新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

源平男性史 第二部

2019-05-17 19:12:51 | 古代から現代史まで

源平男性史 第二部

 

 

シャクティ信仰のシバ神の流れをくむ宗教をもつ北条氏に対し、「立正安国」の教えを唱え、日本を救うために立ったのが日蓮上人で、そのため上人は北条氏から反体制として弾圧されたのである。  さて上人の亡ったのが1282年。この四年後に、北条氏は、持明院統の北朝系、大覚寺絖の南朝系の両統が、交互に皇位をつぐように定め、南朝後字多帝の後に北朝伏見帝をたてた。 しかし、この南北交替制は、後の南北朝のごとくやはり巧くゆかなかった。そこで後醍醐帝は「正中ノ変」のあと、1331年に笠置山に移られ、「北条討伐」の詔を各地へ出された。この大命を畏れかしこみ奉戴して、 「すめらみことの御為」と集まってきたのは、かって政子によって追われ、やむなく各地の別所へ逃げこみ、ずっと鳴りをひそめて居た者共の末裔である。

 

「上州新田別所」から新田義貞、「三河足助別所」から足助次郎、「河内切山別所」から楠木正成、 戦前、彼らは勤王の大忠臣と仰がれ、戦後になると、「土豪」だったとか「悪党」だったといわれるようになるのは、足利末期の太閤一条兼良が、その著にはっきりと、「別所出身者を悪党」としていたから、無定見な歴史屋がそれを援用して、そうした判断をそのまま自分の学説へ加えたにすぎない。  さて、ひとまずは南朝方が勝って、「建武の中興」となるのだが、足利氏によってその体制は崩れさり、またしても南北朝の戦乱の世の中となった。さて、この時代は、「軍書に悲し、吉野山」ぐらいにしか伝わって居ないが、そうした悲壮な双方の戦は、もちろん有ったろうが、その反面において、  「日本の男が、おおらかに女を沢山はべらして、酒池肉林」といった、したい放題のことのできた期間たるや確定史料の上からでは、まこと僅かな期間ではあるが、 この南北朝合戦の時を除いては他にはなかったのである。もちろん、かつて九世紀の終り近く、陽成帝を廃し奉った藤原氏が、己れの勢力を宮中に張りめぐらすべく、その一族の女を次々と御所内へ送りこんで居た。しかし、そうした場合は、困る程に沢山の女を押しつけられたのは御一人だけであって他の者には、そうした恩恵があろう筈もなかった。

 

 だから藤原時代というのが、さも男天下のように思われ勝ちだが、実際はそうでもなかったらしいのである。何故かといえば、  「この世をばわか世とぞ思う、もち月の欠けたる事のなしと思えば」とまで豪語した藤原道長でさえ、五十四歳でさっさと坊主になり世捨て人になってしまって居る。  彼程の立場で、思うようにならぬ事はないと自分でも云っているのだから気楽に酒池肉林がやれるものなら、まだ頭を丸める事はなかったろう。 なのに、そうしたという事は、南北朝期に到るまで日本では、まだまだシャクティ信仰がはびこり、女がうるさく扱いにくく威張っていて、とても男の思うようには、ゆかなかったことを意味するのであろう。

 

さて、南北朝争乱の時こそ、男にとって、  「現世の極楽」ともいうべき時代だったというのは、この時期に初めて、「淋汗の茶湯」という催しか現れてくるからである。もちろん又これを誤って、「林間の茶湯」と取り違えて、「野立てそば」ならぬ「野立ての茶会」のごとくかいている歴史屋も居るが、これはそういうものではない。「淋々と汗を流す茶の会」なのである。  古代ローマものの映画などで、蒸し風呂から出てきた将軍連が、べッドに横たわって美女にマッサージをさせたり、彼女らに果物をむかせ口へ入れさせて満足して居る場面かあるが、 つまりは、あれの日本版である。違う点は、蒸し風呂の中で、女もみな素裸にして並べておき、肩をもませたり垢をこすらせたりしながら、「一茶やるべえか」と、茶碗の蓋をとって、 「茶柱が立って居るか、立って居ないか」の運当てから初って、「四種十服」といった難しい賭けまでした。これは一口ずつ十回のんでみて、その四つの産地を舌で当てる飲茶博奕で、簡単なのは舶来か国産かだけを呑み当てる、「本非」といったが、今でいう丁半勝負である。

 

もちろん、こうした茶博奕は、南北朝合戦の初まる前から、もう盛んであった。  恐れ多くも後醍醐天皇が隠岐の島へ、北条高時によって配流されたもうた1332年においてさえ、お公卿さんは薄情にも、「後伏見上皇に集まりし公卿ら飲茶勝負。賭物を出しあい互いに茶の同異を当てあう」と『花園天皇宸記』の元弘二年六月五日の条には記されて居る。まあ、こうした公卿ばっかりだったから、土豪とか悪党と今ではよばれている原住民の新田義貞や楠木正成がみるにみかねて、「われらこそ、醜の御楯に」と各地から蹶起したのだろうが、さて、その連中も、建武の中興で御所へ出入りできるようになると、 「一茶やりゃあせんか」と公卿の本非引き、つまり後のポン引に袖をひかれ、「賭ければ儲かるのでござろうか?」 と、誘れるままに、カモにされるとも知らず手を出して引っ掛り、その内に、「何んとしても前の損を取り戻そう」と、やみつきになったものらしい。  

そして公卿なら、お寺の本堂でやって、「寺銭に」と坊主へも儲けさせるために分け前を出して居たのを、神信心の武将ともなると、「われらは寺はいやでござる」と、今のサウナ風呂のような蒸し風呂の中へ入りこんで、戦利品として拐してきた美女を裸にひんむいて並べておき、「てまえが勝ったら、それなる女を……」「いや此方こそ勝ったら、目下、貴殿が禦して居られるその色白な女を頂戴」 と、酒を呑みつつ茶博奕をしていたものらしい。だから、楠木正成の子の楠木正儀の、「吉野方についたり、足利についたり、また吉野方に戻る」といった反復ただならぬ行動も、「あれは足利方と茶博奕して負けたり、勝ったりして居たからだ」と当時のことゆえ、 理解すればなんでもないのに、戦前は難しく、「いやしくも大楠公の御子ともあろうものが、敵にあっさり帰順したり、また元へ戻ったりしたのは、忠誠心に欠けて居だのではあるまいかと惜しまれる」きわめて皮相的な見方をされて居たが、真相は、惚れていた女を負けて取られてやむなく降参したり、また目がでて女を取り戻したら、さっさと吉野へ帰ったり、 そのくり返しをして居たのだろう。もちろん、この淋汗の茶湯というのは、やがて世の中が鎮まるにつれ、掠奪してきて裸で並べる女がなくなってきたから、「書院台子の茶」といったような、四角い卓子の上に金銀をつみあげ、「曲録」とよばれた腰掛けを四方において、そこで飲食しながら賭ける上品な形式に、 やがて変ってゆくのだが十四世紀一ぱいは、「呑む、打つ、かう」を三つとも一緒くたにやれる淋汗の茶湯は盛んだったらしい。だから、  「建武の中興」の時の式目第二条にさえ、「茶寄合と称して、さまざまな賭物をなすは固く停止」とある。

 

