新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

「日本マリファナ考」 四国お遍路は死の行進

2019-05-26 16:53:21 | 古代から現代史まで
 「日本マリファナ考」      
 四国お遍路は死の行進 

マリファナとは大麻の葉を乾燥し樹脂化したり、液体状にしたものだが、日本でも麻薬として使用栽培は禁じられている。
 そして現代の常識としてマリファナの日本への流入は、ベトナム戦争の時、米兵が持ち込んで流行させたということになっている。
 しかしこんな近代ではなく、かなり古くから日本で栽培されていたという史実が、隠されてはいるが在った。
また、大昔から麻が植えられていた様子が日本書紀や古事紀に見られるが、これはあくまでも少量で薬草として用いられていたにすぎない。
これが国家権力によって大量に栽培され、しかも当時の明国へ献上していたという事実がある。


それは室町幕府という足利体制の時代なのである。
そもそも足利体制というのは、明国に援助されて成立した政権だから、明国の属国並みだった。
当時の日本は貧乏国で、山金が豊富に採掘されたが、これは貨幣にも鍋釜にもならずだったので、鉄の産出が全く無いため、明国からは鉄の粗悪なビタ銭と金とのバーター制で同量交換の供出をしていた。
 さらに今のベトナムが当時未だ雲南省に含まれていて、その先の今も言う魔の三角地帯が、良質の阿片や麻の栽培をしていた。
 これらを明国の都まで陸路で運ぶとなると、途中に跋扈する異民族の匪賊にほとんどが略奪されていた。
これに手を焼いた明国は南シナ海から日本列島まで流れる黒潮暖流に目をつけた。
この海流はベトナムからでは半月ほどで四国の沿岸にたどり着くので、ここに目をつけたのである。
そしてベトナムから種子を大量に輸送し、四国での栽培を命じた。
 ここで大麻が収穫出来れば、今度は明国沿岸、現香港近くの広州までは冬の北東の風を待って七日位で着くから、匪賊からの略奪を防ぐことが出来た。
  足利氏は輸入栽培取り入れ輸送の一切の業務を一条御所で仕切った。
日本では昔からマリファナは大麻とか当麻、ゴマと謂われていて、現在も徳島には十六枚の菊の御紋章を軒灯につけ、ずらりと拝殿の軒先に吊るした壮大な「大麻神社」がある。
何故ここに在るのかと言えば、何と言っても大麻を無事に収穫して、滞りなく明国へ送らねば大変だから、虫害や海難の無いよう守護神として祀った、その名残だろう。

さて、今も四国の巡礼は盛んだが、これは江戸時代から続いていて、一般に「西国八十八ケ所」
となっているが、四国は高野山の真言宗と違って現代では三十三ヶ所とする。
 現代では「自分探しの旅」だ等と訳の判らぬ事由で廻る人も多いが、元来は業病や重病人が廻り歩くものだった。
しかし良く考えてみれば、重病人が次々と札所を巡礼して歩いても疲れるだけで病気など治る訳も無い。なのに何故に四国へ渡ったのか。


紀州の高野山の方が良いとも想われるのだが、それには訳があった。
 明国の為に一条御所から役人が監督に来ていて見回りを厳重にしていたが、大麻の栽培畑から自然に風に乗り種子が飛んで、極めて良質なものが野生に自生していた。
つまり次々と札所を廻って歩くという行為は、落ちこぼれの大麻を見つけて、火をつけて吸い込み
痛みを紛らわせて、何処かで仆れて自然死するための巡礼行だったのが本当なのである。そうでなければ意味が無い。
マリファナを吸うと、一つの物がダブって見える幻覚が最初の症状だが、「同行二人」と笠に書くのはこの意味であるし、マリファナを隠すため「弘法大師様と二人」とも誤魔化している。
 まあこうしたマリファナに関する云われは数多くあって、有名な曼荼羅絵巻だってあれはまさしくマリファナである。
講談で「満願の日になりますと不思議や白煙もうもうと満ちてきて気を失い・・・・・」というのもマリファナ現象である。
中国が唐の時代、彼らは仏教を日本に持ち込み布教しようとした。しかし日本原住民は言葉が通じないため、手っ取り早く目から入るように、紙芝居のような地獄図絵を見せ、寺の締め切った本堂で大麻を燃やしておいて幻覚で恐れおののく彼等が改宗しますと言えば、今度は極楽図絵を見せてホンワカさせたらしい。
 
