天海僧正は、明智光秀か
信長殺しは家康か
上野公園にある寛永寺とか、埼玉県川越市の喜多院住持として、天海は有名であり、『真宗伝記』の著作もよく知られている。
が、一般には1536年(天文五年)生まれで1643年(寛永二十年)に没、つまり百八歳までの長寿を保ったという点で、「平均寿命が伸びた現在でさえ百歳以上は珍しい」のに、
「人間僅か五十年」が定年制だった時代に、そういう高年齢は信ぜられぬので、疑問をもたれている。というのは昔から、
「めでたやな、めでたやな、三浦の大助百八ツ」という長寿祝い唄があるごとく、百八という年齢は、実際年齢をさすのではなく、長寿を象徴する熟語であるからである。
そして、この年齢不祥の僧正については多くの異説があるが、武田信玄をたよって、延暦寺の僧徒と交流があり、七福神法の慧心流の幽旨をきわめ、天正五年上州世良田の真言院長楽寺にて、
豪春より密教の葉上流の奥義をうけたという。だから徳川家康との結びつきは、世良田の在が家康の故郷なら、それでも判りうるというものだが、天海が晩年に、
「一実神道」を説きだして、崇伝や本多正純と衝突したり、「黒衣の宰相」とよばれた位に家康の生前は、宗教問題ばかりでなく政事や軍事にも、相談役のように嘴を入れていたから、
「武将上りではないか」といわれ、そのため明智光秀その人ではなかったかとの説があるが、はたして同一人物だったのだろうか。
が、一般には1536年(天文五年)生まれで1643年(寛永二十年)に没、つまり百八歳までの長寿を保ったという点で、「平均寿命が伸びた現在でさえ百歳以上は珍しい」のに、
「人間僅か五十年」が定年制だった時代に、そういう高年齢は信ぜられぬので、疑問をもたれている。というのは昔から、
「めでたやな、めでたやな、三浦の大助百八ツ」という長寿祝い唄があるごとく、百八という年齢は、実際年齢をさすのではなく、長寿を象徴する熟語であるからである。
そして、この年齢不祥の僧正については多くの異説があるが、武田信玄をたよって、延暦寺の僧徒と交流があり、七福神法の慧心流の幽旨をきわめ、天正五年上州世良田の真言院長楽寺にて、
豪春より密教の葉上流の奥義をうけたという。だから徳川家康との結びつきは、世良田の在が家康の故郷なら、それでも判りうるというものだが、天海が晩年に、
「一実神道」を説きだして、崇伝や本多正純と衝突したり、「黒衣の宰相」とよばれた位に家康の生前は、宗教問題ばかりでなく政事や軍事にも、相談役のように嘴を入れていたから、
「武将上りではないか」といわれ、そのため明智光秀その人ではなかったかとの説があるが、はたして同一人物だったのだろうか。
これは、源義経を衣川の館で死なせてしまうのを惜しみ、エゾ地へやったりジンギスカンに再生するのと同工異曲、つまりその亜流みたいな感じがどうもする。
という事は取りも直さず明智光秀に、義経なみの人気があるということの証左であろう。
またそれは、これまでのような信長殺しの元凶みたいな感じであるならば、封建社会にあっては、
(主殺し程大罪はなく、町屋の番頭手代が内儀と密通し心中し損なった節も、内儀は主人筋ゆえその殺しを企てた廉(かど)によりと獄門にされた)ような江戸期にあって、彼の死を惜しむ者が有ろう筈はなかろうと想われもする。
つまり明智光秀に冠せられたのが冤罪、無実の罪で濡衣であったという見方が一般的だったからこそ、可哀そうにと同情する心がそうした生存説をも受け入れ広めたのだろう。
また、家康が側近に彼を置いたという、うがった見方も、
(信長殺しを必要としたのは、家康だった‥‥それゆえ後の面倒をみるため、天海僧正と名のりをかえさせ、汚名をきせたことへの償いをしていたのだ)といった処から生じたものであろう。
