新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

天海僧正は、明智光秀か   信長殺しは家康か

2020-12-22 18:31:41 | 新日本意外史 古代から現代まで

    天海僧正は、明智光秀か
  信長殺しは家康か

 上野公園にある寛永寺とか、埼玉県川越市の喜多院住持として、天海は有名であり、『真宗伝記』の著作もよく知られている。
 が、一般には1536年(天文五年)生まれで1643年(寛永二十年)に没、つまり百八歳までの長寿を保ったという点で、「平均寿命が伸びた現在でさえ百歳以上は珍しい」のに、
「人間僅か五十年」が定年制だった時代に、そういう高年齢は信ぜられぬので、疑問をもたれている。というのは昔から、
「めでたやな、めでたやな、三浦の大助百八ツ」という長寿祝い唄があるごとく、百八という年齢は、実際年齢をさすのではなく、長寿を象徴する熟語であるからである。
 
そして、この年齢不祥の僧正については多くの異説があるが、武田信玄をたよって、延暦寺の僧徒と交流があり、七福神法の慧心流の幽旨をきわめ、天正五年上州世良田の真言院長楽寺にて、
豪春より密教の葉上流の奥義をうけたという。だから徳川家康との結びつきは、世良田の在が家康の故郷なら、それでも判りうるというものだが、天海が晩年に、
「一実神道」を説きだして、崇伝や本多正純と衝突したり、「黒衣の宰相」とよばれた位に家康の生前は、宗教問題ばかりでなく政事や軍事にも、相談役のように嘴を入れていたから、
「武将上りではないか」といわれ、そのため明智光秀その人ではなかったかとの説があるが、はたして同一人物だったのだろうか。

 これは、源義経を衣川の館で死なせてしまうのを惜しみ、エゾ地へやったりジンギスカンに再生するのと同工異曲、つまりその亜流みたいな感じがどうもする。
 という事は取りも直さず明智光秀に、義経なみの人気があるということの証左であろう。
 またそれは、これまでのような信長殺しの元凶みたいな感じであるならば、封建社会にあっては、
(主殺し程大罪はなく、町屋の番頭手代が内儀と密通し心中し損なった節も、内儀は主人筋ゆえその殺しを企てた廉(かど)によりと獄門にされた)ような江戸期にあって、彼の死を惜しむ者が有ろう筈はなかろうと想われもする。
 つまり明智光秀に冠せられたのが冤罪、無実の罪で濡衣であったという見方が一般的だったからこそ、可哀そうにと同情する心がそうした生存説をも受け入れ広めたのだろう。
 また、家康が側近に彼を置いたという、うがった見方も、
(信長殺しを必要としたのは、家康だった‥‥それゆえ後の面倒をみるため、天海僧正と名のりをかえさせ、汚名をきせたことへの償いをしていたのだ)といった処から生じたものであろう。
 つまり豊臣秀吉にとっては明智光秀は、倒さねば自分が天下がとれぬライバルだったかも知れぬ。
 が、徳川家康にしてみれば、光秀と張り合うような要素はなく、「秀吉は信長をだましこんだ大悪党」だが、「光秀は信長には希代の大忠臣だった」といったような価値判断もされていたようである。
 だからこそ徳川家としては元禄時代までは、光秀に好意的だったともいえよう。
 それが急転直下、悪者は光秀というような格好になったのは、大岡忠相のさしがねや新井白石の筆によるとはいうものの、なんといってもそれは、
『日本政記』や『日本外史』をかいた通俗史家瀬山陽の、「敵は本能寺にあり」の詩句に原因するのではなかろうか。
 まだフォークも演歌もなかった頃なので、それを声高らかに放歌高吟し、廻るしかなかった幕末の青年が、やがて反体制から体制側になって天下を掌握した時、権力の坐についた彼らは、新しい明治史観を展開する代り、
瀬山陽のデフォルメを一般に押しつけてしまったようである。
 すべてのこうした問題は、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変に起因してくる。というのは徳川家康が、三河刈屋城主水野信元の弟の子で、当時浪人していた藤十郎勝成に、
「これは明智光秀遺愛の槍である。汝にやるから、光秀にあやかるがよい」と手渡したところ、勝成は有難くそれを拝受し、「日向守光秀にあやかりまする」と誓った。
 だから、信長殺しが明智光秀であるならば、あやかるといったからには、その槍で家康をぐさりとやって、しかるべきである。
 しかし、彼はそんな事はしていない。それ処か家康に対しては粉骨砕身の忠誠を尽し、大坂合戦の時は、家康の孫の松平忠直ら大和軍全部を引率する責任者となって奮戦している。
 死ぬ直前にも、島原の乱で幕府方が苦戦ときくや、備後福山から老躯をかって九州の端へゆき、そこで、みずから槍を握って、「これが今生の御奉公の仕納めである」と、家臣が諌めるのもきかずに本丸へ攻めこみ、
手傷をうけたがついに落城させてしまうと、「明智光秀遺愛の槍を頂戴したが、これで、どうにかあやかることが出来たというもの」と満足して引きあげ、やがて落命した。

