新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

古代シャモロ国地図による日本人ルーツ これからの中国との関係 二階幹事長の無様な姿 中近東→インド→マレーシア→ベトナム→日本

2019-05-07 13:03:14 | 古代から現代史まで
古代シャモロ国地図による日本人ルーツ
中近東→インド→マレーシア→ベトナム→日本
これからの中国との関係
 
 
二階幹事長の無様な姿
 
 
 
 
タイのバンコック博物館には、秘蔵古代シャモロ国地図がある。 それによると、現在でこそメコン川上流のケンカン市の先で、雲南の車里となっており、ソンコイ川のラオカイの上流の川口から、江河と名が変わって、 そこはベトナムの国境になっている。そこからインドシナ山脈を境にして四川省までが雲南省と、全くトンキン湾から遠ざけられ、山国の感がある。 だがシャモロ国の栄えていた頃の古地図では、ソンコイ川までが、ずっと版図に入っていたのである。つまり今いう雲南が、かつては南シナ海に面していたのである。
 日本のラテン語呼称のヤバアン、ヤバアーナの語源ともなっているマレーシアことヤバンからは、黒潮暖流でボルネオ海を二日で流れ拔けてつく地帯である。 もちろん紀元前5世紀ペルシャのアケメネス王朝の頃、ダイオレス王がインダス川右岸まで占領していた時代もあったし、紀元前三二七年になると、アレキサンダー大王がインドへ進攻し、当時のアケメネス王朝を仆し統治国となした。
 ついでマライ半島もインドの版図ゆえ、タッコーラとカターハに占領軍のギリシャ兵達が進駐していた。  ギリシャ名で「カテイガラ」と呼ばれた今のヴェトナム民主共和国、つまり海岸までのびていた当時の雲南へ、小麦耕作奴隷とし、タッコーラやカターハから集めたのを、二コバルから筏輸送していた。 このことは〈ギリシャ史〉に明確にでているから、これは世界史の中で、本当といえる日本史創生の歴史である。
 現代の地図でみるから判らないが、ベトナムは昔の雲南の海岸地区のカテイガラで、黒潮渡来の古代海人族が日本列島へ、バシー海峡から四国や瀬戸内海へと入ってきたのである。  だから、かって東ドイツのコンベルグ紙は、ベトナム撤退のアメリカ軍を評して「ヒロシマの仇を、その祖国がとったのだ」とするような記事をのせもしたのだろう。
 
これまで世界史の中で日本は、「マレーシア経由の西南有色人種によるもの」とされて、英語読みではバハンだが、ギリシャ発音のヤアバンからとされているゆえ、 ドイツ、ペルシャ、インドといった昔はギリシャ語圏内の国では、国連用語ではジャパンだが、とはよばずに、今でもヤバアン、ヤバーナなのであるのは周知の通りである。  「八」とよばれ「ヤァ」とされていた吾ら庶民の祖先は、黒潮によってマレーシアへ運ばれ、そこから今はベトナムとよばれていた昔の雲南へ移され、さらに、そこからと逃亡してきた古代縄文人であろう。
 流行のシルクロード説みたいに全てを陸路から来たという説では、長安の都からは遥か雲の彼方の南の遠い所で、そこからテクテク日本へ移動とは無理がある。 が海路で、黒潮にのってくるのなら、現代でも、かってベトナム戦争の頃、ベトナム難民の筏が多数日本に漂着した事実でも理解できるだろう。  だから今のように海上ラッシュで船舶が多くなかった昔は、スイスイと暖流にのってしまえば楽に日本列島へ人つてこられたのである。また、日本に上陸せず、 その儘でまたも流されていった者らが、太平洋を横断し、ハワイ諸島に着いた人々も居る。 さらに、今いう処のエクアドル縄文人やカナダインデアンとなった人々もいるのである。 日本では「縄文人海を渡る」と不思議がるが、日本から渡ったのではなく、前記したように日本に上陸せずそのまま流されて、漂着地点でそれぞれ文明が発達したのである。
 