つまり、せっかくの建武の中興が駄目になってしまったのも、後醍醐帝が、「自分が隠岐へ流されて居る間でさえも、皆が飲茶勝負ばかりしくさっていたは不都合である」と禁止令を出されたからであって、 「それでは詰まらん」と不平分子が多くなって、せっかくの新体制を喜ばぬ者が、「あたら酒池肉林の男極楽をやめえとは、ギャンブル廃止で男性の歓びを奪うものであるぞ」と、みな反天皇側に組した為とも想われるのである。なにしろ、それまでの日本の男共は、女上位に押しつけられて居たのゆえ、無理がらぬ点もあるが、確定史料の上では、なんとも柁びしすぎるような話が日本の男の性史なのである。


 源平男性史 第一部

2019-05-17 18:01:36 | 古代から現代史まで
 源平男性史 第一部
 
インドのアッサム地方のナガ族は、今でも日本人にそっくりだといわれるが、国が広大のせいなのか、ギリシャ侵入時代に混血したせいで、 カシミール高原など北方民族は鼻が高く二段鼻も多く、目が深い彫りの整った容貌である。  「リスレー分類法」によれば、インド民族は、「トルコ・イラン型」「インド・アーリヤ型」「スキト・ドラヴィタ型」「アーリョ・ドラヴィタ型」「モンゴロイドラヴィタ型」「モンゴロイド型」「ドラヴィタ型」の七つに分けられるが、1931年のグハ分類法は、南インドのチェンチュ、クルンバ、マラヤ、イエルバ族のような、 オーストラリア土人型の、縮毛暗褐色肌のプロト・オーストラロイド型に更に七種を、人類学的見地からこれに加えている。  従って用いられている言語も、世界中インドほど種類の多い国はなく、欧亜系三十種以上に土語二百余種類が今も使われている。  もちろん1947年の独立以来は、インド連邦はヒンズウー語。パキスタンはウルドゥ語が、公用語となってこれで教育され、新聞や放送もそれを使っている。   
 しかし南インドの土語であるサンターリー語や、ムンダー語、テルグ語では、男性自身はmaraと共通されていて、日本でも、昔の豪い人は、自分自身のことを、「mara」と自称し、これが、「柿本人麿」とか「和気の清麻呂」といった具合に、男である処の人名となり、文字ではmaroと転化し、やがて子供、つまり男童に限って、  「石童丸」とか「牛若丸」となって、丸の字をあてるのは何んであろうかとなる……。
 
 日本男性史はここから始めねばならない。  きわめて卑近すぎて憚りもあるが、現在にあっても女性自身の原語によって、その出身地が判り得るのとそれは同じことなのである。  インドの古代宗教は、日本では「梵天」として伝わっているブラフマン。それにヴイシュヌ、シヴァの三神をそれぞれ、「世界の創造神、維持神、破壊神」とし、 三神一体となしているが、今のヒンズウー教では、ヴィシュヌ信仰がその主となっている。  しかしシヴア信心では、「世界の創造、破壊すべて神の恩寵をうけるシャクティ(女性)」とされるから、この派のヨーガ(瑜伽)信仰では、男女交合の歓喜天を祭り、エクスタシーのことを、ヨーガともいう。つまり、そうした行為を、「ヨガリ」とか「ヨガリの声をあげる」というのも、語呂合せでない。『和訓架』にもちゃんとでている。
 
「ねもころに奥をなかねそ(先のことまで取り越し苦労しても始まらん)まさかし(現実的に)よがば(良ければよいではないか)」 と『万葉集』三四一〇番の古歌にもあるごとく、その、  「よが」は上古の日本で東国の方言となり、これが後になると濁点がとれ、西国でも、「よかばい」「よかばってん」など用いられるようになる。  処が、今では「よがる」といえば、「気持良がる」などと満足する時の表現にするが、「る(留)」は昔は否定詞だから、反対になって、「夜離る」か「よがる」のことで、これは自動下二段活用となり、(男女の交渉の切れたこと)を意味するようになり、「よがれむ床の形見ともせよ」と『後拾遺和歌集(一〇八六年に藤原通俊撰の勅選集)』に出てきたり、  「『源氏物語』の明石の巻」にも、何もせず語り明したと、「よがることなく語らいにくれ給う」などともなる。
 
さて、この信仰は日本では、「歓喜天」とか「歓喜仏」の名で、男女和合の信仰として伝わり、松平定信か老中になったとき、和合を豊作にたとえたのだが、 米作の良からんことを願って、「天明八年正月二日、松平越中守一命はもとより、わが妻子の命をもかけまするゆえ」と、本所吉祥院歓喜天へ祈願文をあげたごとく、日本ではひろく信心されていた。
 さて前述したが、今でもインドのカダル族やプラヤン族といった成人の身長平均一メートル余の倭小民族は、  (人並みに背の高がらんこと)を望むのか、シャクティとよぶ彼らの万能の女神に対し、その好まれると思える男性の象徴を切断し、恭々しく供える儀式が、 ペラマビクラン峡谷などでは、今も行なわれているが、やたらにそこを切断しては、どんな男でも死んでしまう。
 だから死人のものを、もいで来て供物にするというが、カダル族などでは石又は木で、その模型を作って供えたり、又はシャクティを祀った祠への道案内に立てている。 しかし日本では、陽物を祀ったりするのは淫祠扱いされているので、そうした記録や文献は見当らず、松平定信のごとく、「男女和合=五殻豊穣」といった結びつけをして、 そうした陰陽を祀るところは、みな豊作を祈る農民の単純な願望の現れとするか、(雄しべと雌しべ)(花粉がっいて実る)といった理科知識が当時からあっての事とは、どうも信じられない気がする。また、話は違うが、「マロ」と自称するのは、お公卿さんであるが、彼らの、かっての盛装というのは、「置眉」といって、眉の上に黒丸をつけたものだが、カダル族は今でも身分の高い酋長一家は、額に黒丸をつける風俗かある。
 
 ヒンズゥー教では婦人が赤い丸を額に、ぽつんとつける風習があるから、インドでは珍しくもないが、カルカッタの街角で、小男が額に黒丸を二つ付けているのに出逢った時は、 さすかにぎょっとさせられ、はっとして、  「……牛若丸」と思わず口走ってしまった記憶がある。だから、マラから転じたマロが、日本でも高貴な公家のシンボルのように扱われる風習があったればこそ、
 「男性自身」のことを、仏家の筆を弄ぶの徒、つまり坊主たちが、それに、「魔羅」の文字をあて、色欲の戒めに用いたのが、やがて一般に広まったものであろう。  というのも、他の国では原住民とか土着民の類は、進攻勢力によって根絶しにされるか、さもなくば脱走して逃亡するものだが、なにしろ日本列島は四方が海である。 だから逃げたくても、一人一人でばらばらには遁れようもない。そこで、やむなく縮こまって雑居して居る内に、体制側の豪い男は、  「マロが」とか「マラが」といっているので、自分らも同じ男ではないかというので、それを真似して用いだしたものであろうか。ペルシャ語でマラガは上陸の意だが……   
 
  男を売る平家 平家は美男美女揃いだった
 
 さて、源義経の実存は、反っ歯で見苦しい小男だったというが、平家の方は清盛を始め、みな美男子揃いだったらしい。  なにしろ平敦盛のごとく他に比類ない美少年も居たことゆえ、怪しむにはたらぬかも知れぬが、どれもこれもが粒揃いだっというのは何故だったのだろうか。  安徳帝をうみ奉った徳子こと建礼門院が、絶世の美女だったという点からしても、その父清盛が美丈夫だったことは裏書きできる。  なにしろ清盛の母の泰子は、多勢の御所の女人の中から特に選ばれて、至上の寵をえていたというゆえ、その美貌の遺伝かも知れないが 他の平家の所謂、御一門、つまり、「平の記号をもった他の面々」がやはりみな美しかったことの謎は何だろうか。
 これまで説明してきたように、彼らの出身がシュメール地方のスメラからペルャこ湾へかけてとなると、そこはアレキサンダー大王以来しばしば白人の侵略をうけている。 そして平の忠盛が日本史に現れてくる頃たるや、向こうは、「十字軍」がヨーロッパで編成され、その騎士団が何回もくり返しては、攻めこんできていた頃に当るのである。
 
