新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

NHK大河放送「麒麟が来る」の考察

2020-01-28 10:00:21 | 新日本意外史 古代から現代まで
NHK大河放送「麒麟が来る」の考察

一月十九日、第一回の放送を観た。
製作は池端俊策ということだが、彼は映画「復讐するは我にあり」や「楢山節考」などの名作を手掛けているのに、
時代考証が全くなっていない。一つ一つ上げればきりがないので、ここでは何点かに絞って指摘したい。
先ず、鎌倉や戦国時代、江戸時代でも武士の表道具は「槍」なのである。刀は首切りか、槍を打ち払うための「打ち刀」と呼ばれていて主武器ではない。
なのに相変わらずのチャンバラ思考で、刀での斬りあいに主眼を置いている。
また、野盗の首領が鉄砲を持っているのにも驚いた。種子島に伝来してから、器用な日本人はすぐさま真似て精巧な火縄銃の制作に成功している。
そして九州からそれはじわじわと浸透して、三河の今川氏も装備している。だが高価な鉄砲が野盗づれが持てるはずはない。
駿遠三の太守である今川義元が五百丁も揃えられたのは、その大国の財力がバックだった。だから貧乏小国の尾張の信長など、一丁も無かったので、今川の武力を恐れたのである。
次に、4K放送のカラー効果を狙ったのだろうが、赤、青、黄の原色の着物は酷すぎる。
当時の下級武士や庶民の着物は、おがらや藤づるで編んだ粗末なもので、木綿などは高級品なのである。だからその色も暗いくすんだものが多かったのが実情。
小者時代の秀吉も、信長に仕えてお仕着せの紺色の着物を支給された際、「こんな綺麗なおべべは着たことがないずら」と喜んだというぐらいなのである。
さて、主役の長谷川博己だが、線が細すぎて頂けない。ちょい役で漫才屋の岡本隆史が出ていたのも笑止の沙汰。
光秀の若い頃から、本能寺後山崎合戦の最期までを演じるのだろうが、ハリウッドの名作「ゴッドファザー」のアル・パチーノのように、
大人しい弟時代と、ゴッドファザーになってからのあの凄みのある見事な変身。
長谷川も、若年で諸国を遍歴し、戦国の荒波にもまれ、信長に重用され、国家主権者である信長に謀反するという、通説通りの光秀を演じる。
その苦悩や葛藤の深みを演じきれる俳優とはとても想えぬのだが。
さて、光秀に関する、その実父、母親、正確な年齢などの一級史料のないのが現在である。だから様々な説がまかり通っている。
だが光秀という武将はこの時代においては稀有な勤王家であり、心根の優しい良質な人物であったことは確かである。
比べて秀吉のごときは、時の親王様を殺し、自分が次の天皇になろうとした不届き者である。
明治のぼんくら学者どもが「豊臣は反徳川だったから勤王だろうと」正一位まで贈位しているが飛んでもない間違いである。
当ブログでは様々な角度から、光秀犯人説を否定した記事を書いている。どの説を、誰の説を信じるかは読者の自由である。
以下は、光秀の内面を考察した、一文だが2019年の記事の再掲載であることをお断りしておきます。
 
「見花」と題されて、「咲きつづく花の梢をながむれば、さながら雪の山かぜぞ吹(く)」という短歌がある。
これは、旧候爵蜂須賀家に伝わっているもので、明智光秀の署名があり、明智光秀の真筆として名高いものである。
が、これと同じものが明智光秀が迷って出て祟りをせぬようにと、祀られている福知山の御霊社にも余り保存はよくないがある。
つまり光秀には、この他にも、「われならで誰かはうえむひとつ松、こころしてふけ志賀の浦かぜ」
といったあまりうまくない歌が、『常山紀談』の中に、光秀が唐畸の松を植えたときのものとして書かれているが、真偽不明なのは、
そっくり同じ他人の作があるからである。だからして明智光秀の作と認められるのは前掲のものしかないことになる。
そしてこの歌は巧拙は別にして、光秀にはきわめて感銘深いものだったといえる。
では何故そうなのであろうか? といった疑問が、どうしても浮かんでくる。
雪の山風が吹くのは当時の美濃、それも東の飛騨に近いあたりである。今では石畳しか残っていないが可児郡の明智城の遺跡へゆくと、
 何百年と星霜はたっているが、そこには樹齢もわからぬような、山桜の古木がずらりと並んでいる。
だから光秀がまだ十兵衛とも名のらず、奇白丸とよばれていた幼時に、山頂の明智城から何かを見下ろし感銘をうけたことが有ると考えられる。
 が、五歳や六歳の少年にとって、終生ずっと忘れられぬような記憶とは何だろうとなる。
  そこで光秀が生まれたと推定される一五二八年から起算してゆくと、享禄五年七月が天文元年に改元されるから人文二年二月二十日、
太陽暦では三月十一日に当る日に、明智光継の三女の小見の万が斎藤道三の許へ、輿しにのせられて山を下っていった事実をつきとめることができた。
当時は、十五歳位で嫁にゆくのが当り前な時代なのに、行かず後家みたいに何故か二十一歳になるなるまで嫁に行っていなかった。
この謎は推理するしかないのだが、小見の方は明智城内に居た若い武士と肉体関係を持ち、未婚の母として光秀を産んでしまった。
相手は何かの戦の際戦死し、光秀は母と祖父明智光継に育てられたとしか考えられない。
だから光秀の出自を名門土岐氏の出だとする歴史家の説は信じられないのである。
そして、嫁いだ後、天文二十年三月に、小見の方が急死すると、斎藤十兵衛を名のっていた光秀は、明智姓に名乗りを変えて、
突然出奔してしまっている。なのに五年後の弘治二年に道三が旧土岐勢力によって殺された時、すでに小見の方は死んでいて、無縁のはずなのに、
 明智城は包囲されて、一人も脱出できないように、この山城は周囲から火をかけられて、皆殺しにされている。
どうも十兵衛が隠れていて仇討ちしまいか、と警戒されてとしか見る外はない。
さて信長の妻の奇蝶は美濃から嫁に行ったので美濃御前ともいわれていたが、小見の方の産んだ娘である。
こうなると光秀は道三の子であるばかりでなく、信長には義兄にも当たるのてある。
こうして一つの短歌でも、手探っていくと、隠された歴史が何かと浮かび出るものである。
明智光秀は生母を愛していたとは思われるが、、義父の斎藤道三を慕つていたかどうか判らない。
 しかし、三つ子の魂百までもというけれど、やはり同じような理想主義者だったのは、確かなことのようである。
京で、日蓮宗の僧として修業したことのある道三は、応仁の乱で荒れ果てた京を見、酷税に疲れ果てた庶民の窮状を見かねて、
 現生の幸福を説くのが日蓮宗の教義だから、流れてきた美濃でその理想を実現しようとした。
光秀も諸国を回ってみて「この乱世ををひとまず旧へ戻すために」というので、越前一条谷に身を潜めていた十五代将軍足利義昭を、坦ぎ出すことに全力を投入した。
あまり良質ではないが、旧細川侯爵家に伝わる『家記』では、
「永禄十一年七月十日、光秀はその家臣溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余名にて、阿波囗で義昭を迎えさせ、穴問の谷をへた仏が原のところに、光秀自身が五百余の兵をひいて待ち
 うけ、そこから義昭の護衛をした」とでている。
しかし足利将軍を復活させたところで、世の中が良くなるわけはない。やがて絶望した彼は、織田信長をもって、
 「彼こそ自分の理想を実現できる男ならん」といった見方をしたらしい。なにしろ信長は斎藤道三の女婿であるから、道三の理想主義を受けついでいるものと考えたのだろう。
 というのは、その頃の信長は、まだ「天下布武」などとは号して居らず、
  『掛川史稿』といった古書には、すこし話は難かしくなるが、
 「遠州駿河の院内に限定居住の者らは、これまでと違って松永太夫の申し付けさえ守るならば、商売を営んでもよろしい。
しかし他の部族は年末といえど難渋して居っても一切勝手は許さないものである。永禄六癸亥年十月十九日、上総介(判)」が収録されている。
 従来これを、静岡県掛川は当時まだ今川領だったゆえ、氏真が書いたものとみて今川家裁許状としているが、今川義元の伜が、こんな反体制な布告を領内にする訳はない。
 院内とは院地とか、別所の名称で今も地名は各地に残っているが、これは高松古墳が出来た頃、日本列島へ渡ってきていた弁髪の藤原氏にその祖国を占領され、
やむなく帰化を申しでてきたクダラやコウライ、シラギの者らで軍隊を編成し、これを日本原住民の討伐にさしむけてよこし、
捕えた者らを各地に分散収容したときの限定地域のことをさすのである。
 つまり、かつての天の朝の残党でヤソタケルとかヤマタオロチなどと、ヤを名のって日本中に散っていた部族のことである。
 いわゆる王朝時代と袮される藤原氏から足利氏にかけて、差別されてきたヤの部族に対し、その限定地域から出てもよく、太夫の命令さえ守るなら商売をしてよい、
といった布告は、まだ今川家の朝比奈三郎兵衛の領地だった掛川地域の、そうした被圧迫階級に対し解放を約束した信長が出したアジ文書と見るしかないであろう。