日本は吹き溜り列島ゆえ各方面から人間が流入してきているのに、鉄剣や鉄矛で武装した大陸人(中国)が威張りくさって弥生時代となし、それまでの縄文日本人を先輩とはせず被征服民とした。 原住民の内、降参しないのは捕えてきて奴隷オークションにかけた。逃げるのはゲットーに入れ、さも自分らが国の初めから居たように歴史を偽造した。そして「主客転倒」というが、 後から入ってきた他所者が押しこめられたのが、いわゆるなのだとと決めてしまう。 だから世界史の中でも通用する日本史である為には、ぜひこの問題を明白にせねばならぬのに、「それには絶対にふれてはならぬ、抗議がくるから」と何処のテレビ局や雑誌社も厳禁である。 どうも問題にふれると解放同盟から抗議が来るというのは違って、圧力をかけてくるのは別の組織らしい。
 
なにしろ<日本の特殊の研究>をこの世に残した菊池山哉でさえ、古代史の部分では「延喜式」をひいて「何々地方は何年前には稲束何千束賜与であったが、この頃には零になっている。
これは、その間に俘囚も耕やして自給自足の状態になったのであろうか」と文字通りに解釈し説明している。  しかし王朝時代の記録や公卿の日記は、数多く残されて活字本になっていても文字通りに理解してはならない。 稲何千束というのは、種もみで渡しては、食してしまう惧れがあるから、芽が出だした苗代何千束のことなのである。奴隷にした者らへ今の小学校みたいに給食したのではなく、 王侯貴族の食糧を作らせるよう課役したにすぎない。つまり最初の年は苗を渡されても、翌年からは取り入れ九分の中から次の種もみは間に合ったゆえ、次年の何束下賜というのは、 新規に編戸された農業奴隷の分だけに搾ってで、施しなどしない。
日本史では判りにくいから西部劇の映画を想い浮かべてみるのがよいようだ。 合衆国政府は、平和協定を結んだインデアンを一定地へ収容し、唐もろこしの種を一つかみずつ与える。インデアンは狩猟民族ゆえ当惑するが拒めば、日本の多賀城にあたるリオグランデ砦から、 騎兵隊が出動討伐にくる。  やむなく水をくんできて耕やし荒地を次々と開墾して、コーン畑に苦労して造成してゆく。すると、耕地になったから良い値段で転売できると、ワシントンに顔のきく政商が、騎兵隊長に出動を命令する。  せっかく食えるようになったと喜んでいるインデアンの女子供まで、騎兵隊はみな殺しにしてのけたり、捕えたのは次の岩山だらけの居留地に送りこむ。これと同じ事が当時の日本では行われていたのである。  
アメリカでも今になると、インデアン迫害史を匿したがるように、日本でも高名な学者T氏の「日本奴隷経済史」のごときは、大宝養老神亀天宝の戸口簿人口と人口との対比表をだしている。
竹越与三郎の「日本経済史」でも正倉院文書で全人口の三・九%と見たり片方は五・六四%なりとみなしている。 これだと、が一人もいない地域が三分の一をしめる表である。農耕漁業をなす奴や寝間勤めや掃除洗濯の婢がいなくて、全ての労働をしない彼ら王侯貴族は、どうして暮らし得たのだろうか。 つまり竹越や滝川の根本的な誤りはその年に里長の許へ送られたの数だけの拾い出し計算による。
常識で考えても全人口の四%から五%のの働きで残りの者の食糧など生産できる筈はない。真実は反対であって、総人口の九五%がである。  そのくせアメリカの「ルーツ」なみに、主人が婢にうませた子供さえも奴隷として売ったのが、「養老律令」にあるとし、西行法師の〈選集抄〉は後世の偽作とはことわりながらも、 その中の「越後上村の海浜にて、人馬の族を売買その中に幼きあり老いもあり、そぞろ涙こぼれぬ」を引用している。 人馬の族を人と馬とのせり市のごとくみているが、出てくるのは売られてとなる人間ばかり、滝川は知らないようだが、人馬族とは騎馬民族の末孫のシシをさすのである。
 ついでに書けば、奴隷価格でも〈正倉院文書〉を現行の読み方通りに判断して価格を誤っている。
 