つまり豊臣秀吉にとっては明智光秀は、倒さねば自分が天下がとれぬライバルだったかも知れぬ。
が、徳川家康にしてみれば、光秀と張り合うような要素はなく、「秀吉は信長をだましこんだ大悪党」だが、「光秀は信長には希代の大忠臣だった」といったような価値判断もされていたようである。
だからこそ徳川家としては元禄時代までは、光秀に好意的だったともいえよう。
(信長殺しを必要としたのは、家康だった‥‥それゆえ後の面倒をみるため、天海僧正と名のりをかえさせ、汚名をきせたことへの償いをしていたのだ)といった処から生じたものであろう。
つまり豊臣秀吉にとっては明智光秀は、倒さねば自分が天下がとれぬライバルだったかも知れぬ。
が、徳川家康にしてみれば、光秀と張り合うような要素はなく、「秀吉は信長をだましこんだ大悪党」だが、「光秀は信長には希代の大忠臣だった」といったような価値判断もされていたようである。
だからこそ徳川家としては元禄時代までは、光秀に好意的だったともいえよう。
それが急転直下、悪者は光秀というような格好になったのは、大岡忠相のさしがねや新井白石の筆によるとはいうものの、なんといってもそれは、
『日本政記』や『日本外史』をかいた通俗史家瀬山陽の、「敵は本能寺にあり」の詩句に原因するのではなかろうか。
『日本政記』や『日本外史』をかいた通俗史家瀬山陽の、「敵は本能寺にあり」の詩句に原因するのではなかろうか。
まだフォークも演歌もなかった頃なので、それを声高らかに放歌高吟し、廻るしかなかった幕末の青年が、やがて反体制から体制側になって天下を掌握した時、権力の坐についた彼らは、新しい明治史観を展開する代り、
瀬山陽のデフォルメを一般に押しつけてしまったようである。
瀬山陽のデフォルメを一般に押しつけてしまったようである。
すべてのこうした問題は、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変に起因してくる。というのは徳川家康が、三河刈屋城主水野信元の弟の子で、当時浪人していた藤十郎勝成に、
「これは明智光秀遺愛の槍である。汝にやるから、光秀にあやかるがよい」と手渡したところ、勝成は有難くそれを拝受し、「日向守光秀にあやかりまする」と誓った。
だから、信長殺しが明智光秀であるならば、あやかるといったからには、その槍で家康をぐさりとやって、しかるべきである。
しかし、彼はそんな事はしていない。それ処か家康に対しては粉骨砕身の忠誠を尽し、大坂合戦の時は、家康の孫の松平忠直ら大和軍全部を引率する責任者となって奮戦している。
死ぬ直前にも、島原の乱で幕府方が苦戦ときくや、備後福山から老躯をかって九州の端へゆき、そこで、みずから槍を握って、「これが今生の御奉公の仕納めである」と、家臣が諌めるのもきかずに本丸へ攻めこみ、
手傷をうけたがついに落城させてしまうと、「明智光秀遺愛の槍を頂戴したが、これで、どうにかあやかることが出来たというもの」と満足して引きあげ、やがて落命した。
「これは明智光秀遺愛の槍である。汝にやるから、光秀にあやかるがよい」と手渡したところ、勝成は有難くそれを拝受し、「日向守光秀にあやかりまする」と誓った。
だから、信長殺しが明智光秀であるならば、あやかるといったからには、その槍で家康をぐさりとやって、しかるべきである。
しかし、彼はそんな事はしていない。それ処か家康に対しては粉骨砕身の忠誠を尽し、大坂合戦の時は、家康の孫の松平忠直ら大和軍全部を引率する責任者となって奮戦している。