これは日本が建国統一された七世紀に初めて持ち込まれて広まったらしく、古事記には「当麻の蹴速」との人名さえある。
 さて、阿波の徳島は、仏教側からは阿保と蔑まれていた土地柄で、何故なら海洋渡来系の原住民が多く住んでいて、ハチと呼ばれる同族の尾張の蜂須賀小六の倅家政が阿波一国を与えられた。


大麻の収穫期の繁忙期には取り入れに住民どもを集めた。
 この時大陸に送るのは葉だけだから、枝木は残った。
これを城内の角櫓に積み、保管するのだがそうそうは蔵いきれないから、昨年までの古いのは焼却処分にした。
 しかし大麻のマリファナ成分が樹脂となって凝固しているから、集められ働かされた者達は煙にむせてマリファナ現象で踊りだす。

見物している側もつい混じって踊りだすのが「踊る阿呆に見る阿呆・・・・・・」となった。
これが現代に続く「阿波踊り」なのだが、観光用で、まさか大麻は吸えないのでしらふで踊っている。
 四国は、長崎の出島の「当家」と呼ばれる輸出入業者を通さず、大陸とは季節風で行けたので、
徳川期はもとより明治になっても輸出は日清戦争まで続いたという。
この後、日本からの輸入が途絶えたため、英国がインドから清国へ輸出して、これがアヘン戦争の原因ともなったのである。
アヘン戦争に関しては以下を。
https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89

(注)昭和初期まで日本中の神社の裏には大麻が自生していて、これを乾燥させてお守り袋に入れて売っていた事実もあり、これは足利時代からの実に数百年にわたる、名残である。



大久保彦左衛門の実像 新田男爵によってばらされた徳川綱吉の実像

2019-05-26 09:51:29 | 古代から現代史まで
 
 
<日本歴史資史料集大成>に星野恒は、江戸時代から伝わったものとしてドイツ式の実証主義的歴史学で三河物語をのせていますが、 その内容は三河譜代といった在りもしなかった神話の著書でしかない。
講談で有名になったせいか、大久保彦左衛門が書き残した物として有名ですが、その内容は「この一書は吾が子孫の他は絶対にみせるべからず、もし見つかりそうになった時は燃やすべし」と、 前書がしてある割には、現在活字本で復刻版となっているものは、「神君家康公物語」であって「われ老人の事なればしかとは書けぬが、当今は御主君さまや旗本どもとて筋目も知らずに、 三河者ならばみな御譜代の衆のごとく、誤って思いこんでしまっているが、そうではない事を明白にしておくために書き残すのである。もちろん他へ見せる為のものではなく門外不出のものゆえ、 他人の事は書かぬ」と書きだしているくせに、後に書き直されたのか、唯神君家康公より代々の将軍家の仁慈をのべて、わが子孫はおおいに忠節を尽さればならぬという教訓めいたことで終始しています。
 
