新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 自 殺 の考察  赤城さんの自殺は無念だった

2020-03-31 15:11:17 | 新日本意外史 古代から現代まで


         自 殺 の考察
 赤城さんの自殺は無念だった

先頃、元財務省職員が自殺し、その遺書を公開してご家族が国と佐川前局長を相手取って裁判を起こした。
 森友問題が2017年、国会で追及されるさなか、赤木さんは文書の改ざんを命じられ、妻に「内閣が吹っ飛ぶようなことを命じられた」と打ち明けていた。
同年7月にはうつ病と診断され、仕事に行けなくなり、「検察がいる」「僕は犯罪者や」などと繰り返し、18年3月に命を絶った。
また、週刊文春四月二日号には、
財務省の森友担当の、赤城さんの上司は、赤城さんが遺した決裁文書改竄の経緯を克明に記したファイルの存在を明かしたという。
そのファイルは、この上司と赤城さんが相談の上、検察に出したが、大阪地検特捜部は、佐川元理財局長を始め三十八人全員を不起訴にした。握りつぶしたのである。

不遜なことを言うようだが、私なら「自殺」はしない。財務省と佐川前局長を膺懲するため孤軍奮闘になるとも戦う。
この問題を放置しておけば同じような事が起こる。結局はもみ消される公算は大きいが、世間に公表して世論を喚起することが大事なのである。従って、
全データをコピーし、全マスコミに送り、同時に全テレビ局に通告して記者会見し、国民の前に全てを曝け出す。
勿論、この行動によって、検察が動くとは限らないし、日本のマスコミが何処まで深堀するかも期待はできない。
代償は高くつくが、体制を相手の喧嘩だから、相手にとって不足はない。
この「自殺」という壮絶な行為についての考察をしてみたい。
自殺とは憤怒と悔しさを基底においた「抗議」の発露。
何か事件があって、その当事者が自殺をすると「死人に口なし」という安易なきめ手からして、まるで責任をとっての自決のように受け止める傾向が強い。
 つまり「死んで、お詫びをしました」というような解釈を、勝手に都合よくされてしまう事が多い。
「だけど、そんなことは滅多にない」と私はいいたい。他から、「死をもって償わされる」ことはあっても、自分から、死をもって償うような事が、はたしてあるのだろうか。私には信じられない。
自然死というのは、一個の物体が腐朽していったり、腐蝕、腐敗して消滅してしまう、単なる現象にすぎない。つまり雨樋がボロボロに錆びて孔があき、どさりと落ちてしまうのも、
人間の死も、それ程の大差はないようである。また事故死ときたら、これは偶発的な産物である。全然予期せずにいて、間違いで死んでしまうものなのだ。
いわばミルク瓶を手から滑り落させてガチヤンと、やってしまうようなものである。戦死も、やはり事故死に入るだろう。大砲弾にしろ、機関銃弾にしろ、向うが勝手に飛来してきて、
ドカンと当たってしまうからである。そりゃあ昔は「生還をきしません」などと言ったり「死んで御国の為に奉公してきます」と、勇壮ぶったことは口にして出征をしても、
それは覚悟というか「所信」といったような、その時に釀し出された感情にすぎない。そうでなかったら、出征した男子は全員玉砕してしまって、一人残らず未帰還になってしまう筈である。
しかし統計的にみれば、戦死の割合たるや、局地別には全滅の地域差はあっても、全体的には、動員された数に対してはいくら多くても、平均して一割を上廻った例はないのである。
これが世界的に見た平均値になっている。
つまり「勇躍、死地に赴いた」としても、どうしても必然的に戦闘死にあいそうな最前線に出されない限りは、そうむやみと、みな死んでしまうものではない。
 戦記物などでは極端に死屍るいるいたる情景も出てくるが、あれは部分的なものであって、一般の戦死というのは、まあ「災難」に該当するような死が殆どである。
だが、自殺は違う。

