日本人の祖国は何処か?
山田長政の目的 「よく似ている、日本人にそっくりだ」と、ベトナムからタイやマレーシアへ行くと、びっくりしたり感慨を誰しもうける。それに感心させられるのは農村の水田耕作の方法である。
朝鮮や中国方式でない日本の水田は、何処の国からの伝承かと首をひねる人も多かろうと想われる。
しかし松林が続く風景や、杉木立などに包まれた周囲を見渡すと、まるで日本内地のおもむきがあるのも、丹念に見直すと日本の野山にあるのと同じ雑草が、ここにも生い茂っているせいであるらしい。
もちろん何故に同じ植物が繁茂しているかは、どちらかの種子を人間が持ち込んだせいだろう。が、もっと驚かされるのは、そうした山間地で今もみられる男子の風俗である。
日本そっくりな木立の中で、また同じ恰好の人間をみては、誰しもが成程とうなずかされるものがある。なにしろ日本式の六尺褌が、ここでは今でもまかり通っているからである。
まあ考えてみれば昔はタイ、ベトナム、カンボジアからマレーシアまでが、「シヤモロ」とよばれる一大版図に入っていた。だからでもあろうか、日本では、「軍鶏」とかき「シャモ」とよぶのは、
今もサイゴンあたりのバザールで売られている痩せこけた南方産の鶏なのである。つまり北海道のアイヌ系のひとが、内地人のことを今日でさえ、ひっくるめて同じに、「シャモ」と、ずっと呼び続けているのも、
やはりそれなりの訳があるのであろう。
これは、かつては東北地方から北海道にかけて群居し繁栄していた彼らが、次第に追い詰められ弱少民族になってしまったのは、シヤムロから渡って日本列島に住みついた部族に、迫害された結果とみなしている為らしい。
さて日本史では、天皇家の系列を、「神皇」と「人皇」と分け、神武さまから人皇としているが、今ではコトクニシラスノミコトと申しあげる崇神帝さまを、人皇の第一代とする傾向が歴史学者の中には強まっている。
そして崇神帝のお伴をして沿海州や北鮮からの者たちのことを、騎馬民族とみなしている。江上説では、南鮮のミナマから日本列島へ入ってきたことにされているが、現在もロシアのハバロフロフスク民俗史料館の正面入口に、
笹りんどうの大きな民族章がレリーフになっている。学校では、「馬乗半島」とかつては当て字をして、マレーシアとマレー半島のことは教えていた。
それゆえ、ベーリング海から入ってきた北方民族の筈の崇神王朝が、南のベトナムやマレーシアから入ってきた、みたいにされてしまった。さてマレーシアに、二コバルとよぶ土地がある。
かつて大東亜戦争のときに、まっ先に日本軍が占拠したので知られているが、「アレキサンダー大王が東征したとき、アラブの首都スサを陥落させた。ヤサカの川の上流GIONの神を奉じたスサの民らは奴隷として、
スメラ山脈の聳えるアラブのペルシャ湾から、当時ギリシヤ植民地になったばかりのマレーへ持ってゆかれた」といわれ今でも、学校教科書の地図をみれば、南支那海に面した右半分はバハン州となっているが、
ポルトガル領時代までは、「バハン」と全体が呼ばれていたのである。日本でいうところの八幡船のバハンである。
「日本の水田耕作法」が大陸の影響ではなく、西南アジア型である不思議さも謎ときできる。
そして日本の農村や山村の風景そっくりな眺望が、ベトナムやカンボジアでみられるのも、成程なあと納得できるであろう。椰木とか象といったものを取ってしまえば、まるっきり日本とは変らない風物だし、
今ではアメリカの爆撃で跡形もないが、かつて、ツラーヌにあったチャンパ博物館には、巨大なリンガがあるので有名だが、日本式の鋏や庖丁も陳列してある。
俗説の八幡船は、壱岐対馬から中国の沿岸を襲ったとする。だが、日本から中国へ季節風が吹くのは東北風の冬の間だけで、素裸で裸ひとって行けるのは南支那海に面したバハンからでなのある。
マレーシアからなら中国は西南に向かっているゆえ、冬でも赤裸ひとつで寒くなく行ける。つまりベトナムやタイの山間民族が、六尺褌一本の姿が外出用である謎もそれでとける。
マレー半島のニコパルが、かつてアレキサンダー大王によって、スメラから連れてこられたスサ民族の集結地で、そこから海流にのって、「逃亡奴隷」とし、彼らが日本列島へ渡った原点ゆえ、
日本軍はそこへ上陸し、おもむろにシンガポールを占領したのである。
つまりアラブ語の水をさすアワや、シャムロ語でのアックワが、黒潮暖流の進路の地名にも今はなっている。
つまりベトナム、カンボヂア、タイ、マレーシアの住民が、よく日本人に似ているのは、「アマの民」とか「アワの民」とよばれ神話の世界へ、アメの何とかのミコトとかの称号で、
今ではその歴史も判らなくなっている「天の朝」の人民が、日本列島へ来ていたからであろう。
どうしてアレキサンダー大王の頃に、洋上を逃げてきたアワとかアマノとよばれた民族の後裔が、広く日本列島に分布したかといえば、彼らは男女ともに漁業や耕作をいとなんでいたせいである。