 
 恐らく大久保彦左の名で、その孫あたりが書いたものだろうと想えますのは、彦左は幼名は兵助といつたが、しかし、その出身は三河者ではありません。 伊良湖岬灯台が観光名所となっている愛知県渥美半島のバス路線には、若い頃の彦左が村娘をよく曳っぱりこんだと伝わる「兵助畑」のバス停留所さえもあります。  始めは兄の大久保忠世に従って二千石でしたが、兄の死後は自分が大久保本家の跡目になるものと思っていたのに、忠世の跡目はまだ幼少の甥にあたる忠隣がなって面白かろう筈はありません。 その頃の小田原十万石は天下の権によって箱根に関所を置いて、東下りする者からは銀を格安に召しあげ、逆に西へ行く者には割高に金を銀に交換し、 東西で貨幣本位が箱根を境に金と銀に分かれていたのが実態で、 現在の通関税ともいうべき、莫大な利得が得られる領地でした。それゆえ春日局が前夫の子の稲葉正則を、「なんとか小田原の領主にしたいものよ」と家康に求めたからして、すかさず彦左はよばれました。   てっきり自分が小田原十万石の大名にして貰えるものと勘違いした彦左は、大久保の家名を貸し与え、一族にした大久保長安の産出金横領事件に、大久保忠隣も関わりあったように証言し、 よって大久保家は左遷となった。しかし、その後は彦左ではなく稲葉正則になってしまったので「話が違う」と憤懣やる方なく「大御所さま、あんまりでござりまする」と訴えにいった処、 三河大久保の家名が絶えていたので、前は陪臣で小田原で二千石だったのが、今度は直参にして貰えてやっと同格の扶持を貰うことができた。
 
