連中ばかりである。  さて井伊大老の方は、何故、そんなに強硬に断わったかというと、掃部頭(御所の清掃係長の意味)と名のる点でも明白な原住民の家系で、出身の遠州井伊谷は、 <熊野速玉社文書>によれば、造営料所になるまでその一帯は、特殊区域の原住系の別所である。  さて当時水戸城三の丸の弘道館で、水戸光圀以来すすめられてきた水戸学派の内の結城党の面々は、  「別所に隔離されし者は鳥獣の皮はぎなどなすゆえをなし獣血によって穢れているものである」といった説を立てていたからして、これに反感をもち、埋れ木の小宅から、 本家の兄の跡をつぎ近江彦根藩主になると、井伊大老はそのお返しに牛肉輸出を禁じ、「喰い物の恨みおそろし桜田門」となったようである。
 
 
 つまりイキシチニのつく姓は直情径行型であり、信念をもった者がその血統だから、当時としては、「御三家」とよばれた水戸斉昭に対しても、敢然として刃向って押しこめにし、 やがては自分が暗殺されてしまうのだが、それまでは、「敏腕家」として認められる才人型である。  もちろん現代では暗殺など誡多にないから、この型の人はなんといってもいわゆる立身出世のタイプの最たるものであろう。  もちろん努力はいるであろうが、なにしろ天性ラッキーな生まれつきを持っているから、このイキシチニミヰのイニシアルを姓の上へつけている男性さえ巧く獲得すれば、 女性としては、マイホーム作りなどわけはない。  もちろん、この型の男性は職場でももてるが、女性にもちやほやされる。だからヤキモチをやいて別れるようなことをしては元も子もない。 また男性の場合は、この姓列の女性を選ぶと、案外に社交性があって、税務署へも代りに行ってくれるし、上役の家へも出かけてくれて、出世のたしになること受けあいといった利益もある。
 

銭儲け太閤記 でたらめな秀吉伝説 箱根の関所は出入国管理所だった

2019-06-03 12:18:57 | 古代から現代史まで
 
      銭儲け太閤記
 
 (注)昔は中国から輸入した銅や鉄製の粗悪な貨幣が全国に流通していた(これをビタせんという)。戦国期は銀が主流で秀吉は日本に多く産出した金を貨幣として流通させようとしたが、 失敗した。だから家康は江戸幕府を開いた際、箱根以東は金本位で一両は四朱、一朱は四分と四進法。 箱根以西は銀本位制で十進法を採用。だから一般の庶民は「銭、銭」と言い「金儲け」などとは言わなかったのである。   現代でも「守銭奴」とか、北島三郎の歌に、漁師が「銭の重さを数えても」とあるくらいである。後段に「箱根の関所の役割」を記したので併せて読んで頂きたい。
 
 
 
      でたらめな秀吉伝説
秀古は金儲けの生れつきの天才である。 が、講談では武勇抜群の豪傑が天下をとるようになっている。個人の腕力などは知れたもので、今も昔も金作りが巧くてガバつと儲けて分配する者でないと天下はつかめない。 なのに俗にいわれる秀吉伝説ときたら、金儲けにはふれず、まことしやかな嘘ばかりである。 たとえば…………  秀吉は尾張中村の百姓弥右ヱ門の子で、弥右ヱ門は以前織田信長の鉄砲足軽をしていた。  そして秀吉は顔がサルに似ていたから、幼名を小ザルとよばれたり、日吉権現のお使いがサルといわれたから、日吉丸ともよばれていた。などとする…………だから。  「少年のころに家出して、武家奉公を志し、遠江と当時よばれた静岡へ行き、今川義元幕下で久能城主をつとめていた松下加兵衛につかえた……これらのことは豊臣太閤素状記という本にもでている」 などと、嘘ばっかりである。
 
 
「さて秀吉は、九州征伐の終わった天正十八年に、松下を三万一千石の大名にして報恩した。利害関係でのみ結びついている戦国時代の主従の美談として、心あたたまるものがある」というの は、日本史探訪にでる国学院教授某の本である。そして、「秀吉は、忠君愛国の精神の持ち主だった。聚楽第をたてるや、後陽成帝をお迎えしたほどである」というのは、戦前の旧制高校の教科書にされていた黒板勝美著『国史通論』の一節である。  ほかもまあ似たり寄ったりだが、これらは、どれもみなうそっぱちなでたらめなのである。どうして、こんないいかげんな話が生まれたかといえば、幕末にでた、『絵本太閤記』のたぐいをそのままうのみにしたためだろう。
 