 そうした白人たちが大挙して侵入してくるという事は、現地におびただしい混血児が産れる結果をもたらす。  だから平の忠盛やその家臣の平の家貞あたりも、ヨーロ系の白皙の皮膚をもった男達だったかも知れない。  そして彼らや平の姓をもつその連中が、御所で非常に人気を得たというのも、禁中に仕える女官たちの関心をひいたが故のこととも想える。  というのは時代は下がるか織田信長が、その頃当代無比とよばれた美少年で、「男郎花(おとこえし)」の異名さえあった万見仙千代を、摂津伊丹城主荒木村重より取りあげ、これ見よがしに御所へ伴させたところ、その美しさに幻惑された命婦や女嬬があられもなく、黄色い喚声をはりあげて追いかけ廻した話さえある位だから、その当時にあっても、  「まあ眉目うるわしの殿御ではないか……」と、面喰いの女官達に騷がれ持てはやされ、その人気によって御所内に勢力をはり得だのではなかろうか。
 
これは後世の江戸時代の千代田城でも同様で、大奥の女中たちの人気がなくては立身出世もできかねたというから、御所でもやはり同じだったものとみてよかろう。
平清盛は美男子だった 平家の公達も美男が多かった
 また、昔の教科書などには、  「常盤御前雪中の図」なる絵がでていたものである。  後に義経になる牛若丸や今若丸、乙若ら三人の子を抱えた常盤か、子供らを庇うために雪の中を逃避行したが、やがて三人の子を助けて貰うために、清盛に操を許して命乞いをするという、 崇高な母性愛の教訓だった。  しかし学校でそう教わったときには、まだ子供だったゆえ操を棄てる常盤に同情し感激し、もしもの時には自分の母親もそうであって欲しいと、私などは心の中では願望したものだが、 大人になってから考えると、どうも話が違うようである。あれは三人も子を産んだ三十近い常盤の方で、清盛の美男ぶりに憬れたのと、 生活の安定を求めるため、三人の子を手土産代りに伴って行って、自分の方から売りこみに行ったのではなかろうか。
 
なにしろ未経験な若い娘ではないし、子供らの父親の源義朝は死んでいるのだし、「……操を破る」というのは大げさすぎはしまいかと想う。  それから清盛は、平の基盛を初め出身がまったく不明な男を、次々とみな自分の養子扱いをしている。普通こうした場合は、  (その親に義理があるから引取って養育する)といった形式を考えやすいが、清盛は何故か子供でない既に成人した一人前の青年を、次々と養子にしているのである。  もちろん清盛には、重盛、重衡らの男子も多くて普通なら養子の必要などない。  では娘婿にするためかといえば、一人娘の徳子には高倉帝という尊い御方があって、のちの安徳帝まですでに産れていた。  つまり養子などすることはないのに、次々と養子にして御一門の内に加えているが、これは何故であろうか? 
 
 また、これも判りきったことだが、清盛が平のグループでは総帥であり、仁安二年からは位は人臣の最高の位をしめる太政大臣にまでなっているのだから、 他の者は彼より身分が低く家来なみだった筈である。となると日本のしきたりとしては、  (娘を嫁にやってしまう際は、身分の下の者へ)という事は有るが、養子をとる場合は、同格か目上から入れることに不文律がある。  なのに清盛のごとく、何処の誰やら素性が一切不明と『平氏系図』にまで明記されて居るようなのを、次々と養子として組み入れてしまうという事は常識的では有り得ないことである。
 そして基盛もそうだが、これが今回、養子にしました者でありますと、まるで芸者の御被露目のごとく、御所へ伴ってゆき各局へ挨拶廻りに歩かせると、すぐ御座敷が掛るがごとくに、 それらの者は適当に何らかの名目がつけられて、従五位下にすぐ任官。それから次々とお覚えめでたく立身というコースを辿っている。従来の解釈は、  (清盛の勢力によって出世させられたもの)とするが、それだけで済まされるものだろうか。
 
 京の太秦寺は、昔は景教をひろめるために建立されたのか、「波斯寺(ペルシャ)」の別名があったというが、そこの宝物の中に『密宗編義』といった短歌みたいなのがあったと、 寛文年間の『京雀』には出ている。  しかし、どんな内容かは紹介されていないので不明である。だが西歴934年から1055年まで、セルジュクトルコに占領されるまで栄えていたペルシャのブジード王朝の法典は、 「kita」つまり「キテ」とよばれる五七五調で、古代ペルシャ時代からの短歌形式による詩みたいな具合のものであるが、その中に、
 「美女をもて王にすすめて官につく。われは美男を王妃に献ぜん」といった立身の要領をとく詠草があって、 これは宮廷詩人ナスル(914-943)の作だと伝わっている。つまりペルシャ宮廷では王のハレムへ美女をおくりこむのと同様に、宮中の貴婦人へ美男を贈る風習もあったものらしい。
 
『メアリースチュアート』をかいた作者も、その中ではっきりと、当時の英国女王エリザべス一世にやはり美男が献上され、女王がペチコート姿で夜になると次々と廻って歩くことを書いているが、 欲望も本能だから向うでは女性とて当り前だったらしい。
日本の男性史の追求
 さて、日本男性史において特筆したいのは、その伝を清盛は自分もやったのではないか、いうことである。  つまり若い時には自分が御所の中の有力な婦人の気嫌をとり結び、やがて年をとってそれが厄介になってくると、己れのピンチヒッターに眉目よき青年を養子ということにして、 身代りに立てていたのではないかと考えられる。  といってこれは突飛な発想でもなんでもない。『大奥の生活』などの本をみれば、「お部屋さま」とよばれた側室は三十歳になると、「御床ご遠慮」の制度で、 自前の部屋子である若くて綺麗な女中を、身代りに出していたとあるから、清盛の時代であっても、彼が御床ご遠慮した後は基盛らを身代りに差出して、宮中の貴婦人の寵をうけさせていたとしても、 それは変でもなんでもない。  孝謙女帝の御代に、弓削道鏡が御床御用の奉仕をしたとする例はあるが、きわめて能率的に身代りを稼動させて効率をあげていたのは、平氏をおいては他にはないかも知れない。  つまり、「男を売る」というのは、これから起きた言葉ではあるまいか。まあ念のために遡って日本の男性の歴史を追及してみることにする。
万葉の時代の男たち
「几有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖可忍而有香聞」というのが、『万葉集』の中に入って居る天平二年(730)太宰師大伴氏に、児島という女性が贈った歌とされて居る。  漢字の羅列だから鹿爪らしいが、判りやすく音よみにすると、最初は枕言葉で、 「オホナラバ、カモカモセンヲカシコミト、フリタキソデヲ、シノビテアルカモ」と今はこれを読み、その意味もきわめてくだけて、
「九州の大宰府へ防人として行かっせるというで、腰の軍力に縋りっき連れて行きゃんせ何処までもと訴えたが、連れて行くのは易すけれど、女のせない御用船で、 下関から九州への連絡船に女人は乗れぬと悟された。だから私は振りたい袖さえも、その衝動にかられて泣きだしてしまってはと、貴方の門出に女の涙は禁物と耐えて忍び、 じっと見送って忍んでいるかも」と解釈して居る。しかし戦時中の  『万葉集詳解』にあっては、「晴れて大君に召されたる命はえある朝ぼらけ。妻たる者は雄々しく右毛左毛の額にたれてくるのをかきあげ、きりっと髪を結び鉢巻をしめ、召集のきた夫は、 もはや自分の夫ではなく大君のものであると、謹みかしこみ恐れ、死んで還れと勇ましく、痛い位に日の丸の旗をもつ袖をふって、銃後はたとえ苦しいことがあっても忍んで報国の至誠をつくすから、 安心せよと見送った日本軍国女性のかいがいしくも勇しい歌である」となっていた。
チンチンカモカモの意味
 しかし『万葉集』の730年頃に、そこまで軍国主義に徹していたか、どうか疑わしい。  文字通りに訳せば  「およそ誰でもそうだろうが、右毛左毛をすり合せて、チンチンカモカモを、まさになしたいは、これ女性の欲し求めるところ、なのに相手のお前が防人にされ、弓矢をもって出征させられるとは恐しいことだ」というのが、反戦的だが本筋のようで、そして、  「それでは残るこの身はなんとしよう。困ってしまうじやありませんか。ですから行っちや駄目、だめって痛い位に袖を引張って止めたのに、それなのに貴方は、女より仕事だと征ってしまわれた。 残された私としては欲求不満に、栗の木に花の咲く頃、その樹の下で香りをかいで、カモカモのことを忍んで居るしかないのです……」  といった意味あいになってきて、雄々しき軍国女性のイメージより、性の悩みに悶えなき涙する万葉時代の女性の相聞歌になる。
 