 この水野勝成の忠義ぶりは圧倒的だったらしく、その孫で旗本になっていた水野十郎左衛門が、幡随院長兵衛との確執で長兵衛を殺した時にも、
「御家創業の功臣の血統を、やみくもに罰せられない」老中評定で無罪になっている。
 十郎左衛門が賜死となったのは、旗本白柄組の無法ぶりが、それからますます激しく、とうとう放っておけなくなった、その八年後のことである。
 さて、水野藤十郎勝成の例をひくと、その手本であった明智光秀というのは、尽忠無私の人だったことになる。それに家康が、「光秀を信長殺しとは、当時認めていなかった点」と、
「家康は光秀に好意をもっていた」ことが、「天海僧正というのは、家康が明智光秀を匿うため、僧体にして世間の眼をくらませていたのではあるまいか、という憶測を、昔から一般に与えていたのではなかろうか」となる。
 ----これは、家康の生存中から、彼が信長殺しに関連があったことを、一般の人が知っていたこと。そして、もし明智光秀が生きていたら、彼を匿い庇わねばならぬ立場にあったことを物語る。
 通説俗説といわれる元禄から貞享年間に作られた家康伝説では、
「天正十年五月に三千両もって安土城へ行った家康は、そこで信長みずからに歓待され、やがて京見物するよう、案内役に長谷川秀一をつけられ上洛した。処が五月二十九日に信長が小姓三十騎だけを伴って京へ入ってくると、
御所の女御さまも周章ててお逃げになったが、家康一行も船便を求めてか、堺へその日の内に移った」とされているが、その後の有様となると、
「処が六月二日早朝に本能寺爆発が起きると、家康は船が見つからないから陸路甲賀から伊賀へでて、白子浦へと脱出し岡崎へ戻り、兵を揃えて鳴海まで取って返した。
しかしその時はもう六月の二十一日なので、一週間前に秀吉が光秀を滅ぼした後だった」
「しかし家康は、秀吉から山崎円明寺川合戦が、とうに済みすべてが終ったと聞かされても、先陣を津島に進めた儘で動かず、やっと二日目に退陣していった」という事実すらある。

 つまりそれ以降の徳川史観による家康神話では、本能寺の変が起き、家康も明智方に狙われ追われ苦労して、神君として生涯における最大の苦難であったとするが、実際は、どうも怪しいのである。
 というのも、その六月二日。
 本能寺から七十メートルの距離にあったイエズス派京布教所は、当時としては珍しい三階建てで、そこのバルコニーから本能寺境内が眼下に見降ろせるので、夜明け前より集ってきた兵や将校が、
「ちょっと入らせてくれ」とやってきたが、彼らの話では、
「三河の王イエヤスを討つよう命じられ、上洛してきたのに。イエヤスはサカイへ逃げて此方にはいないから、そちらへ追いかけてゆくか、どうするか、テンカ(信長)さまがお眼ざめになったら、
御下知をうけるのだと話しあっていた」という内容の報告書を、
『フロイス日本史』の中へ、当日、本能寺の爆発を見ていて、信長が髪一本残さず吹っ飛ばされた事まで、カリオン修道士は詳しく書いているのも今では活字本になっている。
 だからイエズス派の宣教師達は、
「信長に狙われた家康は、自分が百人位の家来しか伴ってきていなかったので、信長から明智光秀に軍監つまり軍(いく)さ目付としてつけられた斉藤内蔵介が、光秀が自分の建てた近江坂本城にいたので、
代りに丹波亀山城にいたので、本能寺襲撃を依頼した」と、まず考え、
「その六月二日という日は、内蔵介の妹が嫁いでいた四国の長曽我部を、信長が己が子の三七信孝の領地にせんために、住吉浦から丹羽五郎左長秀が軍監となって、二万の兵を進発させる船出の日にあたっていた。
もちろん内蔵介は立場に困って、信長に四国遠征中止方を願い出たが、聞き入れられず困っていた処、その美濃者の内蔵介へ、やはり美濃者である奇蝶御前が、信長殺しを依頼しにきた。
そこで内蔵介は、家康の乞いもきき入れクーデターを敢行したのである」といった見方をして、印度のゴアへ報告文をだしている。