もちろん今の史家たちはそうした事実を認めようとせず、江戸時代の鎖国前後の交流だけを重視し、
「角倉、茶屋、末次、角屋などの朱印船が往復し、向こうの各地に出店を持っていたから、そのため日本人の多くが海を渡って、移住したのであろう」
といった解釈をしているのである。が、それは煙管(キセル)の竹を向こうのラオスから入れて、「羅宇竹」と呼び、用いたとする文献引用からの程度であるらしい。
だがサイゴンの、「大寺院広場」から河への目抜通りへ出ると、ナポレオン三世に占領され、フランス植民地だった歴史が長いだけに、カティナ通りからガルニエにかけては、フランス式の建造物も多いけれど、
ミート鉄道にのって農村地帯へ入ると、やはり東北の山村と見違うばかりである。
なにしろ中国の黄河よりも長い延長一千五百里のメコンの流れは、今では他国になっているカンボジアをも横断し、首都のプノンペンも、地理的には河の四つ又の地点にあるくらいである。
アンコールワットの遺や、バンガローホテル前に建つ大宝石塔にも、日本の正倉院御物と相似の物が見受けられるのも興味深い。
つまり水戸の彰考館に秘蔵されている処の、「祇園精舎図」たるや、アンコールワットの見取図であったり、爆撃をうけた遺跡の廻廊壁面に、「加藤主計頭清正森本儀太夫伜右近太夫、寛永九年参拝」といった落書みたいな署名があるのも、
彼我の距離は黒潮暖流にさえのれば、交通は左程まで困難でなかった裏書きだろう。
「実は自分も一六弁の菊紋を、リビア・アラブ共和国のトリポリ博物館の、古代の墓の前についているのを見ました。但し、どういう訳かそこだけは撮影禁止で、
写真をとろうとしたら館員にひどく叱られました」といったのを、弁護士の西垣内堅氏から貰ったが、リビアだけでなくシリア博物館にも、石門の紋章として十六弁の菊紋がある。
さて話は戻るが通俗史では、天下分け目の関が原合戦や大坂夏の陣の結果、敗残兵というか世に望みを失った浪人が大挙、海を渡って現在のベトナムからマレーシアへ移住し、日本人町を作ったものとされている。
現代では北ベトナム共和国の首都になっているハノイから下ったユエの近くファイフォーには今は残っていないが、アメリカ軍北爆までは屋很葦きの<日本橋>が、川の袂に由来記の立て札をたてて存在していた。
伝承によると、伊勢白子浦に生まれた角屋七郎兵衛が、ファイフォーに住みつき玩家(グエン)の妻をめとって貿易商として巨富をつみ、日本橋の他に、杉本寺なる菩提寺も建立という。
しかし一般によく知られているのは、前述の「六昆王」となった山田長政であろう。駿府の紺屋の生れであったが、本多忠佐の六尺とよばれる駕かきであって、大坂合戦では手柄があげられず、
くさって脱走して、「安南」とよばれた当時のシヤモロ王国へ行き同地に来ていた日本人を集めて軍団を作り、反乱軍退治に功があって王女を妻としたという。
なにしろ日本人が海外へ出て、王になったような例は他にないのだから、少年冒険というか立志美談みたいにされて、学校の教科書でも取りあげられ世にひろまっているのである。
しかし、実際はどうかといえば違うようだ。というのは、時代による価値判断の違いで、まだ大坂合戦の頃は足利時代からの伝統で、「金」はカネではなかった事に起因するらしい。
関東と違い関西では金は装飾品用には使われはした、だが、貨幣には扱われなかったのである。
もちろん秀吉も朝鮮遠征に必要の軍需品(火薬)を海外から購入の為、「天正大判」「天正小判」といった金貨を作りはしたが、当時も西日本の銀本位制を抑えていた京の蜷川財閥の迫害でカネにはならず、
勲章のような褒美品になった前例もある。
「銀やびた銭ならよいが、装飾用の物では」と今から考えると変な話だが、当時の有力大名も、誰一人として味方する者はなく、ただ訳も判らぬ浪人者だげが集ってきて、
「われらは金銀の為に入城したのではない、正義の為である」と意気がっだものらしい。
大阪落城後、天守閣に在った膨大な竿金や分銅流し金を家康は「なんじに呉れて遣わす」と藤堂高虎に渡した。
ケチな家康としては豪気な話だが、これとて金が「おかね」でないため持て余して高虎へ下げ渡したのである。
貰った方の高虎もやけくそで金の茶釜を作ったのである。
という事は関東方の山田長政や、多くの浪人が、海を渡って当時のジャムロ国へ行ったその訳は、
「もはや徳川の世になったも同然である……」と前途に夢をなくし見限つて日本をすて、「新しき天地を求めて勇飛せん」と国外脱出したというのは、
敗れた大坂方の将兵だけでなく関東方の将兵に多かった点でも、納得しかねるものがある。
唐人船が生首を買い集めて、大阪天保山沖に夥しく来ていて、そのづ骸骨をを割らせるために、人夫として集めた山田長政らをも向こうへ連れていったともみられるが、金を問題にすると、また話が違ってくる。