死ぬ直前にも、島原の乱で幕府方が苦戦ときくや、備後福山から老躯をかって九州の端へゆき、そこで、みずから槍を握って、「これが今生の御奉公の仕納めである」と、家臣が諌めるのもきかずに本丸へ攻めこみ、
手傷をうけたがついに落城させてしまうと、「明智光秀遺愛の槍を頂戴したが、これで、どうにかあやかることが出来たというもの」と満足して引きあげ、やがて落命した。
この水野勝成の忠義ぶりは圧倒的だったらしく、その孫で旗本になっていた水野十郎左衛門が、幡随院長兵衛との確執で長兵衛を殺した時にも、
「御家創業の功臣の血統を、やみくもに罰せられない」老中評定で無罪になっている。
十郎左衛門が賜死となったのは、旗本白柄組の無法ぶりが、それからますます激しく、とうとう放っておけなくなった、その八年後のことである。
さて、水野藤十郎勝成の例をひくと、その手本であった明智光秀というのは、尽忠無私の人だったことになる。それに家康が、「光秀を信長殺しとは、当時認めていなかった点」と、
「家康は光秀に好意をもっていた」ことが、「天海僧正というのは、家康が明智光秀を匿うため、僧体にして世間の眼をくらませていたのではあるまいか、という憶測を、昔から一般に与えていたのではなかろうか」となる。
----これは、家康の生存中から、彼が信長殺しに関連があったことを、一般の人が知っていたこと。そして、もし明智光秀が生きていたら、彼を匿い庇わねばならぬ立場にあったことを物語る。
「家康は光秀に好意をもっていた」ことが、「天海僧正というのは、家康が明智光秀を匿うため、僧体にして世間の眼をくらませていたのではあるまいか、という憶測を、昔から一般に与えていたのではなかろうか」となる。
----これは、家康の生存中から、彼が信長殺しに関連があったことを、一般の人が知っていたこと。そして、もし明智光秀が生きていたら、彼を匿い庇わねばならぬ立場にあったことを物語る。
通説俗説といわれる元禄から貞享年間に作られた家康伝説では、
「天正十年五月に三千両もって安土城へ行った家康は、そこで信長みずからに歓待され、やがて京見物するよう、案内役に長谷川秀一をつけられ上洛した。処が五月二十九日に信長が小姓三十騎だけを伴って京へ入ってくると、
御所の女御さまも周章ててお逃げになったが、家康一行も船便を求めてか、堺へその日の内に移った」とされているが、その後の有様となると、
「処が六月二日早朝に本能寺爆発が起きると、家康は船が見つからないから陸路甲賀から伊賀へでて、白子浦へと脱出し岡崎へ戻り、兵を揃えて鳴海まで取って返した。
しかしその時はもう六月の二十一日なので、一週間前に秀吉が光秀を滅ぼした後だった」
「しかし家康は、秀吉から山崎円明寺川合戦が、とうに済みすべてが終ったと聞かされても、先陣を津島に進めた儘で動かず、やっと二日目に退陣していった」という事実すらある。
「天正十年五月に三千両もって安土城へ行った家康は、そこで信長みずからに歓待され、やがて京見物するよう、案内役に長谷川秀一をつけられ上洛した。処が五月二十九日に信長が小姓三十騎だけを伴って京へ入ってくると、
御所の女御さまも周章ててお逃げになったが、家康一行も船便を求めてか、堺へその日の内に移った」とされているが、その後の有様となると、
「処が六月二日早朝に本能寺爆発が起きると、家康は船が見つからないから陸路甲賀から伊賀へでて、白子浦へと脱出し岡崎へ戻り、兵を揃えて鳴海まで取って返した。
しかしその時はもう六月の二十一日なので、一週間前に秀吉が光秀を滅ぼした後だった」
「しかし家康は、秀吉から山崎円明寺川合戦が、とうに済みすべてが終ったと聞かされても、先陣を津島に進めた儘で動かず、やっと二日目に退陣していった」という事実すらある。