 日本歴史では、信長が各地の税金をとる関所を廃止したり、清州の城下を楽市として一切無税にしたことを、仁政のように特筆しているが、この上総介文書をみると、
「商売の許可は、後にヤン衆とかヤア衆、ヤアさんとよばれる人々だけに限られる、だから、それでこれまで差別圧迫されてきた怨念をはらせばよいであろう」
  といった具合だから、商人はこれ一人残らず日本原住民とそれからは定まっだのである。
こうなると、もう関所の必要もなく、清州の城下を彼らの解放区にしたのも当然の帰結といえよう。
つまり今でも商売をする店がヤの字を、「三河屋」「尾張屋」「越後屋」と付けるのも、信長の先発隊が堺の町などへ押しかけて、「矢銭」とか「屋銭」といった名目で、
 賦課金を強制割り当てしていたのも、信長がヤの部族をおおいに利用したゆえんだろう。
小説や講談では個人のバイタリテー、つまり武勇伝で天下をとるようになっているが、今も昔も組織を握り、大衆動員しなければ、なんともなるものではなかっただろう。
さて、一般大衆の被圧迫ぶりを流浪しながら見てきた十兵衛の目には、これまでの被差別階級を自由にしてやり、商売という利潤追及の生計を許し勢力を伸ばしてゆく信長のやり口が、
彼が憬れていた新体制に思えたし、
 「信長こそ新しい世直しの旗手」とみえたのであろう。だから、せっかく一度は奉じたものの旧体制そのものの足利義昭から、光秀は鞍替えしてしまったのだろう。
もちろん若かった頃に奇蝶へ禍失をおかしてしまったので、その贖罪のため夫となった信長に尽したとする見方もできよう。
 しかし勢力を広げるまでは解放戦線の旗頭であった信長が、やがて独裁者になって、
「武力をもって天下平定」と、その方針を変えてくると、おおいに光秀は悩んだらしい。
 だからその頃の光秀は、信長に換るものとして時の正親町天皇に近づき、次に帝位につかれることになっていた皇太子誠仁親王とも仲良くした。
 道三が日蓮宗を信仰し帰依したように、彼は天皇家を宗教的なものとし、
「天皇教」といった信心をもち、その力で革命を考え企てていた点がないでもない。
 だから、今と違って衰微していた皇室に対し、光秀の奉公は他に比のないものであった。
「その勤皇の志あつきを嘉し、馬、鎧、香袋を賞として授く」と、天正七年七月二十日、正親町帝はみずから光秀へ賜っているけれど、天皇みづからが勤皇であると認めた者は、
 先に和気清麻呂、後に明智光秀しかない。
 秀吉は信長の死を知っていた
 
 『御湯殿上日記』なる当時の宮中の女官どもが書きつづった記録では、この事件は御所の飯米にあてられた領地を奪われ、収獲がなく困っていられるのを光秀が討伐して取り返し、
奪われた分は立て替え納入した為といわれている。が、光秀は、かつて足利義昭のために信長が造営した「武家御城」とよばれていた二条城を作り直して、誠仁親王に献納し、
「下の御所」といわれていたのをみても判るが、あまり皇城が敬われていなかった時代なのに、光秀だけはおおいにシンパとなって奉公をした。
 何故かというと光秀は、新しい明日を何んとかしようと思っていたからだろう。
 さて、備中高松はともすれば四国のようにも間違われるが、岡山の裹の山間である。
そこの竜が鼻の本陣に居た秀吉は顔をしかめていた。何故なら、
「四国の長曾我部守親に、四国は切り取り放題じゃと、彼へ嫁入った斎藤内蔵介の妹の産んだ子へ、信親と己の名を一字やられた癖して、
 信長様は己が子の信孝どのが成人されると、四国探題にしようと、長曾我部征伐の軍勢をだされるそうではないか」と低くうそぶいた。すると
 
「信長さまは女ご嫌いゆえ、どうしてもせねばならぬ子作りには、前に男児を産んだ女人のみを召されてます。
よって信孝様より下に男の子が八人もおわします。ぢやによって今の儘でゆけば、これまでの功臣は次々に粛清されて、信長さまの御子さまが跡釜につくことになりまするな」
「そのことよ。わしにしろ柴田勝家、滝川一益と子のない者だけが、重く用いられているのは、どうもその含みがあっての事らしい」
 謀臣黒田官兵衛へ秀吉は笑って見せた。しかし笑顔はすぐ引っこみ、
「散々っぱら働かされて、はいそれ迄よでは堪らぬわえ」と口を突がらせてから、
「だから馬鹿を見ぬよう手は打ってあるゆえ、まあ六月一日あたりを大願成就とみて和平交渉は早くに毛利と纏めよ。
ぐずついては元も子もなくなるぞ」と官兵衛に命じた。

 が、予定より一日遅れで秀吉ら働く者にとっては何よりな、独裁者信長爆死の報が京より届いた。
そこで秘密裡に進め、もはや調印待ちだけになっていた毛利方との和平交渉を、六月三日朝に済ませると、秀吉はむっとして、
 「次の血祭りは光秀だな」と唸った。黒田官兵衛が、
 「殿のライバルのせいですか」と、いった意味を聞くのに、
  「信長さまの独裁主義も古いが、亡き道三入道譲りの光秀めの理想主義も鼻もちならぬ。これから天下を制圧するのには、己れが御所の主になるしかないのだが、
光秀めは皇太子誠仁親王と仲良しゆえ、わしが帝位につこうとすれば光秀めは馬鹿ゆえ、すぐ刃向かってこよう。一日も早く叩くしかあるまい」と放言した。
が、秀吉のこの言葉は出まかせでもなかった。
 のち誠仁親王が怪死したとき、奈良興福寺の英俊はその天正十四年八月七日の日記に、
「誠仁親王さまの急死は、はしかだというが三十五歳の皇太子がかかられる病いでない。もうこうなったら次の帝位へつくのは、秀吉とはっきり定まったようなものである」
と明記しこれは、『多聞院目誌』の名称で活字本にもなっている。
さて秀吉は故信長の葬い合戦として山崎街道で光秀を討ったとし、
「山崎合戦」なるものが華々しくあったように、陸軍参謀本部編の<日本戦史>の一冊にもなっている。しかし、この戦史の原本というか土台になっているものは、
 「豊臣秀吉より織田信孝の家老斎藤玄番允らへ、宛たる戦況報告の手紙」とされている。
 この玄番允は斎藤道三の忘れ形身で、奇蝶の異父弟だから、明智光方の義弟に当る。
 しかし<日本戦史>では、秀吉は織田信孝を名主に頂いて信長の葬い合戦をした事になっている。だったら後になって秀吉が、その戦に加わった信孝へ、自慢たらしく戦況の報告書を出すの
は、それが家老宛であっても可笑しすぎる。恐らく真相は囗のうまい秀古が、
「信長さまの急死を聞き取るものも収りあえず、かくは駈け戻ってきた……これから新しい世作りをするため談合しよう」と、黒田官兵衛あたりを使いに飛ばせたので、律義な光秀は己が持城
の山畸西ヶ岡の勝竜寺城へ秀吉を迎えにきたものらしい。
 が、この城は光秀を裏切って秀吉にに加坦していた細川幽斎の親代々の居城だったのである。
  それゆえこの辺の事情を推理すれば、まんまと光秀は偽られて、細川の策に落ち秀吉に殺されたのではあるまいか。