「直布一端」は後の一反つまり八・五米ではない。〈唐令書〉では、掌をひろげ親指から小指までの巾としているゆえ二十㎝弱で四十二分の一。
また〈賦役令集〉和銅八年五月十九日の格の条文からして、「奴一口六百文、婢一口四百文」を引用するが、賦役令の一口とは宝くじの何組と言うような集団をさし、 一組のことで一人の事ではない。また織田信長の晩年でさえも、「一文斬り」といわれ、「罪人一人を斬り殺し穴を掘って埋めるまでが一文」ゆえ現在の壱万円相当。唐の玄宗皇帝の頃は一分で、 一文でなく、和銅銭とて鉄のビタ銭でなく銀、銅だった。こうした出鱈目な誤りを弟子や孫弟子もその儘受け継いでいるのが現状なのである。  王朝時代の公卿の日記が数多く残され、これが活字本となり確定史料とされているから、架空の平将門が実在化したり、総てに可笑しくなります。 あれはみな藤原日本史でしかないのです。  「自分らこそ天下って日本を統治しているのだ」という宣伝文書が歴史屋の史料とされていては、真相など解明出来はしない。 大和民族は単一だとしながらも、同和問題の本質も解明できていない。
原住民を卑下して、賤の者(卑しい人間)と見下して、彼らを「帰化人」の子孫としてしまいます。 しかし、日本原住民が、最初の「賤」とされたのは、奈良時代の非クダラ系日本原住民なのである。 西暦六六三年からは反仏教で、原住民は拝火教や山岳信仰だったから、大陸人がいくら全国に国分寺を建てて仏教を広めようとしても、絶対に転向せぬ異教徒原住民を「賤」とした。 次が北条体制による旧源氏残党の追放になる。そし足利時代に南朝方(朝鮮高麗系)についた地域全部というのが、所謂「」の発生の真実です。 アメーバや草木でも初めに種がなくては生えません。  日本列島へ次々と入ってきた子孫が、今の日本人の八割以上ですから、「所謂」の者らこそ古参の我ら日本原住民の大先輩なのである。  藤原王朝のごときは7世紀からの新参者で、鉄製武器で征服者になっただけの話にすぎません。 そしてこの子孫は現在でも原住系と混血を重ねてはいるが、全人口の一割は居るのである。
もう二度と中国の下風に立ってはいけない
余談になるが、記紀には仏教伝来は404年、漢字は552年と書かれている。 「仏教は素晴らしい宗教ですから、どうか日本人に広めて下さい」とお願いした訳ではない。 白人がキリスト教を持ち込んで、有色人種世界を植民地化した手法と全く同じなのである。 それまでの日本には拝火教や拝水教、山岳信仰などの「自然教」が在った。
さらに、漢字は実際は漢の時代の物なのに唐になってから「漢字」として占領軍が持ち込んで、自分たちの歴史を書いてしまった道具にすぎない。そして古典四書として崇め奉られている「古事記」「日本書紀」「旧事紀」「古語拾遺」が漢字で書かれた。 だが古伝四書といわれる「ウエツフミ」「ホツマツタエ」「ミカサフミ」「カタカムナのウタヒ」と、古史四書「九鬼神伝精史」「竹内太古史」「富士高天原朝史」「物部秘史」がある。 さらに異録四書に「但馬事記」「東日流外三郡史」「忍日伝天孫記」「神道原典」もある。漢字以前の文字として岩戸蓋石古字やアヒルクサモジもある。 これらは「神代文字」と云い、銅鐸や古墳壁画の文様などを「絵文字」として一部は解読されても居る。 だが、これらはこの国の歴史学者たちに問題提起はしたが、その後の研究は進んでいないのが現状。 記紀を金科玉条とし、国民の税金で録を食んでいる各大学の教授連中は横着なのか、頭が悪いのか、はては難解すぎて手が付けられないのか。 大学で江戸時代そのままの師弟関係で、助手や助教授の昇進、転勤権を握っているため、若い者は新しい研究に突き進むことができないでいる。歴史学会も「白い巨塔」なのであ。
 