 
 この「右毛左毛」をカモカモとよぶ万葉集九六五の歌にっいては、「右にしたり左にしたり・・・ああしたりこうしたりして、ほしい儘にいろんな事をする」  といったように、『古語辞典』では逃げて居るが、女性の身体で、左右に毛の分かれて生えて居る個所は決って居るから、それは男性の願望を現す語句とされ、『古今集』の序にも、  「今を恋いざらめ、かも」その九〇九では、「誰を、かも、知る人にせむ」と用いられて居る。もちろん知る人というのは、何かを知る人という意味で、名前を知るといったような、 そんな単純浅薄な仲のものではないらしい。だから江戸期の黄表紙でも、
 「別ぴんじやねえか、かもって、かもかもしたいじゃありゃあせんか」とか、「しめ切った小部屋で、ちんちんかもかもしてる最中に、とんだ邪魔が入りゃあがって」といった具合に使われてきて居る。  つまり万葉時代にあっては、女性はまだ、後世の道徳家や歴史家がとくような形ではなく、きわめておおらかに性をうたいあげていたものらしい。  だから、その十九年後に孝謙女帝が立たれたもうた後、前にもすこしふれたが、「道鏡のあれが良いとの思召し」という事になっても、別にどういう事もなかったのであろう。 なにしろ、この時代は、インドのシバ神が、まだ羽ぶりをきかせて居て、前にもふれたが、「シャクティ信仰」つまり女尊男卑の世で、「カミさま」は、これ女に限られていた。  子宮に新しい生命を宿し、これを生誕させる能力をもつ女性こそ、森羅万象の生みの親として、あがめられていた時代である。
 
だから、女である神さまへのお供物は、(お好みになられるもの)つまり、そのものずばりに、男性のそれ自身をという事になった。 しかし八世紀の頃とはいえ、人間の男はミミズではない。ちょん切られたら、また伸びてくる処かそれでは命まで危い。死んでしまう恐れもある。もちろんシャクティ信仰では、「己れの一物を、パイプカットして捧げた男は来世において、極楽に生れ変り、より仕合せになれる」ことにはなって居るが、日本人の男は、
今も昔も現実的だから、「死んでから天女とコイッスできるより、現世で女房となんして居る方が増しである」と、イミテーションに、 そっくりな形をした石を見つけてきたり、木を削って同形の物を作って納めた。しかし、一つの女神にモデルとはいえ沢山の物を集めると、千成瓢箪のようになってしまう。
 
 そこで日本では、「女神を祀った祠へ参拝する人の為の道標」つまり今日の交通標識のように使われだした。  だから現在の円盤の中の、ウナギのような標識矢印の線が、よく視るとそれに似通っているのも、そのせいかも知れない。  つまり、今でも田舎へゆくと、「道祖神」というのが残って居るが、あれがその名残りである。後には、歓喜天信仰の影響で、女性のものに似た自然石や木を共に祀って、 五穀豊穣の守り本尊にして居る処もあるが、これもインド宗教である。しかし七八一年に政変があって、百済大高野新笠の生み奉った桓武帝が即位される迄の日本はどうも、 「女上位」そのものの世の中で、要領よく代物弁済の形で、似た石や自然木を見つけてきて奉納せぬ限り、つかみ出され、ちょん切られた男は多かったらしい。
「埴輪」といって人形や馬の形が粘土でこしらえられて居る物の中に、男のそこが欠除して居るものが発見されるのを、考古学者は、「破損」という見方をしているが、 あれは、「ちょん切られ」の実相を示し、初めからへし折って埋められて居るのである。  平城京つまり奈良時代にあっても、そうした遺物は多く、奈良県国立文化財研究所の、「平城宮跡発掘調査会」の保管して居る中にも、そうした部分切断土偶が混って居る。  また、その部分を拡大したモデルなみの、「男茎形(おはせがた)」の実物も奈良朝の遺品にある。
 
 隔全長十八・三センチ、直茎三センチ、亀頭部尖端尿道口からニセンチ下に第一条溝、一センチの間をおいて第二条溝、十五センチ離れた個所に幅広い刻み目を入れ、 二つに分けホーデンを形どって居る極めて、シリアスな物で、もしこれが当時の実物大であるなら、「青丹よし奈良の都」の男の持物は、相当のものだったらしい。
 また女上位であった天平時代なのに、やはり男に不自由した女人も居たのか、「木製円筒尖端の亀頭の下に、やはり二条の溝がつけてあり、下端に指を挾み動かす用にか、 きびす掛けと袮する紐で足にくくりっける為にか、二又に分かれて出来て居るもの」といった柔かい布でも冠せれば今でも使用できそうな張形が、平城宮の遺跡からは発掘され、 大切に保管されて居る。つまり奈良の都の女官たちは、「男とは、あれが付いて居ればこそ、よいものでござりまするな」と、他に愉しみもない時代ゆえ、 もっぱらそれのみにふけり、時には、「切りますわよ」と本当に切断したり、後になって、それが朽ちてゆくのを惜しんで、木で同じ形をこしらえ、「昔を今になすよしもがな」と自慰的使用をしていたのかも知れぬ。おおらかと云えば云えるが、男の立場ではあまり嬉しい世でもなかったろう。
玉葉の時代
 九世紀に入って書かれたという、 『古語拾遺』に、大地主神が、田を耕して居る者をねぎらって、牛を殺し食させた。すると御歳神がこれをきいていたく怒り、  「牛は聖なるものである。これを殺し、あまつさえその肉を食させるとはなんたる事か」と蝗の大群を空から呼び集めて、  「呪われてあれ」とそれに命じたから、蝗の大群は、すぐさま田をおおい一粒の米も残さず、みな食いつぶしてしまったという。 ここまでの神話はインドにも、まったく同じものが今も伝承されて居る。
 がさて、日本のにはこの後があって、白猪、白馬、白鶏を屠り、牛の霊を葬って謝罪した上大地主神は、女神であられる御歳神の御気賺を直して貰うために、 男茎形を作って、これを田の溝の口においたところ、その尖端から慈雨が射精され、枯れた田は蘇って、豊かに実り直しをしたというのである。インドよりポルノ的傾向か甚しい。
 
