新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

吾ら日本原住民 初札の意味を探る 関連して「かいと」とは? (王朝時代の庶民の暮らし向き)

2019-05-31 10:12:43 | 古代から現代史まで
初札の意味を探る
関連して「かいと」とは?
 (王朝時代の庶民の暮らし向き)
 
 
今はすっかり廃れてしまったが、東京でも昭和四十年代までは「鉄火場」というやくざの博打場が盛んだった。
そこではサイコロの目を当てる単純な「丁半博打」の他に、玄人筋の客には、一般的な「猪鹿蝶」と異なる特殊な絵柄の花札を使う「手本引き」という複雑だが面白い勝負がなされていた。
この際「花札の仕掛けは一切御座いません」という証明に、新しい花札の封を切って客に見せる新札のことを「初札」と云っていた。
また、女をずらりと並べて見せて客に選ばせていた「張店」時代の吉原遊郭で、初店、即ち「この女は手垢のついていない、ピカピカの処女でございます」という宣伝に、
その女の名を大きく掲げ、初物好きの客の興味を誘ったものをも称していた。しかし、そもそもの云われは古く王朝時代の言葉からきているらしい。
 
江戸から明治にかけては、芝居小屋の初日に女の一番客が入ると、その木戸銭に水引をかけ、神棚に上げて積み、祭ってあるお稲荷様へのお供物にしていた。
というのは、女客が来れば、当時は現在のようにマスコミ宣伝は発達してなく、「口コミ」で客が多くなったので、その縁起かつぎで花札ともいったが、昔は「華表のこと」と、
<塩尻百巻>には書かれていて、ということはこれは王朝言葉ということになる。
(注)「塩尻百巻」は江戸中期、天野信景の随筆で太古からの日本の地誌、風俗文化、言語などが書かれている、貴重な一級史料。
 が、後に「初物」といえば処女のことをいうようになるのだから、尤もらしい華表よりもとしての寄進か、又は奴隷市場で購った少女の事ではなかろうかと愬えるのは、その頃からの言い伝えで、
「初物を食えば寿命が三年のびる」と謂われ、処女を10人ためせば30年も長生きできるのであるから、不老長寿の仙薬みたいにされていたのではあるまいか。
つまり京の桂女のごとく30歳になる迄の女は皆そろって王室御用のセックス要員だったのだから、嫁入りできるのはそれを過ぎてからでないと許されなかったという。
つまりは、京の桂や白川の女は、昔の女の釣り堀みたいな地域だったと想われる。が此処では初札とか初物とは言わず、娘に初潮があって御用がたつようになると白木綿を頭にかぶせて左右にたらし、
たれの先に結びをつけて目印にして、それを、「初戸」といったと伝わっています。今では一戸二戸と戸数をさすが、王朝時代の戸の通称は、今の岩手県の地名に残っているように、「垣」や「関」とか、境界の日本原住民が閉じこめられた土地を謂うのですが、「未通娘」の場合に限って、処女膜の障壁があるものとみて、「戸」と称したのではなかろうか。
 
 松浦武四郎の「三航蝦夷日誌」によると、アイヌの女たちは夫が有る者でも和人の求めには絶対に拒めず、いつでも選ぶ権利は向こうにあって、みな女の戸を開いて迎えねば殺される立場に幕末まであ
ったゆえ、「皆戸」とか「開戸」と、そうしたアイヌの女たちの収容地のことを呼んだのだと出てます。
余談になるが、かつてアルジェリアがフランス統治下にあった時は、女は如何なる場合でもフランス人の意に従わねばならぬというアルジェリア現地法律が設けられていたというから、
終戦直釼の満州樺太みたいなものだったらしい。
当時の日本も、雪崩れ込んできたソ連赤軍の兵隊に蹂躙され、如何に多くの日本婦女子が輪姦強姦されたか計り知れない。これは米国兵による内地でも見られた現象である。
つまり何時の時代でも占領軍というものは、残虐で原住民は悲惨だったという現実である。さて閑話休題。

 上州名物からっ風にカカア天下というのも、土着の原住民の女たちは少女の頃から、大陸よりの進駐軍のえらい様たちに女体提供を命ぜられている間に、今いうセックスキャリアウーマンとなって、
男など、みな何んであるかと、高をくくって舐めだす気風が生まれたものらしい。その裏づけ史料に、〈上毛俗話〉の小字表(こあざ)の中からひろってみても、
女はすべて「開戸」の意をとって、同じ発音が、「勢多郡」では桂萓村の上泉に、羅替戸(ざるかえと)振替戸(ふりかえと)とある。
萩窪では、岡替戸、幸塚には背替戸、沖には南替戸、芳賀村へ入ると勝沢に、勝皆戸、入替戸、鍛冶皆戸、北野皆戸、木工皆戸。
小坂へ入ると、鬼替戸、霞皆戸、蕪皆戸、鍛冶皆戸、日向皆戸、別所皆戸といった地名がみられます。
 
昭和十年頃までは漢字はまだ発音の音標文字として扱われていたから、現在のごとく誤字嘘字などと言わなかったので、信州や飛騨あたりの山の中では、皆戸を「海渡」と当て字したり、
勢多郡でも富士見村の時沢では、西紺屋皆戸、東紺屋皆戸、沢間原谷戸、大角谷戸とか、同郡東村の小坂戸では、大沢貝戸、久保貝戸、和田界戸、外貝戸とか、釜戸、高戸、桂戸、狩戸となっている。
今では前橋市に編入されて歴史的な小字名は消滅していますが、〈萬治四年水脈帳〉なる江戸期の、上州勢多の後閑の小字は、「ほつれかいと」の名が(たちわきかいと)(さきかいと)(かちかかいと)と
並んでいるのが、「初札つまり処女の娘だけを別におかせておき、おかみ御用奉公させた名残り」のようであります。
 「生駒は悲しい女まち」といった怨歌かありましたが、夷駒とよばれていた時は騎馬民族系の子孫の収容地でしたから、そこの女はみな遊女として扱われていた土地で、カイトのせいでありましょう。
 今のおかみはポルノに厳しいが、王朝時代は、漁色だけが生き甲斐みたいに好色だったようです。
平安時代を王朝時代として、絢爛たる「王朝文化」を謳歌する歴史観では判らぬが、彼ら占領軍貴族が如何に我ら日本原住民の御先祖様たちを虐げたかの研究はなされていない。
王室や貴族御用の女たちは、さんざん使い古されて、やっと容色の衰えた頃には払い下げられたという、これは日本原住民の悲しい歴史なのであります。