さて、今や中国は巨大な怪物に成長した。最後の清朝崩壊後(1911)、中華民国から現在共産党一党独裁の中華人民共和国に変貌した。 この間約100年以上を経たが、ここ十年、経済力と軍事力を背景にした中国の台頭は凄まじい。 習近平王朝ともいうべき中国の一帯一路政策はまさに宗教でもなく、武力でもない「金」(かね)による世界制覇戦略に他ならない。 先日も安倍総理の特使として二階幹事長が訪中し、うやうやしく「親書」を手渡していた。これぞまさしく朝貢外交そのものではないか。 「あなたにひざまずきます」という「へつらう」姿がテレビ画面に映っていた。 安倍総理は一帯一路に協力する姿勢を見せているが、絶対これに乗ってはいけない。当面はアメリカと強力に連携して中国と対峙しなければならない時に、何という無様な外交をしたものか。
 
中国は尖閣を盗りに来て、沖縄にも様々な形の謀略の手を伸ばしている。 何しろ彼の国は孫氏の兵法を作り、謀略と戦術に長けた古狸で、周辺国を侵略し、収奪し属国化した歴史が山ほどもある前科者なのである。 中国数千年の歴史とは侵略の血塗られた歴史である。 中国が少し位「親日的」態度を見せたからと言って、甘く考えてはいけない。それも「悠久の戦略」と分析するべき。 いずれ、朝日新聞のような左巻きのマスコミや知識人を抱きこんだ「親中国国家」か、中国の太平洋の要である「中国日本省」建設を目指しているのであろう。 その兆候は日本国内の至る所で見られる。 大型連休だ、新元号(令和)に浮かれ、オリンピックに五兆円も使って舞い上がっている場合ではない。そんな金を使うなら、海上警備力増大のため保安官増員や巡視艇を建造し、 厳しく取り締まるべきである。現状を漢文調に書けば、
「弱士儒夫らが金権を母とし豪奢淫蕩の暮らしを貪る軟弱軽佻の気風を一変しなければならない。 公務員は質素倹約を旨とし陋屋破壁の内に公務を弁ずる覚悟が必要なのである」
 

吉良上野介の妻物語

2019-05-07 09:34:43 | 古代から現代史まで

    吉良上野介の妻物語

 
忠臣蔵で人口に膾炙されている、江戸城松の廊下刃傷事件の発端が吉良が赤穂の塩作りの秘伝を奪おうとしたとするようなのは、現代の産業スパイ小説ものであって、あり得ない。三州吉良では忠臣蔵の芝居を興行させぬのは「抹消」の抹をつけた「抹茶」、つまり摘めば黒くなってしまう植物の茶を緑色にして保たせるのは、銅鍋にわく緑青を混ぜるからで、これを考案したのが吉良上野介の一歳年上の妻であった上杉の三姫。よって添加物の事を昔は「転茶」とよび、今は「天茶」といい、茶業者は西尾町となっている吉良から仕入れて混入させねばならぬ義務がある。
 