戦史では、六月十四日、十五日の両日の合戦となっているが、十四日は戦らしいこともなく光秀は城から出ず、
十五日になって火を発し城を出たところを殺されているのである。
 無実の罪で汚名をさせられ殺された者が迷って祟りをしないようにと、封じこめにまつるのが、「御霊社」だったと、現在では明確になっているけれど、
光秀の為に、江戸の元禄時代から京都福知山には大きな御霊神社があり今も多くの参拝人で賑わっている。
また、画像のように、坂本では未だに光秀を犯人とした説を信じて歌碑まで作っている。

「朝鮮通信使の真実」の紹介 朝鮮通信使は友好使節ではない 事実上の朝貢使節だった

2020-01-27 12:41:51 | 新日本意外史 古代から現代まで

日本に帰化して13年、良質な元中国人、石 平 氏の渾身の一冊
「朝鮮通信使の真実」の紹介 
日本人を「羈縻」(きび)と見下した朝鮮人
朝鮮通信使は友好使節ではない
事実上の朝貢使節だった
日本人に、美しい国土に、文化にも、日本で見るもの聞くものすべてに難癖をつけた通信使

現在何かと問題の多い韓国だが、韓国が李氏朝鮮の時代には、日本に朝鮮通信使を派遣していた史実がある。
この通信使は一体何の目的で日本にやってきたのだろうか。日本人が学校で習い、また現在通説となっている「友好親善のため」とは全く違う目的があったのである。
最初は大阪落城後、九年を経て、徳川家康が江戸幕府を樹立した時が第一回に当たる。
詳しくは江戸時代の慶長十二年から、文化八年までの二百数十年間、朝鮮王朝は十二回にわたって、徳川幕府に、外交使節団を送ったのである。
これは日本が朝鮮使節をお願いして呼んだわけではない。向こうが自主的に、勝手にやってきた。
当時の李氏朝鮮も中国(明)に朝貢していて、日本にも同じく朝貢していたのが実態である。
この通信使の正使や副使らの書いた「日本見聞記」には驚くべきことが書かれている。
それは日本に対する劣等感から生まれた、日本増悪が文中の至る所で爆発している。
以下にこの本の一部、106ページから109ページを引用して紹介します。

以上は、現代の韓国人学者である鄭章植氏によって紹介された、朝鮮通信使節団の一員である南龍翼の示した通信使派遣の目的に対する認識であるが、
その中で南龍翼はまず、通信使の派遣は清朝の朝鮮に対する侵攻とは関連性のあることを示唆した。
「朝鮮は『胡乱』(清の侵入)に遭いながらも、南辺の不安を憂慮した云々とはまさにその意味である。
それは、本書の第一章の分析とも合致しているところであるが、その一方南龍翼は、「日本に頼るのではない、日本の武力を借りるつもりはない」ことをことさらに強調して、
朝鮮王朝のプライドを守るために、日本に頼っている事実を必死になって取り消そうとしているのである。
 
そして案の定、彼はここではやはり、「羈縻」という言葉を持ち出して、日本への通信使派遣は文明的上位国の[蛮夷]に対する教化政策だと解釈した。
 世界大百科事典第2版の解説によると、いわゆる「肩摩」云々とは、中国歴代の王朝が周辺民族に対してとった「肩摩政策」のことを指している。
語源的に言えば羈縻の「羈」が馬の手綱。「縻」が牛の鼻綱のことで、そこからつなぎとめる意味に転じたという。
文明の中心国が周辺の「蛮夷民族」を手綱や鼻綱で馬や牛をつなぎとめるように懐柔して支配下におくのは、まさにこの「羈縻」という言葉の意味合いである。
 朝鮮知識人の南龍翼はここで、朝鮮を文化的中心国だと自認した上で、日本のことを牛や馬のような「蛮夷国」だと見なし、朝鮮による「羈縻」の対象にしているのである。
したがって彼から見た朝鮮通信使の使命とはまさに、朝鮮王朝の「正道」にしたがって、日本を「羈縻」し「教育感化」するために日本にやってきた、ということである。
 しかしどう考えてみても、南龍翼の示したこの認識は、現実の中にある日本と朝鮮の立場と、現実にある通信使の実態とは正反対であろう。
 朝鮮は文明的上位国として日本を「羈縻」しているわけでは全くない。そんなことはできるはずもない。
朝鮮はただ、日本に平身低頭して朝貢使としての通信使を大人しく派遣してくるだけの国である。朝鮮は文化的中心国として日本を「教化」しているわけでもない。
水車もサツマイモも日本から導入しなければならない朝鮮は、一体どうやって日本を、教化」すのであろう。
 そして、このことを何よりも知っているのは南龍翼らの通信使ある。毎回の朝貢の旅では彼らは徳川将軍に向かって朝貢の拝礼以上の四度半礼をしなければならないし、
幕府からの朝貢使扱いに甘んじる以外にない。南龍翼本人に至っては、彼が従事官を務めた通信使節団の任務は日本の将軍家の世継誕生への祝意表明であることは周知の事実であり、
彼らの一行もまた、家光の命によって不本意の東照宮参詣を余儀なくされた。
 つまり南龍翼は、自分たち通信使のやっていることが屈辱の朝貢であることを身を以て知りながら、「羈縻」だの「教化」だのの上目線の言葉を持ち出して、
自分たちの惨めな立場を粉飾する以外にないのである。それこそは阿Q流の精神的勝利法の朝鮮版そのものであるが、こういう立場に立たされた朝鮮知識人の哀れさと苦しさは、
痛いほど分かってくるであろう。
 こうした哀れさと苦しさの中で、通信使として来日した多くの朝鮮知識人の場合と同様に、南龍翼のとった心の自己防衛策の一つはすなわち、
自分たちの得意する儒学や詩文を鼻にかけて、日本人を徹底的に馬鹿にすることである。
例えば南龍翼の日本人に対する酷評について、鄭章植著・前掲書はこう記している。
 「『人物』においては、(南龍翼からすれば日本が)海外の無識な土地なので、これと言える人物もまったくないが、例外的に目につく者がいると、古来の文士二十人、
武将十九人、現存の老中を評価しているが、やはり人物についても酷評に近い。当時の日本文筆界の第一人者と言われる林羅山を、
『詩は格調がまったくなく、文も蹊径に疎く』」と記したように、もっぱら儒学と詩文が人物を評する尺度になった」
 「(南龍翼が)帰国後に書いた使行録には、日本の儒学を指導する立場で忠告し、日本の詩文が稚拙だと評し、日本の学問をそしるのが常であった」(鄭章植著・前掲書)
 鄭章植著・前掲書はまた、南龍翼が囗本の詩文と学問を譏るために書いた下記の文章・・・・・・・。
以下略
韓国が何故現在も日本を貶めることばかりするのかという詳細は、本書を読んでいただければ理解できるでしょう。
現在の韓国を知る上での必読の書と言えます。
ここからは私の持論になるのだが、日本の奈良時代は紛れもない百済人が建てた政権なのである。
(ここのところの詳細は、当ブログ「坂上田村麻呂」も併読していただきたい)
日本に来ていた百済(馬韓)人が、奈良に君臨し、同じ朝鮮半島からきて日本に定着していた新羅(辰韓)人や高麗(弁韓、現在の北朝鮮)人たちを、
蛮族として撃ち払い、寒冷地の東北地方へ押し込めた歴史がある。
その後大陸の強国唐が勃興し、半島の朝鮮三国は占領され、余勢をかって唐は日本に上陸し奈良王朝を倒し、藤原王朝をたてた。
これを日本史では「平安時代」という。この王朝は三百六十年続くのだが、源頼朝の騎馬系部族と(新羅系、高麗系を含む)北条政子の海洋渡来系部族が協力して、
鎌倉幕府を開いた。次の足利氏の室町幕府、戦国時代から信長、秀吉の桃山時代を経て、家康の江戸時代となるのだが、
これらは全てが、騎馬民族系か海洋渡来系、即ち「日本原住民系」の政権なのである。
豊臣秀吉になると、天皇家を取り巻く公家たちは大陸系血脈だから、彼らを纏めて大陸へ追い出し、己が日本原住民を代表して新天皇になろうとした。
そのために己の新御所として、京の十丁四方を取り壊し、豪勢な聚楽第も建てた。
大陸に打ち入るため朝鮮を通り道として(文禄・慶長の役)北京周辺を占領して天皇や公家たちに与えようとしたのである。
だから、朝鮮の占領など全く計画になかった。しかし朝鮮としては秀吉の雄大な計画など知る由もなかったから、日本軍と戦った。
しかし、武力(鉄砲)の差は圧倒的に日本が優勢で、朝鮮は敗北の一歩手前まで行ったが、大陸の明軍が鴨緑江を渡って援軍として来てもらい敗戦は免れた。
この戦争により、朝鮮は、国土は荒廃し人心も乱れ、日本を恐れ憎むことになる。
だから朝鮮通信使の第一回は、家康が国交回復につとめた結果、日朝和約が成立したので「回答兼刷還使」と呼ばれていた。
秀吉に侵略され懲りたので、次の徳川政権の動向を探りに来たのである。
だから朝鮮としては、かっては奈良時代、日本に君臨していたのに、秀吉によって逆に攻められ苦しんだ。
その後、江戸時代になると、軍事も文化も経済も全てが朝鮮を凌駕している現状を羨み、妬み、その裏返しの感情が精神的優位性に頼った結果、悪口雑言の羅列になったのだろう。
現在発行されている韓国、中国関係書物の一部を以下に挙げておきます。
「ゆすりたかりの国家」「歴史を捏造する半日国家・韓国」「韓国・韓国人の品性」「反日・親北の韓国はや制裁対象」「恩を仇で返す国・韓国」
「韓国を救った日韓併合」「優しい日本人哀れな韓国人」「中国・韓国の正体」
史実を丹念に抉剔した良質な本が多いが、紹介した「朝鮮通信使の真実」は是非一読していただきたい珠玉の一冊です。