この時、大久保彦左が血相を変えて江戸から駿府へ駈けていったので、すわっ、天下の一大事かと、まさか彼がこのとき自分のことでのりこんだとは知らず、皆を驚かしたものだと広く伝わっています。 「天下の御意見番」といったような講釈種になったのも、この誤伝からの伝承だったようです。 「細川家記」とか「毛利家記」と同じように「三河物語」も後世に真実を伝えようとするものではなく、何かを隠さんが為に、その子や孫が、儒臣どもに命令して拵えさせ作らせたものであります。 「三河物語」にしても、恐らく当初は、大久保本家を裏切った形になっだので憎まれるのを恐れて、惡いのは春日局であり、はめたのは家康であると、大名になりそこねた怨み節だったのでしょう。 がそれでは大久保の家が危ないと、死後すぐ処分してしまい、純粋な三河者で旗本になっているのは、ほんの数名しかないのですが、旗本たちを統率してゆくため、 「三河譜代」といった綜合名詞をうみだしてまで、徳川体制を守ってゆくために、これは書かれ広められたものとみるべきです。が、これだけでも不足だったのか〈三河風土記〉なる本さえも出廻りました。 しかし、維新になると明治新政府は、徳川に対し「祖宗の地に戻らるべし」と駿府七十万石にしました。「生まれは、遠州浜松在……」といえば、旧幕時代はみな「はあッ」とかしこまったように、家康の生 まれ育った処は当時は三河ではないのは知れ渡っていても、それでは親衛隊の旗本が纏まらぬ為めの本である。
三河譜代の臣は二名しかいなかった
 明治四十二年には二百部の限定非売刊行とはいえ、「史籍雑纂」が出されて、その第三巻には、沢田源内が大量に系図や その裏書にと数多くの本を刊行したのだということは、 その「緒言」にも書かれてあるが、この第三巻には、他に「諸由緒」や「家伝史料」とよぶ、太田南畝の集めたものも入っている。
が、三河普代が二名きりというのでは、通俗歴史の信奉者で、テレビ、映画や山岡荘八の小説の読みすぎの方には疑義をはさむ人も いるだろうから、建部賢明の「大系図評判庶中抄」を、 ここに原文を引用してみることにする。   勿論、この書は建部が源内の嘘に怒って、それに対する反論、やっつけの目的で本文は江戸中期後に書かれたものである。
 「家名に禄を賜る」「家門の誉れ」といって、建部の先祖である六角佐々木の家の名誉を、源内に作り変えられ、盗まれたと、 これは建部賢明の憤怒の書なのである。 系図屋とは警察用語では、ケイズ屋といって盗品故物売買業者を指す隠語で、現在も使われているのは、ここからきているのである。
『 沢田源内なる者は近江国の生まれにて、種姓も知られざる凡下の土民なり。父は沢田喜右衛門とて、坂本雄琴村に手ずから鋤鍬を とって、僅かな地に耕作して世を渡りし農夫なり。 小林氏が述作せる「重編応仁記」には其名を仁左衛門と云いて、江州堅田村に小分けの百姓也と書す。武州忍の城主阿部豊後の守忠秋に、正保四年の頃、加恩の地を江州に賜りし時、喜右衛門その家の吏官某の 下司となりて名を澤田武兵衛と改め、租税のことを司りしに、よろず才覚有りければ、後に忠秋より忍の代官手代となされる。
これより先本国にありし時、同の百姓和田村勘兵衛の娘にイヌといえる女を娶りて子を生む。その名を喜太郎という。  下種の子たりといえども容貌生まれつき優なりしかば、稚児として是を青蓮院尊純法親王に奉りて、かむろ小姓となす。  門主是を愛して常に御傍を離さず召使われしに、天性強記にして書籍を誦し、また筆法に敏にして能書、大唐の詩文をも広く学び得たり。しかれどもその性質奸佞。   親王の家にある銀の書盞を盗みて、ひそかに市場にて売る。よってすぐ追い出され、旧里に帰りて深く此事を秘し、山伏の姿となって偽りに諱の字を賜れりと云いて、名を尊覚と号す。
 父は速にその名を改めしむ。よって還俗して澤田源内と号し東福門院御家司、天野豊前守長信に仕え、また飛鳥井一位雅章にも仕えしか、みな主家に悪事を成し追放され牢浪の身となりてよんどころなきままに、 己が才智を以って、卑賤を隠し、貴族と号して身を立てんと欲し、竊に六角佐々木氏の正当と称し、名を近江右衛門義綱と改め、偽って定頼朝臣の長子に大膳太夫義実という名を作り、 其子修理太夫義秀、其子右兵衛督義郷三世を新たに佐々木の家系中に書き加えて己が父祖とし、義賢朝臣承禎をして義秀が後見なりとす。 父武兵衛此事を聞きおおいに驚き、後難を恐れて硬く源内を戒め、是を叔父和田が家に捕らえおき、其身は忍の地に下りぬ。是に依って密かにここを逃れ出て、彼が従弟に畑源左衛門と云える遊民の許に隠れ居て、 彼義弟等が事跡を作り、或は旧記に都合よく増補し、或は新たに偽書を編作して、その虚伝を世に広めしむ父も是を憎み恐るといえども、遥かに遠く忍の地ゆえ国郡を隔てて如何ともすることを得ず。  遂に父子の関係を絶ち、やがてその後に忍において病死す。
  二男澤田権之丞が父の跡を継ぎ安部氏に仕えり。承応二年に源内江戸に来たり佐々木正統近江右衛門義綱と名乗り中山市正正信に属し、水戸侯頼房卿に奉公せんことを請ひ、 その偽譜を献上す。水戸頼房卿即ち東叡山宿坊の吉祥院の沙門某を以って、
 其系図を真の六角の正嫡佐々木源兵衛尉義忠に渡し虚実を御尋ね有りけるに、悉く偽作姦操なしたる由を申したるによって、 その奸曲現わるるのみならず義忠もまた正統を乱す事を怒って目付の本多美作守忠相をへて、つぶさに訴える。なお彼が士分を賜ることへの禁遏を加うべき由を久世大和守広之に訴えたり。   この由を聞き、大いに驚き狼狽して、夜中に江州へ逃戻り、名を六角兵部氏郷と改め、暫くは世の変を窺い居けるが、遠国にしてさのみ咎める人も無かりければ、 猶も奸謀未だ止まず、義実、義秀、義郷と己が偽名の三世を事実とせんが為、其の仲間数輩を集め、寺僧神人等を語らいて、天文六年より元和七年まで、八十余年が間の、佐々木家の日記を偽作して廿巻となす。 これを江源武鑑と名づけて刊行す。記す所は半は詭偽、半は他家の出来事にして、実に何の用なし。
 