 それは、当時の権中納言山科言経卿の日記にも、
「斉藤内蔵介、謀叛随一なり」とでているのでも判る。
 つまり公家側でも彼が発頭人であり首謀者だったことを裏書きしているのである。しかし急ぎ岡山県の備中高松から引きあげてきた秀吉が、
「信長さまの仇討ち」と称して、これまでのライバルの明智光秀を討ちとってしまった。
つまり家康は急いで取って返して、京へ入り斉藤内蔵介を助けようとしたが、秀吉の迅速ぶりにすっかり先を越されてしまい、内蔵介も殺されてしまったが、光秀も秀吉の都合で、信長殺しにされる羽目となった。
そこで、自責の念もあってか、彼としては光秀を悪しざまにはいわれず、よって、「当代無比の忠義者であった」と、いいふらしていたため、水野勝成などは発奮して忠勤を励んだのであろうし、また側近の天海も、
「事によったら、光秀ではないか」と、うがった見方をされ、勘ぐられたものでもあろうか。


鉄砲軽視由来記 大量生産 なまくらの昭和新刀

2020-12-12 11:53:58 | 新日本意外史 古代から現代まで

鉄砲軽視由来記
大量生産 なまくらの昭和新刀


 それは奇妙なことかも知れないが、昔からして、
「槍一筋の家柄」とはいうが「鉄砲一挺の家柄」とはいわない。
「街道一の弓取り」は、立派な武将のことをさすが、「街道一の鉄砲打ち」となると、これは猟師の事となる。
 それに『信長公記』などには、信長が鉄砲を習ったようにでているが、一般には、「鉄砲」というと、「足軽鉄砲」とされている。
 だからでもあろうか前大戦でも、アメリカ軍は、閣下とよばれる準将クラスでも肩章をとって自動小銃を小脇にバリバリ撃ちまくって突撃してくるのに、これに対する日本軍は、下士官の軍曹や伍長あたりでも、
斬れもせぬ昭和刀をぶら下げて、「日本刀は武士の魂だ」とばかり、鉄砲は足軽なみで、豪いのは刀だとやっていた。
 だから、つい弾薬の補給もおろそかになったのか、各地で弾丸がなくなってしまい、「切り込み隊を組織する」と、兵隊はゴボウ剣をもたされて敵中へ突撃させられ、バリバリ敵の弾丸にうたれて死んでしまった。
 またどうしても吾々の手で日本を守らねばならぬ時がくるかも知れないが、そのとき、やはり銃をもたされ出征させられるかも知れないが、またも同じように、
「日本刀こそは日本武士道の精華」といった幻想にまきこまれ、一般大衆である兵が銃をもたされているが故に、軽視され棄て殺しにされるようでは困るのである。