 つまり吉良上野介のおかげで今も町の産業が成り立っているからである。呉服橋に上杉家より出させた一万両で建てた吉良邸が豪壮厳重で、討入りなどできるような建物ではないから、柳沢吉保大老は、私邸なのにお召し上げとし、代りに本所の旧近藤登之助の古屋敷を与えた。官舎だから絵図面は今でも残っているが、いくら修理をしても辺鄙な場所で不便ゆえ、三姫は狸穴の上杉中屋敷に上野介を住まわせていたが、米沢へ戻るのに上杉邸では出来ぬからと別れの会に本所へ行った。
それを大高源吾に知らせた四片庵山田宗偏は、柳沢が元禄前の古い小判大判の流通禁止をし、カネとして通用せぬ京で堺の中村内蔵介に銅を半分も混入の、今いう贋金作りした際の京所司代。その功で加増されて、当時は老中職の代々の臣だった。   京の真似をして町木戸を、加賀爪甚十郎が町奉行の時に設けたが、本所から品川の泉岳寺までは四十三ヵ所あると元禄江戸切絵図にもある。春闘とかゼネストのなかった時代に、当夜に限って番太郎がみな錠をかけ忘れて、彼らを堂々と通した事は当時としても考えられなかった。そこで、同時代の安藤広重の討入りの続きもの絵では、往復ともに小舟に分乗している。
 
 
が、実際は町木戸を監督する大番屋は十二月は南町奉行松前伊豆守の指揮下。松前は牧野備後守が京所司代だった時の京町奉行から、勘定吟味役から勘定奉行に栄転した萩原重秀と共に江戸の奉行に昇進していた男。元禄版日本マフィアといってもよい仕組みで、討入りの晩に本所二ツ目の紀伊国屋の小屋へ出かけてゆき、「殿よりの賜物」と生卵を配ったのは、柳沢の三百石の家来の細野広沢であるし、また松前伊豆守抱えの棒術指南の堀内源太左エ門も助太刀に赴いている。そのくせ討入りしたのは武林唯七みたいな軽輩三名が五組ずつで、七十八歳の堀部弥兵衛や、その他は吉良上野介が炭焼き小屋より邸前に曳き出され斬首される迄は、外にいて、「寒うござる。火に温まらして下され」とか、  「白湯を一杯所望」と、近くの旗本邸の番人にねだって邸外にいたにすぎないから、見張りをしていただけの話。
 
そこで、処分問題ではもめたが、萩生徂来として今も知られている儒臣が、柳沢の命令どおりに公儀に対して進言している。  「みな賜死にすべきである」と主張した彼は、細野広沢より上の五百石どりの柳沢吉安の臣。この時、女鎧を着て夫の仇討だと討って出ようとしたのが上杉の三姫。これから、「一つ年上の女房は金の草鞋を履いても探せ」と云われたが、芝居から「(塩谷)判官びいき」となって、三姫の名は消えてしまったという。
 
この上杉家はもともと長尾家で、長女は阿亀、次女は阿虎と名が決まっているのに、三番目にできた故に、この三姫の名があるのである。焼石を厚手の布袋に入れ、「温石(おんじゃく)」とよんで吉良に持たせた記録もあるが、小林計一郎著には、上杉於虎の姉阿亀が長尾政景との婚礼の絵馬が新人物往来社から出ているが、夫は正座し阿亀は立て膝姿である。明らかにサンカの女房風俗である。 となると、その間に生れた喜平次が後の上杉景勝となり、その曾孫が三姫ゆえ、吉良上野介は連夜下敷きになって夫婦和合を強いられていた事になる。  関ケ原合戦では、赤系の平氏の豊臣方と、白系の源氏系徳川の関ヶ原合戦に上杉が西軍に組しなかったのは、サンケ系のため。
 
 
  播州赤穂森城主が、今いう体育に木刀稽古の相手を召し抱えたのが治安維持法に引っ掛って、妻の里方に閉門になった後へ、浅野内匠頭の祖父が関東から転封になった。   この際に伴してきた播磨多次郎とは呼ばれる者が、海水を塩田にまかず何百本もの竹筒に汲みこみ、真夏に底に塩の凝り固まりを拵えて水晶みたいな氷砂糖のようなものを赤穂の木津屋を通して各地の国一の許へ油桐紙包みにして送っていた。「ミチノ カミ」というのが、実はこの精製塩なのである。   当時、上杉家は景勝の百万石が関ヶ原戦後三十万石、次いで二十五万石、三姫の産んだ三之助が養子に入って十五万石にはなっていたが、良塩が欲しいのなら米沢の国一に命ずればそれでよいのである。多次郎塩つまり最高のサンカの「ミチノカミ」が、 いくらでも上杉から吉良は入手でき得たのである。だから吉良が赤穂より製塩技術を盗もうなどという大河ドラマのごときは、吉良上野介の一歳年上の妻である上杉三姫がサンカの出であると判れば噴飯ものである。
 