 これはつまり『西遊記』をよんで、かっての中国には、「孫悟空とよぶ、サル面の豪傑がいた」と信じたり、 「猪八戒なる白ブタの大勇士もいた」と本当にするようなものであるらしい。
 つまり、お話というのはおもしろければよろしく、針小棒大。いろいろエスカレートする。 そうしたお話では耳の中へしまいこんでいた小さな鉄棒を、ワンタッチで大きくして振り回してもよいが、ほんとうの事実なるものはそうではないのである。  さて、江戸時代に、「士、農、工、商」といった分類の仕方をしたから一般の大衆つまり侍でない者は、みな百姓だったとするようだが、実際はそういう事はありえなかった。  封建時代にあっても田畑をもつ者しか耕せなかったのが実情。 では秀吉の生家はなんであったかといえば、木こりかまき売りだった。
 通説の、父が鉄砲足軽だったというのも、これまたうそらしい。  なぜかというと、鉄砲伝来は天文十二年(1543年)で、これが九州でも大友家で武器として採用しだしたのは、天文二十年と記録に残っている。 だから尾張まで伝わってくるには、それから五年ぐらいはかかろう。  となると秀吉が二十歳のころの時代になる。  それでは子どものときに死別した弥右ヱ門が、鉄砲足軽であるわけはない。それから、当時、  「遠江」とよばれたのは今の静岡ではなく、浜松市である。
 
  駅前のバスにのって「頭陀寺」へゆくと、昔の小さな城あとは、今では幼稚園になっているが、 その向こうのたんぼの中に畳四枚ほどの竹やぶがあって、「松下加兵衛屋敷跡」の棒杭がある。  秀吉が奉公していたのは、ここに頭陀寺十二坊という薬師寺派の大きな僧院がめったころで、 松下は今でいえばその僧院のガードマンのボスだった。さて、であるからして、  (浜松はそのころ、今川の勢力範囲だから、その家来だったろう)というのも早とちりである。  のちの浜松城はそのころの引馬城の飯尾豊前守は、今川の幕下にあったが、松下は宗旨違いで直接の家来ではない。薬師寺の寺侍の大将のようなものだから、サラリーは寺から貰っていた。  そこで桶狭間合戦で織田信長のため、今川義元が討たれたの後のことだが、「手引きして殺させたのは飯尾らしい」と疑われた豊前守が、
「私ではありもうさん。宗旨違いの松下が怪しいのでござる」と、頭陀寺を襲って焼いてしまった。そこで松下は久能山へ逃げこんでいたが、 「あだを討たして下され」と、徳川家康に仕えてから、今川義元の子の氏真を攻めた。  それゆえ、のち秀吉から久能山の三千石は貰ったが、すぐ家康へこれを提供し、その隠居所にして貰い、関ヶ原合戦でも家康側にたって豊臣を攻めている。 この方が本当なのである。
 
 
 松下と秀吉との関係は実際はこういうところだから、前述の歴史家のとく説はみな事実誤認としかいいようがないようである。  また、秀吉が勤皇だというのも、おへそでお茶をわかしたいような話である。 (注)明治新政府の高官といっても、下賤の出が多く、ろくに歴史も知らず、「豊臣は反徳川だから勤皇だったろうと」 正一位の追位をしているぐらいのものである。          そのころ、奈良興福寺多聞院に、英俊和尚とよぶ筆まめな人がいて、毎日々々のことを日記につけていた。今も伝わっているが、その中にも、 「正親町天皇の皇太子誠仁親王さまが、ハシカにかかって一日でなくなられたというが、三十五歳の親王が子どもの病気で死なれるはずはない。 秀吉に殺されたか自害されたのだろう。かねて秀吉は自分は前帝と持萩中納言の娘の間に生まれた正統な皇位継承者だ、といいはって居るから して、これで次の帝はもはや、秀吉に決まったようなものだ」と書いている。  また秀吉は恐れ多い話だが、
「自分はこんな古くさくむさい御所をつぐ気はないから、聚楽第とよぶのをこしらえる」  と、大阪万博なみの規模をもつのを、京のまん中の十丁四方の人家を強制的に取りこわして建設にかかった。 そこで正親町帝が無念がられて、「あんなやつに皇位を奪われるのは、まことに残念である」  と絶食して自害なさろうとハンスト始められた、ところが秀吉は御所へのりこみ、
「こら女官どもッ、おかみの口をこじあけてでも、何かを食していただかんと責任はそのほうらに及び、みな丸裸にして御所の外塀へぶら下げるぞ」とおどかした。  びっくりした女官たちは、ヒイヒイ泣き叫んで、むりやりに帝に重湯をすすめ奉った。  さて、秀吉は強引に帝位を奪うわけだったが、死んだ誠仁親王の亡霊がでて、落雷や火事が各所に起き、自分の命もあぶなかろうと、公卿の山科言経らにおどかされ、 「それでは困る」と、やむなく誠仁親王の忘れ形身の後陽成帝を御位につけ、 (本来ならば、ここが新御所になるわけでしたが、これまで付けてはあげられません。
 