 これは間違って、あっと死んでしまうのでもなければ、腐敗菌にとりっかれて、カビがはえてゆくような、そんな死に方でもないのだ。
 つまり自殺とは、「死」という形式による、一つの「抗議」であるし、また「抗戦」そのものなのだ。
歴史上の事象で、たとえば、明智秀満が、講談本だと、狩野永徳描く墨絵の雲竜の陣羽織をなびかせつつ坂本城へ戻ると、味方として加勢にきていた連中を落してやる。
という事は、自分にだって逃げる意志があれば、いくらでも間にあうのに、それをしない。一緒に死ねる同行の者だけを残して、共に坂本城を爆発させて自殺行をはかる。
やはり壮烈な戦いの一種である。
 明智光秀が敗死したから、もう駄目だと、前途を悲観して、諦めをつけ死んだというのではない。又、妻の父の光秀に従って、自分も信長を殺し、世間を騒がせたから、
そのお詫びを、死の形式でとった訳のものでもない。あれは、秀吉に対する反抗精神、つまり最後の決戦なのだ。
口惜しいから、その存念をつらぬくため、死で挑戦するのである。というのは、もし生き長らえていたら、「信長殺しは、光秀であった」といった確認でもさせられるのは
目にみえていたから、「そんな馬鹿げたことが出来るか」というので、腹を切り、煙硝に火をつけ自殺するのである。
 つまり自分白身の意志に反したくないという決断が、絶対に妥協を許さない孤高の精神が、その人間自体の「自殺」という最後の抗戦になるのである。
 この翌年、賤ヶ岳合戦で破れた柴田勝家は、北の庄へ戻ると、やはり一族郎党を集め、落ちたい者は落し、自分は、腹を立て割りに切って、於市御前はじめ一党の者と共に自殺する。
これだって、何も合戦に勝利を失ったから、自暴自棄になって死ぬのではない。
 「秀吉という男への批難、抗議を、腹を割っても、俺は最後まで撤回しないぞ」という心意気をみせるのである。私だってやるだろう。
 於市御前だって、勝家が好きになって死なば諸共なんて甘ったるいムードではなく「口惜しさ」の存念を、秀吉にむけて、死をもって挑んでいるのである。
 近頃では「人間の生命は、山よりも重い。尊いものだ(極端なのは、地球より重い、という。目方をどうして計るのだろうか)」という風潮が盛んである。
またキリスト教が今日まで、自殺を禁じているのも周知のことである。つまり「自殺とは悪業である」という思想が相当に拡かっている。
 そして、これを、(そうされては保険金を払って損をする)生命保険協会ばかりでなく、一般も支持している。
 これは恐らく自分は「自殺などしない」と思っている人が多いからであろう。だがキリスト教で自殺を禁じたり、仏教で同じように弾圧しているのは、
それが植民地布教用のものだったからに他ならないのだ。機械文明が発達するまでは、原地人や輸入奴隷による労働しか、為政者や、それ取り巻くくブルジョアジーには、富の蓄積の手段がなかった。
だから搾取しなければならない人的資源が、抗議をするため自決をされては、その労働力の稼働に、甚大な影響があったからだ。
 アメリカの場合だって、せっかく一人いくらと金を払い、アフリカから買付けをしてきた黒人に、勝手に自殺されてしまっては、もとも子もない。
そこで、「……主に召される日まで」つまり老朽化して廃品になるまでは「働け、働け」と、ブルジョワジーをスポンサーにして、その寄附金によって運営されている教会の牧師は、
説教とし、彼らを教化したのである。だから、自殺という最後の手段まで、教義という名のもとに奪われた彼ら奴隷は、そのレジスタンスの名残りとして、今の「黒人霊歌」を残したり、
そのやるせない生きねばならぬ事への呪いとして、感覚を麻瘴させるジャズを産みだしたのである。必要は発明の母というが、これらは副産物。つまり自殺の代用品として、弘められてきたものでしかない。
 仏教の場合だって、坊主どもは檀那のために、使用人達が自殺をしたら「地獄へ行くぞ」と脅かしたものだ。
 さて……人間の行為の一つとして、泣くという状態がある。普通は観念的に、「悲しいから、泣く」とされている。
泪もろいと言うのか涙腺のしまりが悪くて、テレビをみていても泪をポロポロこぼす者もいる。私も、その一人である。だが、それは、あくまでも誘発的なものであって、
いわゆる貰い泣きの範疇に入る。これは、決して自発的な泣きには入らない。それでは、本人自体か「ウオッ、ワアッ」やるのは、いったい、どんな時かというと、
これは「悲しいから」というような事ではない。それは殆どの場合、「口惜しくてならず、泣く」のである。肉体の衝動的な抗議に、それは他ならない。
 そして自殺も、これと同じである。やはり「なき」の一つの極限状態なのである。
戦国時代、誠仁親王が、自分で命を始末された史実があった。しかしあれは何も悲しかったり、秀吉のいうように、悪い事をしたからというそんな自責の念にかられたからの結果ではない。絶対に違っていると言える。
「帝位を奪わんが為に、むちゃな言いがかりをつけてくる恐喝者秀吉」が「世間的には、金銀をまき、きわめて人気をとって、太閤さまと敬慕されている」その不条理に対し、
親王さまは、「口惜しくてならず、残念である」と歯がみをなさったあげく、哭きに泣かれ、そして、「信長殺しは、まったく関知せぬところである」と主張をなさるため、
死の抗議をもって、秀吉に挑戦されたのである。なにしろ、この時代の国家権力は秀吉そのものである。
親王さまと言えど、秀吉に対しては、それは弱者の立場でしかなかった。
 つまり権力に対して、弱い者が抗議する途としては、今も昔も、他に手段はないのである。ベトナムだって、仏教徒の弾圧に対しては、何人もの僧や尼が、ガソリンをかぶって焼身自殺をしている。
しかしあれをもって、贖罪の自決とみる者はあるまい。とは言え、あの状態は、抗議デモの先頭にたってやっているからこそ、自殺もまた、燃えるプラカードとして認められたのであって、
もし僧院や尼院の奥庭で、一人で火をつけて、ひっそり自殺したものなら「前途を悲観して」ぐらいにしか、扱われなかったかも知れない。
 終戦時に、阿南陸相たちが自決した。「敗戦の責任をとって、国民に謝罪した」ことにされている。だか、当人たちは、そんな事で自殺なんかできるものではない。
本土決戦」を叫び、その用意万端を整えているのに、勝手に終戦にされてしまった。癪にさわるから、死の抗議をしたまでである。
もちろん、自分の死後の家族のことも考え、それに都合の良いように、また、自分の死に共感を引くような「価値ある死」という精神のもとに「良く誤解されるような遺書」は表むき書かれて、残したかも知れない。
 だが自殺というものは、腹をたて、口惜しさに堪りかねて決行しなければ、完全に遂行できるものではない。あの時点で、宮城前広場で、集団自殺があった。
 「敗戦した国民の咎めを、死をもってお詫び申し上げた」ものとされている。嘘である。あれも、やはり死の抗議に他ならない。「憤りの死」なのである。
 つまりは「死んでお詫び」などというのは、ありていはフィクションの世界である。「三勝」が、他人の亭主の「半七」をさらって、永遠に独占してしまおうとするときに、
その残された妻の「お圖」への、気やすめの言いごとに過ぎない。つまりは浄瑠璃の世界である。
 世の中には、夫を殺してから自殺する妻もすくなくない。といって彼女らは、六法全書をひらき、刑法何条かの殺人罪の項目をみて、悪いことをしたと気がっき、
死んでお詫びをしますというのではない。「何故、殺さねばならなかったか」という必然性など、どうせ話したって、他人は判ってくれないだろうという肚だたしさ、
つまり口惜しさが判っているからこそ自殺するだけである。やはり「怒りの死」である。

 近頃は、入学試験の準備中や、その結果において自殺するのも多い。新聞記事では「ノイローゼ気味」だとか「失敗を悲観して」となっているが、あれだって、
決して、そんな観念的なものではない。あれは、あれで試験制度への抗議である。そうでなければ、思うように勉学できなかった周囲の環境への、せい一杯の口惜しさの爆発である。
    赤城さんの御冥福を祈る(合掌)。




重要な本の紹介 「裁判官も人である」 「絶望の裁判所」

2020-03-25 16:29:53 | 新日本意外史 古代から現代まで

重要な本の紹介
「裁判官も人である」
「絶望の裁判所」

私は以前当ブログで、日本の古代から江戸時代、明治、現代にかけて、裁判という制度の下を脈々と流れる暗黒伏流の実態を「奇怪な日本の裁判」で抉剔した。
いやはや、この二冊の本も大変な内容で、日本の司法には全く希望がないことが判り暗澹とした。
警察や検察は平気で「事件を作り」罪なき民を罪人に仕立てるのは日常茶飯事。民は最後の砦である「おかみの白洲(裁判所)」で「正しい正義の判断」を求める。
しかし、出世欲や己の栄達しか頭にない裁判官には、正義感も情熱もない。冤罪が多いのも当たり前。
この二冊の本の著者は、生々しい感情が渦巻く、固く閉ざされていた扉を、粘り強い取材で裁判官の世界を初めてこじ開けている。

「裁判官も人である」
著者 岩瀬達哉 ジャーナリストである。ノンフィクションを得意とする。
著書に「年金大崩壊」「年金の悲劇」「伏魔殿 社会保険庁を解体せよ」「新聞が面白くない理由」その他。
出版社 講談社 定価:本体1700円(税別)

以下に少し長くなるがこの本の「はじめに」を引用する。
 人を裁き、裁かれた者の運命を差配する裁判官には、心からの謙虚さをもってその職務にあたることが求められている。
 法廷に立つ者の必死の叫びに耳を傾け、ささいに思える主張についても慎重に吟味し、真実探求の努力を惜しまないことでしか、正義の実践という裁判の目的を達しえないからだ。
あらゆる権力から独立し、その崇高な使命を担う裁判官は、日本でもっとも難しいとされる司法試験にパスし、さらに裁判実務の知識を学ぶ司法研修所の卒業試験でも、
上位の成績優秀者の中からしか採用されない。
 神ならぬ人が人を裁くという特別の責務と、国の政策をも変更しうる権力を与えられている裁判官には、最良の知性と良識、教養に裏打ちされた判断力、が求められているからだ。
 2018年度現在、裁判官は、最高裁判所を含む全国598ケ所の裁判所(簡易裁判所を除く)に3060人が配置されているが、そのうち最高裁事務総局で司法行政に携わる「裁判をしない裁判官」約150人を除くと、
実質約2910人であらゆる有件を審理し、判断を下している。
 裁判官一人あたりに割り振られる事件数は、年間200件~350件で、単純計算すると2日に1件ないし2件の割で処理していかないと消化できない数だ。
この事件の処理件数は、「星取表」と呼ばれる一覧表にまとめられ個人別に集計され、事件の処理が遅れると内部評価に響く。そのため、ほとんどの裁判官は事件の処理件数を気にしていて、
抱えている事件を少しでも減らそうとするのだという。
 もともと優等生として順調に歩んできた彼らが、内部評価を上げることに執着したとすれば、果たして厳正で人間的な判断が下せるものなのか。
 まして裁判官には、高度な洞察力が備わっているとの前提のもと、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」(刑事訴訟法318条)とされていて、誤判をしてもその責任を問われることはない。
 元最高裁判事の岸盛一は、絶筆となった連載エッセー「狐竹断簡」で「ひととおりの法律知識を身に着けても、裁判の道はこれとは全く別のもの」と断ったうえで、裁判官として諫めを説いた。