考証 赤穂事件 憐れなり浅野内匠頭

2019-05-07 09:27:42 | 古代から現代史まで
 
       考証赤穂事件
 
 
江戸は京の真似をし町木戸を作り番人をおき、日没から夜明けまでは鼠しか通れぬようになっていた。 本所の紀伊国屋紀文佐衛門所有の材木小屋に勢揃いした赤穂浪士たちは、吉良邸までの間は町木戸は二つしかなかった。 だから、或いは小舟にのっていったかも知れぬが、引きあげの芝高輸泉岳寺までは、元禄版江戸切絵図には町木戸は43ヶ所もある。 労働組合もなかった当時、こんな43か所の番太郎がすべてストをやっていた筈もないのに、当日に限って全て開いていた。
だから、同じ時代の安藤広重は、こんなことはありえない事なので討入りを描いた続き絵には、往復とも小舟に分乗してゆく浪士たちを画いている。
番太郎は大番屋所属で、丁つまり12月は前京奉行から栄転の南町奉行松前伊豆守だった。 12月14日には米沢へゆく吉良が、それまで匿まわれていた麻布狸穴の上杉家中屋敷から、旧近藤登之助の古い本所屋敷へ別れの茶席へ赴むくという情報を、赤穂浪士の大高源吾に教えた四方庵山田宗偏はという男は、前の京所司代から一万石加増されて老中となった小笠原備後守の親代々の家来である。
 
討入りの晩にわざわざ生卵の箱を浪士たちの処に、恭々しく持ってゆき皆に配ってから、励ますように、  「これは殿よりの下されものなるぞ。精をつけなされ」と言った細井広沢は柳沢吉保の三百石の家臣である。  「ご助力もうそうか」と紀文長屋へ駆けつけた堀内源太左工門は、松前伊豆守召抱えの捕方共への棒術指南として扶持をうけていた人物。 これみな柳沢の一味徒党である。マフィアなみの体制側の組織なのである。
 そして吉良の首をとってしまうと態度は一変して、全員みな賜死あってしかるべしと進言したと言われるのも、柳沢吉保の五百石の臣の荻生徂来。 事件後幕閣では浪士の処分を巡って随分と意見百出で揉めたという。それを「賜死」即ち死罪の一言でかたづけてしまっている。 この時代は侍に意見などはなく、みな殿の言いなりに行動するのが扶持を頂いている家臣の忠義だった。  柳沢吉保のマフィアが寄ってたかって吉良を生きたまま米沢へやりたくなかったか理由と言えば何だったかとなる。
それは、箱根以西は銀何匁の貨幣制度で、金はカネではないのを良い事に、古金の大判小判の流通を禁止して京へ送りこみ、 吉良上野介を宰領に堺の中村内蔵助に命じて銅を半分以上混ぜた元禄小判を鋳造し、当時の警察庁長官にあたる仙石伯耆ら幕閤の要所に大盤振舞いをしてのけた。
 