「せっかく黄金を掻払ったが、此方では使えんそうだから……いっそ海外へ出てしまえ」と金のために海を渡って、シヤモロヘ行ったものらしいとも考えられるのである。
朱印船を出していた津和野藩の亀井家の記録にも、黄金をもってゆき巨利をあげたという記事がみられることからも従来の説は間違いだと想われる。
なお、家康は江戸幕府ほ開いたが、蜷川と約束通り、小田原から東は「金本位制」とし(ビタ銭は全国共通だが一両は四朱、一朱は四分と四進法)
東は九州の果てまで銀本位制(一分銀、銀百匁と十進法)にして、これが明治維新まで続いた。以下に再掲載だが、日本金銀二分法の詳細を記しておきます。
箱根の関所 「箱根の山は天下の険」という有名な歌がある。この歌は何のことは無く、箱根に登山鉄道が出来た際の PR用の宣伝唱歌なのである。江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。
日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。
そして余分を持っていれば没収されたものである。
箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。
日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前
「手形の由来」に記したが、此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。
そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、
豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。
さて有名な春日局は前の夫、稲葉正盛との間に産んだ子供、稲葉正勝を可愛がっていた。
そこで我が子可愛さのあまり、ここ小田原十万石の城主だった大久保忠隣を除封し、阿部正次を藩主にさせた。
これはいきなりやるのもえげつないので阿部はクッションの役目で、その後春日局は家康に頼んで四年目に吾が子稲葉正勝を小田原城主にさせている。
これは小田原が管轄する箱根の関所は膨大な金銀没収ができ莫大な利益があればこそである。
江戸時代の刃傷第二号は、貞享元年(1684)八月二十八日。
春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺した。稲葉はその前日、
「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、
自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。
にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産を独り占めとは怪しからん。ゆえにわしは成敗してくれる」と、父正則の代からの家老どもを呼んで、
頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、
「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、
自分も寄ってたかって斬り殺されている。
つまり殿様が危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代わり殿も、
「家来が困らぬように責任を持つこと」といったのが、誠の武士道精神であった。
「まわし」とは相撲の褌ではないさて、こうした訳で三島の宿場は次々と散財する泊まりの遊び客で大繁盛し、また大混雑だった。
だから女郎衆も客から客へといそがしくマワシを取るとも言えないから客には「お化粧直しに一寸」といって
別の客のところへ行ったから、現代でも唄に残っているように「三島女郎衆は化粧が長い、化粧が長けりゃノーエ」の唄になって伝わっている。
余談になるが昭和三十年、四十年代のキャバレー華やかし頃も、大店となればホステスは在籍300人とか、500人以上もいて、
売れっ子ともなれば客の指名でホールを忙しく走り回っていた。
この時も彼女たちは別の客から指名が入ると「一寸おトイレに」と言って席を離れたもので、粋人の客は、遊び慣れているので、
マワシをとられているのが分かっても大様に構えていて、野暮は言わなかったものである。これを「粋な男の痩せ我慢」という。
さて、幕末にフランス陸軍士官を招聘し、旗本の次男三男を野毛山で調練していた部隊を「ノーエ」の唄からとって
農衛隊と呼んでいた。甲陽鎮撫隊と名称を変えた新撰組の土方歳三が協力を乞いに行ったが拒まれた部隊のことである。
「野毛の山からノーエ野毛の山から谷底見れば・・・・・・」という農衛隊の行進歌は明治大正昭和初期まで流行したものである。