ただ見せて上げるだけですよ)  と天正十六年(一五八八)四月十四日から五目問、ご滞在を願っただけの話。こんな勤皇のしかたがあるのだろうか。つまり、これまでの秀吉伝説は、 正確な史料からすると、みなデタラメなのである。まやかしに過ぎない。  秀吉は、ただ希代な銭儲けの天才みたいな男で、それで巧く金で、天下をとったのにすぎない。  といって、それは悪いというのではない。今でも、儲けのこつは、それはおおいに利用できるだろうからである。
                箱根の関所     「箱根の山は天下の険」という有名な歌がある。この歌は何のことは無く、箱根に登山鉄道が出来た際の PR用の宣伝唱歌なのである。江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」で、 険は険でも、権力の権で、つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。 日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。  そして余分を持っていれば没収されたものである。  箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。
 
  日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前  「手形の由来」に記したが、此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。  そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、  豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。  さて有名な春日局は前の夫、稲葉正盛との間に産んだ子供、稲葉正勝を可愛がっていた。 そこで我が子可愛さのあまり、ここ小田原十万石の城主だった大久保忠隣を除封し、阿部正次を藩主にさせた。 これはいきなりやるのもえげつないので阿部はクッションの役目で、その後春日局は家康に頼んで四年目に吾が子稲葉正勝を小田原城主にさせている。 これは小田原が管轄する箱根の関所は膨大な金銀没収ができ莫大な利益があればこそである。
 
  そて、 江戸時代の刃傷第二号は、貞享元年(1684)八月二十八日。  春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺した。稲葉はその前日、  「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、  自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。  にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産を独り占めとは怪しからん。ゆえにわしは成敗してくれる」と、父正則の代からの家老どもを呼んで、  頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、  「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、 遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、自分も寄ってたかって斬り殺されている。  つまり殿様が危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代わり殿も、  「家来が困らぬように責任を持つこと」といったのが、誠の武士道精神であった。                    まわし」とは相撲の褌ではない    さて、こうした訳で三島の宿場は次々と散財する泊まりの遊び客で大繁盛し、また大混雑だった。  だから女郎衆も客から客へといそがしくマワシを取るとも言えないから客には「お化粧直しに一寸」といって  別の客の男のところへ行ったから、現代でも唄に残っているように「三島女郎衆は化粧が長い、化粧が長けりゃノーエ」の唄になって伝わっている。   余談になるが昭和三十年、四十年代のキャバレー華やかし頃も、大店となればホステスは在籍300人とか、800人以上もいて、 売れっ子ともなれば客の指名でホールを忙しく走り回っていた。 この時も彼女たちは別の客から指名が入ると「一寸おトイレに」(オトイレを音入れにもじって「録音してきます」等と言っていた女も居た)と言って席を離れたもので、 粋人の客は、遊び慣れているので、 マワシをとられているのが分かっても大様に構えていて、野暮は言わなかったものである。これを「粋な男の痩せ我慢」という。  
 

日本民族は「蛮族」ではない 百済人が唐国の傭兵となる 薩摩と琉球、唐国の関係 「サンカ解釈の間違い」

2019-06-03 10:03:42 | 古代から現代史まで

日本民族は「蛮族」ではない

「サンカ解釈の間違い」

 百済人が唐国の傭兵となる

 薩摩と琉球、唐国の関係

 