「裁判官に見識が欠けていると、その裁判は、法の形式的適用に終始して、現実離れのした形式主義・合法主義に陥り、裁判官は、法の文言を口頭で宣言する機械と化してしまう。
卑近な寓話を例にとれば、形式的な公式主義とは、靴を買いに靴屋に出かけた男が、自分の足に合う靴がないので自分の足を削り取るようなもの、形式的な合法主義とは、
寸法書きを家に忘れたといってそれをとりとりに自宅にかけ戻るようなものである。そして、そのあげくマンネリズムに陥り、裁判は生彩を欠き味気のないもの、
と世間からは『裁判官のあたま』と揶揄されるようなものとなってしまう」
独善と傲慢の象徴ともいうべき「裁判官のあたま」に凝り固まってしまうと、情味に欠け、人の葛藤の底にあるものを探ろうとしないだけでなく、安易に検察官の主張を受け入れることになる。
検察官と対立するよりは、無罪が確実なのであれば、「この先の上級審が無罪にしてくれるだろうから、とりあえず有罪にしておこう」という心理に陥るのだという。
 元東京高裁裁判長で、現役時代30件に及ぶ無罪判決を書き、そのすべてで検察官の上訴を退け、無罪判決を確定させた弁護士の木谷明は、裁判官と検察官の関係についてこう述べている。
 「私か名古屋高裁に勤務していたころの話です。友人のN検事から、こういうことを言われました。『裁判官は、検事の主張とあまり違ったことをしないほうがいいぞ。何故かというと、
我々はむずかしい問題については、庁全体あるいは高検、最高検まで巻き込んで徹底的に協議してやっているんだ。それに比べてあんたたちはいったい何だ。
一人かせいぜい三人じゃなかいか。そんな体制で俺たちに勝てるはずがないんだ。仮に一審で俺たちの主張を排斥して無罪判決をしたって、俺たちが控訴すれば、たちまちそんな判決は吹っ飛んじゃうんだ』」
 確かに、「司法統計年報」はこの検事の言葉を裏付けている。
 裁判官の無罪判決を不服とし、検察が控訴した場合、高裁で一審判決が破棄される確率は約7割にのぼる。これに対し起訴された被告人が控訴した場合、その主張が認められ二審で無罪となる確率は
一割程度に過ぎないからだ。
審議が十分尽くされず、誤判等が起こるメカニズムは、民事裁判においてもさほど変わらない。裁判官は忙しいため、訴状を読んでとりあえずの心証をとってしまうと、
そのファーストインプレッションで「『ああ、これはこっちが勝ちね』つて頭の中にインプットする」のだという。また、弁護士の能力を比較して、「この先生は信頼できる」「主張に乗れるなと思う」 
一方で、ここの先生はダメなんだな」と印象づけられると、提出された書面は「読み飛ばしている」こともあって、当の訴訟当事者がいくら法廷で真実を語っても裁判官の心を染めることはできない。
 まして、論理的組み立てができていない書面を提出する弁護士や、結審間際になって慌てて多数の証拠を出すなど、裁判官が辟易するような弁護活動では勝てる裁判も負けてしまうのである。
地方裁判所の裁判長はこう言った。
「裁判は、究極のところ法律だけでは判断できないんです。憲法の理念もあるし、世論もあるし、社会的な落ち着きも総合的に考えなければならない。自分ではここが確かだろうなと思っても、
当事者から提出された証拠で説明できなかったら認定しない。この人、本当のことを言ってるだろうと思っても、それを裏付ける証拠が伴っていないと主張を受け入れないで、
確実なところで認定して結論を出すというのが、一番無難で一般的な判断。それを一歩踏み込んで本当と思うところに判断を下すと、まず、控訴されて高裁でひっくり返されますからね。
それは基本的にやらない。
高裁でひっくり返されるのは、裁判官としてのプライドが許さないうえ、その後の人事評価にも少なからず影響するからだ。裁判官亀また組織のなかにいる以上、人事によって縛られているのである。
 まして民事裁判は、刑事裁判のように絶対的真実を求めるものではなし。争っている当事者の主張に、どれだけ分があるかを相対的に判断するため、時として真実から遠のいた判決になって心致し方ないと
割り切ることができるという。
 一般に真実探求の場であると考えられている裁判と、実際の裁判とでは大きな隔たりがあるのである。世間の常識から乖離した「裁判官村」という閉ざされた世界のなかで、裁判官たちは、
いったいどんな思いで日々の法廷に臨んでいるのか。そして裁判所は、どのような組織風土と論理のもとに運営されているものなのか。
 普段、われわが接することのなし裁判官の素顔に迫り、裁判所の内幕を解明するため、私は足掛け4年にわたり、のべ100人を超える現職裁判官や元裁判官を全国に訪ね歩いた。
一度ならず二度、三度と通いつめるなか、彼らが語ってくれた生々しい記憶や、提供してくれた備忘録、司法研修所資料など多数の個人資料や内部文書をもとに、厚いベールに包まれた
「孤高の裁判所」の奥深くに分け入ってみることにしよう。
「絶望の裁判所」
著者 瀬木比呂志(せぎひろし)
一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。
並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。
著書に、「民事訴訟の本質と諸相」、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は近刊)等多数の専門書のほか、関根牧彦の筆名による『内的転向論』その他。
出版社 講談社現代新書
定価 760円(税別)
以下はカバーからの抜粋。
権力に仕える「役人」であり、制度の「囚人」にすぎない日本の裁判官。
裁判所が、一般世間から隔絶した「孤高の王国」であるとみるのは、明らかな誤りである。確かに、その王国は世間とは切れており、法服の住人たちは、
市井の人の思いや希望などにはほとんど関心がない。しかし、彼らは、みずからの出世や評価にはきわめて敏感な、その意味では俗物的な人間なのであり、
霞ヶ関官僚と同様に、日本的なピラミッド制ヒエラルキーによって操縦されている。最高裁による徹底した裁判官の支配、統制のシステムが巧妙なのは、その力、
網の目がきわめて強力であり緻密でありながら、同畤に、きわめてみえにくくとらえにくいという点にある。
その意味で、日本の裁判官は、実は、見えない「檻」、「収容所」の中に閉じ込められた制度の囚人たちであるといってもよいだろう。
本書は。一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録であり、心ある国民、市民への警告のメッセージである。

最後に、老生、今、世間の御機嫌に忖度せず、詔わずの日々を送っている。しかし、日々耳目に入ってくる悲惨な出来事は、怒りと憤り山盛りのニュース。
これらを三流の観点から分析し、焦燥感と無力感に苛まれている。その中の一つに、
学校法人森友学園(大阪市)への国有地売却と財務省の公文書改ざん問題で、同省近畿財務局の赤木俊夫さん(当時54)が自殺したのは、
公文書改ざんに加担させられたからだなどとして、赤木さんの妻が18日、国と佐川宣寿(のぶひさ)元同省理財局長に計約1億1200万円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こしたニュースがある。
この裁判は、元体制内の人間の家族が、現体制を相手取っての裁判だから、注目(見もの)である。
下級裁判所に国を敗訴させる判決を出す、勇気ある裁判官が居たとしても、上級審では覆されるのが常識だから、この裁判も注視している。
老生としても、多くの国民と同様、「家族に寄り添った」判決が出ることを強く望んでいるのだが・・・・。