奈良時代については以下に記しておきます。
 
哀号、哀号と奈良時代を懐かしむ挽歌
記紀は藤原氏によって捏造された
西暦8世紀の人皇43代元明帝の710年から、784年の人皇50代の框武帝の延暦三年までをさし奈良時代とします。しかしナラはクダラ語で言う処の国の意味なのです。
 西暦六六三年の白村江の戦いで、奈良王朝の百済人は、本国のクダラ救援に総力をあげて攻めこんでゆき大敗した。その翌年から当時は三つ編みの弁髪の中国の将兵たちが堂々とのりこんできて、
奈良の王宮へきていますのに、なんで今さら唐によって滅ぼされてしまったクダラが、日本列島にナラ王朝などを作り得るでしょうか。変な話だが、これには裏がある。
 また仮りに8世紀初頭から、圧迫された日本原住民たちが堪りかねて捲き返しに一致団結して、駿河の清見潟までアイウエオを一二三四五の合言葉に怒濤のごとく進撃してきましたゆえ、
大東亜戦の時に本土決戦にそなえて信州の松代へ大本営を移そうとしたごとく、20世紀の今でさえワラビ採りに行った主婦二人が襲われ殺され迷宮入りしているような、
辺ぴな長岡へ急遽、都を移した延暦三年までがクダラ王朝であるとみるならば、これまた可笑しなことが二つあります。
 この年代に、まず古事記が712年にでき、ついで8年後に、日本書紀ができている事なのです。
 クダラ王政下でしたら諺文(おんもん)でなくては変なのに、これが唐よりの四角い文字即ち漢字で書かれているという事である。
 マホメットのコーランがイスラム語で書かれているからこそ信用されるのでして、もしラテン語でしたら十字軍遠征時代の手作りと怪しまれ、
絶対にアラブの信仰の対象にはならないでしょう。
 仏書や仏典にしても初めはサンスクリット語のものが、中国経由で渡来したからこそ漢字漢文になっても許容されている。
それでも梵語、梵字も伝わっているのです。となると漢文体の古事記や日本書紀の原本も中国大陸経由できたものでしょうか。オンモンとよぶ朝鮮文字が共に残っていないのも、実に変な話です。
 唐令そのままの大宝律令が、飛鳥浄御原律令を拡大整備させたものとし、藤原不比等が立法化したとされ、
彼が西暦708年から右大臣となるのも、これまた、まことに申して辻つまが合いません。

 その才覚をかって登用とか、藤原鎌足の子ゆえといろいろに言われますが、正直に申して朝鮮の人より中国大陸の人方が頭が良かったということもありません。
ただ本当の歴史からみて中国大陸の唐人は戦勝人間でして、朝鮮半島人は当時は戦敗人間だっただけ差異でしかありえません。
 さて大陸人は、白村江の戦いの前から日本へ渡来してきていたのを桃の文字を使用し、その後は藤と変えますが、この時代からは藤原と同一の貴姓にします。
騎馬民族の崇神王朝系の蘇我の人々が、芝居では「曾我の仇討」という同音の当て字も使いますが、一般には「われこそミナモトの民なり」と源を姓に統一しますし、
その前の天の王朝系も当初は、みな天の御一門である。のちになると改姓して皆それぞれ熊野者も「平」の御一門となる。
処が百済、新羅、高麗となると統一姓はございません。「コウラーイヤ」と芝居で松本幸四郎らに掛け声が残る他は、瀬戸物の青磁の名物ぐらいです。
もちろんコマと縮めれば、狛犬とかコマエ百姓、独楽のコマの原語もそうですが、占いコックリさんとしても残っている。
 新羅となると、八幡太郎義家の弟で、新羅三郎義光ぐらいで統一姓どころか何も伝わりません。
 百済にしても「クダラにあらざれば人にあらず」とし、クダラねえといった俗語が21世紀の今でも使われる程なのに、法隆寺の百済観音像の他は、平安初期の画人百済可成の名ぐらいしか残りません。
 三韓時代から日本列島を植民地にして、あらゆる地域を三分し備前・備中・備後と命名していたくらいのオーナーなのに、各別はおろか統一姓すら伝わっていなくて、
奈良の国名すらも、今では「オナラのごとく消え」とされ、江戸期でも「音はすれども姿はみえず、ほんにそれゆえヘイ城京」と狂歌にされているくらいです。
ということは徹底的に奈良人は進駐軍によって奴隷扱いされキイの川の流域に初めは閉じこめられ、やがて男はヨボの走り使い、女だけは単身進駐の大陸人の臥床御用だったようです。
 「いにしえのナラの都の八重桜今日ココノヘに匂いぬるかな」の唄にしても、
桜の花は八重桜にしても染井桜にしろ決して芳香などは致しはしません。
 また、良い香りは、かおると言いまして、匂うというのは臭いということです。ヤエは古代クダラ語の女人のこと。サクラは寅さんのような香具師言葉になっては、人寄せの連中の意味になりますが、
群がるとか多いの複数の意味でした。つまりこの歌を綺麗ごとに教えこませているのは学校歴史の嘘でして、当時の怨歌であるこの意味たるや……
昔の奈良の女どもは粟ばかり食していたゆえ、キビ、つまりコウリャンを食させるようになったので、消化不良でガスが溜るのか、その最中にさえプウスカ洩して臭くて堪らぬわえ……
といった進駐軍の歎きのバラードが真実なのであります。
 が21世紀の令和になっても「朝鮮美人」とよばれるのが、白人とのハーフ全盛の現代になるまではおおいに賞讃され、かつては女優の司葉子がそうよばれて人気があったのをお覚えの方も、
まだいられるでしょう。
 つまり8世紀を女上位の時代とみれば、ブウブウやりながらも威張っておられた奈良美人の世ですから、これを奈良朝とよんでも、一向に差支えはありません。
しかしクダラ系の中大兄の天智さまの死後、その御子の弘文さまを倒して、取って代わった天武さまは反クダラで大陸人である。次の持統さまはその妃であられたゆえこれは同系。
御子の文武さまとてやはり同系。ついで立たれて大和平城に遷都された元明さまとて文武さまの御生母ゆえ、やはり同系貴種であらせられるのであります。
次の元正さまも元明さまの皇女ゆえ同系。聖武さまは元正さまの御子ゆえ、やはりまた同系です。
 藤原鎌足の孫にあたると伝わる光明皇后さまを迎えて、おおいに仏教のPRをなされ、やがて御子の孝謙さまへ西暦749年に御譲位なされたが、
7年目にまた御自身が取って代わられて人皇49代の称徳さまにならせられたもうが、慎しむべきは何んとかの途と下世話にも申すよう、道鏡さまのことで問題になり、
やがて崩じられて、次は光仁さまの世となりまするが、さて781年の天応元年、「正月三日、光仁帝、不豫ノ故ヲモッテ、桓武四十五歳二譲位」という緊急事態となるのであります。
 何故に継体王統に突如として、この時に消滅させられていた奈良系の桓武さまが人皇50代になられるのかという謎は、なんの文献も残されてはおらず「六国史」にさえも何もでていません。変です。
 まさか唐によって滅ぼされた百済が、このとき再興して唐を破り日本へ攻めこんできて、河内の国より桓武さまをかつぎだしたという訳でもないようです。
だが、明白に同年十二月に前帝崩じたもうや、恐れ多くも桓武帝は「天皇哀号卜咽ヲ摧イテミズカラヤムコトアタワズ」つまり、帝は悲しまれて、
哀号、哀号と叫びつづけられ咽喉をつぶしても、なお叫ばれ哀悼の意を表されたというのです。
が何故にこんなことを、藤原勢力がここまで書き残しているかといえば、せっかくの王統がここで替わるゆえ、その埋め合わせに挽歌として強調して、こうした文章を書き加えたのでしょう。
不自然さはそのせいだという事がこれで判ります。
                 