 と書くと、まさかと首をひねり反撥されようとなさる向きもあろうが、日本においてはアメリカかぶれしたウエスタンクラブまであって、モデルガンが持てはやされるような今日でさえ、
銃は鉄砲は心の底では伝統的に蔑まれているのではあるまいか。
 なにしろテレビにしろ映画にしろ吾国のもので、鉄砲を持って姿を現すのは悪人に決まっている。
 そして銃口を主役に向け撃とうとするのだが、まず第一段階で間一髪を入れず弾丸より早い主役の剣さばきで斬り倒されるか、遠隔な場合は手裏剣のような主動式飛び道具の方が早くて、
これを妨げてしまい、鉄砲を持った相手は、「‥‥おのれ無念」といった表情で樹の枝などから、見苦しい格好で転げ落ちる。
 たとえ、それより増しの場合でも、弾丸の速度よりも早く脇から咄嗟に、銃の前へ主役の二枚目を、好いている鳥追い女などが現れ出てきて身代わりといった具合に撃たれてしまい、
「己れッ卑怯な」といった言葉をはきつつ、女の敵とばかり大刀をふるった主役が、鉄砲を握っている相手に斬りつける。そして、(鉄砲なる卑怯未練な武器を使用した悪い奴)は、
醜くもがき苦しみ、さながら天罰をうけたように悶絶して転がり、見る側は、それを因果応報といった具合にうけとめ内心ザマみあみろと痛快がる。
このパターンが日本人の思考というか趣向に合ったものとして、定型化されているおもむきがある。
 それゆえ現代を扱ったものでも、やはり銃は冷遇されている。一般のアクションで銃をもつ悪い奴を如何にして素手の主役が、不自然でなく叩きのめすかという擬闘が、その見せ場にさえなっている。
つまりチャンバラ物の無手勝流である。
 しかし銃に向かって素手の人間が掛ってゆくというような事は、現実にあっては、精神障害か異常者でない限り有り得る筈はない。
 なのに日本では銃を軽視するがゆえに、そうした無理な設定がなされ、いかに強力な銃をもつ相手よりも、剣道の達人の方が互角に立ち合っても、必ず勝つという具合に画面から視覚教育をしたり、
剣豪作家も平気でそうした紙芝居のようなものをかく。だからして、そうした弊害によって、
「銃はむなしく、剣こそわが命」といった観念が、常識的には妄想であったにしても、確固たる信条として日本人に植え付けられてしまい、それゆえに、
「鉄砲より強い日本刀」といったイメージがひろく浸透し、さて実戦にぶつかって、(日本刀は極めて至近距離まで相手に近づかねば、まったくなんの用もなさないのに、火器である鉄砲は遥か彼方からでも、
もし望遠レンズなどつけていれば、肉眼では視えぬ距離からでも狙撃できるものだ)といった判りきった現実にぶつかって挫折させられる。やがて、
 つまり観念の中の日本刀の優位さが、現実に火器の前で脆くもその幻想を崩されてしまったとき。かつての日本の軍刀をぶら下げていた人たちは、そうか、われ誤てりと落ちている銃を拾って、
武器の交換をするだけの心理的転換もできず、やけっぱちになってその日本刀を振り廻し突入し、近づけぬまま倒されてしまうか、または、もはやこれまでなりと、敵を切るつもりで吊さげてきたもので吾れと吾身を、
刺し貫くといった自虐の悲劇を演じたものである。

 こうした事態が過去に何千何万の有為な人たちによって、幾度となくくり返されてきた悲劇たるや、日本武士道、日本精神をうたい文句にした刀剣商の商魂のせいだったのかも知れない。
値よく売れればそれでよいというので、鋳物同然の昭和刀まで、もっともらしい銘を刻みこませ、それを堂々と、
(刀剣商の推奨する刀さえ求めて戦地へ行けば、それが護身の役割をはたす)といったような煽り方までして売りまくられたせいなのであろうか。
 まぁ戦争というのは何処でも誰かが儲けるために企画されるといった裏面がないでもないから、道具屋もそれに便乗して儲けるのだろうが、踊らされ死なされる方は堪ったものではない。
 が、それにしても、こうした日本刀を扱う業者の剣豪作家まで使う派手な売りこみで、つい、そちらを過信しすぎてしまい、鉄砲が軽視されるような過ちはもうくり返して貰いたくはない。
 目には目、歯には歯をで、銃で向かうように、神がかり的なものから常識的な観点に戻って、何故にそれ程までに、この国では銃を卑しみ軽んずるの傾向があるかを探す必要もでてこよう。

 織田信長が設楽原で木柵を三段構えに結んで、武田勝頼の騎馬隊を近づけず、これを銃撃でほぼ全滅させたことは有名である。
 だからして歴史書などでは、
「天文十二年(1543)に種が島へ鉄砲が伝来してから、この新しい武器は戦国時代の日本各地に、瞬く間に広まった」といったように説明される。
 しかし本当はどうだったろうか。たとえば徳川家康などは、鉄砲隊の入用のときは信長から借りていた。上杉謙信や武田信玄は、ろくに備えていなかった。
比較的利用していたのは、太平洋沿岸に城をもつ中国、九州の大名に限られていただけではないかといった疑いも持てる。

 また旧日本陸軍が、銃を軽視して、それより斬れなくても昭和刀を愛好したのは、「銃器を生産していた歩兵工廠や、その下請けの軍需産業は、なにも宣伝広告しなくとも、軍需局が一括購入してくれ、
日銀払出し小切手で支払いもまるまる貰えた」
 のに対して、刀は、刀伊来攻の時のようにお上での買上げではなく、「古美術商」などと看板を掲げた骨董屋であるからして、この際がぼっと儲けようと、正札をどんどん吊り上げ、
「日本刀物語」とか『名刀名工談』といった類の、もっともらしいPR版を何千部か買取り契約で書店から出させた。
前述のごとくこれまでの歴史作家と称する者に、この種の著書がかつてあるのはこの為のものとみてよかろう。
 つまり世間知らずの一般の軍人は、単純というか純粋なので広告しない銃器よりも、どうしても、「今宵の虎徹は血に飢えているぞ」といった刀や、いわゆる名刀と宣伝されている方に、心が傾き、
使ってみる迄は切れ味も判らぬから、大量生産の当時の昭和刀でも、外見の拵えさえ一人前なら満足してぶら下げ、「剣だ」「剣だ」と吉川英治の宮本武蔵でも読みつつハッスルしていたのだろう。
となると、いわゆる剣豪作家なる者も、まんざらこれに対して責任がないとはいい切れぬかも知れなかろう。