東京オリンピックの疑問 選手たちよ、謙譲の美徳は無いのか。

2020-03-20 17:15:03 | 新日本意外史 古代から現代まで

東京オリンピックの疑問
選手たちよ、謙譲の美徳は無いのか。
新型コロナウイルスの影響が懸念される東京オリンピックについて、IOC=国際オリンピック委員会が予定どおりの開催に向け準備を進めていく考えを示したことをめぐり、
IOCの一部の委員や選手からは疑問視する声が上がっています。
IOCは17日に開いた臨時の理事会で、東京オリンピックについて「大会まで4か月あり、今は抜本的な決定をすべき時ではない」として、予定どおり7月24日の開催に向け準備を進めていく考えを確認しました。
これに対し、IOCの委員で、かつて女子アイスホッケーなどのカナダ代表としてオリンピックに出場したヘイリー・ウィッケンハイザー氏はツイッターに声明を投稿し「今回の危機はオリンピックよりも大きい。
IOCが開催に向けて進もうとしていることは、人間性の観点から無神経で無責任だ」と疑問を呈しました。
さらに、「オリンピックを中止すべきかどうか、今の時点では誰も分からない。ただ、IOCが開催に向かって進むのは、練習している選手や世界中の多くの人たちにとって正しくないことは確かだ」と指摘しました。
また、2016年のリオデジャネイロ大会の陸上女子棒高跳びで金メダルを獲得したギリシャのエカテリニ・ステファニディ選手も、ツイッターで「IOCは大会に向けて練習しなければならない私たちや家族、
公衆の健康を脅かしたいのか。あなたたちはまさに今、私たちを危険にさらしている」などと批判し、IOCに慎重な判断を求めました。
そして日本のスポーツ紙なども大々的に「アスリート・ファースト」を喧伝している。


元来、スポーツ立国だとか、オリンピックそのものが反対の私は、このニュースを見て「おいおい、待ってくれ。論点がづれてやしないかい」と思ったものである。
選手やその家族がどうだというだい。一番大事なのは国民じゃないんですか?
お前さんたち「謙譲の美徳」という言葉とその意味を知ってるかい?
選手という人種は、ガキの頃から駆けっこが早かったり、泳ぎが達者だったり、腕力が強かったりした者が、よく練習して強くなる。
勿論才能も有り、努力もするだろう。なにしろ好きでやってるのだし、それしか能のない者も多い。そして地方から勝ち上がり、中央で良い成績を残せば、オリンピック選手として選ばれる。
この間だって、各種競技団体に属していれば、遠征費なども支給される。この金はスポーツ助成金とか、賛助金でこれらは税金、即ち国民のお金なんだぜ。
間違っちゃ困るが、オリンピックに出るのはお前さんたちの義務でも権利でもないんだぜ。
選手たちは、文字通り「日の丸を背負って」親方日の丸で、給料は出ないが、綺麗なおべべを作ってもらい、ホテル顔負けの選手村に泊まり、食いたい放題の厚遇。
メダルでも取ろうものなら、一生楽して暮らせるんだから、ハッチャキになるのも無理ないね。
コーチや指導者。評論家やタレントにもなれるし、上手く立ち回れば各種競技団体の役員にもなれる。そして何にも出来ない「大臣」にもなれるんだから美味しいよね。
こんな、大臣が二人もいる甘ちゃん日本国だものやめられないよね。心ある国民からすれば「やってられない」なんだぜ。
元来スポーツ選手などは我が強く、自分勝手な人種が多い。またそうでなければ人に抜きんでた成績は残せない。
だが、国民の税金で出場させて貰っているということを肝に銘じ、感謝と謙譲と覚悟の気持ちを自覚してもらいたい。
押しなべてスポーツは知と知の激突である。それに見る人は感動するのであって、「オリンピックを楽しんできます」などという軽佻浮薄な言動は慎むべきだよ。
先ごろ麻生大臣の「呪われたオリンピック」発言があった。オリンピックは今や銭儲けの一大国際ショーに成り下がっている。
世界は戦争やテロが無くならない混沌の状態で「平和の祭典」が聞いて呆れる。新型コロナウイルスの蔓延に見るように、
呪われているのは、世界であり、日本なのではないか。
さて、オリンピックの開催を巡っての論争も喧しくなってきたが、
案としての一つは、「東京以外の場所で時期を変更せず」に開催するというものが考えられる。これだと選手の立場からすれば、この時期に合わせて調整をしてきているので、
延期するよりも望ましいという考えである。
次に考えられるのは、パウンド氏が言うように「1年延期して東京で開催する」という選択肢がある。
そして三番目に、「時期を数ヶ月ずらして東京で開催する」というものである。
私は、日本はこの際、他の国に返上してオリンピックは中止することを提案するが、現状の流れでは一年か二年先へ延長することに落ち着くのではなかろうかと思う。


真実は何処に 家光と春日局の関係 鉄砲伝来と「火薬(硝石)」の関係

2020-03-17 18:28:17 | 新日本意外史 古代から現代まで

真実は何処に
家光と春日局の関係
鉄砲伝来と「火薬(硝石)」の関係

 日本史では「従容として死に臨み、七言絶句の辞世の詩をのこして刑死していった」という幕末の志士の最期のあり方が、どうしても不思議で仕方がなかったから、
福島県の塙町役場に保管されていた牢問日誌の綴りなど見せて貰い、そういった刑死の模様は、これまでのものは、死に花を飾る式のまったくのデフォルメにすぎない事が判った。
だから、「戦場で死ぬ兵士」は「痛い」とか「やられた」とか「ちくしょう」「おっかさん」などとは云わず皆『天皇陛下バンザイ』と、
両手をあげて感動的に絶命するもの」ときめて掛っている人達には、不真面目ととられるかも知ぬ。
                                           
さて、世界史から弧立している日本史の断層を、「天文十二年、日本へ鉄砲が伝来し、万国共通の火器作戦の時代が到来した。
だから国産で雑賀や国友で和銃も作られたが、さて弾丸をとばす火薬材料の七五パーセントをしめる硝石は、日本では産出されなかった。
そこで織田信長は堺をその輸入港としてマカオに頼り、次の秀吉は備中備後の帰化人を通してルソンから輸入した。
次の国家主権者である徳川家康は、オランダ人によって長崎出島を、その門戸にした。つまり徳川の『鎖国』というのは、
なにも天主教禁圧が主ではなく、彼らがエージェントして、当時でいう『煙硝』をもちこみ、それを他の大名が入手するのを防ぐための『硝石独占輸入方式』であって、
このため各大名は『鉄砲があっても火薬が入手できない』ために叛乱できず、よって幕末までは『徳川三百年の泰平』が続いたのである」
というきわめて常識的な判っていそうで、そのくせ、これまで気付かなかった日本の歴史の盲点となっている。
                                            