つまり西暦七八四年までが奈良朝となるのならば、最後の3年間だけが実際の奈良系の王朝です。
それなのに一括し「奈良朝時代」などと日本歴史がするのは、結果論によると申しますか、はたまた、「終りよければ、すべて良し」のきめつけでしょうか。
まことに何も裏付けするものは残っていません。
これは中国勢力(藤原氏)が自分たちの都合で、すべて匿してしまっているので、今も誤られている藤原日本史なのであります。
さて、せっかく大化改新のクーデターを敢行させた黒幕のフィクサー藤原鎌足が、中大兄の死後はその御子の弘文さまも殺して、自分らの世となし、
朝鮮美人の臭みにも馴れ、おおいに持ちこんできた仏教の興隆につとめていたのに、この期に及んでどうして、又も逆に戻ったのかとなります。
それは日本原住民が蜂起したため、治安維持のために旧奈良人を味方にせねばならぬ突発事態になったから、やむなくとった政策であろうと想われます。
その証拠に、西暦七七四年七月に藤原王朝は、陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂を副将軍として河内守紀ノ広純を任命して、検税使を各地に向わせ反乱鎮圧に出向いているからである。
そして駿河麻呂が討死となるのは日本書紀に書かれている。
さて、世に史書と云われるものは数多く存在する。記紀を「これしか無いのだから、これが正しい」として、歴史屋は金科玉条のものとする。
しかし、実態は上記した通りである。ここで一つ例を挙げれば、現在一級史料と云われる「細川家記」がある。
あれだけ詳細に書き残されているということは、本能寺を襲った第一戦部隊に、先祖の細川幽斎が参加していたという、事実を糊塗する目的の書なのである。
誰が、何のために、何を隠したいが為に書かれたのか、ということを必死に考えることが大切なのである。
そして、記紀などは「歴史の改竄」等の生易しいものではなく、己らに都合よく歴史を捏造したものだという事である。


山本五十六

2020-01-17 11:39:01 | 新日本意外史 古代から現代まで
山本五十六

先日、映画の山本五十六を観ました。主役の役所はそれなりの演技で無難に演じていました。
しかし脚本は山本を美化しすぎ、形而上的に捉えすぎている。 故人となったが、阿川弘之著「山本五十六」の方が秀逸といえるだろう。
 この山本を演じた役者は私の知る限り歴代8人居り、時系列では以下となる。
大河内伝次郎、佐分利信、藤田進、三船敏郎、小林桂樹、古谷一行、丹波哲郎、役所広司。
 一番はまっていたのは小林桂樹ではなかったろうか。
さて、米国の国力を知り尽くしていた山本が、「一年や二年暴れてみせる」等と嘯くのは所詮は軍人の悲しいさがでしかない。
海軍が「油がないので戦争はできない」と強い姿勢を見せれば、陸軍だけでは戦争はできないから、日本は違った方向へ転換出来たろう。
 この山本を名将と評価する人も、凡将という人もいる。此処ではその評価は避けて読者の判断に委ねるが。
 
 開戦にそれほど反対なら、山本の内面の葛藤にもっと迫るべきである。
前記のように、山口多門を連れて米国滞在中、かの国の国力をつぶさに見聞した山本は米国を恐れ、米国との戦争には反対だった。 
 しかし、開戦となったら彼の戦略としてはハワイを徹底的に叩き、太平洋艦隊が二年位活動できない間に早期の和平を結ぶことだったのである。
その為には艦船や飛行場だけでなく、石油タンク、ドック、修理工場、艦隊司令部までも徹底的に叩くつもりであった。
 だがこの時の日本の軍令部の戦略は、山本の強いハワイ奇襲作戦の要請に引きずられつつ許可したが、
ハワイの艦艇をやったら、自軍の艦艇の損害を恐れて、さっさと逃げて来いという方針だった。
  だから南雲は艦船と飛行場をやったら、もう浮き足立って逃げ腰になって指揮官としては失格。これは言われた事しかやらないという
官僚的体質の最たるもの。虎の子の空母を沈めて自己の経歴に傷を付けたくないという、責任逃れで海軍軍人といえども所詮は官僚でしかない。
山口多門は、石油タンク、ドック、修理工場などを徹底的に破壊するため、第二次攻撃を主張したが聞き入れられていない。
 彼が第一航空艦隊の司令官だったら、この後の戦いの展開はかなり日本に有利に働いただろう。
その点アングロサクソン民族は徹底的にやる。
  米国のように戦時ともなれば人事はガラリと変わり、ハワイ空襲の責任をとらされキンメルが解任されると、
新太平洋艦隊司令長官抜擢されたミニッツ(当時は少将)は26人も飛び越えての大抜擢人事を平気で行う柔軟性がある。
  比べて日本は戦時といえども相変わらずの年功序列主義を棄てきれず、あたら山口のような稀有な勇将の抜擢も出来なかった。
さて此処からは歴史のI F になるのだが、
百歩譲ってどうしても真珠湾をやるのなら、山本は海軍軍令部と陸軍参謀本部を説得して以下のような作戦を日本は採るべきだったと想うのだが。
  先ずその戦略だが、正規空母6隻の他に、輸送船団と、小型空母5隻に陸軍3個師団(約六万人)を乗せ、オアフ島の砂浜に乗り上げてでも上陸しハワイを占領する。
勿論、戦艦部隊(山本も大和に座乗し陣頭指揮を執る)は同行して艦砲射撃で援護に当たる。
当時ハワイに居なかった米空母、ヨークタウンやレキシントン等は、占領阻止の為、急遽迎撃して来るだろうから
索敵を厳にして、これらと戦闘の末たとえ日本側空母に3隻程度の損害がでてもこれらを撃沈する。
 こうして太平洋艦隊の米空母を全滅させ、太平洋艦隊艦隊司令部も占領、全員を捕虜にしてハワイを占領後、次の作戦は、
(捕虜に関しては後の停戦交渉を有利に進めるため、ジュネーブ条約を遵守する)
 米国西海岸全てのドックや港湾施設の爆撃を周期的に行い、パナマ運河も向こう二年ぐらい使用不能にするため徹底的に爆撃破壊する。
さすれば新造空母や戦艦を建造するのは、東海岸の港湾に限定され、艦隊を太平洋に回航するには南米最南端のドレーク海峡を通るしかない。
 そして日本は、南極大陸最北端のエレファント島に潜水艦基地を造り、伊号潜水艦を網の目条に配置し、通過する米国艦隊(特に空母)を補足雷撃し、
網から漏れた艦船を追跡し、位置や航路を連合艦隊に逐次報告し、情報を分析し、日本空母艦隊はこれを補足殲滅する。これらの全作戦計画をハワイ占領後一年以内に行うのである。
日本が米国と戦ってワシントンに日章旗を掲げること等荒唐無稽なのである以上、
これらの作戦は所詮、米国の工業力がフル稼働し、大攻勢をかけて来るまでの時間稼ぎでしかない。
この後の段階として、アジア地区の米英仏植民地を順次開放し、体制は王政でも民主主義でも、その国の民意に委ね日本軍の軍政は厳に慎む。
文字通りの大東亜共栄圏の確立になり、日本はその盟主の位置を確保する。
 結果として南方の石油や鉱物資源も手に入り、日本の国力もつく。
 いずれアメリカは最終決戦を仕掛けてくるだろうから、ヨーロッパではドイツに勝たせるため、日本関東軍は満州に置き続ける。
これは極東ソ連軍をヨーロッパ戦線に投入させないためのブラフである。
ドイツがソ連に勝てば、それまでにアメリカと講和を成立させておいて、今度は日本は連合軍に参加して、 中東の石油資源を確保する。其の為ドイツ軍と戦うためのアラブ作戦も
立てておく。(実際参謀本部はアラブ作戦は立てていた事実がある)
これらの計画を元に米国との休戦又は和平の時期、条件(日本は相当譲歩することになるが、 満州も返し、ハワイも捕虜と一緒に返す。負けて国土が焦土になるよりは余程マシである)を探る。
以上が戦争に負けないための壮大な戦略である、というよりこうした方が少なくとも原爆は落とされなかったし戦争には負けなかった。
 戦争とは絶対負けてはならないものであり、次善の策として勝てないなら何処かの時点で終戦か和平に持ち込むしかない。明治の軍部は大国ロシア相手にそれを実践している。
欧米世界を相手の大戦争を仕掛けるのなら、これくらいの壮大な戦略を立てなければならないのに、当時の政治家も軍人も全くの素人集団に等しかった。
負けるのは必然の帰結。
 