 しかし日本において銃たるものが実際は初めからてんで重視されなかったことは、江戸時代の初期に難破して千代田城へ招かれたフィリッピン長官ドン・ロドリゴの見聞録にも、
「太子(徳川秀忠)の護衛隊は長槍、短槍を林のごとく立てた四百人。そして中近東のアラバルダに似たナンキナ(薙刀)を抱えた三百人。そして半弓、大弓の射手五百人が遠巻きにして、櫓の上に整列して守備していた」
 鉄砲伝来六十六年たっている割りには、あまりにこの国では鉄砲が重要視されておらず、城の入口に立っていた銃隊だけしか見かけていないから、それは儀式的なものかも知れぬと書いている。
 だから、
「へぼ将棋、王より飛車を大事がり」というが、まだ弓矢の方が大切にされていた日本では、この慶長十四年(1609)頃でさえ、あまり鉄砲は重要視されていなかったとみえる。
 まさか、剣だ、剣だとはいっていないが、もっぱら当時は弓と槍に重点をおいていたようである。また、つまりこういう具合だったから、この二百五十九年後に、上海帰りのリルならぬグラバーによって輸入されたアメリカ南部の廃銃に、
鳥羽伏見でいともあっさり負けるのである。
 
さて、それでは前述したごとく、どうして、今ではガンブームといわれる位に銃は好かれ、ウエスタンクラブなどという格好だけの同好クラブさえある程なのに、かつての日本では銃がそんなに好かれなかったのか?
当時は銃砲取締り法などもなかった筈なのに‥‥と疑問がでてくるが、この答えは簡単である。それは、
「日本では女人がまっ先に用いたから」なのではあるまいか。つまり戦国期にあっては、銃とは敵に至近距離まで近よってゆけぬ婦女子の武器だったことに起因するものであるらしい。