つまり今でも母体のことを田とか畑といい、「おれの種はよいんだが、畑が悪いから、うちの子供の出来か悪い」などと、用いられる起りは此処から始るらしいが、  「御歳神=女神=田畑」といった農本思想は後になっても、  「神祇官」によって守り伝えられ、「祈年祭」の式典には、白猪、白馬、白鶏の肉を供える慣習となって、これが二十世紀の今も残って居る。 さて、「白」というと、清潔とか純粋さを象すように思い勝ちだが、それは現在のテレビの洗剤CMの見過ぎによる影響で、奈良や京にあってはカラ系の神社は別だが朝廷では、 白は忌まれるものであって、御所の最下層の雑役夫のことを、「白丁」とよぶのも、このせいであり、平安遷都後百七十年たった源平合戦においても、 「白旗をもつ木曾義仲」を後鳥羽帝が忌み給い、赤旗党の平氏の方に好意的であらせられたのも、事によったら、理由はこれであるのかも知れない。
 
 
 もちろん、夷をもって夷を制する御所の方針で、義仲は、同じ白旗党の頼朝に討たせたが、頼朝もそこはよく知って居たから、「また夷をもって夷の政策をとられては、叶わん」というので、 義経や伯父の行家が、公家に結びっくのを警戒し恐れたのである。  処が、その方は防ぎ切れたが、頼朝は、「女の怖しさ」を、うかっにも知らなかったらしい。まだ八世紀までの女上位の風潮が、十二世紀のその頃にも残っていたであろうから、薄々はそれを弁えて居たかも知れぬ。と書くと、尤もらしいが、恐らくまだそうではなかったろう。  藤原氏や平氏の方では男尊女卑だったから、見下す立場をとって舞を舞わせる女には白い水干を着せたりしていた、これは兼好法師の、『徒然草』にも、 「道憲入道舞の手の中に興ある事ども選び、磯の禅師といいける女に押しへてまはせけり。白き水干にそう巻をささせ、白烏帽子をひき入れたりければ・・・」  とあるように、これを「白拍子」などと、わざわざ差別して白付けで呼んで居たりしていた。  処が原住系のミナモト族というのは、八世紀以前から日本列島に住っていた、かっての、俘囚の裔だから、これはどうしてもその反対で、「女尊系」であった。
だからしてこの結果が、「源頼朝」にしても、左馬佐であって、「佐(すけ)どの」と政子にもいわれて居るのである。  今日では、スケというとスケベといった発想をしがちだが、この佐はそうではなく、「次長」又は「次官」、補佐の佐なのである。  だから、それでは、 「頼朝は、誰のセカンドで、カマクラ政府のチーフは本当は何者だったのか」の疑念も起きる。  また『吾妻鏡』というのを、あずまと読んで、『東鑑』の文字もあて、関東のことと今では解するが、素直に文字にこだわれば、 「マイ・ワイフ」の意であり、それでは正式に頼朝にとっての妻は誰だったかと云うことになろうというものである。  また、この時代の長寛二年(一一六四)から、正治二年(一二〇〇)まで丹念につけた九条兼実の日記のことを、  『玉葉』又は『玉海』ともよぶが、これは、『語遺義解』によれば、「玉門の左右をおおうを玉葉という」また、「玉門の内が大きい場合をさす」とある。
 といって、玉門がエメラルドやルビーのアーチでないことは、読まれる向きには知識かあるであろう。ということは、九条兼実が日記をつけて居た十二世紀後半たるや、  「玉門を覆う葉のごときもの」とか、「玉門の奥が海のように広く、水分また多く湿っていた状態」が、その日記の別名になった事実から推量してみて、相当な女権時代だったことが計り知れる。  すると、その玉葉をもち、偉大なる玉海を身体の奥深くに、有していた女人は誰なのかといえば……それは頼朝をして、「吾妻」とよばせた相手だったことになる。  如何に彼女の玉葉や玉海が問題にされていたかは……その人の名を、今ではMASAKOと読むから判らなくなって居るが、その当時から十六世紀まで、  「大政所」とか「北政所」といわれた秀吉の母や、ねねにしても、決して、MASADOKOROとは呼ばれていない。
 
だから、頼朝の妻だった女人も、なんと呼ばれていたか判るだろうし、猫は、「タマ」といっても、人間の女ならば、  「おたま」とよぶことを考えれば、彼女も、「お」をその名の上につけて云われて居だろうことも判るし、それゆえ二十一世紀の現在に到るも、玉葉、玉海、玉門に代る普遍的女性名詞に、 それが、彼女の名がずばり用いられて居る周知の事実からも、(ペルシャにはスーサの並びに、それにそっくりな地名がある)「阿魔将軍」と呼ばれた彼女の権勢は判るというものである。  もちろん江戸時代元禄期以降の、儒教輸入による男尊女卑をもって、これが昔からと誤っている歴史屋や、その書くものを下敷にする人の手に掛っては、「阿魔」も「尼将軍」と可愛らしくなるが、彼女の生れ育った伊豆伊藤(現在は伊東)は、諏訪神社文書によって判るような特殊地域なのである。
 シャクティ信仰を飽く迄も久しく、もちこたえてきた古い土着民の隔離別所だったから、女が強かったのも当り前のことで、まあ頼朝は、 菜摘御前を初め他の側室は彼女に斬殺されたが、自分のそこを 切られなかったのが、せめてもの慰めだったのであろう。                     
 しかし頼朝も、己れの一物は難を免れたものの、せっかくの血統は、もろに彼女によって絶たれてしまった。 なにしろ源頼朝の妻なのに、堂々と「平政子」と名のるような女だったから、頼朝の血筋はもとより、「梶原景時」「畠山重忠」「和田義盛」「三浦義村」といった源氏家臣団まで、 根こそぎにみな殺掠してしまい、騎馬民族系である崇神王朝系の北方種族を、せっかく朝鮮語で、「カマクラ(屯、つまりタウンのこと)」と名をづけた土地から一掃してしまった。
 
 だから、ようやく命拾いした者も、北条体制の追捕をうけて住む所もなく、かって七世紀から八世紀に設けられた捕虜収容所、つまり橋も掛っていない川の向うへと逃げこんだ。  どうも今の歴史では、源も北条も同一視してしまって居るが、大陸系ツングース種の源氏を滅して、政子がその親兄弟に、インド系に近い西南アジア土着民の国家体制をとらせたからこそ、 北条時宗の代になって、蒙古や朝鮮から攻めこまれたのである。  頼朝の時には、高麗とも、南宋とも行ききがあって、相互不可侵条約のようなものが結ばれていた史実があったが、北条氏になると、  「頼朝らの先祖は向うが、マザーランドだったろうが、われらは違うのである」と放っておいた。  だから元のフビライが、「怪しからん」と高麗の播阜(はんぷう)を嚮導役として、1268年正月に、貢物を出せと命じてきたのである。つまりこれが元寇の起りのようである。  神風といわれるモンスーンが吹いてくれたので、日本は助かったものの台風シーズンでなかったら取り返しがっかなかったろう。  つまり政子の玉葉のため、この日本は未曾有の国難にあい、ひとつ間違えば滅亡させられる処だったのだから、女は今も昔も恐いという他はない。
 