細川ガラシャ殺しの秘密(ガラシャは明智光秀の三女で玉子)

2020-01-13 11:48:26 | 新日本意外史 古代から現代まで

 細川ガラシャ殺しの秘密
(ガラシャは明智光秀の三女で玉子)

 ガラシャことお玉は、当時、長岡与一郎といっていた、後の細川忠興の嫁となったが、天性まるで玉をあざむくような麗質だったゆえ、
忠興は二なき者として熱愛した、といわれている。
 それゆえ本能寺の変のあった時も、彼女に災いが及んではと三戸野(みとの)に秘かに匿し、秀吉に対して命乞いをした。そこで、その情にほだされ、
「明智光秀の娘とはいえ、そこもとへ嫁入りしてござったからには、なんの係りもないことゆえ、心配などせんでよろしい」と、秀吉も彼女がそのまま忠興の妻であることを許した。
 のち秀吉が亡くなって、関東関西お手切れとなったとき、忠興が家康について東下りしていたのを、なんとか味方に引き入れんと、
西軍は彼女を大坂城へ人質に迎え入れんとした。しかし、己れの玉をあざむく美貌をよくわきまえていたお玉は、
「私のような美しい女が大阪城へ連れてゆかれては、貞操を奪われるやも知れませぬ。それでは愛してくれている夫に申しわけとてなし」
 と留守居家老の小笠原少斎をよびよせ、己れを槍で突き刺すように命じた。
 少斎も、忠興の嫉妬が強いのはよく知っていたから、部屋へは入らず廊下から刺殺し、自分も屠腹して、屋敷に火を放った。
 そのため、戻ってきた忠興は、最愛の妻の死を悲しみ、少斎の黒焦げの屍を蹴飛ばすと、涙をこぼし男泣きに喚きたて、
「よくも早まった事をしおった」と口惜しがって泣き喚き、足蹴にしたとまで伝わっているが‥‥この話、はたして大衆作家が書くようなそんな愛妻物語だったのだろうか。

 長岡の姓を何故か改めてしまった細川忠興というのは、あの時代にあっては「きけもの」として知られた人物である。それが、そこまで取り乱すとはヒイキの引き倒しで変ではないかといった気がする。
 それにこういった話は実際に有ったにしても、今でいえばプライバシーにも当たる事柄ゆえ、伏せられてしまうのが当然である。
なのにどうして『細川家記』とよぶ家伝史にまで、これが入れられているかという謎である。
 普通なら匿し通すべきことが、事さらに記入されているのは、見せつけではないかといった疑いなのである。

 そこで、美人ではなく、この話を裏返しに組み立て直すと、
1.お玉はきわめてブスだった。が信長の命令ゆえやむなく嫁にした。
2.本能寺の変後、秀吉は何らかの必要上、お玉を殺し、差し出すよう細川忠興に命じた。しかし細川家では、幽斎が、何かの生き証人になるからと、
  出奔して行方知れずと報告して、その実は三戸野へ、切り札として隠しておいた。
3.このため秀吉としては、お玉を殺させる時機を逸したが、その内に、関白となり、もはや天下に憚るものもなくなったので、その儘で放任しておいた。
4.処が慶長三年(1598)八月に秀吉が他界。一年おいて慶長五年。上杉景勝がその有する黄金にものをいわせ、独力で天下を相手に謀叛せんとする企てに、
  徳川家康は討伐隊を率いて東上。これに細川忠興も従った。
5.さて小山まで兵を進めていた家康も、石田三成が旗上げしたとの報に接するや江戸城まで引き返し善後策をねった。その時に、忠興が家康に命ぜられたのは、
  伏見長岡屋敷へ住まわせてあるお玉の口ふさぎであった。
6.お玉が何かを知っていて彼女の口からそれが洩れでもすると困ると、かつて秀吉もおおいに案じたが、家康もこれからの合戦を前にして、これにはすこぶる難色を示した。
7.しかし忠興は、長年の妻でござればとこれをまず拒んだ。すると家康は恩にきるから大事の前ゆえ頼むとまでそれを求めた。
  よって忠興はそれではというので、安心して託せる小笠原少斎の許へすぐさま使いをだした。
8.もし、お玉が大坂城へつれてゆかれこの明智光秀の娘が、知っている事をもし責められ口外したとしたら、家康の信用はがた落ちして、
  関ヶ原合戦に先立ち東軍についた諸大名は、みな四散してしまう恐れがあったらしい‥‥ことにこれではなる。
  つまり、逆にすると、こうした結果になる。もちろん当て推量であって、唯まるっきり正反対にしてみた迄のことで、これにはなんら援用できる資料など有りようもない。