 つまり話は‥‥
 九州大友家の重臣立花道雪の一人娘おぎんによって、わが国最初の銃隊が作られたから、ここに鉄砲の悲劇が持ち上がるのである。
 道雪は雷にうたれ、下半身不随ゆえ、ぎんの他に子供はなく、また当時は女領主も珍しくなかったからして、彼女を女城主にした。
 さてアマゾンの女は弓をひくのに邪魔だからと、乳房を切ったというが、立花城の女中や腰元も、当今とは違い隆起の大きいのは「まあ百姓女のごと出張っとるじゃんけ」と蔑まれるから、
布できりきり胸もとをまきつけて出陣していたらしい。
 処が、腰元の一人、八重は生まれつき、不幸にも、胸部が隆起し、いくら布で縛ってもすくすく大きくなって、なんともならず、そこは強いようでも女は女、困ってしまって途方に暮れていた。
 そこで見かねて、女城主のぎんが、「これを用いてみてつかあせ」と、試しに鉄砲をもたせたところ、これなら胸がいくら出張っていても、正面に向け突き出して発射するのだから、きわめて巧くゆく。
そこで、ぎん自身も、
「胸をきつく晒木綿でまきつけるは苦しやのう」と今でいえばノーブラにしたい一心で、銃をもってみると弓よりは扱いやすい。よって大友家へ願いでて銃を多く廻して貰い、「女銃隊」をここに新しく編成することになった。
 すると、先殿の道雪は下半身不随で、その御所望がなく、現在の殿は女ゆえ、これまたその方で立身出世の夢のない城内の女共が、「私も」「てまえも」と入隊志望してきて、ここに百人組の銃隊が生まれることとなり、
大友家が他と戦う時は、まずこの立花ぎんの銃隊が、まっ先にどんどんと一斉射撃をした。
 九州の方言で、「最初」のことを「はな」という。そこで、「はなは立花、鉄砲女ご」と有名になった。
 しかし、女でも鉄砲を持たせると、一人前の働きをするということが、今も昔も変わらぬ男の自尊心を傷つけたのであろう。
『武具要説』などという木版本では、「敵との距離が遠い時には鉄砲は有利な武器に違いないが、いやしくも武士たるものが、飛び道具で相手を討ちとるのは賞められた事ではない」などの説をかかげた。
 だからでもあろうか、前にも述べたように、日本の映画やテレビでは、「おのれッ卑怯なやつ‥‥」と、鉄砲をもち出してくるのは悪役に限られていて、必ずヒーローの投げる手裏剣か何かにやられ、
「うぬ、残念至極ッ」と、見当違いに弾丸をとばして、もんどり打って転げ落ちたりする。そこで旧軍部などは、この影響で、「鉄砲はあかん」と思いこんでしまったのであろうか。
 さて、ぎんの女銃砲隊が評判になりすぎ、加藤清正さえが逃げて廻ったので、年下の夫の立花宗茂に嫌われ、ぎんは棄てられて一人淋しく死んでしまったが、それでも
世の男共はやっかみ精神で、「鉄砲を用いるのなら足軽にもたせい、それでよいんじゃ」と軽蔑した扱い方を何処もし、かつてのぎんの勇姿も今となっては、
「はなはたちばな、茶の香り、チャッキリチャッキリ、チャッキリナ」の茶つみ唄でしか、この世には残されていない。
この歌の本来の意味は「初戦は、立花ぎんの女鉄砲隊の一斉射撃で、戦場は硝煙の匂いで凄かった」なのである。
ちなみにポルトカル語で硝煙は「チャー」という。
 もちろん、この他の理由は、鉄砲は日本でも雑賀や国友で直ちに精巧な物が作られるようになったが、弾丸をとばせる火薬の主成分の硝石が日本では採掘する所がない。
 苦しまぎれに歴史家は、厠の辺りの土を天日に乾してその中から硝石をとって精製したなどと説明するが、便所の周辺の土をいくら水でこして血眼になって蒐集した処で、猪口の底に沈む位しか取れる筈がない。
だから臭い思いをしてそんな事をしてもなんともなるものでなく、今も昔も硝石鉱の輸入にすっかり依存しているのである。
 処が、弓矢の方はこれは何処にでも材料がはえていて自給自足できるという強味がある。
 そこで将軍家でも、火薬を輸入させねばならぬ鉄砲よりも、昔からの弓矢でと千代田城を守らせていたのだろうし、一般の士分も自給するとなれば一発射つのにでも、
その分の為には向こう三軒両隣の便所さらいせねば、硝石は集まらぬと聞かされる鉄砲は、鼻つまみものになり軽蔑されていたのだろう。
 明治になっても、刀は鍛えれば国産できるが、硝石だけは日本中何処を探しても産出する鉱山がなく、石油資源よりももっと始末が悪いからと、軍としても、
「弾丸はあまり使うな、それより刀を用いろ。兵はいくら死んでも葉書で召集できるが、硝石はそうはゆかんのだ」と、幹部教育の方針をたてていたのではなかろうかと想われる。
こうした思想が、昭和陸軍の人命軽視思想に繋がったものだろう。


哀れなり築山御前

2020-12-06 10:20:19 | 新日本意外史 古代から現代まで

   哀れなり築山御前

以下がウエキペディアに書かれている、築山御前の記事で、現在、通説になっている。
徳川家康の正室。名は未詳。一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる。「築山」の由来は岡崎市の地名である。
父は関口親永(氏純とも)。母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。夫の徳川家康と同じ歳とする説、2歳年上とする説、12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説がある。
『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。
その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。近年では、関口親永と今川氏との婚姻関係を否定する説(親永の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を妻にしたのを誤認したとする)もあるが、
そもそも関口氏自体が御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄であり、家康(当時は松平元信・元康)がその娘婿になるということはその今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していた。 

さて、徳川家康の正妻築山御前が、
「岡崎三郎信康は吾がうみし子なれば、わがいいつけ通り致すべく。よって事が成就せし時には、家康の押さえている三河は、そっくり信康に戻してやって頂きたく。
また私には、そちらさま御家中の内にて、しかるべき人を世話して下さり、その御方の妻にしてほしく。この条件さえ守って下さるものなら、これから信康にもきっと申しつけお味方するよう手筈をととのえましょう」と、
出した手紙に、
「ご子息の三郎どのが当方の味方となり、家康を挟み討ちするものなら、三河だけでなく別に一国をつけて参らせ候。そして築山御前には、幸い甲府郡内で五万石を食む小山田兵衛という侍が、
去年妻を失ってやもめでござれば、打ってつけと存じ、彼のにお世話致し申し候。天正六年十一月十六日    武田勝頼」
                                