真説 関東やくざ、天保水滸伝 飯岡の助五郎対笹川の繁蔵 日本では芸人が歴史学会の会員だった

2019-05-17 11:41:36 | 古代から現代史まで
真説 関東やくざ、天保水滸伝
飯岡の助五郎対笹川の繁蔵
近頃、講談師「神田松之丞」の人気が高いという。今まで人気の低かった講談に若いファンが多いとも聞く。 講釈師たちにとっては「虚妄をまき散らし、大衆の暗愚化に協力できて」そのうえ儲かるのだから大慶と、賛辞を進呈して置く。
日本では芸人が歴史学会の会員だった
 
江戸時代、兵法コンサルタントとして甲陽軍鑑などを一席ぶっだのが辻講釈となり、明治に入ると昔の事を話すからと、今の弁護士が三百代言と言われたごとく、用いられた通称を謂う。  落語や色物の芸人からは尊敬を込めて、先生とよばれ羽織袴で威厳を保っていたものである、 だから、郷士や軽輩(本当の武士ではない)あがりの明治新政府の高官の席によばれ重宝された存在だった。
やがて明治史学会ができて高官の口利きでこれに入会する。学会に芸人が入会するのだから全くの話、大したもので、恐れ入るしかない。 それゆえ堪りかねて「いくら昔の事を題材にするからといって、見てきたような出鱈目だけは絶対に慎まれたい」と〈日本歴史資史料集大成・明治22年史学会雑誌〉の巻頭で、 修史局出の東大国史科の重野安繹がおおいに戒めているくらいですから、玉石混淆と申しますか相当にいかがわしいのが、面白おかしく張り扇を叩いていたようである。 それゆえアドルフ、クロード、ついでリースによって指導された官学派が、ドイツ式実証主義というか、証拠主義の学校歴史を作りあげたのであります。
 
日本国は、実際は雑多な人種が混じりあって狭い国土にひしめき合っているのですが、欧米みたいに黒色、黄色、白色と、一見それと判別できる肌の色をしている訳ではありませんから、 ドイツ人が、みな黄色人ゆえ単一民族としてしまったのかも知れません。が明治十九年三月二日の帝国大学令で、歴史教授となったリースは史学会を作らせ、 学校歴史の泰斗となる者らを教育しましたが、2年後の五月七日に学位令が施行のとき、彼は日本には歴史学は存在しないと断固としてそれだけは主張しました。 この為に、欧米には歴史学博士の称号はありますが、日本ではその学位は今もない儘であります。  ですからして、それから一世紀たった現代になりましても、「歴史は俺たちに何をさせようとしているのか」などと堂々たるキャッチフレーズで、 武田騎馬隊に重戦車やヘリコプターをからませるような、漫画タッチの映画も製作されたりするのでしょう。まこと面妖なお国柄です。 だから、西欧と違い大学入試でも歴史は軽視されていて、ただの選択科目でしかないのであります。全く困ったことである。
閑話休題
さて、神田松之丞の持ちネタの中にも「天保水滸伝」はあるが、昔から「講釈師、見てきたような嘘をいい」と云われるぐらい、景気つけの張り扇から、嘘八百の歴史上の物語が叩き出されてきた。 その影響もあって、講談や映画、テレビで演る時代劇という「電子紙芝居」を歴史と思い込んでいる人間が多い昨今である。 しかし、これから書く内容は、通説、俗説とは大きく違う、出来得る限り史実に迫ったものである。どうぞ安心して読んで頂きたい。
天保水滸伝
「利根の川風、袂へ入れて」と、かつてうたわれたように、大利根川から上総・下総にかけ、渡世人が多かったのは、海魚や川魚にしろ生臭いものが多く獲れ、 それに米どころだった所為でもあるらしい。と書くと、今では、漁師や百姓の懐が豊かなので、それを目当てに盆をしく博徒が多かったからだろう、と思われるが、あながちそうでもない。  なにしろ渡世人だからといって、あけくれ博奕をしているわけにはいかない。自分らで賽ころいじりをしていては共食いになってしまう。 開帳するには客を集めて張らせるしかないが、祭礼とか市のたつ日ではなくては、そうそうは銭をもった人間が集ってくるものではない。  それでは渡世人は、盆茣蓙ばかり頼っておられないとすると、いったい何を飯の種にしていたのか……ということになるが、これが意外や興行だったのである。しかし当節のごとく流行歌手 のようなのはなく、旅廻りの講釈師か相撲興行だった。 この伝統は、つい二十年前まで山口組が、「神戸芸能」として、俳優や歌手(鶴田浩二や美空ひばりなど)の全国興行権を一手に握っていたのでも解る。 (現在でも関東では博徒の親睦団体「関東二十日会」と、的屋(テキヤ)の団体、神農会(飯島連合会、姉ヶ崎連合会、極東関口会、)が健在である。
 
ところが、である。あまり知られていない話だが、渡世人の世界は幕末の文久二年をもって一線がひかれる。  講談で有名な大岡越前守忠相が八代将軍吉宗のころの貞享二十年に、街道を流し歩く旅遊芸人達へ、朱鞘の公刀と十手を持たせて五街道を分担させ警察権を与えた。  ところが、やがて彼らは日本各地に定着して住みつくようになり、互いの縄張りを決めあった。そこで、いざという時の下っ引きや捕り方を食させてゆくため、賭場を問いたのが始まりゆえ、  「旅遊芸人」の名残りから「遊び人」ともいうのだが各地の親分衆が揃って文久二年までに、それまでの朱鞘の刀と十手をそっくり公儀へ共に返上してしまい、  「神農さまを神として祀る香具師稼業」へと彼らは戻ってしまったのである。
 とはいえ、それまでは公儀御用を受持たされ、今でいうなら地方警察署長みたいな役割で、ギャンブル資金で人件費や、諸経費を賄っていたのであるから、通説とは逆に、 「二足草鞋」の親分こそ本まもので、まっとうな本可打ちだったわけである。それに香具師は昔から興行をしていたから、彼らが講釈師に一席やらせて儲けても、また相撲の勧進元をつとめ利をあげたとしても、それは稼業柄、いたって当り前の権判だった。なのに、それらの既得権益をば一切を放棄したのだから、文久三年から元治・慶応と各地で強い者勝ちの乱闘沙汰になったのである。 もちろん実際は、文久二年に公刀十手を返納した裹には、天保、弘化、嘉永、安政と30年位の間に、飢饉その他で世相が険悪化して浮浪者が多くなり、それらが徒党をくみ、 抜刀は厳罰とされているのに抜身をもって、各地を荒し暴れ廻り、 「御用だ、御用だ」と向って行っても、神妙にせず、「何をッしゃらくせい」と逆襲してこられてしまい、とても真剣の長脇差に小さな十手や六尺棒では防ぎようもなくなってしまい、 そこで相談しあった結果、「もう御用は危なっかしくて勤まりません」と放り出してしまったのが真相だから、 「天保水滸伝」といわれるごとき、関東の飯岡対笹川の決戦もその時点から始められる。
 