新火薬の考察
先ず、本能寺で信長が焼死したという事実は史実である。
だが本能寺が丸焼けになり、隣のサイカチの森にまで飛び火している程の大火災を何と見るかである。
当日は夜半からの大雨で、京の町屋も本能寺も森も、ぐっしょり濡れていただろうと想われ、これは普通の火事ではなく、
消防法で言うところの「特殊火災」なのである。即ち強烈な爆裂火薬だといえよう。
現在で言うならプラスチック爆弾で強力な爆発物ペンタ・テトロ・エーテル硝酸塩(PETN)と
RDX(トリメチレントリニトロアミン) そして可塑剤からなるセムテックスにもあたるだろう。

 「信長殺しに用いられた強烈な新黒色火薬は、スペイン国王フェリッペ二世によって、僅かかその数年前に、
南米チリで開発された新硝石によるもので、『これは、その後四十年たった元和七年九月になるまで、日本には正式に輸入されていない。
つまり信長殺しの直接死因である新型火薬をもっていたのは、当時としてはスペインと合併したポルトガル人の宣教師だけであるから、
彼らの中にその供給者が居た。そして当時としては京では二階建てが高層築物だったのに、平家建での本能寺から一町もない至近距離に
『真の教えの天主会堂(ドチリナ・ベル・ダ・デイラ)』という三階建てのバルコニー付きの建物が在って、そこにはポルトガル人の司祭や、日本人の助教がいた。
これも歴史的事実である。
そして奇怪なことに、本能寺の変のあった日の昼に、京都管区長オルガチーノは、今でいえば長い草鞋をはいて、逃げも逃げたり九州の涯まで逃避行している。
ところが後になって、ポルトガル王もかねたフェリッペ陛下は、オルガチーノにはマカオへ戻ることさえ許さない事実がある。
そこで秀吉は他の宣教師は追放したが、彼だけは行き場がないのに同情したのか、きわめて懇ろに保護してやって日本で死なせている」と、
このことはマカオ史料やローマ史料に記されている。
さらに、本能寺を囲んだ実行部隊の兵員編成と、その指揮系統は、どう考えても光秀自身が指揮していたとは考えにくい。
何故なら天正十年六月二日の凶行時間に光秀は本能寺にはいなかったのである。
これ程の大事をしでかすからには、万一失敗したら自分だけでなく一族一門の破滅なのに、蔭にかくれてその当人が操れるものではない。
 又、これらの国内関係史料では、あらゆる光秀や信長関係資料を基にして従来の頼山陽の日本外史のような、
 「敵は本能寺にあり」式のものが、如何に真実を歪めたものであるかを指摘する。
さらに、日本歴史学会会長だった故、高柳光寿博士は、
 「徳川家康は、光秀遺愛の槍を、家臣の水野勝成に与える時に、『光秀にあやかれよ』と明言している。だから家康は光秀をもって信長殺しとみていない証拠である。
つまり光秀を「信長殺し」にしてしまったのは江戸時代の儒学からである」と述べておられる。
 さて、その江戸の儒学というのは、徳川家光の代から勃興し、その子の家綱の代になって明国人の朱舜水が長崎から帰化して、いま後楽園スタヂアムになっている、
水戸上屋敷に仕えた時点から降盛するものであって、これは、大正十年六月当時は、それは、まさか合戦でも有りえないから、
 「われこそが、信長殺しなり」と名のり出る者がいなくて、その当時としては六月十五日に安土城で焼死した信長の妻の奇蝶こと美濃御前をもってして、
 「夫を殺した女」としてしまい、今だに日本各地どこへ行っても、この呪われた背節の顯化のような女人の墓など、一つもない有様だが、
家光、家綱の代になると、さすがに遡っていろいろと検討され、「信長殺しの真の下手人は、あのおひとであったのか」と判ってくる。
そこで、その人の名はいえないから、御用学者の儒者共が、
「では斎藤内蔵介の主人である明智日向守光秀を、主殺しにしてしまおう」ということになったのらしい。
もっと、はっきり云えば、これは当時の権中納言山科言経日記の六月十五日の条に、
「一、日向守内斎藤内蔵介、今度謀叛随一なり。堅固に籠り居りしを尋ね出され、六条河原にて誅せられる」
と出ている内蔵介の末娘の於福が、この当眸の権勢並ぶ者もない春日局、そのひとであるから、
「春日局さまの亡父内蔵介さまは光秀の家老ゆえ、やむなく謀叛随一になられたのである。これは主従の問では、臣としては不可抗力の立場である。
なんといっても悪いのは……明智光秀である」
という帰納法にもなって、表向きは元和時代、内容は天保期の「川角太閤記」なども、光秀が謀叛を企てるのを内蔵介が諫め、聞き入れないので止むなく、
その下知によって本能寺へ突入したような出まかせが書いてある。
しかし「忠義」などというモラルは、この時代には、まだ発生していない。それは儒学思想で、一般には仁義礼智忠信孝悌の八つの玉を犬がくわえてとんでゆく、
「里見八犬伝」ぐらいから弘まったものであって、なにしろ千姫を大坂城から救出して有名な津和野の城主坂崎出羽守あたりでさえ、
他から恩賞が貰えるとなると、その重臣共に突き殺され、その首をとられてしまうような、戦国末期はドライな世の中なのである。
なにかの行為には必らず後からの果報がつきものの時代で、自分が利得しないことには、「一文にもならぬ事を誰がする」という、きびしい世のあり方だったと云えよう。
スペインの無敵艦隊の強さは火薬の差だった
さて、イギリスのエリザベス女王によって、メアリ女王がフォザリンゲー城に幽閉されていた西暦一五八二年というのは、日本の暦に直すと「天正十年」となる。
つまり、これは本能寺が新黒色火薬にふっとばされて、信長が死んだ年に当る。
そして、メアリ女王が殺されるのも、スペインの開発した新黒色火薬を、イングランドのエリザベスが恐れるあまり、
スペイン王子ドン・カルロスと縁談のあった事もある彼女を、危険視するあまり死罪にしてしまうのである。
 
このすぐ後になって、スペインの無敵艦隊が、エリザベス女王の海軍と決戦するに先だち、新黒色火薬を山づみに積みこんでいながら颱風にあう。
いくら強力な火薬でも、まさか颱風の目は撃破できない。かえって甲板にまで所せまくなるまで、積みあげた火薬樽の重味が船の吃水を深くしたので、
スペイン艦隊は、エリザベス女工の海軍に新黒色火薬の威力を示す一発だにうてず、ついに全艦隊が海底へ深く悲しく潜航してしまう。
そこで、あたら新火薬もついに水つく樽になってしまう。
 
だが、ツヴァイクにしろヨーロピアンの歴史をかく人たちは、この新黒色火薬の点に気づかず、もっぱらカトリックとプロテスタントの、凄じい宗教闘争の中においてのみ、
メアリ女王殺しを把握して解明しようとしている。しかし宗教戦争という目でみても、当時は日本とて同様だったといえる。
 
もちろん、日本ヘプロテスタントとよばれる新教が入ってきたのは、これは明治になってからであり、当時の日本の中世期の宗教戦争というのは、
織田信長の率いる別所出身系の戦国武者(元来は八幡と白山の神徒だが、足利期には大半が東方浄瑠璃如来を拝む薬師寺派に入れられている)と、
 「西方極楽浄土」を唱える今日の浄土宗や真宗のもとである一向門徒の石山本願寺や、それに同調する高野山や延暦寺。そして、それに繋って大陸から硝石を供給されていた仏教大名たち。
 つまりは、神道派と仏教側の宗教戦争なのである。
 