 といった手紙の往復があった由が、『三河後風土記』にある。
 築山御前がいくら滅ぼされた今川義元一族瀬名氏の姫であったとしても、松平元康との間に、お亀、おあい、三郎と三人も子がある。
「女は七人の子をなすも心を許すな」と、昔からいいはするが、なぜ武田方へ男の世話など頼んだのだろうか。唐人医者減敬とも怪しかったというが、今でいう「よろめき夫人」だったのだろうか。
「女は、それを我慢できない」とはいうが、いくら女盛りの三十八歳の有夫の女性が、別の男の妻になりたいとは、今でいう重婚罪にあたるが、築山御前はそんなにまでもの狂おしい女性だったのか‥‥どうも、これは首を傾げたくもなる。
 さて、それともう一つ関連して可笑しいことは、その夫とされる家康が彼女より遥かに年下だった事である。なにしろ、もし二人でそれまでに子をなしたものなら、長女お亀ごときは十三歳の子だから、
受胎させたのは家康が十二歳という時点である。
 戦国時代はなんといっても戦をするのに人手が入用だったから、女子のそのあかしがみえると、赤飯をたき、早速そこの組頭が、子をはらめるようになったものを、空(あき)っ腹にしておく事やあると、
女性を子作りの器械のごとくに扱ったから、十四、五歳の幼な妻も当時は珍しくなかったが、だからといって形式的だけならいざ知らず、実質的に男も幼な夫や幼い父になれたものかどうか疑問に想える。
 現代と違って粗食だった頃の十二歳である。精神的に早熟であったとしても肉体的にまで、一人前の生殖機能がもう働いていたなどとは、これは常識的にも考えられぬ処である。
 つまり築山御前がよろめいたとかよろめかぬといった詮索よりも、彼が彼女をどうして小学校の五年生位の年頃で受胎させられたかといった不思議さの方に引っ掛かるものがある。
 しかもお亀のみだけでなく、翌年は年子で、おあい、その二年後に、のちの岡崎三郎信康と、十五歳のときの徳川家康が、既に三人の子持ちという方が変ではなかろうか。
 これに対し、いくら今川一族の女であれ、夫が余りにも若すぎるからとはいえ、一人のみならず連続三人も子を他から仕込み、それをもって----というのは余りにも詭弁すぎなかろうか。
 常識としてはやはり夫と築山御前の子、とみるが妥当であろう。
 となると怪しむべきは彼女ではなくして、その夫の方になるのだが、なにしろ八代将軍吉宗の時の大岡忠相によって、徳川家のそうした事柄は一切秘密にされてしまっている。
そこで、今でも松平蔵人元康と名のっていた、彼女の夫が家康と改名し彼女を殺したのだ、という男女の生理をまるで無視し切ったものが堂々と出版され読まれているのである。
 まず『三河後風土記』というのは、多くの歴史家が史料として扱い、文政、天保と、読み本として何度も版行された物が多く出廻っているので、小説家まで種本にするが、
これは明治四十四年に非売品として出された『史籍雑纂』第三巻に収録されているところの、
「大系図抄」に、はっきりと、「江戸の元禄時代まで生きていた近江の百姓沢田源内、という贋系図屋が、その余暇に書き上げた贋造史料本の一つで、内容が面白いのは、興味本位に書かれてあるせいだ」と、すっぱぬかれているものだ。
 だから、築山御前が、悶々の情に堪えかねているから、なんとか男を世話して頂戴。そうすれば伜の三郎信康にいいつけ裏切らせまする、という手紙や、それに対し鹿爪らしく、
「小山田備中守兵衛というのが妻を去年なくして空いている。穴埋めに用いられるのに、それでは如何でござろうや」
 まるで結婚相談所長のように、武田勝頼が返事をだしているのも、共に沢田源内のフィクションという事になる。詰らないが事実ではないので、これはしようがない。
 しかし天正七年八月二十九日夕、
「こないな所へまで連れてきやって‥‥なんと」いぶかしそうに、輿から降ろされた築山御前が、浜名湖の水面を渡ってくる風にそよぐ葦草の茂みの中で振りむいたところ、
「主命なれば、御免なされましょう」
 供してきた野中三五郎は、己が従者に持たせてきた槍の鞘を払いざま、しごくと見せかけて、そのまま躍りこんでの一と突き。
「あッ」と乳房の下にくいこんだ槍の穂先を抜こうと身悶えし、築山御前は、苦しい息の下から搾り出すようにして、
「‥‥主命といやるは家康どのがことか」
「はあッ、仰せの通り」と槍の穂先を抉るがごとく捻じあげれば、
「信康が成人するまで後見人をなし、自分は遠江だけでよいから浜松城を守り、岡崎の城はそっくり戻すといいおったは嘘なりしか」
 麻の葉打ち抜き柄の白地上布の胸許を、まるで山つつじのように、真紅に染めつつ築山御前は、
「ひとに怨みつらみが有るものか、ないものか、よお覚えておきや‥‥」というも、もはや喘ぎながらの有様。
 それでも気強く、葦草の株を掴んで倒れまいとしつつ、
「この身をここまで誘き出して仕止めるからには‥‥気になるは伜三郎信康のこと‥‥どないしやると‥‥言え。さあぬかせ」
 青白い月の光りに照らされ、もの凄い形相で、はったと睨みつけられては、野中三五郎も膝頭にがくがく震えがきてしまい、
「早うに止めを‥‥」「お、おん首討ち奉れや」と、己れは槍をつけたまま、まるで棒押しの格好で、従えてきた野郎共に吃りながら命じた。という事になっている。