 
 さて、大利根の流れを坂東太郎というが、この水で辺りは五穀豊穣。それに海や川では魚貝も当時はまだ公害もないので沢山とれた。 そこで栄養をたっぷりとるから女子は早熟となり、男子は体格がよくなる。そこで現代の青年にタレント志望者が多いように、助五郎も、  「おらあも裸一貫で何とか立身したい」とあせったが、まだ流行歌手の時代ではなく当時の人気稼業は相撲しがないから、江戸回向院へゆき開運山人五郎へ弟子入りした。しかし運不運もあるだろうが、入門したからといって、誰もが出世して幕内に入れたり三役にまでなれるものではない。その内に助五郎は、 「おめえみたいな見込みのない奴は……」と、親方の大五郎に怒鳴られたのを汐に、「そんなに見込みがねえンなら止めよう」と、下総の飯岡へ行き漁夫となった。しかし回向院で修業してきたのは、大飯をくうことと力まかせに、相手をぶちかまし、張り倒すことぐらい。だから助五郎は漁師になっても、喧嘩の方で名をあげ、近くの、 「銚子の五郎蔵」とよばれる者の子分になったが、親分が網元だから、やっぱり漁夫をして働かなくてはならぬ。そこで手土産に十両の金を作ると江戸へ行き、もとの親方の開運山に頼み、  「近国近在相撲世話人」の鑑札を世話して貰った。
 これは天保11年正月のことで、浦川林右工門以下連盟の証状の写しが現存している。つまり助五郎は賭場よりも先に、相撲興行で売り出し、まあ一本立ちになったのである。
 さて飯岡から六里先の須賀山村に、利根川の荷積み場である笹川河岸があった。  ここの繁蔵というのが助五郎より18歳下だが、やはり江戸相撲を志し、天竜山の稽古部屋にいたことがあった。そこで、やはり手土産代りに金を包んでもってゆき、  「相撲の勧進をやれば木戸銭が儲かる。それに旦那衆に取組みに賭けさせておいて、こっちが逆張りし八百長をやらせりゃ丸儲けだ」  と考え、天竜山のところへ相談に行った。ところが、 「2年前に目と鼻の先の助五郎へ、親方衆が証状を出しておるので、それを引きあげお前にとはゆかんそうだ」と断わりはしたが、「肩を痛め相撲はとれねえが力持ちだよ」と、 勢力の富五郎という前頭までいった大男を、まるで厄介払いのごとく戻る繁蔵につ。けてよこした。  さて、なんとしてでも相撲世話人の株をとりたい繁蔵は、やがて思いきって、天保13年7月27日、28日の両日、須賀山村諏訪明神の境内で「角力道の始祖、野見宿弥の碑を建立」という名目で花会を開いた。これを聞き助五郎は、
「ふん……御願いしますと頼みにくりゃあ、世話人の俺が勧進相撲を江戸から呼んてやるものを、花会の博尖で碑を建てようとは笑わしゃあがる……」  と自分では行かず、子分の州崎の政吉を代りに出してやった。しかし諸国親分衆は、なんといっても相撲興行は最大の収益ゆえ、その始祖の碑を建てる花会とあっては放ってもおかれず、 「上州から、大前田萸五郎親分さんご到着。同じく佐位郡の国定村の忠治親分おなり」 「奥州から遥々と信夫の常吉親分のおいで……」次々と大看板の貸元が集った。 そして、「角力道の御先祖さまの碑を建てる花会だとというに、この下総一国の相撲世話人の助五郎が手助けどころか、顔も出さねえとはなんてこった」といった談義が交わされた。そこで戻ってきた政言が口惜しがって、その模様を話すと、みるみる真っ赤になり、
「畜生ッ繁蔵のやつめ、おかげて此方とらはえれえ恥っかきだ」と助五郎は立腹した。  天保15年甲辰8月6日の夜明け前。飯岡の助五郎は、やはり相撲取り上りの博多川の文吉に四隻の舟を仕立てさせ総員二十三名が笹川へ向った。 そして一番手が州崎の政吉、二番手を堺屋台助以下各五名、三番手に石渡の孫次郎、四番手は野打の熊五郎以下各四名、 「それッ」とばかりに勇しく助五郎は左右に子分を従え、岸につくなり舟から飛び出した。
 
 
 ところが繁蔵方では、留五郎というのが討入りを前もって知らせていたから、倍の五〇名で待ち構えていた。しかも病気で寝ていた平田深喜、講談では(平手造酒)とよぶ浪人者まで、 「こういう時に役立てねば穀潰しだ」とばかり、葦草茂る河原につれだし伏せておいた。これでは、せっかく押しかけたものの飯川方に勝味はない。  昼まで渡り合ったが、助五郎の一の子分の政吉は大小一八ヵ所の打傷をうけて即死。
 永井の利兵術や木の内の金治は、笹川の身内に囲まれて持ってゆかれてなぶり殺しにされた。  その他、怪我した者は野手の熊五郎以下五名におよぶ惨憺たる被害に比べ、繁蔵の方で討死したのは、何処の者とも判らぬ浪人者の平田深喜がただI人きり。 後の者たちは猫に引掻れた程の手傷で済んだから、笹川方は大声で勝鬨をあげた。
 さて助五郎は、この旨を関八州代官手付の桑山盛助に届け、木刀と棒だけで乗り込んだ旨を訴えたが、抜刀した疑いがあるとして、「手鎖り村預け」をいい渡されてしまった。 映画やテレビではすぐに刀を抜き斬り合いを平気でやるが、ご維新までは十手持ちの御上御用の者でも、やたらに抜刀は禁じられ犯せば拘留されたのである。
 
つまり、鯉口三寸抜いたらば御家は断絶身は切腹というが、やたらに刀を抜かれては治安維持上、取り締まれないので、抜刀罪は正式には厳しくて、やがて助五郎は江戸伝馬町牢送りとなった。  しかし遠山左衛門尉が天保11年から、北町奉行をしていたので話の判りが早く、8月9月は牢屋に人れられていたが、3月目の10月には掛りの同心によって身柄を釈放された。
 さて飯岡一家はこれでようやく愁眉をひらいたものの、なにしろ身内が何人も殺されたり、片輪になった上に、親分の助五郎まで臭い飯をくってきたのだから、てんでに一同は、  「笹川一家の野郎共め、たとえ何処へ潜りこんでいやあがっても、きっと捕えるぞ」と固く誓いあった。中でも助五郎の伜の与助は無念のあまり姿を変え、 笹川に殆ど毎日張りこんでいた。このため三年たって、「もうぼつぼつ、ほとぼりもさめたろう」と秘かに旅から戻ってきた繁蔵を、弘化4年7月4日夜、笹川河岸の葭草の茂みの中で刺し殺し、 与助がその首をあげて持ち戻った。  そして、その二年後。
 
勢力富五郎を東城村金比羅山に追いこみ、これを村人まで加勢させ500人で山狩りした。  だから一人では富五郎もなんともならず、嘉永二年閏4月29日。山頂の崖の上で、「てめえら、お上の御威光を借りやあかって、薄汚ねえ真似をしやあがるな」と毒づきつつ、 無念そうに睨みつけつつ、持っていた鉄砲の曳金を足指でひいて己れの頸を旱ち、羊歯が絡んだ崖下へと真っ逆さまに転げ落ちた。
 ついで翌月。十手持ちどうしは連絡があるから、成田に近い佐倉の新八からの伝達で、「それッ」と草鞋をはいて出かけて行った飯岡一家は、亡き繁蔵の片腕といわれた清滝の佐吉が、成田不動を参拝して出てくるところを、「この野郎ッ」と寄ってたかって取り押えた。しかし首を叩っ新ってしまっては、教えてくれた佐倉の新八への仁義を欠くから、 「手柄にしておくんなせえやし」と縄つきで渡した。罪状はどうでも、でっちあげが出来るから新八は重罪人に仕立てられて江戸へ送られた。 このため清滝の佐古は5月23日に江戸小塚原で磔にされ首を獄門にさらされた。助五郎は関八州出役関畦四郎より、「その方儀、身銭を切って、悪党共を捕らえたは神妙なり」と青さし銭五貫文の褒美を頂いた。  そこで…… おかみから賞められた郷土のえらい人というのか、昭和四年八月に飯岡の人々は、土地の小学校の校長の撰文で大きな助五郎の石碑を、玉前神社境内に建てて、今では名所になっている。  しかし講談や浪花節をそのままに信ずる人が多いから、殺された繁蔵側の方が同情をひくのか、あまり訪れる人はいない。  つまり二足わらじは悪いやつだという誤りからきているらしい。全く気の毒な話である。
 