 だが、こうした大胆な推理ができるのは、信長殺しの斉藤内蔵介の娘阿福が、
「春日局」の名で江戸の実権を握るや、後述のごとく、片っ端から外様大名の取潰しをした家光の時代なのに、やはり取潰しにあっても仕方のない外様大名の細川忠興に対し、
十二万石から五十四万石へと常識では考えられぬような大巾の加増がなされるという奇怪さからである。
 とはいうものの、これまでの説を、まず順を追って当たって行かぬことには、話が飛躍しすぎるからそれに戻ってみるが、どうも話しは、もちろんみな真赤な嘘であるらしい。
いくらお玉が美人であったとしても、その夫を味方にする目的で、大阪城へ連れてゆこうとした西軍が、彼女の操など奪う筈はなかろう。これは常識である。
 それに、このとき彼女は既に三十八歳。長子の忠隆も二十歳になっていたのである。いくら美人であったにしろ、ろくな化粧品もなかった時代の、しかも四十近い女にそんな心配があろうか。
 また忠興は激怒して、少斎の遺骸を足蹴にしたというが、関ヶ原合戦の始まる前に火をつけたのが、凱旋してきた数ヶ月後まで、そのままだったというのも変てこだが、
熊本市に残っている『小笠原家記』をみると、
「小笠原少斎の跡目長基に、細川忠興は姪のたね(後に千女)を己れの養女として一緒にさせ、その間にできた長之という伜に、その二十三年後の話だが、
忠興はやはり弟の娘のこまんを己が養女として縁づけ」て居るのである。
 これは『細川家記』の方にも、その裏付けが、「細川幽斎の孫娘にあたる千(せん)
女が、小笠原少斎の次男長基に嫁した」と、はっきり記録されている。
 さてこうなると、妬情にかられ屍に鞭うつように蹴飛ばした男の跡目に、なぜ自分の養女を縁づけたのか。そしてその生まれた子にまで、また養女を作って一緒にさせ、
二重三重に縁結びして、少斎の遺族を雁字絡めにする必要が、どうしてあったのかと怪しくなる。
 さて寛永九年(1632)十月のことである。それまでも、それから先も徳川家というのは諸大名の取潰しや、減封ばかりしていた筈なのが、
「恐れ多くも、上さまの思召しである」と、春日局は、将軍家光の台命として豊前小倉十万石の細川をよびだし、
「其方は、わが亡父斉藤内蔵介とも入魂(じっこん)の者なれば‥‥」つまり、斉藤内蔵介の遺児の阿福として、亡父と仲良しだったから取り計ってあげましたのだと、先によく断ってから、
「肥後十二万石、豊後三郡しめて五十四万石」と、これまでの十万石に比べると、5.4倍のベースアップをした。しかも肥後の国というのは豪気な秀吉でさえ、
「彼地は収穫の多い美国である」と惜しがって、気に入りの加藤清正や小西行長にさえ、吝って半国ずつしかやらなかった処である。
 そうした屈指の最上等の国を、まるまる忠興に、格別これといった手柄もないのに、急にやってしまったのは、何故だろうか‥‥
 さて貰った忠興はどうしたかというと、お玉が産んだ長子忠隆は山城北野へ追放、次男興秋は江戸へ送り(途中で脱走し山城東林院で、首つり自殺を遂ぐ)、
お玉の死後に別の女に産ませた三男忠利をもって、五十四万石の当主にたてた。これでは忠興が、
(お玉を熱愛していた)という愛妻美談は、どう見てもまったくの嘘になる。
 そして、お玉を殺し自分も死んだ小笠原少斎の遺族を、何重もの婚姻政策で縛ったのも、そこには秘密漏洩を気づかっての、糊塗策としかみられぬものがある。つまり、
忠興にとって、お玉を大坂城へ入れずに少斎が殺したのは、非常な恩恵であり、そのために五十四万石になれたような、何かがあったものらしい。
 ということは初めに疑わしく書いておいたが明智光秀の娘であるお玉が、大坂城内へ連れてゆかれ、そこで口を割って、もしも本当の処を、
「実は、信長殺しの真相は、かくかくでございました」とでも真相を明らかにしていたら、東軍に加担していた大名の中でも、旧織田系はいたから、
それらが家康から離れて東軍は危うくなり、関ヶ原合戦で勝てなかったかも知れぬ、というキーポイントがそこには秘められていたのだろうと推理される。だから、
「その口をふさぐ為に、お玉を殺し、自分も格好をつけるため死んでくれた少斎は、細川家にとっては大忠臣」という事になって、代々殿様の御養女を下賜されるご一門の扱いになったものらしい。

 では、その秘密とはなにかというと、
「天正十年六月二日の夜明けに、信長のいた本能寺を包囲した軍勢は、丹波口から京へ入ってきた」という事実によるものである。
 丹波は誰、丹後は誰と、国別に大名領の区画整理ができたのは、関ヶ原合戦から後のことで、天正十年の頃はまだ入りまじっていて、丹後でも三戸野辺りは明智領だったが、
丹後も京への入口の船津、桑田の二郡は、これは当時長岡藤孝を名のっていた細川家の領地である。
 つまり、その昔、
「大江山」とよばれた老の坂から京の入口までは、「長岡番所」とよばれる細川家の見張番小屋が何ヵ所も続いていて、京への出入りを監視する役目をいいつかっていた。なのに、
「敵は本能寺にあり」と叫んだかどうかは判らぬが、斉藤内蔵介の率いる軍勢が、この何ヵ所もの細川番所の関所を、六月一日夜から二日にかけて、堂々と通ってきたのである。
しかも僅かの人数が巧く身をひそめ、隙を窺って通り抜けてきたというのではない。
 一万三千の頭数が堂々と大手をふり、フリーパスで通行してきたのである。こうなると、細川忠興やその父の幽斎は、斉藤内蔵介としめし合せていたか、
前もって徳川家康に頼まれてOKしていたかということになる。
 そうでなければ、一万三千の内の何パーセントかは、細川忠興または幽斎の率いていた丹波桑田か船津の兵ということにもなる。
 つまり細川家こそ、巧く生き残った信長殺しの下手人の一人で、「その汚名をかぶせられた明智光秀の三女であるお玉」は、その真相を知っていたからこそ、
もし大坂方に暴露されては、徳川家の不為と考え、少斎がこれを刺殺したのだろうし、「その時の借りを返すため」に徳川家は、斉藤内蔵介の遺児の春日局の手をへて、
5.4倍の増禄をあえてしたのだろう。なお、
『細川家記』には、明智光秀の手紙と称する物が入れられてある。
 光秀自身が自分が謀叛をしたのは与一郎(忠興)の為であるといった内容のものである。これは、文章が次々とおかしく、与一郎に敬語をつけている点などから、
細川家の家来の贋作ではなかろうかと、故高柳光寿氏も指摘しておられたが、細川家といえば名家という事にはなっているが、
十二万石から明確でない理由で熊本一国の領主になっただけあって、なんとか取りつくろおうと懸命になって、その係りの専属家臣をも代々おいて、
さも尤もらしい色々な話を創作したというか贋作させ、それをまとめて、
「細川家記」として今に伝えているのだろう。もちろん後半はなんということはないが、幽斎、忠興の二代の間の記録ときたらみな眉つばものであるといっては過言ではあるまいといえる。
 なにしろ、イギリスの推理作家アガサ・クリスティでさえ、
「アリバイが揃いすぎ、もっとも尤もらしいのこそ怪しい」といい切っているのが、細川父子にも当てはまるのではなかろうか。
 だが、それは信長や光秀、そして殺されたお玉お側からいうことであって、五十四万石に所領を増やし家臣一同をうるおした忠興の存在は、
細川の家来にとっては神様みたいな存在だったから、肥後一国の全力を結集して色々と庇うように、手作りの史料などを付け加えたのでもあろうか。


国定忠治はサンカ 日本一の大親分 大前田英五郎 日本一の大親分 大前田英五郎

2020-01-08 17:14:33 | 新日本意外史 古代から現代まで

国定忠治はサンカ
日本一の大親分 大前田英五郎
ホステスの源氏名は騎馬民族の専売

国定忠治がサンカだったという裏づけできる証拠はある。
まず、上州関戸の関所に詰めていた捕り方連中に、捕物術を指南していたのは、馬庭念流の樋口道場である。
この道場で六尺棒で相手を打ちのめす訳だが、棒術の稽古をつけ、捕物の時には出動させていたのが国定村の忠治や子分たちだった。
しかしある時、関所の捕り方と「顔見知り」ということで関所を通り抜けさせてしまった。
これが問題になり「忠治を捕らえろ」となったところ、忠治は子分達と共に赤城山に立て篭もってしまった。これが関所破りだということになり、土地には居られず、
町道場が解禁となっていた江戸へ出てきて「矢留術」を売り物にして有名になった。
このころはもう鉄砲の時代になっていたが、素早く刀を左右に振って、飛んでくる矢を払い落として留める様、弾丸もエイヤッと払い落とせると宣伝して流行した。
この矢留術というのは、戦国時代に発祥したもので、鉄の盾が造られない日本では、竹や、重い大きな木製の盾が主流で、その他は死なせても惜しくないサンカ族を捕らえてきて、
竹の棒を二本持たせ、飛んでくる矢を打ち払っていた、いわば「人間の盾」でもあった。
さて、有名な八木節に「ちょいと出ました三角野郎が、四角四面の櫓の上で・・・・・・」と今は三角四角と幾何学的に唄われ、それがまかり通っているが、八木節の始めの文句は、
「サンカ野朗」だったと「上州小唄集」に残っている。
 現代になっても、弱きを助け強きをくじいたと忠治に人気があるのも、日本にはサンカの子孫が多く暮らしていて、庶民に人気があるのだろう。
この国定忠治が殺されてから、その子分の何人かが、日本に居られなくなって、はるばる米国まで渡って活躍した事実もある。