 
柳沢吉保は収賄などせず逆に金をばらまいたから明治になって清潔な為政家とし追贈正三位の恩恵さえ受けている。 勘定吟味方にすぎなかった萩原が勘定奉行と、それぞれ金の他に出世させて貰えたのに吉良だけは高家という立場ゆえ金は貰えたが、 望んだ大目付は「吉良殿は御高家ゆえ」と断られ、そんなことなら面白くない、辞める隠居すると口外した。 こうなると、生かしておいて贋金作りを暴露されては危険だと、京よりの勅使が帰る日になって田舎大名の浅野をよび、   
「吉良を殿中にていかようにしても抜刀させい。そちには何んの咎めもない、逆に加増してとらせるぞ」と理由も告げずに命令するなり小笠原らを伴って能の席へ行ってしまった。 ことは大老柳沢吉保みづからの命令である。小藩の浅野は忠犬のごとく吉良を探して廻り見つけると、なんとか抜刀させようと、殺すのが目的ではないから、額を突き肩を突きながら、 「抜け」「武士の情けじゃ抜いて下され」とまで叫んだ。
 
さては柳沢が殿中で抜刀さて仕置する肚とみてとった賢い吉良は、相手にならず不成功に終ってしまう。 よって、すぐ千代田城の坊主部屋へ入れられ、唐丸駕籠に入れて運び出された浅野は、囗をきかれては困ると、 田村邸に入り扉をあけ首を出したところをバサリと脊後から討首にされてしまう。 そして生きている吉良のの跡仕末は、甘言をもって浅野浪人にやらすべしとなった。 だから、せっかく上杉家より弐万両もだして作らせていた頑丈な呉服橋の吉良邸は、私邸なのに強引に没取してしまう。
代りに辺鄙な本所のボロ屋敷が柳沢吉保より与えられた。そして首尾よく殺せば再仕官させるとの巧餌で討入りの便宜も計ったのである。 ゆえ吉田忠左エ門らが泉岳寺へ行く途中で大目付仙石の役宅にわざわざ経過報告にまで行っている。
 
 
「主君の浅野も使い棄て、浪士も使い棄て」で、これではあまりにも可哀そうすぎると、当時の江戸の庶民は同情し、早速芝居にした。 当時の幕府は、芝居や音曲の興行許可権も握っていたから、本名では差しさわりがあるので、「仮名手本忠臣蔵」とした。 そして、吉良を高師直、浅野を塩屋判官と変え上演。これが大阪でも大当たりした。
こうして芝居では「判官びいき」の言葉もうまれてくるのである。 「春本壇の浦合戦」の主人公にされた九郎法眼義経のことではない。 強権で押さえつけられ、生活苦にあえいでいた江戸の庶民は、この事件の裏にはきっときな臭い権力の陰謀があると嗅ぎつけていたのだろう。
一方の上方歌舞伎や浄瑠璃では、銅をどんどんまぜて小判を作っていた中村内蔵助が、祇園の一力茶屋を連夜かりきってのダダラ遊びだし、 女房も負けじと嵐山で衣裳くらべの日本におけるフアッションショウの元祖となる見世物を開いた。 現在、この時の錦絵を見て「元禄時代は絢爛豪華な文化の爛熟期だっ」としている。 が、柳沢の超インフレ政策で、生活苦に喘ぐ庶民や、多くの庶民が野垂れ死にをしていた悲惨な実態を全く見ていない。
 
そこで当時、西では有名な斎藤内蔵助を一力の場にだし芝居は大当りをとった。 庶民たちは、まさか柳沢吉保がそこまで巧妙に筋書をたてて、吉良邸内には兵隊なみの三名一組ずつが斬りこみ、上野介を見つけると邸外へ曳きずりだしてきて処分。 それまでは大身の者や老人は外部にいて近所の旗本屋敷で手焙りを借りたり白湯を貰っていたにすぎないのでも、一緒くたに死罪にしてしまうとまでは思っていなかった。
だが、哀れ踊らされ、再就職の罠にかかった大石より、乞われて上杉家より行き、同夜いきなり不意に入口でつき殺された家老の小林平八郎が同行していたので、せめて彼の名誉だけでも回復せねばとの、幕末になって貸本のベストセラーになった式亭三馬の「女忠臣蔵」の中では、若くて良い男にさせた上で、華やかな女衣裳で泉水の石橋の処で、浪士の一人を凍る水中へ蹴落すような武勇伝に仕立てあげさせたのである。