 
 

日本史から見える談合の実態 談合は何故無くならないのか

2019-05-17 09:41:30 | 古代から現代史まで
 
 
 大阪地検特捜部は24日、大阪市発注の電機工事を巡り談合があった疑いがあるとして官製談合防止法違反の疑いで、大阪市住之江区の建設局を家宅捜索した。   談合【だんごう】 国や地方自治体の公共事業などの入札の際に,入札業者同士で事前に話し合って落札させたい業者を決め, その業者が落札できるように入札内容を調整すること。 私法上は公序良俗違反で無効であり,刑法上は談合罪(刑法96条の3)の適用がある。  上記が談合の意味である。
   談合のルーツを探ってみる
日本史では、江戸時代の国民を士、農、工、商という区分けで説明しているが、  実は隠されているが、この枠外にと間違えられている、東の弾左衛門支配の人間と 西の綾部に水上の穏坊が支配する人間が居たのである。    更に、この部族に隠れてこっそり溶け込んで暮らしていた部族にサンカがいて弾左衛門や水上穏坊に、年間二朱の人頭税を納めていた。    しかしサンカの掟は「統治せず、統治されず、相互扶助」の精神だから、納税や統治されることを嫌って、家族単位で日本各地の山河や海辺を転々として暮らしていたサンカも多く居た。  (この現象は、戸籍を持たずの彼らの生活状態は昭和30年代まで続いていたといわれる)   だから明治維新となった時、新政府が人口を調べたところ、士農工商の人口の他に 同数ぐらいの弾左衛門系とサンカ系が居て驚いたという実態がある。  この事を念頭において以下を読んで貰いたい。     
    日本談合列島    江戸がトウケイと呼ばれた東の京になると、それまで江戸時代を通じて、  箱根以東の貨幣制度、即ち金本位制を掌握していた弾左衛門家の協力が新設された東京市としてはどうしても必要になった。    だから新設東京市役所の運営をするに当たって、市の第一助役、第二助役以下の 実務役を弾家の手代や番頭たちが、各自分担で仕切った。 彼ら手代といっても、実質的には万石並みの身分だったから、高級で招き市政を委任した。
 
(六人の手代)      一、山田浅右門(八の部族)首切り専門。
  二、石出帯刀(四つの部族)牢屋奉行で三百石の旗本になっている。
  三、車善七(八の部族)鈴が森の刑場担当。
  四、山谷権兵衛(八の部族)奥州支配。
  五、花川戸助六(四つの部族)吉原遊郭支配で、江戸以北の屋根付興行の 一切を仕切っていた。
 六、三河松助(八の部族)俳人として有名で俳号井上石香。馬飼と呼ばれる猿回しや辻芸人の取り締まり担当。
 
 これは実にうまくできていて、騎馬系と海洋渡来系を交互に置き、互いに監視し合わせて、幕府に対する反乱を牽制したのである。
なお、本名 矢野内記 通称 浅草弾左衛門の詳細は以下を参照。   http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/danzaemon.htm   この六人衆の一人で井上石香は弾家の所有地の中の飛び地で神田お玉が池に、 当時江戸市中にも増えてきた剣術の町道場を千葉周作のために建ててやった。  現在で言うこれはスポンサーに当たろう。    これまで町道場など日本国中何処も無く、これは徳川幕府の治安維持上の政策で、  武張った事は一切禁止だったが、ペリー来航以来世上騒然となり、諸藩も武装しようとしたが、  徳川の鎖国政策で鉄砲を飛ばす火薬の原料の硝石が手に入らず、仕方なく斬り込みの為の剣術が流行し、これを幕府は黙認したのである。   井上は馬飼と呼ばれる猿回しや辻芸人の取り締まり担当だが、小菅方面も管理していた。  そこの徴税係のような下役をしていた者に白根一郎というのがいた。
 
 この白根が東京市役所に入って、彼の出身地が日野に近い土方と呼ぶ弾左衛門地のせいで、 東京市の土木部長になった。  この白根の正体が問題で、弾左衛門も、手代番頭達にしても全く知らなかったが、白根はこの土方に何代も前から正体を隠して住み着いていたサンカ部族だった。さて、明治六年十一月に太政官令が出され、国内治安を強化するため内務省が設置された。  この時サンカ部族は日本各地に隠れて都市や村に暮らしていた者達へ、サンカの頭領から通達が出され、各都市や府県の土木部にそれぞれ同族を立てることになった。  
 つまり日本全国の公共事業発注側の役所を一斉に掌握したのである。  従って工事を受ける側の土建業者も、サンカ系の者に限るとなった。 現在も大手が引き受けた工事が、下受け、孫受けと何段階も廻され、業界特有の談合入札が大きな社会問題になっているが、こうした習慣化されてしまっているのも、同じ血を引く民族の流れだと見れば納得できる。   勿論明治六年からすんなりといったという訳ではない。  弾家の六人衆の一人の柳橋助六は、白根一郎を弾左衛門支配の人間(海洋渡来の八の部族か騎馬系の四つの部族)と思っていたのが、実は隠れサンカだと知れたから激怒した。    そして弾家本家に直訴した。
 
 だがこの時の弾家は、薩摩の益満休之助に「弾家の御先祖は、源頼朝公の血を引く源氏の頭領ではごわせんか。是非薩摩に味方してくださらんとですか」と説得されていたが、  逆に新撰組の近藤勇に資金援助したため、薩長が天下を取ると怨まれ仕返しされた。   これに対して弾家(この頃には本名の矢野内記に戻っていた)の妻が激怒して、  「さつまホイトは勘弁ならん」と江藤新平の反乱に軍資金を出し、熊本神風連の乱には九州まで乗り込んでいる。
 
だからいくら明治になるまでの箱根以東の金本位制を握っていた弾家とはいえ、 次々と軍資金を援助していては堪ったものではなかろう。    ここのところを日本史では表向き、  「弾家の手代の使い込みにより没落した」となっている。  しかし実際のところは薩長政府によって反乱幇助罪でも適用して、所蔵金没収されたのが 真相である。   こうして矢野本家が倒産に追い込まれてしまっては、柳橋助六の訴えも無駄に終わり、 全国の土木関係のサンカは着実に勢力を進展させたのである。  こうして港湾、河川、ダムなど、水辺に関連する事業者は赤サンカ(海洋渡来系に隠れ住んでいて事業者名にはアカサタナハノヤが付く。鹿島建設、青木建設、浅沼組、安藤建設、アイザワ工業等々)   土木工事、トンネル、道路建設、採石事業などの水辺以外の工事は白サンカ(騎馬民族系に隠れ住んでいてオコソトノホモが付く。
 
大林組、奥村組、鴻池組、国分建設、戸田建設、飛島建設など)   これは嘘のようだが、全国土建業者一覧を見れば一目瞭然である。  ここで談合を正当化するつもりは無いが、明治大正と、国土開発、殖産興業と日本の近代化に貢献したという側面は否定できない事実である。  さらに第二次大戦敗戦後の復興にも、この談合制度は素早く対応でき、裾野の広い建設、土建関係の業界を潤したことも間違いの無い事実である。 はっきり言って談合は日本中で行われていて、決して無くならない必要悪ならば、税金が安く済む新しい仕掛けを考えるべきだろう。