 さて、同じ上州の大前田村に大前田英五郎という親分が居て、全国に何百箇所と賭場を持っていた。
この賭場のカスリ(博打のテラ銭)の集金には、とても一人じゃ手が廻らないから、各地に住むサンカが取り立てて、大前田村へ届けていた。
また、各地で喧嘩が起こると、その仲裁もしたので、礼金としても、盆の上がりの良い賭場を貰いうけ、
そこではその土地の親分が英五郎の代わりに開帳し、儲けをそっくり送っていたという義理堅さは文久二年まで続いたというから、
 各地の親分(貸元)はサンカの居付きが頗る多かったことのこれは裏書になるだろう。
 さて、貸元とか代貸といっても、ヤクザの親分は金融業ではないから、盆御座の勝負は当然現ナマで、客が借金をすればホシといって、次の日の夕方の星が出る迄が、返済期限の掟だった。
ホシというのは負けの隠語だが、逆に運よく勝ち目が続けば、星の逆だから「月」といい、 「ツキが廻って来た」という。これは今でも使われている。
 そして、サンカの「居つき」の「つき」も、本来はこの意味で、運よく追っ手に捕まらずに居付きが出来て、安心して瀬ぶりが張れた(河畔にテントの様な寝泊りの場所)ことを言う。
 しかしこれが仏教側にかかると逆にされてしまい、「狐ツキ」だとか「ツキモノがする」と怨霊扱いにされる。
  飛騨の「ゴンボ種」と呼ばれる被差別も土地では「ツキ」と呼ばれていたと、「日本の特殊」には書かれている。
 何故かと言うと、サンカは昔からよってたかって苛められ、石を投げつけられてばかりいて、百姓や一般庶民はサンカの恨みをかっているので、彼らの近くを通って睨みつけられると、
ゴンボウみたいに変身すると恐れられたとある。
このことは、サンカが虐待されっぱなして、抵抗すれば殺されるので、念力で仕返しするしかなかったという悲惨さが滲み出している。
さて貸元、代貸というのは大戸の関所手前の国定村に、関所を通る札を貸す親分の忠治が住んでいて、関所を出た所には代貸として国定一家の日光の円蔵の叔父貴が構えていた。
江戸時代は、幕府の政策で関所では馬匹の通行が厳しく、従って馬にちなんでアオとかカゲ、ハナジロなどの駒札が在った。
馬を厳しく取り締まるのが主眼だから、人間の馬方は問題ではなく、駒札さえ見せれば馬無しでも通したのか実態。
東からの者は忠治親分の処で、その人体で百文とか二百文と値踏みされて、通行手形のない無宿者が駒札を借りて通り抜けていた。
 一方西からの者は、日光円蔵親分が忠治親分に代わって、旅人の値踏みをし銭を取り駒札を貸す。
 関所は夕方の暮七つ、今の午後五時過ぎには閉ざされた。そして関所ではその時刻までに溜まった駒札を、一枚三十文ぐらいの割合で使いに来た忠治の子分で板割の浅太郎あたりに渡す。

これは翌日また、その駒札を使わせて別途収入を計るためである。
大渡の関所辺りでは日に十枚か二十枚ぐらいのものだったろうが、それでも関所役人の昼飯代ぐらいにはなったらしい。
 さて、翌朝まで積んでおく駒札だから、賭場で現金代用の今のチップのように使われたのである。
これは大度の関所だけでなく全国何処でも同じで、箱根の関所を抜ける駒札は富士吉田の長兵衛親分だが、ピンは一貫匁からキリでも五百文と高かったと「富士講宿控」にはある。
 徳川幕府の「入り鉄砲に出女」は建前で、箱根の関所は旅人の銀や小判を天下の権力で召し上げる他に、下っ端役人が役得で長兵衛の廻す駒札で旅人を通させるのが黙認されていた。
(箱根の関所について以下に記しておく) 
「箱根の山は天下の険」という有名な歌がある。この歌は何のことは無く、箱根に登山鉄道が出来た際のPR用の宣伝唱歌なのである。
江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。
 日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。そして余分を持っていれば没収されたものである。
箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。
 日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前 「手形の由来」に記したが、
此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。
 そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、
豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。
だから東海道宿場の中では、ここ三島が大いに栄えたのである。
 
 さてこうした制度のため、東西を旅する人間は小田原藩の支配する箱根の関所で両替をする際、かなりあくどい金銀交換率で、小田原藩は儲かったが、庶民には過酷な制度だった。
 だから、東下りしてくると所持の銀を「どうせ箱根の関所で銀は安く叩かれて交換されるんだから皆使ってしまえ」となって、女でもを買って遊んでしまえとばかりの遊客が多く、
従って三島の宿の女郎屋は大繁盛、女も大忙しだった。
 それで女達は掛け持ちで忙しく、化粧直しということにして誤魔化したから(これをマワシをとるという)
「三島女郎衆はノーエ、三島女郎衆はノーエ化粧が長い・・・・・・」といった俗謡にまでなってしまった。
 そしてこの唄が幕末になると「野毛の山からノーエ」と変わって、幕府歩兵隊の軍歌となってノーエから農衛隊とか菜っ葉隊となるのである。
 新撰組の土方歳三が甲陽鎮撫隊に加わって欲しいと説得に行ったが、全く一人も参加しなかったという部隊である。
 この部隊はフランス軍の将校達が調練したという、当時としては最優秀部隊であった。
なおこの歌は様々に歌詞は変化したが「富士の白雪ノーエ」など、昭和の初めまで、軍隊や学生の間で広く歌われていたものである。
さて余談が長くなったが、
現代、関東博徒系ヤクザの連合体で「国粋会」傘下の、生井一家、落合一家、田甫一家、伊勢紙谷一家、佃政一家、金町一家など、江戸時代から続く名門が生き残っている。
だから秘密裏に賭場は開かれているようだが、親分や総長ともなると一晩に億単位の金を落とすと言う。
さて、「駒をまわす」というのは賭場用語だが、これは馬を曳いて来ることではなく、駒札の流用だった。
 江戸期花街で客引きをするのを牛とか牛太郎といい、勘定不足で家まで取り立てについてくるのを馬とか、つけ馬という。
スナックやバーで、懐具合も忘れてつい飲みすぎ、金が足りなくなって、ホステスやバーテンが自宅に取りに来るのを「つけ馬」といい、これは現在でも使われている。
さて、江戸時代の花街では芸妓の名前を本名では呼ばない。(現代でも温泉場の芸者やネオンの巷のホステスも、決して本名は名乗らないのはこの時代からの習慣なのである)
騎馬系民族の限定職だったから「源氏名」とよぶのである。
昭和のキャバレー全盛期には、大箱ともなるとホステスの在籍は500人から1000人も居た。多すぎて源氏名(真由美さん、里香さん、由梨枝さんなど)では間に合わない為「星、月、花」組と分けて、
客の指名が入れば「星の123番、86番テーブルへどうぞ」などとやっていたものである。
これは大江匡房の「傀儡記」にも書き残されて伝わっているように、騎馬系は遊牧人種ゆえ、
農耕も漁業も一切しない為、日本列島が大陸人らによって、建国統一され始めた頃には、生産をしないため、国益に結びつかない無駄な人種として捕らえられ、
初めのころは、体制側の豪い様が死ぬとその墓の周りに埋葬の共として生き埋めにされていた。
 しかし人口の少ない当時にあって、そうそう殺しても居られないので、ハニワの土器が造られだして代用されるようになる。
そして彼らは殺されない代わりに、守戸、森戸と呼ばれる陵墓の番人にされた。
奈良朝当時の古墳は、奈良朝それ自体が百済人の王朝だから、陵墓も当然朝鮮スタイルの前方後円墳だった。
これは遠くから望見すれば「丸い山」に見えたので、当て字では「円山」とも書く。
 さて、狩猟民族だから、墓守として何もしない訳はない。男共は秘かに抜け出して狩に行き、何日も留守にすることになる。
一方の女達は食うためには旅の男を誘っては、今言うセックス産業におおいに励んだ。
この名残から有名なのは、長崎の丸山遊郭や、東京渋谷の円山と、全国的に花街にはこの名前が多い。
この国の建国統一時期から、体制側はお上にまつろわぬ、厄介な者達として、卑賤のなりわい者としてサンカを差別したのである。