 その後源内京都に至りて、また名を中務と改め虚系を以って諸人を誑かして、家嫡也と自称しあまつさえ吾生まれながら五品の官兵部丞たり、昔年後鳥羽帝代々補任の勅許あるによって也。 此度朝廷より四品中務大輔に任叙せりと、荒唐の妄言を吐き、蒙昧の輩を惑わせり。  嘘を覆い隠さんが為、昔将軍義満公の世、応永年中に、特進亜三台藤原公定卿の撰せられし尊卑文脈系図の中要をぬきて、
 諸家大系図十四巻と号して、世に行わるるを底本とし、佐々木の譜中に新たに多くを偽作し、己が本姓澤田氏、外祖和田氏、従弟の畑氏及び姦謀にくみする者は皆その一流となし、 又織田朝倉武田豊臣の系中にも、虚名に妄説を書添えその余諸氏の家伝を拾ひ集めて、  真偽を確かめず記入させて、全部を卅巻となし、更に大系図と名づけたり。
外にわの倭論語、足利治乱記、浅井日記、異本関原軍記、異本勢洲軍記等、皆彼が虚説を註する所なり。読む者は惑わされて、種々の誤説出て来たれり。 よって、これらを本当と想う徒輩多く、読書の篇注に引用され、故に近年は彼の偽名が漸く諸書ににて広まれり。所謂中古国家治乱記、異本難波戦記、 「三河風土記」「三河後風土記」、武家高名記、倭州諸将軍伝、浅井始末記、浅井三代記、東国太平記、日本将軍伝、諸家興亡記、武家盛衰記、東海道駅路鈴等此外にも多し』
ここに出てくる「三河風土記」や「三河後風土記」の二冊が沢田源内の贋作だったという処に、三河譜代そのものは、本当の処二名のみといえる裏付けが明白にとれるのである。   私が「三河風土記」や「三河後風土記」の二冊を入手したのは神田小川町源喜堂古書店である。昭和四十六年の頃だった。
 
 近頃は「史料」と贋作なのを知らずか知ってか活字本で覆刻版が出されているが、江戸時代に出された細長い版型の「武鑑」や旗本諸家の名前が全部記されている「寛政重修諸家譜」と対照して比べると、 百石以上の旗本で、漏れている者で、沢田源内贋作の方に入っていないのは、松平太郎左と中島与五郎の両名だけとなる。
「群書類従」的な見地に立てば、双方に同じ名があるのが裏書が取れるから正しいことになってしまい、片方にしか名前が出てこない 太郎左と与五郎の方が怪しいことになる。が、片や偽書である。さて、家康の遺骸は世良田の東照宮に今も瞑っているとされている。当時は土葬だったから、家光の代に諸大名の財力疲弊目的で献金させ、 徳川家の権勢を誇示するためのタテマエ作りに、日光東照宮へ祀った。 しかし、鋸で家康の骸の手足を切断したり、また、火葬でもないため分骨なども出来うる話ではない。つまり、日光に祀られているのは、遺品か何かの形見ぐらいの処だろう。 しかし、本物の家康が祀られている所は、上州世良田の徳川庄なのである。
新田男爵によってバラされた「徳川綱吉」の実像
 旧陸軍参謀本部編の五万分の一の群馬県分図の利根川流域の今もある尾島町世良田の徳川なのである。日本全国が結成された世良田事件発祥の地である。 つまり、明治十七年に華族令が制定され、畏れ多くも「華族は皇室の藩屏にして」との御勅語が出て、華族会の会長に徳川公爵が選任され、明治宮内省が文部省丸抱えの東大に命じて、 「松平記」なる蔵本が以前から在ったことにして、「東京帝国大学蔵版」の朱刷で、東京青山堂刊として、明治三十五年五月の発行で出してのけた。
 