ただキリスト教国では、今でもカトリックとプロテスタントが歴然と二分されているのに比べ、日本列島では徳川家光の子の五代将軍綱吉の時代に「神仏混合」をなされてしまい、
そして、「寺社奉行」の管轄統一をうけてしまったから、近松門左衛門あたりでも、「この世には、神も仏もないものか」と心中ものの中で、同一に並べて台辞にしてしまうが、
あれは同じ社寺に併記されていたからの錯党でしかない。故島崎藤村の「夜明け前」にも現れてくるように、神道派の平田篤胤の門人たちは幕末になると「打倒仏教」を目ざして、
討幕の運動に、こぞって挺身し、やがて明治新政府ができると、太政官に「神祇省」をもうけ、「廃仏毀釈」といって、
これまで 神仏混合で祀られていた寺から、仏像をすてさせ釈尊や如来、観音の像を毀させてしまう。
 
しかし明治新政府の薩長というのは、もともと大陸系であるし仏徒派であるから、「走狗は煮られる」というか、もう新政府の土台が固まれば、神道派は用なしゆえみな追放され、
神祇省もできたばかりで廃止されてしまう。これに対して「神風連」の乱なども起きるが、明治政府は神徒仏徒の宗教闘争を押さえ、
これを対外戦争に向けさせて、それまで圧迫していた神徒系を、戦争になると、「神州不滅」とか「神兵天下る」とか「神風がふく」と都合よく美化して利用したから、
現代になると、死んで葬式をするときは仏教で、婚礼や地鎮祭や、交通安全のお守りを貰う方が抻さまであるかのように勘違いされ、その結果が、
「宗教はアヘンなり」ととく共産圈の人民よりも、日本人の方が無宗教者が多いような結果にある。