掲載の地図を見て頂ければ解るように、近頃何かと日本に対して問題を起こしている韓国の古代は三韓に分かれて、激しく対立していた歴史がある。 朝鮮半島の国家形成史を見ると、日本の弥生時代には、箕氏朝鮮が成立していた。 ついで後述するが、馬韓、弁韓、辰韓と三韓時代を経て新羅ができ、次に高麗と続き日本の室町、戦国、江戸時代にかけて李氏朝鮮となる。 朝鮮半島国家は古来より争い多く、中国から冊封を受け続けその属国の時代が長かった。 明治四十三年、日本が大韓帝国を併合するが、大東亜戦争に負けるまでの三十五年間は実質「日本国」だったのである。

さて、現在はおこがましくも朝鮮民主主義人民共和国を名乗っているが、金日成、金正日、金正恩と三代続く、 独裁国家王朝とも謂うべき北朝鮮になっている高麗は、日本の古墳時代にあたっては(弁韓)と呼ばれていた。 朝鮮南部にあって中国に面していた百済は(馬韓)で、日本海に面していた新羅は(新韓)となっていた。

現在の高麗は(平安堂、黄海道、戍鏡道)となっていて、北朝鮮の版図。新羅は(慶尚道)、百済は(全羅道)となっていて韓国の版図になっている。 そしてかって韓国では光州事件があって、慶尚道出身の全斗換大統領が全羅道出身の金大中大統領を逮捕し、後に特赦されたが死刑判決を出したことがあった。 日本の奈良時代は実質百済が日本に君臨していた当時は、新羅系を「蛮族」として扱い討伐したのである。 今でも「クダラないやつ」「クダラないことを言うな」とよく使われるほど、当時の百済勢力は、新羅系、高麗系は勿論、海洋渡来系民族にも過酷な政策で君臨していたことの証拠である。 「クダラにあらざれば人にあらず」とばかり、日本人を虐めたのである。 韓国は、歴代大統領は全てと云っていいほど次の体制から糾弾されている。これは現代に至るも三韓時代争いが続いていると見るべきだろう。 だから先述した全大統領と金大統領の争いも百済と新羅の争いが現代にも影響しているのである。 現在はその頃の仇討であり内ゲバだといっていい。

さて、こうして百済によって「蛮族」として討伐され、追われて山に逃げ込んだ新羅系をサンカとした説がまかり通っている。 また、かつての言語相似によった安田徳太郎説も、サンカは陸路日本流入説で、ネパール周辺のカピヴァストウ人に、インドのサカ族が混じり合って南下してきたから、 これがサカより来たからサンカとなったとします。  そしてマウリア王朝滅亡の後で黒海方面より北西部を支配したものの、やがてサカ族は衰運を辿り、その王族の一人の釈迦のとく仏教を宣伝尖兵として北東方へ民族の大移動をなしたとします。

 またサンカをインド語のサンガー派仏教布教師や、アラブのサーングー社の奉仕大よりとする説もありますが、アラブからシルクロードを通って地球を横断のコースを辿ったなどというのは妄想である。  よって常識的にアラブやインドを通っての陸路ではなく、海路、即ち黒潮に運ばれてきたとみるなら、山の民の彼ら山窩などに、生魚が常食で水田耕作のできる古代海人族がなる筈はなく、単なる語呂合せとみざるをえません。  戦勝国唐軍進駐によって母国を失った百済軍団が、生き残るため唐に帰化帰順してクシャトリア(戦士)として、 傭兵団になり藤原王朝御抱え軍団となりますが、後の武士団の発生は絶対に彼等ではありません。「蛮賊」として彼らに追われ山へ匿れた新羅高麗系がそれで、十一世紀初頭からの人間狩りで、 防人としてで九州へやられ、そこで実戦をくり返し、十二世紀の源頼朝の文治革命をへて武士階級は確立されるのです。

 

 江戸時代に「源氏屋」といえばアイマイ屋とか千三つ屋といったような差別をなしたのも、こうした過去の来歴があったればこそで、「山窩と源氏武士は同祖同類」とみられていたからなのです。  そして古代海人族はアとかアミと呼ばれ、「アミ元」に人頭税を払って漁業製塩業の塩尻になったか、奴百姓とされて年貢米納入課役を強制されて、どうにか生かしておいて貰えて今日になったのでしょう。 奴隷となってもご先祖様たちは頑張って子孫を増やしたので、現在も、サンカ系日本人や、海洋渡来系日本人の数は多く、人口の七割から八割を占めている。