 さて現在、浜松市広沢町にある西来院には、「清池院殿潭月秋天(大禅尼法尼)淑霊」と彫られた石塔と、
「奉献、亨保八年八月二十九日、野中三五郎重政の曾孫、野中三五郎源友重同、敬白」と文字の入っている古い石灯篭が二つある。
 もし築山御前が、よろめいたり裏切って武田方に加担しようとして、殺されたものならこれは仕方のないことで、なにも三五郎の曾孫が、お詫びに石灯篭を納めることはない。
 これは無実の者に濡衣をきせての殺害ゆえ、野中の家では代々、「築山御前さまの祟りではないか」というようなことが相ついで起き、そこでやむなく曾孫の代になってから、祥月命日(しょうつきめいにち)に無理して灯篭を寄進、
「これでひとつ、迷わず御成仏なされませ」と三拝九拝して、泉下の霊を慰めたのだろう。
 しかし戒名がついているだけでも、まだ築山御前は増しである。
『次郎長外伝』の「秋葉の火祭り」で名高い、山へ登る参拝道の入口になっている遠州二股の、清竜寺にある、岡崎三郎信康廟はもっとひどい。
 古びた扉に小さな葵紋がついているが、これは明治になって付けられた扉で、その以前は土をかためた築地塀だけだったという。
 そして、中央に石を五個、どうにか落ちないように、重ねて立てられているのが、岡崎三郎の墓だというのだが、文字などは一つも彫られていない。
 恐らく徳川十五代の間は、ここは、
「お止め墓」として、何人も参拝を許されなかったものではあるまいか。某作家の、『徳川家康』の本の中では、
「なにッ信長公が、妻の築山と、吾が子の信康を成敗せいと仰せられるのか‥‥むごやそないに酷い話があるものか‥‥」
「はあッ、御気持の程は、われら家人も、よおわきまえおりまするが、いま信長公の御下知にそむくはかなわぬこと」
「そうか、この家康は、徳川の家のため、いとしき妻や、最愛の子まで、信長公の命令とあれば、失わねばならぬのか‥‥」
 と悲歎にくれる名場面として描かれているが、それにしては、戒名さえ刻むのを許されなかった墓とは、くい違いがありすぎる。

 さて、前に新田義貞の個所で、「世良田系として出ている家康の系図」を平凡社『大百科事典』から引用して置いたが、
「世良田系の家康そのひと」と、「松平元康改姓名と伝わる家康」とは、まったく別人らしい。これは尾張七代目当主の宗春が、その家康の玄孫に当たる関係上、奥州梁川三万石の城主から兄継友の跡をついで尾張へ戻ってきて後、
今でいう郷土史家を動員し、尾張における家康の事跡を、六十二万石の力で調べ直してみた。すると、
「松平元康の家康と、世良田の家康が、石が瀬と和田山で、二度までも正面衝突して戦をした」という事実が見つけだされた。しかも、
「松平方の三河兵はプロの武士なのに、東照権現さまの方は、伊勢の薬売り上りの榊原小平太、遠州井伊谷の神官くずれの井伊党。渥美半島の木こり大久保党、駿府の修験上りの酒井党といった寄せ集めのアマばかりゆえ、
いつも戦ってはころ負けしていた」というのである。これを発表したばかりに宗春は、「不行届なり」と六十二万石をくびにされその後、尾張は御三家であるのに一人も将軍になれず、
それ処か田安家から養子を取らされた。
このことは『草春院目録』によっても明らかで、築山御前は家康と枕は共にさせられたかも知れないが、正式には松平元康未亡人であって、家康夫人ではない。
 だから「後釜の男に小山田備中守はどうだろうか」などと贋作では書かれたりもするが、単身であるならば、それでもよろめきとはいえない。