この発行年月日に問題があるのである。「上手の手から水が洩る」というが、今でこそ天下の東大でも、明治の東大は抜けていた。 そもそも、この本の刊行は明治三十二年に村岡素一郎が「史擬徳川家康公事蹟」を出版し、家康は松平蔵人が改姓名したのではなく、 全く別人物の上州世良田の徳川の出身で浜松の七変化で育てられた二郎三郎だと、調べ上げて刊行したのに対して、時の明治宮内省が慌てた。
 「皇室の藩屏たる華族会長の公爵家の御先祖が、特殊出身とは何たる不敬か」と、本は警察を使って発禁処分にさせ、当人は執筆発表禁止にされたらしい。
と言うのは村岡はその一冊以後は、何処にも執筆発表はしていないからである。
 
  明治新政府は、楠木正成の銅像と新田義貞のそれを一対にして建てる計画だったのを、銅像は出来上がったが中止した。  楠公よりも立派な出来栄えだったそうだが、陽の目を見ることなく鋳潰されてしまい、代わりに「ネコ満」と呼ばれていた岩佐が他の叙爵にずっと遅れて「新田男爵」として爵位を賜った。 しかし徳川公爵が彼を拒んで宮内省に働きかけた結果。   一時金の名目だったが渡航費を渡され、家族とロンドンへ渡ると、外務省にわたりがついていたか、生活費を支給され永住となった。
さて、バロンとしてよりは猫の画で有名だった新田男爵は、「画伯」扱いされていたネコ満男爵の許へ、英国王立動物愛護協会の公爵夫人が訪ねて来て、  「世界中の王侯貴族で、己が愛犬や愛猫を溺愛したのは数多くいたが、ジャパンのイヌクボウみたいに国中の犬を愛した王は例が無い。
 
 是非当協会の名誉会員として肖像画を飾りたい」と依頼してきた。   是に対して新田男爵は、島流しみたいに異郷に永住させられていた恨みつらみもあったろうが、  「とんでもない、徳川綱吉の生類憐れみの令とは、騎馬民族の後裔で、動物の革剥ぎで儲けていた彼らが、綱吉の命令、即ち仏教に転向しない彼らを憎み、製革業者弾圧の政治目的で、 彼らの限定収容所の四谷や中野に故意に犬小屋を建てて虐めたのが真相である。
だから綱吉は生涯一匹の犬や猫も飼わず、よって元禄地震で餓死者の多かった四谷や中野の限定地とは製革業者の住んでいた場所だった。 『犬も歩けば棒に当たる』と、獣の少ない国ゆえ、辻番所の六尺棒を持った番太郎に野良犬を撲殺させ、縄でくくらせていた者を処罰させ、  これ見よがしに『猫を追うより皿を引け』と、犬が殺されぬよう避難の犬小屋で、一匹あたり米二合と干鰯一合を与え、餓鬼のようになった 限定住民が羨ましがって犬小屋で野良犬の食い残しを奪い合うのを、見張り役人が追っ払って監視した。 と、本当のことをぶちまけてしまったので、綱吉の王立協会の名誉会員は見合わせとなった。
 
  さて、村岡の著より故意に遡った明治三十五年五月の綺麗な木版の「松平記」の刷りであるが、  既に明治二十年の始めより大阪玉林堂よりの刊行物は、当時の講談の速記本ではあるが、全部かもはや活字での組み本である。  新聞にしても明治初年からバレン刷り版木でなく、既に活字版になっていた。   なのに明治三十年のもはや何でも全てが活版の時代に、時代錯誤の木版刷りを何故に東大ともあろうものが、上からのプレッシャー とはいえ、敢えてなしたのかと言うことになる。 「馬脚をあらわす」というが、もし東大蔵版と称されるものが、当時としては普通の活字本で出したものなら、まあ話が合うのだが、古くからの蔵版だと誤魔化したいゆえ、 本当は明治三十五年に配布したものを、五年前と故意に し、バレン刷りと、和紙閉じにした。こういうのを猿知恵というのである。   そして三河普代となっている者は、徳川公爵家を始め片っ端から、三河出の統一民族の旗本だったとすることによって、日本人は単一民族といった学説に繋いでゆけるのである。 「松平記」の原本も桐箱は無くしたが現物は持っている。