次に薩摩藩を例に高麗と中国の関係を考察してみる

  江戸時代、全くお国替えの無かった土地は幾つかある。  仙台、加賀、長州藩などだが、何といっても関が原で負けたのに減封もされず幕末まで其の儘だった代表格は薩摩藩である。   現代と違って江戸時代は日本を大和民族一つ、即ち単一民族とは徳川幕府も見ていなかったから、別個の他民族が多い土地へ大名を移しては反乱が多く、統治不能との配慮からなのである。   薩摩は朝鮮の三韓時代、即ち高麗(弁韓)、百済(馬韓)、新羅(新韓)から朝鮮半島に近い土地ゆえ、百済系住民の多い土地だという歴史書もある。

しかし<大宝律令>時代には年間200人もの壮丁を御所は貢進させ、儀式の時には御所の門外に彼らを 四つん這いにさせワンワン吠えさせて、今の楽器の代わりともいう鳴物代わりの役を命ぜられていた、 という 記録もあるし、高麗系住民は藤原系(中国の唐)の体制から、後に蛮族として反体制部族として扱われてもいたのだから、高麗系が正しい。   毎年200人からの薩摩人がこの後どうするかと言えば、当時の大陸系体制である御所が、旅費や日当を払ってくれる筈も無く、楽器代わりの使役が終わると彼らは無常にも放り出され、 故郷である薩摩へ乞食のように途中物乞いをしながらでも必死に帰って行ったのである。

これが毎年のことだからすっかり習い性というか、遺伝子に組み込まれてか、後年、島津勢は関が原で、西軍敗退と聞くや味方陣地の中を強行突破で、必死猛死に薩摩へ帰っている。 強烈な帰巣本能である。  この時徳川家康は「薩摩ホイトは勘弁ならん」と怒り、島津家の取り潰しを考えていたらしいが、前述のように高麗系住民の住む場所は薩摩だけではなく、日本各地に多く、彼らが一致団結して反徳川に回るのは 得策でないと諦めた経緯がある。  さて、薩摩の高麗焼き陶器を、秀吉の朝鮮出兵の折、島津家久が連れ戻ってきた帰化朝鮮人達の子孫の作であると 発表している歴史書もあるが、高麗焼きというのはずっとその前から島津家のお家芸なのである。

 

そして薩摩の唐国即ち大陸嫌いは筋金入りで、その理由は薩摩の本国、即ち高麗が唐国によって滅亡させられたからである。  なしろ唐によって朝鮮半島全部が席巻されるまでは、陳や隋の時代の頃に大陸から薩摩半島に漂着した者も多く、それらの者たちを沖永良部や各離島へ送り込み、 ずっと子孫末代まで薩摩の奴隷として使役していたのは有名である。  また沖縄の「久米の子」の子孫が「さしの側」として守護していた中山王の琉球王朝を攻め、圧政を敷いていたのも琉球が中国系とみての仕返し、意趣晴らしの感がある。  

徳川綱吉の神仏混合令発布以降、島津家は自国領内に止む無く曹洞宗やその他の寺院の建立は許可したが、日本の仏教の本元とも云う「一向宗」の本願寺派だけは、説教僧を送り込んでくるからとの理由で、 江戸期は勿論明治なっても薩摩入国は絶対不許可だった。

 また後年、「薩摩木綿」の名称で、中国や朝鮮産の布地を、日本で国産品が出回る様になったが、それは家康の開いた江戸幕府初期の頃で  薩摩は一手販売で儲けていたのを、一向宗が綿の木を輸入して、日本原住民を仏教に転宗した者たちにのみ紡がせ織らせたから、   薩摩木綿が売れなくなり、ゆえに一向宗を特に憎んだという説もある。   薩摩は王朝時代は軽蔑されて高麗狗とさえ扱われ「さつまほいと」と差別されていた怨念が先祖伝来染み付き、  鹿児島の小原郡西国分町駅の西側にある古墳は、今でこそ「隼人塚」と呼ばれているが、昔は「ホイト塚」だったそうである。   しかし薩摩は明治維新の一方の雄となり、勝てば官軍である。そんな恰好の悪い呼び名を許すはずも無く、  明治以降は「薩摩隼人」は蔑称ではなく、勇ましい美名と今は変わっている。