 しかし、中世紀にあっては、そんな事はない。神道なり仏教なりみな宗教をもっていた。そして、その宗教闘争の凄じさは、信長をして比叡山を焼き討ちにさせ、
高野山の僧侶を一人残らず殺掠させてしまうのである。だからして反仏勢力の信長が倒されてしまうと、その翌年には一斉に宗教改革さえも、早々と全国で始められる。
これは各地の古い社寺に、今でも、「天正十一年裁可状」という名で残され伝わっている。つまり信長の生存中は「修験」とよばれた行者によって支配されていた社寺が、
天正十年の本能寺の変を境にして変り、それまでの神徒系を追放し、改めて一向門徒か、京に本山を有す各派や、高野山とか延暦寺といった流れをくむ者を、
新たに住職に頂いて、その存続を裁許されるように願い出たものに対してのこれは「許可状」なのである。
〈掛川去稿〉(『掛川史稿』……静岡県郷土史料)にも、「往費の延寿院は現今の広安寺なり。昔は「博士小太夫とよぶ修験者なりしが、
天正十一乍の裁許状により(住持が)三宝(仏教)の仏果の所となる」といったた記載さえもみられる。
 つまり「信長殺し」というのは、「誰々の謀叛」ということより、これは日本という国の中世における、
カトリック対プロテスタントならぬ、神仏両派の宗教争いとする見方もなりたってくる。
 なにしろ信長に代って国家権力を握った仏徒派の秀吉は、比叡山や高野山を復興させたはよいが、その死後、当時「北の政所」とよばれていた寧子(ねね)が、
阿弥陀峯の山麓に「豊国神社」として、秀吉を祀り、古山兼右にその神職を司とるよう委職したところ、次の国家権力を握って交替した徳川家康によって、
「仏家のものが、もっでの外である」と、そのせっかく造営されたばかりの荘厳な神社を、たった一日で跡形もない位に破却され、取り壊してしまったことは有名である。
 家康と秀忠の父子は、はっきり神道派を自認して、徹底的に仏徒派の弾圧を断行したのである。
つまり天正十年六月二日の本能寺の変によって神道派の信長を、メアリースチュアート女王のごとく死へ送った新教徒ともいうべき仏徒の豊臣政権は、
家康の嫌いな寺の梵鐘に、「国家安康」などと銘を入れたばっかりに、大仏殿を再興したり洛中洛北の寺をうるおした仏果がえられず、
ついに大坂落城という破局を迎えた。そしてそのあと、家康父子は、また「神徒派の世」にまき返しをしたように、寺という寺に対して厳しい措置をとった。
 なのに神道派の徳川家が三代家光からは、まるで掌を返したように、がらりと変化してしまうのである。
「これは……何故であろうか」という疑問が、どうしても起きる。
 徳川家光が〈徳川台記〉やこれまでの講談種の俗説のように、「徳川秀忠の長子」であるならば、こんなことは起きるわけはない。
また「春日局」が乳母だけならば、あんなに威張って天下の権を握って、死ぬまで大奥に居られるはずはない。
またその死に際して、代官町の春日局の枕元へ尾張、水戸、紀伊の御三家はつきっきりで奉仕した。
家光将軍も千代田嬢を出て三度も訪れているが、正子の家綱までもが何度も行っている。そして、
恐れ多くも京の御所より女官右衛門佐の局が、わざわざ見舞いに下向までしてきている。
これは(春日局が徳川家で大切にされていたから)という事実より、春日局自体に対して御所は、
何か感謝すべきことがあったようにも拝される。ということは、春日局の実父が「本能寺の信長殺しの斎藤内蔵介だった」
という点も併せて考えさせられる問題である。
 しかし春日局と家光の間柄を、これまでの俗説のように乳母とみてゆくと、可笑しすぎる事が多いから、
故三田村鳶魚などは、その著の〈徳川の家督争い〉では、明白に、「徳川家光は精神薄弱者である」ときめつけている。また〈空印言行録〉などには、
「ただのひとにはおわせず、辻斬りなどもなせりといわれる」と精神病者に扱っているし、
〈徳川実紀〉という徳川史料でさえも、「小心」であると評し[粗暴]とも言っている。
つまり講談本の「家光と彦左」や「家光と一心太助」そして「徳川の婦人たち」のようなもののなかでは、
思いやりのある貴公子となって出てくる家光も、こうした資料ものにかかると、まことアブノーマルな変質者で、しかも「低能」とされている。
しかしこの説の根拠はまんざらでもないのである。
ハムレット家光
十六世紀の末の英国において、旧教のスコットランド女王メアリ・スチュアートと、
新教のスコットランド女王のエリザベス一世が、「両虎相戦わば」といった具合に睨みあいしていた頃、
海をこえた日本列島の江戸千代田城においても、やはり二人の女王が互いに睨みあっていた。
それは、云わずと知れた片や神道派の、織田信長の姪で「ごう」ともいうが二代将軍秀忠の正室で江与の方。
 それに対するのは仏徒派で、その信長殺しの娘である「於福」こと春日局である。
 この二人の対峙は十七世紀に入った一六二六年にようやく終止符がうたれた。というのは、その寛永三年九月十五日に、江与の方が死んで「崇源院」と名が改まったからである。
 メアリのように断頭台で首をきられたわけではないが、メアリと同じように四度の結婚をした於市御前の三女は、その晩年は春日局に苛められて、この高貴な女王は泣きあかして死んだという。
 もちろん俗書の「大奥秘伝」などによると、春日局のさし向けた者によって砒毒をかわれて、髪毛もみな抜けおち顔中をはれあがらせて非業の死をとげたという。
しかし、〈徳川台記〉などには、死因には一切ふれず、「よって普請奉行八木勘十郎は大命を仰せつかり、棟梁鈴木遠江守をもって、芝増上寺境内にその御霊屋を翌月から着工し、
まる三年の歳月をもって、寛永五年九月落成」とのみある。
 メアリースチュアート女王だって、その死後は、ひとまずは淋しいビータロバ墓地に埋められていたが、やがて盛大な松明行列にかこまれて掘り起され、
そのまま堂々と死の行進をロンドンに向け、テームズ河を舟でのぼって、歴代の王や女王の納骨堂であるウェストミンスター寺院へと葬られ、
今では大理石像となって、まるで、モナリザの微笑みたいな静かな容貌をいつも見せている。
 さて崇源院が亡くなってから四年目の寛永九年の正月。さきに家光に将軍職を譲っていた二代将軍の徳川秀忠が風邪をひいた。そして死んだ。
が息を引取る間際に気がかりらしく、 
「徳川の家は抻徒なり、墓や廟所はいらぬぞよ」と遺言した。なにも吝をしたり、来るべき不況にそなえて冗費を慎しめと遺言したのではない。
 カトリックとプロテスタントでは教義が違うように、神徒と仏教もやはり違う。
 当時の仏教はみな土葬だから、寺には墓地という死体格納のガレージがあったが、神徒は火葬で、その骨壷を各自の神棚においた。だから神社には「平安殿」はあるが墓地はついていない。
だが明治末から大正にかけて伝染病が流行し官営の火葬場ができたとき、その事業利益をあげるために市町村条例で、土葬を禁じ火葬を奨励した。
しかし、だからといって各自が、その骨壷を自宅保管してしまっては、それでは寺が儲がらぬからと、一斉に「埋葬許可令」を施行し「やいて粉にして埋めろ」という事になった。
そこで、これまで墓地や石碑のなかった神徒系も、止むなく寺へ頼んで墓地を分けて貰い、これまで墓はなかったのだから「何々家先祖代々の墓」というのを一斉につくった。
 現在、墓地へゆくと、こういう代々の墓が多くみられるのは、この時のブームの結果に他ならない。
 さて、そのとき家光は、秀忠の遺言通りにしようと思ったらしいが、生き残ってまだまだピンビンしていた和製エリザベス女王の春口局は、仏教興隆の好機と思ったのであろう。
「構わぬ、たてませい。早うせいやい」と下知をした。なにしろ、この頃の日本版エリザベスの権勢が当たるべからざる有様であったことは、
〈寛政十年二月の鳴海史料〉にもあり、原文通りに引用すれば、
「鳴海刑部六代目兵庫賢鰮の寛永丙子の年、時の政所春日局さまよりとの仰せにて、天海僧正さまの御使いを賜り、その御考判を下しおかれ候むねを洩れ承る。
よって兵庫謹んで伺候せしところ種々の御下問ありて後、畏れ多くも御局さまにおいては、土井甚三郎利勝さま初め家老衆一同を呼びつけなされ、
その立会いのもとに、新銭鋳造の儀を鳴海兵庫に一任の儀仰せ付けられ候いぬ」
これは寛政十三年六月から鋳造された「寛永通宝」の穴あき銭を鳴海兵庫に下命した時の経過模様であるが、時の幕閣の老中筆頭の土井利勝ら以下が、
さながら春日局の家老位にしか見えなかったという点において、このエリザベス女王の春口局の当時の権勢は偲ばれる。
 だから土井利勝は、(家光公が何んと仰せられようとも、お局さまの命令とあれば、突貫工事をせねばなるまい)と自分が総奉行となって、とうとう年内の十月には秀忠の廟を落成させてしまった。
 「参拝にゆかれるがよい」と家光は、春口局に云われて芝の増上寺へゆくと、
 「あ、あれは何んじゃ」と、秀忠の「台徳廟」の他に別個にある建物をみて指さして尋ねた。
 「はあっ、あれなるは七年前に亡くなられましたる崇源院さまの御霊屋にござりまするが……」
 と、土井利勝が畏って答えたところ、家光は不快そうに睨みつけていたが、また吃って、「め、目障りじゃ……すぐ、た叩っきこわしてしまえ」と唇を震わせて云いつけたという。
 本物のメアリースチュアート女王は、生きている内こそ苛められたが、死後はウェストミンスター寺院で、いつも微笑をたたえて居られるというのに、江与の方ときたら、その廟所さえ、
さっさと壊してしまえといわれているのだから、これは比較できぬ位に憐れである。
 さて、この時は、千代田城の一室ではなく増上寺山内という野外ページェントだったから、お伴の幕臣の他に寺僧共も、咳払ひとつせずみな静まり返っていたので、
この家光の罵りの怒号は、多くの者の耳に、青天の霹靂のごとく響きわたったらしい。だから、
 (家光が、秀忠と江与の方の子供である)などと思いこんでいる者は、びっくりしてしまい、
 (死んだ親父さまのお詣りにきて怒鳴るとは……不謹慎な)と愕いたり、
 (己れのお袋さまの御廟所がここにあるのを……七年間も知らず七つだとは、呆れたことではある)
 ということになって話が弘まり、ついに徳川家光という人は、
「あれは暗愚である」「ばかである」「精神異常か、精薄である」という事になってしまったらしい。
 なにしろ、いつの時代でも何処でも、又そうであろうが、偉大な母親、それが女王などの場合には、生れた息子は損をするらしい。
シェーックスピアから見える家光の類似点
 さて当時、エリザベス女王の方は、メアリ女王からさも親切そうに、
シュルーズベリ伯爵夫人が申しますには……貴女(エリザベス)は青春期は過ぎ去り子供を生む時期も去ったというのに、
ある殿方(レスター伯爵)と、とても数多くベッドを倶になさったり、その他でも、お気に召した男性をみつけると、貴女さまは
フランスのみだらな民謡の(愛に心をくだく愉しみこそ、女はいつも喪わず、歓びこそ、新しき恋人と倶に枕する床にあり)などと、はしたない歌詞を口寸さまれながら、
夜になるとシュミーズにコートを上から纒っただけの恰好で、男どもを寝かしている部屋へ、ノックもなしに入ってゆかれるとか……そのお忍びの姿を
彼女(シュールズベリ伯爵夫人)も何度も拝したと、そんな怪しからんことを申すのでございますよ。
だが、私(メアリ女王)は、そんな愚にもつかぬ中傷などは、すこしも信じていません。何故かなれば(あなたの肉体はふつうの女体とは異って居られる)という事を、
よく私は存じあげているからでありますの……しかし、それは、アンジュ侯とも結婚しかねた貴女の秘密なんですもの……わたし誰にも云いはしませんことよ。
しかし何も知らぬ人々は詰まらぬ風評の方を、とても興味深く云いふらすものです。ですから私は口さがない侍女や彼女(シュルーズベリ伯爵夫人)みたいな者はお近づけならねよう御忠告しましてよ」
 という書簡を受取る位だから、その肉体的欠陥のせいもあってか、夫もなかったが子はなかった。
 しかしメアリ女王には、ヘンリー七世の曽孫に当るヘンリー・ダーンリとの間に息子がいた。ジニームズ六世である。
 彼は母のメアリ女王が、エリザベス女王に出した書簡で怒りをかっているようだから、英国議会が請願する死刑許可書に、きっとサインをするだろう。
そこでこの際、それを防ぐためには、「囚われのメアリ女王陛下のため、ご自分の影響力を有効に使いなさったらいい……フランス国民は、親孝行というモラルを愛していますから、
きっと御協力を致しますよ」と要望するフランス大使に向って、エジンバラにいたそのジェームズ六世は冷ややかに、
(自分が材料を色々と鍋へ入れてこしらえたスープは、自分で呑むべきだろう)とフランス語で返事をしたという。
 つまりメアリ女王の一人息子は、自分の母が殺されるというのに、それを見殺しにしたというので、
 (エリザベスの死後、彼女に子がないから、西暦1603年『ジェームズ一世』になり、スコットランドとイングランドの両方の君王をかね、大英帝国の最初の王となる)彼をば、
 「愚かなる王」とか「精神薄弱なキング」とフランスやドイツでは今でも評している。
 おそらくジェームズは、父のヘンリー・ダーンリが、メアリースチュアートの第二の夫であったという事実よりも、ボズウェル伯爵が母と通じて、父のヘンリーを殺害したという事に対して、
その憤りをもちつづけ、そこで、
「勝手にスープを呑め」と怒嶋ったのであろうが、誰もが、そこまでは同情はしない。
 ただ、この時点、つまり1603年は慶長七年であるから、徳川家康が二月十二目に征夷大将軍の宣下をうけているが、時に、劇作家のシェイクスピアも四十歳になっていた。
 これまでシェイクスピアの研究家にかかると、彼の四大悲劇の一つとされている「「ムレット」たるや、
「これはデンマークに実在した王子(ムレレットの悲劇で、すでに十二世紀の頃にデンマークの詩人サクソ・グラマティクスによって、世に知られ、
1576年(天正四年安土城落成の年)のフランス版のブルフォレ編の『悲劇大成』にも入れられている。
だから、これを劇化したものを『原ハムレット』として区別しているが、これは当時の事情からして『スペイン悲話』の作者トマスーキッドのものと思われる。
つまりシェイクスピアは、その十四年前にエリザベス女王にしばしば観覧の栄を賜って好評をえていたセネカ悲劇の『スペイン悲話』に影響をうけ、
ブルフォレの『『ハムレット物語』を改作したものであろう」と剽窃ときめつけられている。だからして現代のT・S・エリオットなども、
シェイクスピアのハムレットは、芸術的には失敗作つまり愚作といわざるを得ない。なにしろ主人公のハムレット白身の感情に対応すべき、
肝腎な客観的相対性の関連性が、あまりにも欠けすぎている憾みがありすぎるからである」
と、それが模倣のイミテーションにすぎないと云う観点にたっているから、てきびしく批評をしている。
しかし山に入ってば山をみずというが、案外にも英語国民のほうが、こうした古典への読みは浅いのではあるまいか。
これは「「ムレットという人名はデンマークの王子に現存していた」とか「ブルフォレのハムレット物語が種本なんだ」という、尤もらしい既成概念に捉えられてしまうから、
それが判らなくなってしまうのであって、こうした作劇法は、日本でも旧幕時代は江戸三座が聖天町の弾左衛門取締に入ってからは、公儀へ気兼ねし弾圧を避ける方法として、
その筋立てに、よく用いられるものである。
つまり日本の歌舞伎の院本ものでも、これはよく使う手法で、たとえば元禄十四年の刃傷事件を扱うのに「仮名手本忠臣蔵」では、
「足利時代」という設定を、まずして、吉良上野介を「高師直」とか、浅野内匠頭を「塩谷判官」としてしまう類である。
といって、これは歌舞伎の約束事であるから、日本人なら、これはこういう設定にはなっているが、本当は徳川期の芝居だと判ってみているが、
シェイクスピアになると、肝腎な設定がいまだにヨーロッパでは呑みこめていないらしい。私も念のためにロンドンの大きな古本屋のスミスやフォイルヘ行って、
シェイクスピアの研究書を数冊も纏めて求めてきたが、私の考えのような発想を向うの人間は誰もしていない。
だから私の書くことはやや、奇異にとられるかも知れないが、「ハムレットのモデル」そのものは、デンマークのハムレットではなく、他ならぬメアリ女王の伜の
「ジェームズー世そのひと」だというのである。英国史のアイザノアーバーリンも、これに関して、
「1603年にスチュアート王朝のスコットランド王ジェームズが、イングランド王をかねるや、直ちにシェイクスピア劇団は、王の庇護下に入るという宮廷芸術家の安定を得られた。
翌1604年11月1日。ジェームズ一世は、シェイクスピアに『ヴェニスのムーア人』の芝居を宮廷で開演させ諸侯を招いて見物させた。
これは彼の死後七年目の1623年に編纂された三十六編のシェイクスピア戯曲全集には『オセロー』として入っているものである」
 とシェイクスピアが死ぬまで、そのジェームズー世に可愛がられていたこと、王室から保護されている事実を書いている。だが「何故か」までは、それは残念ながら、ついに解明をしていない。