つまりそれ以降の徳川史観による家康神話では、本能寺の変が起き、家康も明智方に狙われ追われ苦労して、神君として生涯における最大の苦難であったとするが、実際は、どうも怪しいのである。
というのも、その六月二日。
本能寺から七十メートルの距離にあったイエズス派京布教所は、当時としては珍しい三階建てで、そこのバルコニーから本能寺境内が眼下に見降ろせるので、夜明け前より集ってきた兵や将校が、
「ちょっと入らせてくれ」とやってきたが、彼らの話では、
「三河の王イエヤスを討つよう命じられ、上洛してきたのに。イエヤスはサカイへ逃げて此方にはいないから、そちらへ追いかけてゆくか、どうするか、テンカ(信長)さまがお眼ざめになったら、
御下知をうけるのだと話しあっていた」という内容の報告書を、
『フロイス日本史』の中へ、当日、本能寺の爆発を見ていて、信長が髪一本残さず吹っ飛ばされた事まで、カリオン修道士は詳しく書いているのも今では活字本になっている。
だからイエズス派の宣教師達は、
「信長に狙われた家康は、自分が百人位の家来しか伴ってきていなかったので、信長から明智光秀に軍監つまり軍(いく)さ目付としてつけられた斉藤内蔵介が、光秀が自分の建てた近江坂本城にいたので、
代りに丹波亀山城にいたので、本能寺襲撃を依頼した」と、まず考え、
「信長に狙われた家康は、自分が百人位の家来しか伴ってきていなかったので、信長から明智光秀に軍監つまり軍(いく)さ目付としてつけられた斉藤内蔵介が、光秀が自分の建てた近江坂本城にいたので、
代りに丹波亀山城にいたので、本能寺襲撃を依頼した」と、まず考え、
「その六月二日という日は、内蔵介の妹が嫁いでいた四国の長曽我部を、信長が己が子の三七信孝の領地にせんために、住吉浦から丹羽五郎左長秀が軍監となって、二万の兵を進発させる船出の日にあたっていた。
もちろん内蔵介は立場に困って、信長に四国遠征中止方を願い出たが、聞き入れられず困っていた処、その美濃者の内蔵介へ、やはり美濃者である奇蝶御前が、信長殺しを依頼しにきた。
そこで内蔵介は、家康の乞いもきき入れクーデターを敢行したのである」といった見方をして、印度のゴアへ報告文をだしている。
もちろん内蔵介は立場に困って、信長に四国遠征中止方を願い出たが、聞き入れられず困っていた処、その美濃者の内蔵介へ、やはり美濃者である奇蝶御前が、信長殺しを依頼しにきた。
そこで内蔵介は、家康の乞いもきき入れクーデターを敢行したのである」といった見方をして、印度のゴアへ報告文をだしている。
それは、当時の権中納言山科言経卿の日記にも、
「斉藤内蔵介、謀叛随一なり」とでているのでも判る。
つまり公家側でも彼が発頭人であり首謀者だったことを裏書きしているのである。しかし急ぎ岡山県の備中高松から引きあげてきた秀吉が、
「信長さまの仇討ち」と称して、これまでのライバルの明智光秀を討ちとってしまった。
つまり家康は急いで取って返して、京へ入り斉藤内蔵介を助けようとしたが、秀吉の迅速ぶりにすっかり先を越されてしまい、内蔵介も殺されてしまったが、光秀も秀吉の都合で、信長殺しにされる羽目となった。
そこで、自責の念もあってか、彼としては光秀を悪しざまにはいわれず、よって、「当代無比の忠義者であった」と、いいふらしていたため、水野勝成などは発奮して忠勤を励んだのであろうし、また側近の天海も、
「事によったら、光秀ではないか」と、うがった見方をされ、勘ぐられたものでもあろうか。
「事によったら、光秀ではないか」と、うがった見方をされ、勘ぐられたものでもあろうか。