平和ボケした日本人への「覚醒」の一書 「日本が消える日」

2020-03-14 17:57:34 | 新日本意外史 古代から現代まで

平和ボケした日本人への「覚醒」の一書
「日本が消える日」

以下に文中からの一部抜粋。
 中国夢、一帯一路、南シナ海の軍事拠点化、尖閣諸島の奪取への思惑、宇宙、サイバー空間、5G、AI(人工知能)などのあらゆる分野で主導権を握ること、
あらゆる分野で覇権を目指していることを公言しているのだから、よほどボケていない限り、これに気づかぬ方がどうかしている。
2008年の外国人留学生30万人計画だとか、インバウンド(来日旅行者)年4千万人だとか、最近では2019(平成31)年4月に施行された外国人労働者の受け入れ拡大を図る
改正入管法などを見ていると、自民・公明両党と手を携えた安倍政権が、むしろ、積極的に中国人を日本に招き入れている風ですらある。2008年時点でも自民党は、
中川秀直元幹事長らプロジェクトメンバーを中心に、中国人に依存したわが国の人口について、移民10%、1千万人計画をぶち上げるほど脇の甘さを露呈していたからである。
 このまま日本政府が無為無策で蛇口を絞らず、中国人を来たいだけ来させれば、2020年代の早い時期に在留中国人は100万人を突破し、
全在留外国人の4割近くを占めるのは間違いない。
 1995(平成7)年、オーストラリアを訪問した中国の李鵬首相は、当時のキーティング首相に対し、願望を込めてこう語っている。
 「日本は取るに足らない国だ。30~40年もしたら、なくなるだろう」
(注)この頃には日本は完全に共産党独裁中国の属国になっている、ということを公言している。全く空恐ろしいことを平然と言うものだ。日本をナメきっている。
中国は尖閣や沖縄どころか、 
北海道(札幌に孔子学園、釧路に北極航路の拠点作り、苫小牧に中国資本のカジノ構想、そのほか東京ドーム100個分の各地に虫食い状態の土地取得)にも触手を伸ばしている。
この本のリポートを抜粋すると。
北極海の「一帯一路」で北海道が危ない。
各地に蠢く不気味なチャイナタウン
文化侵略の工作機関「孔子学院」の深い闇
深刻さを増す首都圏「チャイナ団地」の現状
外国人にタダ乗りされる日本の医療保険制度
和牛から農産物まで強奪される日本の知的財産
中国発の豚コレラは、もはや「バイオテロ」?
政府主導「留学生30万人計画」と「消えた留学生」
ずさんな「改正入管法」は事実上の移民政策
著者・産経新聞論説副委員長「佐々木類」
ハート出版 定価 本体1600円+消費税
平和ボケした日本人への覚醒の一書である。
日本を愛する憂国の士には是非一読してもらいたい。
平和ボケで「護憲」に凝り固まった石頭の日本人は勿論である。